2024年7月9日火曜日

博士と狂人

 

ばじめに

その異様なタイトルと本のカバーに魅かれて思わず書店で手にした本それが「博士と狂人-世界最高の辞書OEDの誕生秘話;サイモン・ウインチェスター:鈴木主税訳:ハヤカワノンフィクション文庫:早川書房:20063月発行、20209月4刷」

ノンフィクションにしては、初めからミステリアスなストリー展開でついつい最後まで読み切ってしまった。

概要

 話は、オックスフォード英語大辞典(OED)の誕生秘話である。しかし、この話の価値は、インターネット時代には、もう理解されないのかも知れない。それは、この20年ばかりの間に辞書たるものの価値が全く変わってしまったからである。我々の青春期1970年代には、辞書は、各家庭の知的基盤の一つをなすものであり、結婚当時、妻が持参した知的財産の一つが分厚い広辞苑であり、この本だけは、改訂版が出るたびに買い替えていた覚えがある。この辞書感覚が分からないとこの物語の面白さは理解できないかも知れない。

オックスフォード英語大辞典(OED)

 オックスフォード英語大辞典(OED)は、総ページ数16570頁、収録語数414825語、用例1827306、全巻12巻、編集完了まで70年費やした辞書で、大槻文彦11年かかって完成させた日本最初の国語辞典「言海」の収録語数が4万語弱であることと比較して、それが如何に大事業であったかが分かる。

 この物語は、この辞書の完成に主要な役割を果たした二人の人物の出逢いと数奇な運命の物語である。

二人の主人公

時は、19世紀から20世紀にかけての時代、その一人は、貧困の中独学で言語学会の第一人者となり、長きに亘って編集主幹を務めたジェームズ・マレー博士( 1837年~1915 )、もう一人は、アメリカの名家の血をひき陸軍の軍医となるも精神を失調し、ロンドンで殺人事件を起こし、精神病院に終身監禁されることになったウイリアム・チェスター・マイナー(1834年~1920)である。

南北戦争と狂気

著者の最も描きたかったのはこのマイナーの狂気のように見える。マイナーは、優秀な陸軍医であったが、彼が精神を病むきっかけとなったのがアメノカの南北戦争である。南北戦争のことは、日本では、あまり知られていないが、1861412日から186549日にかけて、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦である。この内戦では、南軍130万人、北軍290万人が、4年間に渡って血みどろの戦いを繰り広げ、南軍258000人、北軍36万人の死者を出したと云われている。大量破壊兵器や重火器のない時代でのこの死者数の多さは、この内戦が如何に過酷なものであったかを物語っている。

イエール大学医学部卒の温厚な教養人マイナーが入隊したのは、最も激戦と云われた18636月のゲテイスバーグの戦いの4日後であり、彼の入隊の決意にリーンカーンのゲテイスバーグでの演説が影響したのかも知れない。彼が、精神を病むきっかけとなった出来事は、南北戦争最後のシュリーヴポートでの戦いであったらしい。


 南北戦争は、過酷な戦いだけに脱走兵も多く、北軍で287000人、南軍で、103000人といられ、北軍の10人に一人、南軍でも12人に一人の規模であったらしい。そして、この脱走兵に対する刑罰は過酷を究め、マイナーは、ウエルダーネスの戦いで、脱走したアイルランド出身の兵士に対する刑の執行を命じられ、焼き鏝をこの脱走兵に充てる役割をやらされたらしい。南北戦争の終結間近マイナー30歳の頃の出来事であった。絵はこの本の中の挿絵。

ヴィクトリア時代

この時代は、蒸気機関の発明にみられる18世紀末の産業革命を経て、1815年のワーテルローの戦いで復位したナポレオンを破った後の時代で、この時代はイギリス史において産業革命による経済の発展が成熟に達したイギリス帝国の絶頂期であるとみなされている。国内では、国中の鉄道網を発達させ、工学に大きな前進をもたらした。また。今日のように科学が学問分野となるまでに成長した。

 さらに、この時代、イギリスは世界各地を植民地化して、一大植民地帝国を築き上げた。ヴィクトリア女王(18371901)の在位期間の治世は、「ヴィクトリア朝」と呼ばれ、政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げた。この時代のものは、政治、外交、軍事、文学、科学、家具などいずれであれ「ヴイクトリア朝の~」と形容されることが多い。絵は、新女王の前に跪いてその手に口づけする宮内長官カニンガム侯爵とカンタベリー大主教ウイリアム・パウリ(ヘンリー・タンワース・ウエルズ作)

オックスフォード英語大辞典(OED)の作られた背景には、このヴィクトリア時代の要請があり、そこには英語は、大英帝国の本質を表す言語であり、その英語を扱う書物は、帝国の維持に重要な手段だと云う関係者の固い信念があった。

 オックスフォード英語大辞典(OED)が企画されたのは、1857年であり、完成したのは1927年の大晦日なので、企画から完成まで70年の歳月がかかっている。なを、ヴィクトリア時代におけるアメリカでの今回の話にも関係する最も大きな出来事は、1861年から1865年まで続いた南北戦争である。

本書の内容

本書の内容は、18722月にロンドンで発生した殺人事件とその結末から始まるウイリアム・チェスター・マイナーの物語とその対極の生活を送って来たジェームズ・オーガスタ・ヘンリー・マレーの生い立ちと経歴、英国における辞書編纂の歴史、英語大辞典(OED)作成業務とそこでのマイナーとマレーの役割と交友録である。普通の本であれば、この物語は、著者のあとがきで終わるが、その後に著者の覚書と称するエピソードと謝辞が続き、さらに書評家豊崎由美氏の「事実が小説よりも奇なるとき」と題する解説が収録されている。

 英語大辞典(OED)に関する本は、数多く出版されているようであるが、本書でもっとも興味深かったのは、マイナーの精神疾患の原因が南北戦争中の体験に起因するとみられることであり、それが結果的にアメリカ人がこの編集に貢献することになったと云う奇なる歴史の詳細な追跡、調査であり、これこそ著者が、読者に知ってもらいたかったことのように思われる。

著者のサイモン・チェスター

サイモン・ウインチェスターOBE(英語Simon Winchester , 1944928 - )は、イギリスのロンドン出身のジャーナリスト、著作家。

ウィンチェスターはイギリスのロンドンにて出生し、少年期はイングランド南西部の

ドーセットにある数校のボーディングスクール(全寮制の寄宿学校)に通学した。アメリカ合衆国内をヒッチハイクしながら1年過ごした後、1963年に地質学の勉強のためにオックスフォード大学セント・キャサリンズ・ カレッジに入学し、1966年に卒業した。

大学卒業後にカナダに本社を置く鉱山会社のファルコンブリッジ社のアフリカ支社に入社した彼はウガンダで地質学者として銅鉱床を探索する作業に携わるようになった。   1969年からイギリスのガーディアン紙で働くようになり、特派員として働く、ガーディアンを去った後にサンデー・タイムズで働いたが、41歳となった1985年にフリーランスのライターとなり、最初に大きな成功を収めた著書がこの『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話(英語版)』(1998年)である。1998年にアメリカの映画監督でもあるメル・ギブソンがこの作品の映画化権を買い取り、20数年を経て映画化された。

この他に世界初の地質図を作成したものの、その業績が認められずに苦難の日々が続き、晩年になってようやく報われることになるイギリスの地質学者ウィリアム・スミスの波乱の生涯に焦点を当てた『世界を変えた地図(英語版)』(2001年)は第二の「ニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト」入り書籍となった。その後はオックスフォード英語辞典を編纂する物語についての続編『オックスフォード英語大辞典物語(英語版)』(2003年)、歴史上最悪の大噴火となったインドネシアの1883年のクラカタウの噴火が地球上に及ぼした影響を検証した『クラカトアの大噴火(英語版)』(2003年)、アメリカ史上最悪の自然災害となった1906年のサンフランシスコ地震を地質学的な視点も含めて包括的かつ詳細に描いた『世界の果てが砕け散る』(2005年)、生涯を通じて中国に魅了され続けたイギリスの生化学者・科学史家ジョゼフ・ニーダムの伝記The Man Who Loved China2008年)、すぎリスのチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(ルイス・キャロル)の生涯や業績、『不思議の国のアリス』のモデルとなったアリス・リデルとの関係を描いたThe Alice Behind Wonderland2011年)などの著書を発表している。

ウィンチェスターは「2006年新年の栄誉リスト(英語版)」でジャーナリズムと文学に対する貢献が称えられ、イギリス女王エリザベス2世より大英帝国勲章のオフィサー章を授与されている。

オックスフォード英語大辞典(OED)のその後

分冊と本巻に費やされた44年間に進化したり新たに出現したりした何万語単語が補遺に収録され1933年に出版された。さらに4冊の補遺が1971年から1986年の間に出版された。

1989年には、コンピュータと云う新たな力を得て完全に統合された第二版を出版した。

ここでは、補遺に収録された語の変化や追加をすべてまとめて20巻とし、各巻は第一版より若干薄くなっている。1970年代末には2巻からなる縮小版が出版された。

其の後、CDROMが登場し、その少し後には、オンラインで利用できるようになった。第三版の作業も莫大な予算で着手された。

 読後感

数十年前「大言海」を作った大槻文彦の「言葉の海へ」と云う本を読んだ記憶があり、今回調べてみたらそれが京都市生れ。京都大学文学部卒の作家、編集者高田宏(1932-2015)の作品であると知った。あの当時辞書というものの文化的価値についてほとんど考えが及ばなかったが、我が国にもオックスフォード英語大辞典(OED)を作成した人達と変わらぬ志を持った人達がいたことにあらためて思いをはせた。

 インターネットの普及した現代、我々はなんと知的に恵まれた環境に生きているのだろう。その環境を生かすべき努力をしなければ、先人達に申し訳ないと思わずにいられない。




2024年6月29日土曜日

秘録 陸軍中野学校

古書展で見つけて、「謀略は 誠なり」この言葉を本の裏表紙に見つけたためか、あるいは、陸軍中野学校と云う名前にイメージするものが無いことに突き動かされたのか、思わず手に取り読んでみたいと思い、購入した本、それが下記である。

「秘録 陸軍中野学校:畠山清行著:保坂正康編:新潮文庫:新潮社:平成15(2003)81日発行」

インテリジェンス関連本と私

   私が、何故こうした本に興味を持ったのか、そのきっかけとなった出来事がある。それはバブルの真っただ中の1985326日付の朝日新聞に「スペインで戦死した無名の日本人ジャック白井の足跡たどって」と云う一文を読んだことに始まる。

その記事は、国際義勇軍としてスペイン戦争に参加したアメリカのリンカーン大隊。その一員として参加し、スペインで戦死した日本人ジャック白井に関する記事であった。そこにスペイン戦争で戦ったリンカーン大隊の義勇兵達が50年後にサンフランシスコの隣の町のオークランドに集まり、そこで「果敢なる闘争」と云う映画を上映したとの記載があり、その中で、当時リンカーン大隊の隊長だったミルトン・ウルフが「われわれは、未熟な反ファシストだった。今でも同じだ。」と語ったとの記事で、この言葉に集約されるが、このような観点を貫くことあるいは貫ける思想を持つことの困難さと素晴らしさに心から感動した。

。つまり、当時バブル真っただ中の経済大国日本の中で、一見平和な生活を送っている41歳の自分も「20年前には未熟に反ファシスト」で「今でも同じ」だが、残念ながら集まるべき仲間をおらず、「一人の孤独で未熟な反フゥシスト」でしかないと思い自分の仲間は、もっと広い歴史と世界に求めるしかないと思い定めた出来事であった。  

その時、この朝日新聞の記事を書いたのが、当時法政大学教授の川成洋氏であった。この記事の内容は、後に「スペイン戦争―ジャック白井と国際旅団:川成洋:朝日選書:朝日新聞出版:19892月」として発刊されている。

 この川成洋氏の名前に再び出会ったのが定年後、古書展に通うようになってからで、そこの100円コーナーで見つけたのが「紳士の国のインテリジェンス:川成洋:集英社新書:株集英社:20077月第一刷発行」で、この本は、最も伝統と実力を持つと云われるスパイ王国イギリスの情報機関に関する祖国につくしたスパイと祖国を裏切ったスパイ列伝とも云うべき本で、この本に刺激されて、インテリジェンス関連の本を度々手にするようになった。その中には、次のような本がある。

「インテリジェンス武器なき戦争:佐藤優、手嶋龍一;幻冬舎新書:200611月第一刷発行」


「情報立国・日本の戦争:山崎文明:角川新書:KADOKAWA:20152月初版発行」



「インテリジェンス人間論:佐藤優:新潮文庫:新潮社:平成22(2010)111日発行」



「秘録陸軍中野学校」の書物としての特徴

  今回取り上げる「秘録陸軍中野学校」は、上に示したような一般的な本とは、格違いの本である。格違いと云う理由が、この本が著者自らによる資料の発掘、や取材、インタビューに基づくものであり、そこに著者のある種の執念か使命感を感ずるからである。

さらにこの本の面白さは、この本の編集者の視点にある。著者は、畠山清行氏であるが、編者は保坂正康氏であり、その保坂氏は、各編の末尾に、その簡潔な解説を追記しているだけでなく、この本を成立せしめた著者畠山氏そのものにも着目して作家畠山清行小伝とその後の陸軍中野学校の一文をこの本の一部として追記して、この秘録陸軍中野学校の価値をより広い視野から鮮明にして、編者としての役割を立派に果たしている。

著者畠山清行氏とは

畠山清行(19051991)は、明治38(1905)年北海道石狩次男として生まれた。父は、網元や町長を務めた地元の有力者であったが、13歳の時、父が病死し、家は一挙に傾き、親戚の家に預けられるが、まもなく東京に出奔し、アナーキズム運動に身を投じ、アナーキスト団体にも加わり、一端の活動家となる。彼は、文才に恵まれていて、実話雑誌に「読み物」を書き小作品も発表したりして生活費を稼いでいた。この間も皇太子の暗殺を企て死刑になった大正13(1924)年難波大助の遺体引き取り事件に参加する等血の気の多い活動をしている。昭和初期20歳を過ぎた頃から社会運動から少しずつ身を引き、文筆の世界に没頭、その当時、実録雑誌が相次いで刊行され、月刊誌のお抱えライターとして、幽霊もの、股旅もの、猟奇事件のルポルタージュ等を書いていたらしい。昭和10年代、思想弾圧の続く時代、そのエネルギーは文筆活動に向かい、徳川の埋蔵金伝説等の文筆の特徴は、現地調査によるルポルタージュ的文章にあったらしい。

戦時中は、大日本言論報国会に組み込まれるものの、子供向けの書、科学者の啓蒙書等を書いていた。

戦後の混乱期、カストリ雑誌の編集・発行に手をそめ、兄と共にいくつもの出版社を作り、幾つもペンネームを駆使して様々な記事や文章を書いていたらしい。酒を飲まない煙草好きの彼は、この事業で、莫大な富を積んだと云われている。

「カストリ雑誌は、太平洋戦争終結直後の日本で、出版自由化(ただし検閲あり、詳細は下段参照)を機に多数発行された大衆向け娯楽雑誌を指す。これらは粗悪な用紙に印刷された安価な雑誌で、内容は安直で興味本位なものが多く、エロ(性・性風俗)・グロ(猟奇・犯罪)で特徴付けられる。具体的には、赤線などの色街探訪記事、猟奇事件記事、性生活告白記事、ポルノ小説などのほか、性的興奮を煽る女性の写真や挿絵が掲載された。戦前の言論弾圧で消滅したエログロナンセンス(1929 - 1936年)を引き継ぐ面もあり、戦後のサブカルチャーに与えた影響も大きい。」(wikipedea)

 昭和20年代の後半、このカストリ雑誌ブームが衰退してゆくが、この少し前、彼は、茨城県結城市で、国民協同党公認で、戦後最初の町議選に出馬し当選し、一期務めているが、これはかつての社会運動家達との縁がきっかけであったらしい。

しかし、昭和20年代後半から文筆業に本腰を入れ、旧軍人や兵士の聞き書きを始め、東京の第一師団の証言をもとに、昭和38(1963)年に「東京兵団(3):光風社」を上梓している。この本は、昭和陸軍研究の基礎文献とも云えるもので、数百人の将兵の戦争体験を丹念に紹介している。

「秘録陸軍中野学校(正続)」誕生

畠山清行は、この取材の過程で、陸軍中野学校の関係者と知り合い、その話を聞いて、陸軍中野学校への関心が、一挙に高まり、この記録を残すことをライフワークとして自覚するようになる。これは、彼が60歳頃の話だ。そして昭和46(1971)年番町書房から刊行されたのが「秘録陸軍中野学校(正続)」の2冊である。

 私が手にしたのは、この番町書房版を底本としたもので、番町書房版は、独立した60章から構成されているが、その中から28章を精選し、テーマごとに5篇に分けて収録したものである。つまり、底本が出版されてから32年後。著者が亡くなってから12年後の出版物ということになる。

編者保阪 正康について

編者の保阪 正康(1939年(昭和14年)―-)は、北海道札幌市生まれの日本の作家・評論家。同志社大学文学部社会学科卒後電通PRセンターへ入社。その後、物書きを志して転職した朝日ソノラマで編集者生活を送る。1970年に三島由紀夫事件をきっかけに死のう団事件を2年間取材。途中で5年勤務した朝日ソノラマを退社してフリーに転じて現在に至る。ちなみに、西部邁は札幌の中学校の1年先輩に当たる。札幌の高校生時代、北海道大学のシナリオ研究会に入会し、先輩に唐牛健太郎がいた。京都の私大に通っていた時は60年安保に反対する学生運動に参加する左翼系の学生であった。

また、この本は、彼の64歳当時の編集であり、畠山清行が「秘録陸軍中野学校(正続)」を発行した年齢66歳に近くなってからのものであることも興味深い。

文庫本の構成と概要

編者まえがき

まえがき

第一編 諜報戦の概要

第二編 陸軍中野学校の「秘密教育」

第三編 開戦前夜の南方工作

第四編 日米開戦と対外工作

第五編 戦慄の国内工作

小伝 作家・畠山清行

その後の陸軍中野学校(編者解説)

  付録 陸軍中野学校関係年表

   南方関係図

読後の感想

 世の中に、沢山の本が出回っている。そしてその多くは、著者が一カ月、長くて数か月で書き上げた本が多い。地道な調査・取材をもとに一人の人間のライフワークとも云える執念で書き上げられた書物は極めて少ない。戦争や戦史に関連する本は多いが、その場に実際にいて、生きた当人達に直接取材して書かれた本は、それ程多くない。反戦や平和を語る前に世界の実体を知ることが必要である。戦争体験の語り部の話をきくのも結構だが、戦いに赴く人間達の実像をしることはさらに重要である。その意味で、これは一読に値するとつくづく感じた。特に自主的な判断と決断と行動を必要とされる諜報活動を行う人材教育が、日本でも自由な環境と教育によってつくられていたことに、諜報活動先進国のイギリスの情報機関の人材選抜システムとの類似性を感じて興味深かった。

なお、陸軍中野学校は、映画にもなっており、市川雷蔵、加藤大介出演の白黒映画は、現在でもYouTube上でみることが出来る。

 


2024年6月24日月曜日

アフリカの白い呪術師

 

古書展で題名に魅かれて思わず購入した下記の本の題名である。

「アフリカの白い呪術師:ライアル・ワトソン:訳村田恵子:河出文庫:河出書房新書199611月初版発行」

著者のライアル・ワトソンLyall Watson, 1939412 - 2008625日)は南アフリカ共和国生まれのイギリスの植物学者・動物学者・生物学者・人類学者・動物行動学者。(Wikipedia)

この本は、著者によって書かれているが、その内容は、著者自身の体験ではない。そのことは、この本の英語の題名「‹One Man’s Journey into Africa:1人の男のアフリカへの旅」に示されており、この1人の男は、著者ではない。これは、アフリカのブッシュ(未開墾の森林地帯)22年間生活し、1978年死亡したあるイギリス人の実話である。そのイギリス人の名は、エイドリアン・ボーヂャ(1939年から1978)である。

彼は、16歳でブッシュに入り奥地の部族に受け入れられ、呪術師の修行を受けると云う白人としては稀有な体験をした。この本はその冒険談であり、貴重な体験談である。これは、このボーヂャの伝記であると共に、著者ライアル・ワトソンによるアフリカ解説論でもある。16歳でジャングル生活を始めたボーヂャに己の体験を記述する動機や能力がはじめから備わっていたはずはない。従ってこの本の成立そのものが不思議な出逢いのたまものである。

ボーヂャに己の体験を記述するきっかけは、彼がオーストラリア出身の1人の人類学者レイモンド・アーサー・ダートRaymond Arthur Dart18932 - 198811月)と出会ったことによる。ダートは、1924年、世界で初めてアフリカで生まれた初期の人類であり、約400万年前 - 200万年前に生存していたとされるアウストラロピテクス(アウストラロピテクス・アフリカヌス)の化石を発見したことで知られている。

 彼はオーストラリア北東部のクイーンズランド州シドニー、メルボルンに次ぐオーストラリア第三の都市ブリスベンで、畜産農家の9人兄弟の5番目として生まれた。クイーンズランド大学で奨学金を得て医学を学んだ。卒業後はシドニーで研修医を勤めた後イギリスに渡り、第一次世界大戦では従軍医師としてイギリス軍の部隊に参加した。戦後、マンチェスター大学で助手の職を得る。 1922年に南アフリカのヨハネスブルグへと渡り、ウィットウォータズランド大学で教職を得る。192411月スタークフォンテインの洞窟で

タウング堆積層から類人猿によく似た頭骨の化石を発掘。ダートは、一見して類人猿を思わせるが、脳が大きく眼窩上隆起も弱いこの頭骨がヒトと類人猿の中間にあたる化石と判断、すぐさま論文を執筆して、翌1925年に『ネイチャー』誌に投稿した。しかし、その説は受け入れられず、彼の調査は、一時中断するが1930年代から1940年代にイギリス生まれの考古学者ロバート・ブルーム等が次々とダートの説を裏付ける発見をし、ダートは名誉回復され、1940年代から再び調査活動を始めるようになっていた。

一方ボーシャは、戦時中にイギリスから難民の子としてアメリカにわたり、19467歳のときヨーロッパに戻ってきて、当時出来たばかりの「野外学校」に入学して、そこで自給自足の精神を教えられ、そこでスタンレー、リビングストン等のアフリカ探検の本を読み彼等探検家の後を追うのが夢になった。195516歳の時転機が訪れた。母親が再婚し、その相手が南アフリカに行って教職に就く事になり、1955年一家は南アフリカに移民した。

そしてヨハネスブルグ到着して幾日もたたない内にボーシャは待ちきれず、大事にしていたポケットナイフと袋一杯の塩だけを持ってヒッチハイクで街を出て行った。塩は物々交換に役立つと本でよんで知っていたためである。この後ボーシャは1人でブッシュの中で生活してゆくことになる。

この二人が運命的に出会ったのが196211月のことで、この時ダート69歳ボーシャ23歳で、ボーシャは、すでに6年間ブッシュの中で1人で生活してきていた。

 ダートは、訓練や経験もなくブッシュに勝手に入ってゆき、独学で生存法を覚えた青年の進取の精神に深い感銘を覚えた。ダートは、この青年の話を聞き行動とシンボルとの相関、現在の慣習を歴史的・先史的背景に照合して説明した。彼の話を聞いてボーシャは目を洗われるような思いだった。彼は、一つの発見からこれほど豊富な内容をくみ取ることが出来ると夢にも思わなかった。

 何年間も孤独に、しかも時にはあてもない探検を続けてきたボーシャは、博士との会話の中で学問の世界で何か貢献が出来るかも知れないと考えるようになった。話し合いが終った時、博士は、ポーシャに素晴らしい提案をしてくれた。博士が読書の指導と解説を行い、ある基金からいくばくかの助成金を捻出する。そのかわりボーシャは。その資金を使ってブッシュの探検をつづけ、ときおり市内に戻って報告すると云う案だった。

  この提案に基づく報告がこの本の内容である。

ボーシャは、ひとりブッシュの中で生き延びるため身に着けた狩りや住まいについての知識や原住民達から学んだ骨や石器や薬草についての知識が数百万年の昔から受け継がれてきた知恵であり、その習慣・音楽や儀式がブッシュで生きてゆく上での指針や集団意識の形成・喜びの発露、恐怖や不安解消のための処方箋であることを理解し、その精神の在り方が、初期人類の精神世界に連なっていることを理解してゆく。そこには、巨大で不可解な自然に対して、幼年期の人類がどのような思考の枠組みの中で集団として生き抜いていったかの原型が残されていた。

その内容をボーシャは、骨、石、血、土、水といったキーワード乃至テーマごとに記録し残こしていった。しかし、その彼は39歳の若さで亡くなったため、そのままでは、その記録は、歴史の片隅に埋もれてゆく運命にあった。

したがって、この本が生まれるためには、もう一人この本の著者との関係に触れる必要がある。

新しい知識で、武装したボーシャは野生の世界に帰りもっと系統だった方法で情報収集を開始した。やがて彼は、ヨハネスブルグの「人類と科学の博物館」のフィールド・オフィサーに任命されるまでになった。そして貴重な資料をあつめながら学識を深め、いつのまにかヨハネスブルグの考古学・人類学会の目立つ存在となった。

彼とこの本の著者のライアル・ワトソンが知り会ったのは、この時期である。

ライアル・ワトソンはヨハネスブルグで生まれ、マルコム・ライアル・ワトソンと名付けられた。幼少時より周囲の自然界に関心を抱き、ズールー人の老人に教えを受けた。ケープタウンの高校を1955年に卒業し、翌1956年にウィットウォーターズランド大学に入学、植物学と動物学を修めた後、オーストラリア出身の人類学者レイモンド・ダートに弟子入りし古生物学を学んだ。この経験がきっかけとなり、ドイツやオランダで人類学の研究に従事。後に地質学、化学、海洋生物学、環境学、人類学などにおいても学位を取得した。ワトソンはロンドン大学で、イギリスの動植物学者デズモンド・モリスに師事し、動物行動学において博士号を取得している。また、BBC(英国放送協会)で自然ドキュメンタリーのライター、プロデューサーとしても働いた。この時期に、名前をライアル・ワトソンに短縮した。上記のほか、ヨハネスブルグ動物園の園長や、様々な地域への探検隊長、国際捕鯨委員会のセーシェル担当コミッショナーなどの職歴がある。1980年代後半には英国のチャンネル4で、大相撲ロンドン場所のプロデュース・解説を務めた。

ライアル・ワトソンは動植物界、人間界における超常現象を含む科学の水際をフィールドワークとして「新自然学」の確立を目指し、自然的現象と超自然的現象を生物学的見地から解説しようと試みた。

 ボーシャとライアンは、偶然にも1939年生まれの同じ年齢であり、しかも自然や人間精神について同じような関心を持っていたので互いにある種の興味と共感を抱いたのは事実であろう。

ボーシャが亡くなった1978年には、ライアンは、既に一つの思想を確立しており、その考えを複数の著作で明らかにしつつあった。ボージャ自身は、膨大な調査とその記録ノートを残していたが、まとまった著作はなかった。このため、この膨大な記録ノートをまとめて一冊の本にすることがライアンに託され、その結果生まれたのがこの本である。

さらに、この本が我々の目に留まるようになるには、もう1人の人物が関係している。それは翻訳者である村田恵子(19462013)である。今回ライアンの著作の中に「未知の贈りもの」の題名を見つけ、その本に以前出会った記憶があったので書棚を調べたたら確かにあった。


それが「未知の贈り物:ライアル・ワトソン:」村田恵子訳:ちくま文庫:199212月第一刷」、この本の最後のページに、この本は、1979515日工作舎より刊行されたとあった。つまりこの本は、村田恵子33歳の時の翻訳本となる。そして今回手にした「アフリカの白い呪術師」は、1983年に河出書房から刊行された本を文庫化したものなので、この本は、村田恵子37歳の翻訳本となる。

彼女は、小学時代をニューヨークですごし、国際基督教大学人文科学科卒業後フリーの同時通訳者となり、翻訳も手掛けたらしい。残念ながら201367歳で肺炎のため亡くなっており、それ以上の詳しい情報は得られなかった

ライアル・ワトソンは動植物界、人間界における超常現象を含む科学の水際をフィールドワークとして「新自然学」の確立を目指し、自然的現象と超自然的現象を生物学的見地から解説しようと試みた。彼はニューサイエンス(ニューエイジサイエンス)に類する書籍を多く上梓し、中でも『スーパーネイチュア』は世界的なベストセラーとなった。

ここで、ニューエイジ(英New Age「新時代」の意)とは、20世紀後半に現れた自己意識運動であり、宗教的・疑似宗教的な潮流である。ニューエイジという言葉は、魚座の時代から水瓶座の時代 (Age of Aquarius) の新時代(ニューエイジ)に移行するという西洋占星術の思想に基づいている。グノーシス的・超越的な立場を根幹とし、物質的世界によって見えなくなっている神聖な真実を得ることを目指す。ニューエイジ思想の運動は、ニュ―エイジ運動と云う。(Wikipedia)

「アフリカの白い呪術師」は、こうした思想的背景を持つライアル・ワトソンが、白人青年ボーシャの経験したアフリカの生活記録をまとめた本である。しかし、そこにワトソンの思想的影響がそれ程多く反映しているようには、見えなかった。ボーシャの体験は、数百万年かけて形成されてきた人間の意識の深さをアフリカの原住民の精神生活の中に見たのであり、それは、人間が世界を認識する枠組みを理解する根幹をなす部分と直結していることである。

 新型コロナのバンデェミックを経験して、自然と人類の関係や人間と云う種の地球上でのあり方が改めて問われている現在、ライアル・ワトソンの視点やボージャの体験からの視点を今一度再検討する必要があると思わずにはいられなかった。

 



2024年4月28日日曜日

この世この生 ―西行・良寛・明恵・道元― 上田三四二

 

三月の古書展で出会った本である。題名に魅かれて思わず手にした本で、内容を少し確認しただけで、即購入した。その二週間程前、闘病中の友人のS君が、ラインで人間死んだら無になるのだろうかと問いかけて来た。私は、必ずしもそうではないのではないか、人間の生は、時空連続体の中の一条の光のようなものであるからと答えたが、多分それだけでは答えにならないのだろうと心のどこかで思っていた。死そのものについて、自分の考えを整理しておく必要を感じていた。この本を購入したのは、その問題意識があったせいである。購入してすぐに一回目を読み終えたが、よく理解できなかった。


この世この生―西行・良寛・明恵・道元―:上田三四二著:新潮社:1984925日発行、199312018刷。定価1600円のこの本は、古書展では、300円で新品であった。

 著者の上田 三四二(うえだ みよじ、1923年(大正12年)721 - 1989年(平成元年)18日)は、昭和期の歌人・小説家・文芸評論家。内科医。専門は結核。医学博士。

1949年(昭和24年)に北原白秋系の歌誌「新月」に参加し、その後アララギ派に移行。1956年(昭和31年)には歌会「青の会」結成に参加。1966年(昭和41年)に大腸癌、1983年(昭和58年)に膀胱癌を患う。二度の大病を経て、晩年は生命の内面を見つめ直した著述が多くなり、西行や良寛といった仏教の死生観を追求した歌人に傾倒した。平成改元最初の日である198918日、大腸癌のため東京都東村山市の病院で死去。1979年(昭和54年)から6年間、1987年(昭和62年)から2年間と8回にわたって、宮中歌会始選者を務めた著名人でもある。(WikipediaWiblio辞書)

この本は、昭和55年から59年にかけて「新潮」に掲載した生死に関する5つの文章と読売新聞に寄稿した文章を編集したものである。彼は43歳の時大腸癌を発症しており、昭和55(1980)は闘病生活14年目で、著者57歳に当たる。この3年後の1983(昭和58)には、60歳で膀胱癌を発症しており、この本は、生死の境を生きた時期に書かれた文章を集めたものである。彼はこの本の出版の5年後に亡くなっている。

 4月の末、この本を再び手に取って読み直し、この本の中核部分は、57歳の時に発表になった花月西行にあると思った。彼の「死」に関する論考の出発点は、フランスの哲学者

ウラジミル・ジャンケレヴッチの作品「死」にある。

ウラジーミル・ジャンケレヴィッチVladimir Jankélévitch フランス語: [ʒɑ̃kelevitʃ]1903831 - 198566[1])は、20世紀フランスの哲学者。

独特の思考を展開した、「分類できない哲学者」("Philosophe inclassable")。その思考の源泉は古代ギリシア(プラトン、アリストテレス、そして新プラトン主義のプロティノス)、教父哲学(アウグスティヌスほか)、モラリスト(グラシアンほか)、近代合理論哲学(スピノザ、ライプニッツ)、近代ドイツ哲学(シェリング、キェルケゴール、ニーチェ)、いわゆる「生の哲学」(ジンメル、ベルクソン)などをはじめ、極めて多様である。また、ドビュッシー論やラヴェル論などの音楽論でも著名。ピアノ演奏を好み、演奏の音源も残されている。

フランスのブールジュに生まれる。両親はロシア帝国領(現在のベラルーシ)からの移民。父シュムエルは医師であり、またヘーゲル、シェリング、フロイト、クローチェらの著作を含む多くの書籍の仏訳者。パリの高等師範学校を卒業後、1926年にはフランスの一級教職員資格であるアグレガシオンに首席で合格。フランスその他で、教職につき、ナチス占領下では、レジスタンスに参加、1968年の五月革命に際してはデモに積極的に参加し、学生から信頼を得ていた数少ない知識人であった。

上田三四二が「死」の問題を考える契機としたのが1966年に出版された下記の本である。

  • 1966, La Mort
    • 『死』(仲澤紀雄訳、みすず書房、1977年)

 

ジャンケレヴィッチは、「死」を「死のこちら側の死」、「死の瞬間における死」「死の向こう側の死」と三つに分けて考えているが、ここで問題となるのは、最後の「死の向こう側の死」である。死の向こう側に後世というものがあるかそれとも虚無があるだけなのかである。

ジャンケレヴィッチの立場は、後世と云うものはなく、虚無があるだけでもないと云う立場らしい。そしてそれは、死後は絶対に無だが、生きたと云う事実そのものが光芒を曳いて無の上にかかっていると云うことを意味する。この視点は、時空連続体の一条の光と云う私の生の在り方論と類似している。

しかし上田氏は、「死の向こう側の死」をめぐって考える。死後はないと考え、死に至る生をどう生きるかのみを考えるその先達として吉田兼好を取り上げ、それに共感してきたと云う。しかし、その考え方に一抹の不安を覚えた彼は、西行に向かう。その西行は、「死の向こう側の死」を視野の内に取り込んでおり、それを有名な「願わくは、花のもとにて春死なんその如月の望月の頃」に見る。

しかし西行は、現世を穢土とし後世に望みの全てを託くそうとする後世者ではなく、あくまで、現世にこだわっている。後世が成立するためには、身を離れて心は成立するかと云う問題に帰着する。ジャンケレヴッチも心と身の二元論を認めない。しかし、彼は此岸と彼岸の間を結ぼうとして彼岸が意味を持つには、此岸の生の云い難いまでの充実、「比類ない味わい」の持続が信じられているからだと云う。

ジャンケレヴッチは生と死、現世と死後の世界の間にありえないはずの連続性を回復しようとする。ありえないはずの連続性であるからむしろ相互呼応性とでも呼ぶ方が良いかも知れない。かれは、その連続性を現世と死後との間だけでなく、現世と生前の間にも回復しようとする。生前、生、死後、このように連続しつつ生にとっては超自然的ものである生前と死後に挟まれた現世の生と云うもの。すると、この現世の生と云うもりのは、私達が考えているほど、自然的なも日常的なものではないのではないか。慣れによって平凡で自明なものと考えられているこの現実、この生は、思いのほか、超自然的なものの相を帯びているのではないか。推論は、充分に魅惑的であり、戦慄的だ。

つまり、「超自然的な始まりと終わりに挟まれた連続は、始まりと終わりと同様に超自然的なものだ

空海は秘蔵宝鑰 の巻頭の詩で云う

生生生生暗生始・・・生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く

死死死死溟死終・・・死に死に死に死んで死の終わりに溟し

両端の超自然的なものに挟まれたそれとの連続としての生は、日常的、自然的でありつつ未生の闇と死後の闇をもつ故に、その日常性、自然性がそのまま神秘であり、超自然的なのである。

日常の隙間にときたま姿を見せる美や感動(これを私は永遠の相といっているが)、西行における花月とは、現世におけるその神秘性、超自然なものの露呈である。

死後を暗い黄泉的とみる他界観は、超自然的なものを自然的波長でみる誤った像であり、超自然的なものを超自然的な波長で見ればそこに浄土的世界が現れるだろう

ジャンケレヴッチは語る「此岸自体、その奇妙で神秘的な無償性がすでに超自然的であると考えなければならないのだ。此岸とそれを埋めるすべての生は、火のカーブを描いて永遠の奥底に消え去る。死によって、この世の全ての存在は、コーヒー店主にいたるまで超自然的な存在なのだ」「つまり、結局は、生そのもの、生きる喜びそして生きた自然性の超自然性の中に、我々は滅びることのない実存の証を見出すことになろう」

この言葉に著者は、「これまで見えてこなかった新しい認識の地平が、開かれているのを覚える」でこの「花月西行」の文を終えている。

あとの5つの文章は、全てこの観点の応用編であり、自然性の中にどのように超自然性を見出し、現世(此岸)と来世(彼岸)の境界を消し去るかについての記述であり、ここにおいては、「死後はどうなるか」と云う問題そのものが、消え去ることになる。

 まとめてみれば、兼好法師は、現世の時間を限りなく引き伸ばし、この結果薄くなった時間の裏に超自然性をみつけ、西行は、花月の中に見る美を通して現世の裏にある超自然性に目覚め、明恵は、現世そのものを浄土と見なすことによって超自然を現出させ。良寛は、無為無能により、人の世と自然に分け入り、超自然の世界に遊ぶ。そして道元は、日常坐臥の一瞬一瞬に超自然の世界を観よと云いそれは只管打座による心身脱落により現出すると云う。

つまり、生死の問いかけの答えは、その問そのものを消し去るところにある。そしてこのことは、自分がずっと考えて来たように、日常の中に永遠の相をみることに他ならない。

 


2024年4月25日木曜日

生命・宇宙・人類―埴谷雄高VS立花隆―

 

3月の古書展で出会って即購入を決断した本があった。それが、この本である。黒字に白の単行本は、角川春樹事務所発行で、紀伊国屋書店販売の本(199643日第一刷発行)で定価1800円であったが、300円か500円で、新品のまま、古書展の片隅にあった。埴谷雄高の名前が前面に出ていたが、これは、立花隆のインタビューをまとめた本であった。コロナ下で立花隆が亡くなったのを知ったのをごく最近のことのようにどこかで思い出していた。自分にとって重要な啓示が示されている予感があり、家に帰ってあらためて20分ばかりかけて内容を概観し、再度最初の予感に間違いのないことを確認するとそのまま、脇机の上に20冊ばかりの本とともに放置されていた。

この本を再び手にしたのは、その2か月ばかりあとのことだった。その間、古書展で見つけた他の5冊ばかりの本を読み、友人から頼まれた同人雑誌の原稿を送り、半年ばかり前に計画した友人達との二泊三日の富士五湖めぐりの旅を終え、その残務処理を片付け、送って貰った同人誌を数人の知人達に送付し、同人誌の原稿にAIで作成した挿絵を加えて気になっていたホームページの一つのサイトを更新した後のことであった。この間、いずれブログで感想をまとめたいと思っていた6冊ばかりの本を読破し、この半年ばかり取り組んで来た研究テーマ「食の現在―人間にとって食とは何か」の100頁ばかりのレポートのまとめとその概要発表資料とホームページへの掲載原稿のまとめに取り組んでいた。

こうした、当面急ぎたい作業が一段落したのは、一年前に行った肝臓癌手術後の半年前に予約していたフォロー検査の差し迫った4月中旬であった。日赤病院の検査と云う自分の生死にかかわる事態を目前にして、改めて立花隆の死がおもいだされた。埴谷雄高と立花隆、この二人は、死の直前に何を語りあっていたのだろうか。そしてそれらは今の生きている我々に何を示しているのだろうか。猛然と知りたくなった。

埴谷 雄高(はにや ゆたか、1909年(明治42年)1219 - 1997年(平成9年)219日)は、日本の政治・思想評論家、小説家。本名般若 豊(はんにゃ ゆたか)。

共産党に入党し、検挙された。カント、ドストエフスキーに影響され、意識と存在の追究が文学の基調となる。戦後、「近代文学」創刊に参加。作品に『死霊』(1946年~未完)、『虚空』(1960)などがある。(Wikipedia)

立花 隆(たちばな たかし、本名:橘 隆志 1940年(昭和15年)528 - 2021年(令和3年)430日)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。執筆テーマは、生物学、環境問題、医療、宇宙、政治、経済、生命、哲学、臨死体験など多岐にわたり、多くの著書がベストセラーとなる[3]。その類なき知的欲求を幅広い分野に及ばせているところから「知の巨人」のニックネームを持つ。(Wikipedia)

立花隆は、彼の文理を統合した全体知のあり方への共感もあり、自分の知のあり方や新たな分野への探究方法について教えられることも多かった人物であり、彼の主要な著作には目を通していたが、埴谷 雄高については、大学時代に名前は聞いたことがある程度で長い間全く接点がなかった。その彼に興味をもったのは、10年程前に彼の代表作              「死霊」の文庫本上・中・下巻を読んでからである。戦後の思想界の大御所達が、こぞって取り上げるこの大作に何がかかれているのか、そして彼はそこで何を語っているのか、彼等はどこまで考えているのか、興味をもったためである。「死霊」は難解な観念小説で、そこに登場する人物が長々と自分の世界観や思想を展開する物語であるが、その世界は虚無と死と静止を基調とするキリコの絵画の世界のようであった。しかし、彼等が、自分が考えていたより、遥か先まで、到達していることを暗示するものであった。

この本には埴谷 雄高と立花 隆が出逢い何を語り合ったのかその内容が示されていた。

この本は、199645日の発行であり、24日付で埴谷 雄高のあとがきが書かれていた。これは、彼の死の一年前のことで、この時87歳、ちなみに立花隆は、56歳である。20244月から見れば28年前のことである。

ところが、この内容となったインタビューは、1992318日の夕方から319日の早暁にかけて東京吉祥寺にある埴谷邸のおよそ12時間の対話の録音記録であり、この時埴谷雄高83歳、立花隆52歳の時である。インタビューの録音テープは、A450頁にも上る膨大なもので、それが100頁程に圧縮され、同年の雑誌「太陽」の6月号に掲載された。この時の記事は、「生命の根源から人類の究極へー立花隆が「埴谷雄高」にすべてを聞く」であり、この内容に、この19919月号に掲載された立石伯の「埴谷雄高年譜-虚実の向こう側」と白川正芳の書き下ろしである「死霊との対話―9章及び出発の頃」を新たに追加してまとめたものがこの「生命・宇宙・人類」と云う本である。

ちなみに、「死霊」の9章が書かれ、発表されたのは、1995年(平成7年)の群像の11月号であるので、それは、このインタビューの3年後「生命・宇宙・人類」の出版の半年前と云うことになる。その意味でこの本は、「死霊」の完成記念を祝って出版されたものと云える。

では、この本の中で、中で何が語られているのか、一言でいえば、「生い立ちから思想形成の経過と83歳時点での世界観と思想について」であり、題名の如く「生命・宇宙・人類」についてである。その内容の全貌は、簡単には要約出来ないので、本文に接して感ずるしかないが、彼の思想を解体する少しの割れ目を発見することは出来たような気がする。その感想のいくつかを整理してみたい。

驚くことに、彼の問題意識は、2024年現在の現代科学の直面している問題に確実にヒットしていることである。まず彼は、若い時にヘーゲル左派の哲学者マックスシュテルナーの「唯一者とその所有」を読んで決定的な影響を受けたと云っている。シュティルナーは、マルクスやエンゲルスと同時代の人間でヘーゲル左派に属する。彼はフィヒテとフォイエルバッハの哲学に影響され、極端なエゴイズムを軸とする哲学を展開。いかなる人間的共通性にも解消出来ない交換不可能な自己の自我以外の一切のものを空虚な概念として退け、その自己が、自らの有する力によって所有し、消費するものだけに価値の存在を認める徹底したエゴイズムという彼の思想は、青年ヘーゲル派のメンバーに大きな影響を与えると同時に批判にもさらされた。

しかしながら、彼のエゴイズムは単なる浅薄な利己主義ではなく、個々の人間の人格の独自性と自律性を最大限に重んじる立場である。シュティルナーの思想は、強力に個人主義に見えるが、しかし、シュティルナーによって「移ろいゆく自我(das vergängliche Ich)」と称されるその「自我」にかかわる思想は、近代的な意味の個人の概念とは異質なものであり、単に近代的自由主義における「過激な個人主義」というわけではないシュティルナーは、唯一者の自由を求めているのであって、個人(国民集団を分割した最小単位としてあらわれる人間の概念)の自由は、それとは異なる。シュティルナーによれば、自由主義の想定する「国民の自由」は、シュティルナーの求める「私の自由」とは異なるのである(Wikipekia)

現代の科学では、今脳科学やAI関係で、意識とは何かが問題になっており、その時の外ならぬ自分が感ずる意識をクオリアと称しており、シュティルナーの自我は、このクオリアと云う概念に近い。クオリアは、自分がまさしく自分である意識、自意識を指し、現代の脳科学やAI開発では、AIがかかる意識をもつか、又、この意識の移植可能性が、問題とされている。そうであるならば、埴谷の自意識に関する理解は、現代脳科学の最先端の思想を先取りしていたと云える。

それから、彼は、「死霊」の中で実体に対する反対概念として「虚体」と云うこと概念を使っているが、ホーキングの宇宙論等も読んでいるらしく、宇宙については、現代の理論物理学が想定する多次元宇宙的な世界観を持っている。

量子力学で、記述されるミクロな世界では、あらゆる物理量は、不確定な状態にあるとされる一方、我々の住む巨視的世界(古典的世界)では、いつも確定された物理量が支配している。ミクロに世界での物理量は、測定されることにより、マクロな世界での確定値として現れる。この不確定から観測により確定値が定まるプロセスは、量子力学では、縮退と云う言葉で表現され、ミクロな世界からマクロな世界に移る過程で生ずるとされ、そのような解釈は、コペンハーゲン解釈と云われてきた。

しかし、近年このコぺンハーゲン解釈に対して、それは、縮退等ではなく、可能性のある状態を選んだ結果であり、その他の状態も出現している可能性もあると云う多次元宇宙論的な解釈も出てきている。つまり、測定によって決まった値以外の数値も別宇宙で存在すると云う思想である。この点を以前可能性の歴史学として思いついたことがあった。我々は、実現したもの(実体)だけを必然的なものとして理解しているが、我々の世界では、

実体化していなくとも別の宇宙で実体化しているかも知れないもの、これを埴谷は、「虚体」としているようなのである。我々の世界は、実現した宇宙と未実現の宇宙の混在した

世界という複雑な構成をしている。これが私の中で稲妻のように閃いたことであった。

さらに彼は、人類を食と性に拘束された生命体、地球上の生命体の食物連鎖の頂点に存在する一形態として捉え、他の生命を犠牲にして成り立つ人類の在り方をこの生命体の持つ宿業として捉え、それを脱するために、別の形でエネルギーを吸収し、性のしがらみから脱出して生きる生命体をも夢想する視点から、キリストや釈迦の批判にまで及ぶ。その一方でその生命が宇宙へ進出して、現在の人類とは全く異なる生命として発展する可能性についても言及している。これも、月での資源開発や火星での基地建設の可能性が、議論される現在極めて現代的な視点と云える。

このインタビューが行われた時点では、ゲノム編集でのブレイクスルーであるキャスバー9やコンビューター技術のブレイクスルーであるデープラニングやチャットGPTにみられる人工知能(AI)の誕生等は知られていないが、間違いなく彼等は、こうした事態を想定した議論をしているのに驚かされる。

この本を一通り読み終わったとき、同じような文章に出会ったことを思い出した。書棚の奥を調べると出て来た本は、「無限の相のもとに 立花隆 埴谷雄高」:平凡社1997128日初版出版、定価1700円であった。こちらは、「死霊」を読み終えたとき、埴谷雄高のことがもっと知りたくて買い求めたものであるが、その内容の壁の高さにそのまま放置していたものであった。


こちらの内容を今回あらためて見てみるとこれは、19923月に行ったインタビューの500頁もの原稿を350頁に整理したものに、この後に行った「追補インタビューとそれ以前に行ったインタビュー(ともに「太陽」編集部が行った)の内容を付け加えたもので、埴谷雄高の死を記念に出版されたものであることが分かった。ちなみに、この本を私が買ったのは、この本に挟まれていた絵画展の葉書から2011年の7月頃と判断される。

「生命・宇宙・人類」は、「死霊」の完成を記念したもので「無限の相のもとに」は、埴谷雄高の死を記念したものであったのである。「無限の相のもとに」を出版して後24年後2021430日知の巨人と称された立花隆が80歳で亡くなった。立花隆は、2002年に大腸癌の手術を受け、2004年に膀胱癌が発症し、2007年には、膀胱がんの手術も受けているが、2021年の死因は、急性冠症候群とされる。これは急激な冠動脈狭窄によって生じる以下の三つの病態を包括した名称であるので、冠動脈狭窄が原因であり、癌による直接死ではなかった。いずれにせよ、立花隆の知的活動も2011年頃つまり70歳までがピークであったと云える。いずれにせよ、今回の本を読み終えて、埴谷雄高と立花隆という二人の知の巨人が、晩年に眺めた世界の風景の一端を追認することが出来た。これを一つの指標として更なる高みを目指す足掛かりを得たように思った。


2023年12月23日土曜日

マルチユニバースミステリーと青春              2023年12月

 

何か心惹かれるものがあったとしたら、それは何かの導きである可能性が高い。僕の場合はその出逢いの場は、古書展と云うことになる。その最初の一冊が「イシュタルの船:A・メリット/荒俣宏訳:早川文庫FT:昭和574月発行:定価480円」で、作家荒俣宏35歳の時の翻訳本である。

イシュタルの船

著者のエイブラム・メリット( Abraham Grace Merritt 1884 120 - 1943 821日 )は,SF作家、新聞記者、編集者で、アメリカの秘境冒険ファンタジー作家の代表者の一人で、この原作は、1924年アメリカの大衆雑誌「アーゴシイ」に掲載されたものらしい。しかし、僕がこの本を手にした理由は、この作家に格別興味があった訳ではなく、本のカバーのイラストに魅かれたためである。また、訳者が荒俣宏というのも安心感と期待感があった。


このイラストは、アメリカの イラストレーター、ヴァージル・ウォードゥン・フィンレイ (Virgil Warden Finlay 1914 723 - 1971 118 の作品で、アメリカ合衆国ニューヨーク州ロチェスター生まれ。戦前から戦後にかけてファンタジー、SF、ホラーのパルプ・マガジンに多くの美麗な挿絵を発表した。フィンレイが得意とした手法は、極細のペンによる高密度の点描とクロスハッチング(密度のある平行の直線を何重にも重ねて陰影に見せる技法)やスクラッチボード等で、非常な手間と時間がかかるものであったが、彼は35年の経歴中に2,600以上の作品を残した。作風の特徴としては、当時としては顕著な官能性が挙げられる。

 物語は、冒険家ジョン・ケルトンがバビロンから出土した石塊に隠されていた帆船の模型に出会ったことから一瞬の内にこの模型の帆船の世界に入り込むことになるが、その船上では、6000年もの昔の世界で、そこでは、<生の女神>イシュタルと<死の神>ネルガルとの愛と憎悪に彩られた熾烈な戦いが繰り広げられていた。そこで、彼は、女神イシュタルに仕える絶世の美女シャラーネと出会う。本のカバーのイラストは、このシャラーネであった。

 イシュタルの船は、6000年前のバビロンの時代の帆船を舞台とした冒険・恋愛活劇であるが、早川文庫のFT(ファンタジートレジャー)FTは、幻想小説の宝物とでも分類される小説である。19世紀末から1920年代にかけては、欧米では、別世界願望ファンタジーが盛んに書かれたが、この本もそうしたブームの中で生まれた作品である。

 現実世界から一瞬の内に6000年前の世界に移ると云う想定が、SFとしては、かなり無理があるため、FTに分類されている。A・メリットは、記者生活の後雑誌編集者となり、記者時代1年間中央アメリカの文明遺跡探訪を行っており、古代と現代を結び付けるテーマは、彼のこうした経歴が土台になっているらしい。

 一瞬の内に6000年前に移ると云う想定に無理があると云ったが、現代のマルチユニバース論の観点から見れば、それ程無理な想定でもない。その為か、熱烈な恋愛至上主義とも云える物語に美女シャラーネの姿を追い求めるように最後まで読んでしまった。

 活動写真の女

イシュタルの船をよんでから半年程経って古書展で55手にしたのが「活動写真の女:浅田次郎:集英社文庫:20035月発行 定価552円」であった。この本に魅かれたのは、まず著者の浅田次郎の名前と本の裏側の内容紹介の一文であった。「昭和四十四年、京都。大学の新入生で、大の日本映画ファンの僕は、友人の清家忠明の紹介で古き映画の都・太秦の撮影所でアルバイトをすることになった。そんなある日、清家は、撮影現場で、絶世の美女と出会い、激しい恋に落ちる。しかし、彼女は、三十年も前に死んだ大部屋女優だった。若さゆえの不安や切なさ、不器用な恋。失われた時代への郷愁に満ちた瑞々しい青春恋愛小説の傑作」青春期における絶世の美人との出会い。この言葉に反応して思わず購入し、読み始めると一気に最後まで読んでしまった。


 浅田 次郎(あさだ じろう、1951年〈昭和26年〉1213 - 、本名・岩戸康次郎[1])は、日本の小説家。血液型はA型。中央大学杉並高等学校卒業。陸上自衛隊に入隊、除隊後はアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説作品を経て、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説の他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も含め、『壬生義士伝』など映画化、テレビドラマ化された作品も多い。2011年から2017年に日本ペンクラブ会長。2013年には、柴田錬三郎賞、山本周五郎賞選考委員、2022年現在、直木賞選考委員。(Wikipedia)

  この本を手にしたとき、浅田次郎の名前に少し、違和感を覚えた。その作品の「鉄道員」や『壬生義士伝』を聞いたりみたりした記憶があるが、その著者が浅田次郎と結び付かなかったその理由は、その名前が、新田次郎と一字違いであったためであった。

 新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと)、191266 - 1980215日)は、日本の小説家、気象学者。無線電信講習所(現在の電気通信大学)卒業。

中央気象台に勤めるかたわら執筆。山を舞台に自然対人間をテーマとする、山岳小説の分野を開拓した。『強力伝』(1955)で直木賞受賞。作品に『孤高の人』(1969)、『八甲田山死の彷徨』(1971)などがある。(Wikipedia)。彼の作品の「アラスカ物語」や「八甲田山死の彷徨』を知っていたので、その連想と重なったのである。

しかし、こんな誤解と関係なく物語にのめりこんでいったのは、物語の舞台が昭和44年と云う僕が過ごした大学時代に極めて近似した時代であったことである。この物語の登場人物は五人、僕と恋人の早苗、そして清家と絶世の美女夕霞と撮影所に勤務する老人。しかし、30年前の美人を介在させることによって、昭和13年と昭和44年がシンクロナイズしてくる。確かにあの時代は、三島事件など戦前と現代が入り混じった奇妙な事件の起こり得る時代であったような気がしてきた。

 逢魔が時

もう40年も前、友人に連れられて錦3丁目のとあるスナックへいったことがある。そのスナックは、桜通り近くの貸ビルの6階にあるカウンターと客席の定員10人ばかりの店であった。その店の経営者の女主人が友人の知り合いと云うことであった。その女性はかつて文学少女と云うことで、その店には、彼女と親しい男達が、サロンよろしく集まっていた。その彼女が、60歳近くになって店を閉じることになり、それを機会に記念誌を発行し、その出版バーティを名古屋観光ホテルで行ったことがあった。その時、5000円の会費と引き換えに手渡されたのが「逢魔が時」と云う自費出版の彼女の私小説本であった。

逢魔時は「何やら妖怪、幽霊など怪しいものに出会いそうな時間」、大禍時は「著しく不吉な時間」を表していて、昼間の妖怪が出難い時間から、いよいよ彼らの本領発揮といった時間となることを表すとする。逢魔時の風情を描いたものとして、鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』があり、夕暮れ時に実体化しようとしている魑魅魍魎を表している。昔から他界と現実を繋ぐ時間の境目と伝えられている。(Wikipedia)


彼女が、自分の小説にこの題名を付けたのは、多分水商売での客との接触を逢魔が時の出逢いのようなものとなぞらえたことに由来する。その本の内容には、ほとんど興味が湧かなかったが、そのパーティの席上、東京から参加した知人が、自作の四行単位で綴った長編詩を朗々と読み上げていたことだけが鮮明に記憶に残っている。

 活動写真の女を読み終えて、大学時代を思い出したとき、この「逢魔が時」と云う言葉が思い出されてきた。

マルチユニバースな世界と青春

 逢魔時は、昼と夜の二つの世界が入り乱れる時であるが、これが青春と云う時期であるなら、あの魑魅魍魎達はなんであろうか。それは単にマルチユニバースの一つだけを表したものであり、実際には、もっと多様な世界がありえたのではないか。つまり、あの時代僕はもっと多様な時間の流れや世界を垣間見ていたような気がするのである。

 コロナ明けの2023年、数年振りの大学の同窓会の際、僕は、隣合わせた友人達にあの当時何をして、何を学んでいたのか片っ端から聞いてみた。しかし、彼等の答えは、皆曖昧であった。そして僕は、突如として悟った。あの当時僕がみたのは、マルチユニバースのホログラフのようなもので、実際に僕の血や肉になったのは、実宇宙で出会ったほんの数人の人達との出会いと接触によるものではなかったかと。「イシュタルの船」も「活動写真の女」も基本的に二つの世界を往き来する物語であるが、現実は、もっと複雑で、もっと沢山の世界を往き来しているのではなかろうか。青春は謎に満ちている。しかし、80歳になってようやくそのもつれた世界の謎を解きほぐすことができる気がしてきた。 了

                                   

2023年7月10日月曜日

「大姫考」ー古典文学にみる性愛と生死の抒情と思想

 

はじめに

その紫色の装丁に魅かれて思わず手にした本があった。本の帯に書かれた文にさして心が魅かれなかったが、目次の中に散見された悪女や美しい老い、和泉式部や小野小町といったキーワードに興味をそそられ、古書店で購入したのが、下記の本であった。

「大姫考―薄命のエロス:馬場あき子:大和書選書:大和書房:19726月初版発行」

この本に触発されて女性と知のあり様について日頃考えていることをまとめてみようと思い立った。

大姫考」の概要

著者は、1928年生まれで昭和女子大卒の女流歌人。内容は、1970(昭和45)から1972(昭和47)の間、つまり著者42歳から44歳の間に芸術生活や婦人公論等13もの雑誌に掲載したエッセイをまとめたもので、それにその当時未発表であった原稿「大姫考」を加えたもので、本の題名は、ここからとったと「あとがき」に書かれていた。本は、全体が三部構成となっており、エッセイ部分が第1部と第Ⅱ部を構成しており、第Ⅲ部が「大姫考」に充てられていた。1部とⅡ部の区分けは、明確な基準に沿ったものではなく「ことに意味のあるものではない」と著者の言葉にあるが、しいて言えば1部が性愛と老いと女歌をめぐるエッセイ、Ⅱ部が女性の生死と文学論をめぐるエッセイと云えるかも知れない。そしてⅢ部の「大姫考」は、家運に大きくかかわらざるを得なかった大姫=長女の宿命的な生き方を考察したエッセイであった。

1部(性愛と老いと女歌)は、次のエッセイ群から構成されている。

 悪女考―挑発の論理―

 夫殺しの弁明―愛の原型としての殺意

 美しい老いへの叛きー鬼女考

 妖たる魂しずめー和泉式部と小野小町

 闇の性のかなたへーエロスの闇と三輪の闇

 女流の歌にみる怨念の系譜

 女歌のゆくえ

Ⅱ部(女性の生死と文学論)は次のエッセイ群からなる

 一所の死への願望―汝がゆくへの恋しさに

 酷薄な生と死の混淆―能面の生と死

 鬼哭の参虐

 魅力的な盗の世界

 鬼のお出かけ

 妄執論―源三位頼政序説

 埋もれ木の歌人―源三位頼政論

文学的参加の空間

定型の中の文体確立の苦悩

中世歌謡と民衆思想

第Ⅲ部 大姫考(長女の宿命をめぐる考察)

エッセイは、著者の多様な視点の感覚的表現であり、「今後とも私の仕事の一部になってゆくであろう萌芽の部分を秘めたもの」であるので、それを要約することは非常に困難であるがそれを私なりの受けとめ方で、あえて主要なテーマごとにまとめてみる。

悪女と鬼女

女の価値が男によって一方的に決められた時代、それに果敢に挑戦し、挑発によって男を翻弄した女。これが悪女であり、この意味で美人は本質的に悪女と云える。第Ⅰ部はこの男のとの関係における女のありようのエッセイから始まり、体制の庇護から離れて暮らさざるを得なくなった女、鬼女へと考察は進む、このいずれも、体制の領域をはみ出した存在であるが、悪女が、自発的であるのに対して鬼女は結果として体制から放遂された存在である。

愛と殺意と老い

こうした異形の在り方を背景にして、男の裏切りへの対応としての殺意が、愛の延長線上に語られ、さらに宿命的に訪れる老いに対峙する女の情念とその行く先についての考察がつながる。恋愛が遊戯と化した王朝の古に出現した対照的な二人の女性、小野小町と和泉式部、容色に魅かれて言い寄る男の不誠実を見抜いて、かたくなに身を固くして守り抜き、夢の中に理想の愛を夢見て、老いさらばえてゆく小町に対して、情のままに、何度もの恋を重ね、その果てに空虚さを見つめた式部。二人は、共に自立が不可能だった時代における恋のありようの対照的な姿を示す。殺意や恋は、若い時期のテーマであるが、もっと現代的なテーマは、老いへの対応である。「老いることを希わぬのにいち早く老いてゆくしまう肉体と、老い枯れることを希いながら朽ゆかぬ情念と二つの谷間で女は苦しみやすく生きてきたしこれからもそうであろう」その悩みの究極の姿を能の「姨捨」「山姥」「黒塚」の中にみて論じたのは、著者が喜多流の能を学びその世界を知っているからできたことである。

女歌と抒情の現代的課題

鬼女を生み出したのは、当時の社会からの空間的孤絶であったと云える。この条件は、現在では、自分の意志でポツンと一軒家に住む極少数者でしかないが、高齢社会と技術変化の環境に時間的に隔離された老人たちは多数存在する。この人達の多くが鬼女と変じかねないことを考えるとこれは極めて現代的な課題でもある。その時、鬼女の世界を浄化するものとして詩花の根源をなす抒情のエネルギーがエロスである。「エロスの形而上学は快楽であったが、快楽には、人間の原初の火が必要である」エロスとは、最初の自我であると共に、他者の発見なのである。」「エロスの闇には異形のもが眠っている。」この闇には共通のカオス、つまり神としての高貴な愛の精神と対称的な肉欲の求めの混沌としてまじりあう闇である。」このエロスの闇の彼方にある漠然たる無形の存在感の重さが意外に大切なものであり、「このエロスの闇は、現代においてもう一度呼び戻されねばならぬ抒情である」

女歌の方法と行方

1970年代、政治の時代に、女歌とは「恋の情感がいつも下敷きとなっていて匂やかさを保っているような歌」であると考え、女歌の在り方として政治や思想や西欧哲学によらず、「女歌と古典、この伝統の中に自己をつなぎ留め過去と現在の凝縮の中から女の情念や怨念をあるいはそこに密閉された血のゆくへを見つめる」方法、言い換えれば、「女の地獄を通して時代の魂を見る方法」を提唱し、そこに女歌の行方をみたのは、著者の卓見であったと言わざるを得ない。

義仲と頼政の死をめぐって

日本の古典である「平家物語」「源氏物語」「源平盛衰記」「今昔物語」等の主要なテーマは生と死であるが、その死の具体例として木曽義仲と頼政を取り上げたのは、女性である著者にとってこの二つがどうにも理解しがたいことであったためではなかろうか。義仲とその乳兄弟兼平の二人の同性愛的な「一所の死」への願望は、三島由紀夫の死と同様女性には、理解不能な出来事で、著者は、結局その最後を「悲壮な、ある情事の終わりをみてしまったような寂しさ」と結ばざるを得なかった。もう一つの女性にとって理解不能な死が「頼政」の死であつた。源平の時代、源氏の傍流の一門とした頼政は、源平の争乱から絶えず距離をおき、和歌と社交性により、宮中で従三位にまで出世する。その頼政は、77歳の時突如として、勝利の見通しのないまま、謀反を起こし戦死する。その心情は、次の辞世の歌に込められている。

埋もれ木の花咲くこともなかりしに実のなるはてぞあわれなりける。

著者は、この頼政を突き動かすものを「妄執」とし、それを「常識をこえ、異常な次元に高騰したまま存在する情念の在り方」で、そこに極点までたどり着いた人間の欲望すなわち人間の存在の意味を感じたと見た著者は、「妄執論―源三位頼政序説」と「埋もれ木の歌人―源三位頼政論」の中で、長文のエッセイを書く事になる。

]闇と生死の境界

王朝と源平の時代には、統治された領域の周囲には、権力の手が届かない領域、異界が広く広がっており、その権力に従わぬ者達は、鬼と称された。その典型が大江山の酒呑童子であるが、治世領域でも、非合法的行動をするものは、治世外に住む鬼と称される。法治の世界と異界()との関係は、今昔物語や更級日記等の逸話の中で「鬼」仕業の出来事として事件ではなく物語として取り上げられている。

この法治の世界と異界との関係は、既知の世界と未知の世界と云う意味で、現世と来世すなわち生の世界と死の世界を連想させる。こうした生と死の混濁した酷薄の世界を背景とした芸術が「能」の世界でそこでは、生と死が行き交う世界が描かれる。そのとき、その象徴として能面が位置づけられ、交流のリズム、効果音として、笛、太鼓、鼓等の音曲があると云うことだはなかろうか。

古典と文学をめぐって

「文学的参加の空間」と「定型の中の文体確立の苦悩」と「中世歌謡と民衆思想」は、一言でいえば、著者の文学論であり、「文学的参加の空間」では、古典には、読者の主体的参加の場が用意されているので、「常に現実の痛みに敏感な多面的心づかい」、つまり「甲斐ある空想の力」を持って作品を読めと云い、「定型の中の文体確立の苦悩」では、短歌の伝統的な原点としての万葉集を俳句の原点としての芭蕉を据えている。五七調と七七調等の定型の意味について、型の文学において「型は絶対的であり」「その詩形の中で、どれだけの事がいえるかと云う多欲な表現への意図を持ったとき、はじめて、言葉の重さや多様な表情は意識される」これが、定型についての議論の出発点であることは理解出来た。

 源平の時代から書くものとしての和歌に対して歌うものとしての歌謡が成立し、それを表したものが、閑吟集や梁塵秘抄であるが、「中世歌謡と民衆思想」は、中世における民衆思想と民衆の中で広く歌われた歌謡との橋渡しになったのが、古典教養をもつ世捨て人の一群であり、和歌や能との繋がりが論じられているが、歌うものとしての歌謡論としては、まだ、序論的なものに終わっている。

大姫考

大姫とは、長女のことであるが、それは単に出生の順序を表す言葉ではなく、古代社会では神に仕える一族を代表する巫祝としての意味があり、時の流れの方向や生活そのものへの示唆や集団のあり方への啓示等特殊能力の保持者として家の命運を左右する存在として位置付けられていた。特に姻戚関係が一族の命運を左右する時代にあっては、大姫の命運は家の命運の一端を担うものとして、二の姫、三の姫とは、比較にならぬ重さがあった。この場合、大姫の適齢期は、おおくその父の最も波乱の多い活動期に当たっていることから、その処遇は、親の思惑等外的条件に強く支配されることになる。その宿命と「私」の思いの間で、彼女達が如何に生きたのか。これがこの論考のテーマである。

古事記にみる天つ神の秩序からはみ出して生きる楽しみをしったがゆえに破滅した天若日子を手掛かりに、王朝時代、二条の后高子と在原の業平の恋等既存の秩序からはみ出して生きる楽しみを知った大姫達の挫折と破滅の物語を分析したのがこの論考であり、王朝文学を理解する手掛かりの一つがここにある。「鎌倉殿の13人」で示されたように、大姫の夫義高を殺害し、大姫を悲嘆の内に死にやった頼朝の一族が滅びたのは、大姫の巫祝的な力を失ったせいかも知れない。一族の中における古代社会に見られたこうした長女(大姫)へある種の期待は、家長制度を取り入れた近世の日本社会にもある種の潜在意識として残り続けてきたのかも知れない。

上の姉の言動の中に早世した父に代わって一族全般に気配りする様子を幾度となく目撃してきた。さらに長女として生まれて来た多くの知人の女性達には、一族の繁栄を願う古代からの巫祝的な雰囲気を感ずるのは、私だけであろうか。昭和35年戸籍制度が改定され、戸籍制度の上からも家長制度が廃止されると、長男、長女と云う特別な意識も薄らいでゆく。しかし、この感覚は、潜在意識として、日本文化の下層にのこり続けるかもしれない。

まとめと感想

 思いがけずも、女流歌人のエッセイと云う全く縁の遠いジャンルの本を読むことになったがその内容にあまり違和感を覚えなかったのは、この内容が古典を対象としていたが、私が謡をやっていて、ここで取り扱われている「頼政」「当麻」「木曽」「山姥」や「安達原」、「中将姫」や「酒呑童子」、伊勢物語の在原の業平と高子の話等を謡いの曲の中で見知っていためである。しかし、こうまで、古典を題材とするには、著者が単に歌人であると云うだけでなく能の喜多流を学び、謡の様々な曲に通じているためである。

馬場あき子のWikipediaによる経歴を最後に示すが、この「大姫考」は、彼女の教員時代の出版で、この5年後、彼女は歌作と著述に専念するため、教職を辞している。そしてこの「大姫考」の事は、経歴にも作品リストにも掲載されていない。

其の後の活躍により数多くの作品を発表し様々な賞、とりわけ旭日中綬章や文化功労者まで受賞した著者にとって「大姫考」は大した作品ではないのかも知れない。しかし、なんの先入観もないままに、手に取ってみた私にとっては、42歳から44歳、1970年代初頭のあの安保と云う政治の時代に古典を題材に文学的思考を重ねていた女性がいたことは驚きであり、新鮮な発見でもあった。

この本以外に馬場あきこの作品は、一切目にしていないが、多分この論考の中に彼女のその業績の全ての朋芽が含まれているような気がする。

馬場あき子の概要(Wikipediaより)

馬場 あき子(ばば あきこ、1928年(昭和3年)128 - )は、日本の歌人、評論家、作家、教育者。勲等は旭日中綬章。かりん主宰[1]、日本芸術院会員、文化功労者。本名は岩田 暁子(いわた あきこ)[2]。かつての本名は馬場 暁子(ばば あきこ)。

小学生時代に韻文の面白さに目覚め、『古今集』や『平家物語』の韻律に強く心を揺さぶられた。1947年窪田章一郎に師事。喜多流宗家に入門、1948年に昭和女子大国文科卒業後、中学、高校で教鞭をとった。窪田章一郎に師事し、その主宰誌「まひる野」に入会。1977年、歌作と著述に専念するために教職を辞した。翌年には歌誌「かりん」を創刊。歴史の裏側に追いやられてきた、紡ぎ、包丁を持つことに象徴される「女手」の意味を掘り返し、そこに思想の根元と創作の動機を見据えようとした。歌集に、『早笛』(1955)、『飛種』(1997)など。能の舞手であり、その方面への造詣も深い。評論に『式子内親王』(1969)、『鬼の研究』(1971)などがある。