2026年3月31日火曜日

坂口安吾と戦後思想

 1.    最初の出逢い

    私が坂口安吾に関心を持つきっかけと出会いは、全く偶然の出来事からだった。数年前、私は、大学時代の仲間達と新潟県を旅していて、そこに住む友人の案内で、十日町市を訪れることになった。十日町に来た当初からの目的は、津南町の秋山郷を訪れることであったが、それは翌日に計画されており、到着した当日は、宿の松之山温泉ちとせに入る前の数時間を使ってその近くのブナの林、美人林を散策する予定であった。しかし、その途中で、雲行きが怪しくなり、雨を避けるため急遽行き先を変更して訪れたのが大棟山美術博物館(坂口安吾記念館)であった。その建物は、杉木立に囲まれた山村の奥に静かに佇んでいた。高麗門形式の立派な表門を抜けると南北20.907m、東西17.574mの広さの木造2階建切妻造りの母屋がある。建物は古くみえるが、その内部は、良質な木材を使い、豪雪に耐えられる太く頑丈な柱や梁に支えられた堅固な建物であることが分かる。この施設は、700年に近い歴史をもつ、元造り酒屋であり庄屋であった村山家の旧宅と庭を博物館にしたもので、内部には、その当主が集めた伊万里焼の皿やその他の美術品や当時の調度品類が、展示されていた。そしてその2階の一角に、坂口安吾がそこで執筆したと云われる部屋があり、その中に書籍や坂口安吾の戯画等が展示されていた。こんな山村の山奥で、坂口安吾の名前にであうとは、全く予期せぬ出来事であった。しかし、その時もっと衝撃的であったのは、坂口安吾の名前からなんのイメージも浮かんでこないことだった。名前は知っていたが、彼の書いたものを何も読んでいないことに気づいた瞬間だった。

 この出来事が引き金となり、旅から帰ってまもなく書店で坂口安吾の「堕落論・日本文化私観他二十二篇:坂口安吾:岩波文庫:2008917日第1刷発行:2019219日第13刷発行」を購入して読み始めた。しかし、読み始めてすぐに全く興が乗らず、放り出してしまったそしてそのまま、書棚に置き忘れてしまった。

2.二度目の出逢い

 私が再び坂口安吾に出会うのは、トランプ政権が1666の国際機関からの離脱声明を発表し、ベネゼイラの大統領の拉致作戦を実行し、国内では、2月高市政権の衆議院選挙の圧勝し、アメリカとイスラエルがイランの軍事施設を先制攻撃したのを見て、戦後の国連体制の終末と崩壊を感じて、戦後日本の出発点となった戦後思想を見直す必要を感じた時期である。そんなとき開催された恒例の丸田町高くの古書センターの古書展で坂口安吾の「堕落論」に出会い、この「堕落論」は、一度手にしたことがあるような微かな記憶があったが、何かに導かれるように購入してしまった。家に帰って確認するとそれは、次の本であった。

「堕落論:坂口安吾:角川文庫昭和32530日初版発行:昭和43122518版発行:平成36月改版58版発行」

この本に何故か心惹かれて最後まで読み通し、そして坂口安吾の世界に私をつれて行ってくれることになった。そして本文章は、この二度目の出逢いを中心とする話である。

3坂口安吾の概要と略歴

概要

坂口安吾(1906–1955)は、昭和期に活躍した新潟市出身の小説家、随筆家。敗戦直後に『堕落論』や『白痴』を発表し、無頼派(新戯作派)を代表する作家として時代の寵児となった。固定観念を打破する文学姿勢と、人間味を重視した思想で知られる。

略歴

1906(明治39): 新潟県新潟市の裕福な大地主の家に生まれる(13人兄弟の12番目)。本名炳五、父は地方政治家、母も大地主吉田家の娘

1913(大正2):7:新潟県立尋常高等小学校入学

1919 (大正8) :13:新潟県立新潟中学校入学 

1922(大正11): 16:中学時代、机に「余は偉大なる落伍者となっていつの日か歴史の中によみがえるであろう」と刻み、中退して上京 東京豊山中学校へ転校。

1926(昭和元): 20:東洋大学文学部印度哲学倫理学科に入学し、宗教・哲学を学ぶ。

1928(昭和3):22:神田のアテネ・フランスに入学

1930(昭和5):24:東洋大学卒業

1931(昭和6):25: 短編『風博士』で文壇デビューし、注目される。ピエロ伝道者

1932(昭和7):26:矢田津世子(25)に出会う FARCEについて

1941(昭和16): 35: 文学のふるさと

1942(昭和17): 36: 母アサが死亡。日本文化私観 青春論

1944(昭和19): 38: 田津世子死亡(36)

1946(昭和21): 40:『堕落論』『白痴』を発表し、戦後文学の旗手として爆発的なブームを巻き起こす。続堕落論、デカダン文学論 欲望論 インチキ文学撲滅談義

1947(昭和22): 41: 梶三千代(24)と結婚 17歳の年の差婚 戯作者文学論 悪妻論 恋愛論 教祖の文学 大阪の反逆

1953(昭和28): 47: 長男網雄誕生

1955 (昭和30) : 49歳で急逝。

4.「堕落論」の構成と内容

この32年初版本の構成は、次のような構成になっているが、ここに収録されている作品群の全てが昭和17年から昭和23年の終戦を挟んで発表された作品群であり。坂口安吾の思想が一世を風靡した時期に発表されたものである。

本の表紙の裏書には、「堕落論」の説明として次のような言葉がかかれていた。

 「第二次世界大戦直後の混迷した社会に戦前戦中の倫理観を明確に否定して新しい指標を示した「堕落論」は当時の若者達の絶大な支持を得た。「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことは出来ないし、防ぐことによって人をすくうことは出来ない。」堕ちることにより真の自分を発見して救われると云う安吾流の考えは、いつの世でも受け入れられるに違いない。ほかに「日本文化私観」「恋愛論」など名エッセイ12編を収める」

目次 (発表年齢)     発表年月日と雑誌

日本文化私観 (37)   昭和173月「現代文学」

青春論(37)       昭和171112月「文学界」

堕落論(40)       昭和214月「新潮」

続堕落論(40)      昭和2112月「文学季刊」(堕落論・続編」

デガタンス文学論(40)  昭和2110月「新潮」

戯作者文学録(41)    昭和221月「近代文学」

悪妻論(41)       昭和227月「婦人公論」

恋愛論(41)       昭和224月「婦人公論」

エゴイズム小論(40)   昭和2112月「社会批評」

欲望について(40)    昭和219月「人間」

大阪の反逆(41)     昭和224月「改造」

教祖の文学(41)     昭和226月「新潮」

不良少年とキリスト教(41)昭和237月「新潮」

注釈         三枝康高

解説

 坂口安吾-人と作品 磯田光一

 作品解説  檀一雄

年譜

5.坂口安吾の思想と背景

戦後無頼派と云われる一群の人達の思想は、現在の言葉で云えば、アウトサイダーもしくは、ニヒリストと云うことが出来る、彼等のそうした思想背景については、彼等の生い立とその後の青春期の経験や体験、出会いがある。

こうした人達を我々はどう理解したらよいか、その手掛かりとなるのが、イギリスの作家コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」のように思われ、それとの関係で調べてみた。   

コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』(1956年)は、社会の枠組みに馴染めず、日常の裏側に潜む「非現実的」な真実を見つめてしま孤高の人物たちを分析した文芸批評・思想書だ。この中で コリン・ウィルソンはアウトサイダーを次のような人々として特徴づけている。

・アウトサイダーの定義: 文明社会の秩序や道徳に違和感を抱き、「自分はどこにも属していない」と感じる人々を指す。

・多彩な実例の分析: ドストエフスキー、ニーチェ、ヴァン・ゴッホ、ヘッセ、T・E・ロレンス等、文学者や芸術家の生涯と思想を通じて、彼らが直面した精神的危機を考察。

・「見えすぎること」の苦悩: アウトサイダーは感受性が強すぎるため、他人が気づかない世界の混沌や虚無を直視してしまい、深い絶望に陥りやすいと説く。

・実存的危機の克服: 本書は単なる絶望の記録ではなく、彼らがどのようにしてその疎外感を乗り越え、新しい自己や生命の肯定(至高体験)に至るかというプロセスを追求している。

・時代の象徴: 発表当時、24歳の無名の青年だったウィルソンが執筆し、「怒れる若者たち」の時代の先駆けとして世界的なベストセラーとなった。 

現在でも、生きづらさを感じる人々にとっての「精神的なバイブル」として、中公文庫などで読み継がれている。 但し今は絶版になっている。

坂口安吾も、コリン・ウィルソンが定義する「アウトサイダー」の条件に非常に合致する人物と云える。ウィルソンの理論に照らし合わせると、安吾の思想には以下のようなアウトサイダー的特徴が見て取れる。

・社会の虚飾への違和感: 安吾は戦中・戦後の日本社会が掲げた「武士道」や「天皇制」といった既存の道徳・制度を、人間の本質を隠す「まやかし」として否定した。これは、文明の秩序に違和感を抱くアウトサイダーの典型的な姿勢だ。

・「正しく堕落する」という実存: 代表作『堕落論』で説いた「生きよ、堕ちよ」という言葉は、社会が押し付ける偽りの美徳を捨て、孤独で無残な「人間本来の姿」を直視せよという呼びかけだ。この絶望の直視とそこからの自己救済というプロセスは、ウィルソンが説くアウトサイダーの探求そのものだ。

・孤独の中の自由: 安吾は「救われない孤独」の中にこそ精神の自由があると信じていた。群れに属さず、剥き出しの自己として世界と対峙しようとする姿勢は、まさに孤高のアウトサイダーだ。

実際に、批評家の河上徹太郎はウィルソンの著書に触発されて書いた『日本のアウトサイダー』において、日本の知識人たちの孤立した精神性を分析している。

安吾が「アウトサイダー」として覚醒し、その危機を乗り越えていく過程は、まさに壮絶な自己破壊と再生の物語で、その核心をまとめると次のようになる。

・「偉大なる落伍者」への志向: 幼少期から既存の教育や道徳に馴染めず、試験に白紙を出すなど、社会の枠組みに対する強烈な違和感(アウトサイダーの初期症状)を持っていた。

・「癩(らい)病」への恐怖と虚無: 青年期、自分は業病にかかっているのではないかという死への恐怖と、救いのない孤独(精神的危機)に突き落とされる。この時、仏教(東洋大学)を猛烈に修行し、悟り」ではなく「絶望の徹底」を学んだ。

・戦争という巨大な舞台: 戦時中の非日常的な空間で、彼は「美しき日本の伝統」が単なる飾りであることを看破し、空襲の下で、死と隣り合わせの「むき出しの生」にこそ真実があると確信した。

・「ふるさと」の否定: 安吾にとって、甘い郷愁や道徳は「精神の牢獄」だった。彼はそれらをかなぐり捨て、「孤独のどん底」へ自ら飛び込むことで、誰にも依存しない精神の自由を掴み取り組んだ。

・「堕落」による救済: 彼の結論は、「人間は正しく堕ちることでしか、自分を救えない」という逆説だった。社会が作った「型」を壊し、ドロドロの人間本来の姿を肯定することで、アウトサイダー特有の「疎外感」を「絶対的な自己肯定」へと転換させた。 

安吾にとっての克服とは、光を見つけることではなく、「暗闇の中でも眼を開けて立っている」という強靭な意志そのものだった。

6.坂口安吾の恋と結婚

 坂口安吾の恋と堕落論

坂口安吾にとって矢田津世子(やだ つよこ)は、生涯で最も激しく、かつ絶望的な影響を与えた「運命の女性」だった。コリン・ウィルソン流に言えば、彼女との恋愛は安吾を「アウトサイダーの地獄」へと引きずり込んだ決定的な事件と云える。

1933年(昭和8年)、安吾26歳の時、新進作家として注目されていた25歳の矢田津世子と、まだ無名に近かった安吾は、雑誌『青い馬』の集まりで出会う。

第一印象で彼女は「秋田おわら風の盆」を思わせるような、凛とした知的な美貌の持ち主だった。魂の恋であり、二人はすぐに惹かれ合う。安吾は彼女の才能を認め、彼女もまた安吾の破天荒な知性に惹かれた。手紙を頻繁に交わし、純粋で激しい恋愛が始まった。

しかし、二人の関係は数年で破綻する。その理由は、安吾の「アウトサイダーとしての業」にあった。その一つは、生活力の欠如で、安吾は定職を持たず、睡眠薬に溺れ、混沌とした生活を送っていた。一方、矢田は家庭の事情もあり、現実的な結婚生活を求めていた。安吾が求めたのは「魂の裸の付き合い」だったが、矢田は世俗的な平穏も捨てられなかった。安吾は彼女の中に「偽善」を感じ、彼女は安吾の「狂気」に恐怖を感じた。

 1936年、安吾は彼女をモデルにした小説『吹雪物語』を執筆。私生活を切り売りするような安吾の姿勢に彼女は絶望し、二人の仲は決定的に壊れた。

別離後、矢田は肺結核を患い、1944年に36歳の若さで亡くなる。 彼女の死を知った安吾は、激しい自己嫌悪と虚無に襲われた。 彼は、自分が彼女を救えなかったこと、そして彼女が最後まで「清純な作家」という仮面を脱ぎ捨てられなかったことに、人間の限界を見た。この死すらも救いにならない」という絶望が、後に「美しく死ぬのではなく、ドロドロに汚れながらも生きろ」と説く『堕落論』の原動力となった。

安吾にとって矢田津世子は、「失われた清純さ」の象徴であり、彼女を失うことで彼は「救いようのない現実」を生きる覚悟を決めたと言える。

坂口安吾の結婚と家族

安吾は41歳で24歳の三千代と結婚し、後に長男(綱男)を授かるが、その受け止め方は彼らしい「照れ」と「覚悟」に満ちたものだった。

アウトサイダーとしての独身を貫くかと思いきや、彼は「生活」という泥臭い現実を正面から引き受けた。 それまで無頼な放浪生活を送っていた安吾だが、結婚して家庭を持つことを「人間として正しく堕落すること(=普通に生きること)」の一環として捉えた。高潔な孤高を気取るのではなく、泥臭い日常に埋没することを恐れなくなった。

  子供が生まれると、周囲が驚くほどの親バカぶりを発揮した。机に向かって執筆している最中も子供を離さず、あやしながら原稿を書くなど、かつての「孤独な哲学者」の面影がないほど深い愛情を注いた。家族を持っても、彼の精神的な「孤独(アウトサイダーとしての核心)」は消えなかった。しかし、それは「寂しい孤立」ではなく、守るべきものがあるゆえの「重みのある孤独」へと変化した。 睡眠薬中毒や精神的な不安定さを抱えながらも、家族を養うために膨大な仕事量をこなし、「生活者としての戦い」に身を投じた。

ウィルソンの『アウトサイダー』の結末が「社会との和解」を示唆するように、安吾もまた、家族という最小単位の社会を受け入れることで、自身の思想を完成させていったと言える。

安吾は、結婚して8年後49歳のとき脳溢血で、亡くなる、この急逝後、遺された妻(32)千代と長男の綱男は、安吾の伝説を守りながらも、それぞれが自立した道を歩んだ。

妻・坂口三千代:は、安吾の死後、銀座で「クラクラ」というバーを経営し、文士たちの集うサロンのような場所を作り上げた。安吾との破天荒な結婚生活を綴った自伝的エッセイ『クラクラ日記』はベストセラーとなり、後にドラマ化もされた。彼女は、安吾の「無頼」を支え切った強い女性として、多くのファンに愛された。

長男・坂口綱男は安吾が41歳の時に生まれた一人息子だが成長後は写真家として活躍し、父・安吾の未発表原稿の整理や著作権管理にも尽力した。父の思い出を綴った『安吾のいる風景』などの著書があり、安吾の「人間味あふれる父」としての姿を世に伝え続けた。安吾は膨大な蔵書や原稿、そして多額の税金の滞納(!)を遺したが、三千代は持ち前のバイタリティでこれらを整理し、安吾の文学が埋もれないよう守り抜いた。安吾が「生活」を引き受けた証である家族が、彼の死後もたくましく、かつ愛情深く彼を語り継いだことは、アウトサイダーだった安吾にとって最大の救いだったのかもしれない。

7.坂口安吾と村山家

坂口安吾は、13人というあまりに多い兄弟の中で、自分を「余計もの」のように感じていた節がある。特に父・仁一郎からは「お前のような奴は、将来ろくな人間にならない」といった言葉を投げかけられており、この大家族の中での「孤立感」が、彼をアウトサイダー的な思索へと向かわせる一因となったと思われる。

坂口家の兄弟は、安吾のように文学や芸術に傾倒する者もいれば、家業や政治を引き継ぐ者もおり、非常に個性豊かだった。安吾の本名「炳五(へいご)」は、丙午(ひのえうま)の年に生まれた5男であることに由来している。 

兄弟の中でも、坂口安吾を特に可愛がったのは、次男の献吉と長兄姉のせきであった。次男の坂口献吉は、新潟日報社の社長などを務めた地元の名士だった。安吾は献吉を精神的な支柱として慕っており、敗戦直後には「戦後の新聞社の使命」などを熱く論じた手紙を献吉に送っている。放蕩の限りを尽くしていた安吾を経済的・精神的に支え続けたのが献吉であり、安吾が作家として活動できた背景には彼の理解があった。

安吾がよく身を寄せたのは、長姉のセキ(関)である。彼女は新潟県10日町市の松之山の旧家、村山家に嫁いでいました。安吾とセキの関係、そして村山家での生活には、彼のアウトサイダー的な側面がよく表れている。セキは13人兄弟の長女として、年の離れた弟である安吾(12番目)を非常に可愛がった。安吾が東京での生活に疲れ、精神的に不安定になったり行き詰まったりすると、彼女はいつも村山の家で彼を温かく迎え入れ、休息の場を提供した。

  安吾は村山家に滞在しながら、多くの着想を得ている。代表作の一つ『いずこへ』などは、村山での滞在体験や、その地の風土、人間模様が色濃く反映された作品だ。彼は村山家で、何をするでもなくボヤボヤと過ごしたり、あるいは猛烈に執筆したりと、自由奔放に振る舞っていた。家系図や古い資料を調べ上げるなど、後の歴史探偵的な資質もこの「逗留」の中で養われた。

 厳格だった父や、期待を寄せる兄たちとは違い、姉のセキは安吾の「ダメな部分」も含めて丸ごと受け入れる存在だった。アウトサイダーにとって、こうした「無条件の肯定」をくれる女性の存在は、精神の崩壊を防ぐ最後の砦だったと言える。

安吾にとって村山家は、社会の荒波から逃れ、再び戦うためのエネルギーを蓄える繭(まゆ)のような場所だったのかもしれない。

ここで安吾は、「吹雪物語」、「閑山」、「勉強記」や「黒谷村」、『村のひと騒ぎ』などの作品群を執筆している、

8.まとめと感想

 坂口安吾の堕落論や恋愛論等を読んでみて、彼の主張に全く違和感も覚えなかった。坂口安吾の云いたかったこと、それは、ものごとを人間と云う生物的存在の本性を見据えて考えろと云うごく当たり前のことだったように思う。けれども、それは、己とは何かと云う哲学的な根本的な問いかけに他ならず、そこにアンリ・ウイルソンが「アウトサイダー」で追求しようとした課題、つまりドフトエフスキーやニーチェが追求したような問題と繋がる問題意識があったと云うことである。敗戦後、戦前の価値観や道徳が崩壊し、戦後の混乱の中で、人々が生きるのに右往左往する中での主張であっただけに。脚光を浴びたのだと思う。32年度版の「堕落論」に取り上げられた作品やエッセイがほとんど終戦前後のものすなわち敗戦と云う国民的な思想的混乱期に書かれたものを収録しているのはそのためであろう。そしてまた、その時期が坂口安吾の思想が完成してゆく時期だったことと関係している。敗戦という戦前の価値観がひっくり返るような事態の中で坂口安吾は、それまでの伝統や慣習や常識にとらわれず人間の根本を見据えた地点から物事を自分の頭で、考えることを主張し、彼のライバルでもあった小林秀雄は、日本の伝統文化の精髄を見直す必要を主張したのではなかろうか。小林秀雄が晩年にライフワークとして「本居宣長」をテーマとしたのは、その作業の仕上げの意味があったと感じた。

 戦前、戦中、戦後を通してその思想が一貫している人物で、私が出会ったのは、柳宗悦、鈴木大拙、小林秀雄、そして今回であった坂口安吾あるが、皆その根底に人間とは何かを問い詰め見据えていた人達であった。

 32年度版の「堕落論」では、2007年度版にはなかった注釈や年譜があり、安吾と最も親しかった檀一雄の解説までついているし、磯田光一の解説では彼の思想に影響を与えた恋愛体験にも触れられており、解説者や編集者達の安吾に対する愛情が伝わってきた。

 それは、この本が出版されたのは彼が亡くなった昭和30年の2年後のことだったことと関係している。2008年度版の解説者、七北数人(ななきた かずと、1961923 - )は、愛知県名古屋市出身の日本の文芸評論家、小説家、編集者であるが50歳前なので、坂口安吾を自分とかけ離れた歴史の中の人として扱っている印象があり、それが初めて出会う私には、とっつきにくかった理由かもしれない。とにかく、「堕落論」の初版本との出会いが無ければ、ここまで坂口安吾を読み解くことは無かった。なにかの導きか運命を感じざるを得ない。()

本文は、その詳細版「坂口安吾ーその思想と生涯」の一部の伐採で。全文は、私のホームページ「知の宇宙船ー永遠の探究」に掲載する予定である。

 

2026年3月7日土曜日

危機の三十年―冷戦後秩序はなぜ崩壊したか

 1.はじめに

20254月に「ポストトランプの世界」と云う一文を書いたとき、私は、その世界をグローバリズムの終焉として捉えていた。しかし96日のトランプによる国連総会での演説と13日の米軍によるベネゼイラ攻撃とそれに続く16日のアメリカの66の国際機関からの離脱声明を目の当たりにし、28日の衆議院選挙の高市政権の圧勝に直面したとき、直感的にそれが、戦後の国連体制の崩壊を意味すると思った。そうであるならば、それは国連体制を前提とした戦後思想の劣化と破綻を意味すると直感的に思い、それは終戦直後の連合国の正義とそれに繋がる戦後思想を見直す必要があると思った。さしてその作業をすすめつつある途中で出会ったのがこの本であった。

「危機の30年―冷戦後秩序はなぜ崩壊
したか」細川雄一:新潮選書:  株式会社新潮社:2026220日発行

この本は、その紹介文と目次からこの数年来私が気にかけて来たソ連邦崩壊後の世界秩序の現状について同じような認識すなわち戦後ながらく続いた国連体制の終焉と云うテーマを初めてまともに取り上げた本であることがわかり、しかもこれを購入した翌日の228日にアメリカとイスラエルのイラン攻撃と云うニュースが飛び込んできたので、急遽取り上げることにした。

2.本書の構成と内容

本書の全体構成と内容は、以下のようになっている。

はじめにーウクライナ侵攻はなぜ起きたのか

   せまりくる戦争の危機、ソ連崩壊の30周」年、「危機の30年」を回顧する冷戦後世界の光と影

序章 逆回転する世界史

   「ポスト冷戦時代の終わり」、「世界史の転換点」の到来、リベラルな国際秩序の危機、国際秩序を破壊する大国、国際経済秩序の崩壊、アメリカの覇権的地位の終焉、孤立主義への回帰、「米国第一主義」の系譜、「危機の30年」と云う視座

1章「危機の30年」とはなにか

    ユートピアニズムとリアリズム国際政治学の最も重要な古典、啓蒙思想と反啓

蒙思想「レッセフェールの終焉」、「危機

20年」におけるユートピアニズム, リアリズムの時代としての冷戦、ポスト冷戦期の到来、「新・危機の20年」の時代、「危機の30年」時代のリアリズム

2章 ユートピアニズムの再来

    台頭するユートピア思想、ユートピアの復権 グレイの新自由主義批判、「歴史の終わり」のイデオロギー、冷戦後の民主的平和。グローバリズムの奔流、コスモポリタリズムの思潮、資本主義が勝利した世界

3章 冷戦終結からポスト冷戦へ

    冷戦終結期の歴史、「魔法の杖」で消えた帝国、ポスト冷戦時代の到来へ、「冷戦後秩序の産物」ウイルソンむの夢、「自決権」をめぐる政治力学、「自決権を擁護するゴルバチョフ」、歴史家

    サロッティの警告、「1インチの攻防」をめぐる真相、「自決権」か「勢力圏」か、キッシンジャーの予言、消えたユートピアニズム

4章 西側世界の驕り

    勝利主義と怨恨、民主主義拡大への批判、「最後の巨大な帝国」の崩壊、冷戦の終わり方、協調を模索するNATO、「新しいNATO」の誕生、NATOとロシアの協調、「平和のためのパートナーシップ」の誕生、「民主主義の拡大」戦略、NATO加盟への道、NATO東方拡大論争、ウクライナの自決権と安全保障、ウクライナ非核化むへの日本の関与、NATOの拡大へ向けた交渉

5章 リアリズムの復権

    米ロの協力関係、ブレアとプーチン、9.11テロ後の協力、ラムズフェルドの警戒感、「フリーダム・アジェンダ」の促進、オレンジ革命の衝撃、オレンジ革命以後、西側と敵対するプーチン

    ゲーツ国防長官とバーンズ大使の懸念、ブカレストNATOの首脳会談、すれ違うブッシュとプーチン、「リセット」の限界、勢力圏を追求するプーチン、戸惑うメルケル、米英両国の融和的姿勢、抑止力の強化への動き、ポリス。ジョンソンの矜持、ユートピア主義の蹉跌

終章  「第三次世界大戦」を防ぐために

    「旧い秩序の終焉」「新しい戦前」と云う時代、「危機の30年」とは何だったのか

おわりに ユートピア主義とリアリズムのはざまで

  註

3著者 細川雄一について(AIWikipedia)

細谷雄一(ほそや・ゆういち1971813 -)氏は、慶應義塾大学法学部教授(2026年時点)で、専門は国際政治学、国際政治史、英国外交史、安全保障政策。サントリー学芸賞や読売・吉野作造賞を受賞した『戦後国際秩序とイギリス外交』『倫理的な戦争』など多数の著書を持つ、日本の安全保障政策や冷戦後の国際秩序に関する第一人者。 

プロフィール(2026年時点) 

  • 所属慶應義塾大学 法学部 教授 (2011年より現職)
  • 専門分野国際政治学、国際政治史、イギリス外交史、安全保障政策
  • 学位博士(法学)(慶應義塾大学・2000年)
  • 主な経歴北海道大学専任講師、プリンストン大学客員研究員、パリ政治学院客員教授などを経て現職

4.この本の概要と特徴について

4.1この本の背景

この本の中にあまり、見慣れないユートピアニズムとリアリズムの言葉が出てくるので少し不思議に思った。これは、題名の「危機の30年」とも関連することであるが、この本は、今や古典的名著となったイギリスの政治学者EHカーの「危機の20年」を参考としてソ連邦崩壊後の世界秩序の危機を扱った本ということが分かった。


EH・カーの『危機の二十年』は、第一次大戦後から第二次大戦勃発(1919-1939年)までの戦間期を分析した国際政治学の古典。国際連盟に代表される「理想主義(ユートピアニズム)」の限界を暴き、力と利害が支配する「現実主義(リアリズム)」の視点から、秩序崩壊の本質を突いた 

4.2「危機の二十年』について

193991日: ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。本書は、イギリスで発行されたが、第一版の序文には「1939930日」という日付が記されており、まさに戦争が始まったわずか4週間後に世に出たことになる。

この本は 1930年代の戦雲が立ち込める中で執筆された。カーは、当時の国際社会が信じていた「国際連盟や条約で平和を維持できる」という考え(理想主義)が、迫りくる戦争を止めるには無力であることを論理的に解明しようとしました。

的中した警告: 本書が店頭に並んだ瞬間に実際に大戦が始まったことで、カーの「理想主義は破綻しており、権力政治(パワー・ポリティクス)を直視すべきだ」という主張が残酷なまでに証明される形となった。

「危機の二十年』は、入手できずまだ読んでいないがAIによりその概要は次のように要約されている。

「危機の二十年』の主要なポイント:(AI)

①ユートピアニズムの批判: 第一次大戦後、道徳や理性で平和が維持できると信じられた「理想主義」は、強国の利害が衝突する実際の国際情勢に対応できず無力であったと論じた。

②リアリズムの強調: 国際関係は「何があるべきか」ではなく「何が存在するか(力)」で動いており、政治は権力闘争(パワー・ポリティクス)の側面が不可欠であると指摘。

③危機の本質: 英仏などの現状維持国が唱える「平和」が、弱者や後発国を犠牲にして自国の利益を守る偽善であったとし、秩序の崩壊(危機の二十年)を招いた。

➃目指すべき姿勢: 理想を欠く現実主義は無気力に陥り、現実を無視した理想主義は偽善に終わる。両者の相克の中で、力の現実を認めつつ平和を模索する「弁証法的な接近」が必要であると結論付けた。 (東京大学社会科学研究所 )

1939年の出版以来、現在に至るまで、国際秩序が流動化し「力の政治」が復活する局面でたびたび再評価されている。

 4.3「危機の30年」と云うこの本の性格と限界

 この本は、さすがに政治学者らしく政治学の観点からソ連邦崩壊後の過去30年間の国際秩序の変遷をEHカーの「危機の20年」を手本としてまとめたものである。それだけに実際の世界政治の動きを通して、戦後の国連体制の形成と崩壊プロセスが政治史として語られている。一方私の視点は、近代資本主義の思想的原理の必然的結果としてグローバリズムの終焉とリベラリズムと国連体制の終焉を理解しようとするものであるが、現在の国連体制とリベラリズムが終焉を迎えつつあり、現在が時代の転換点であるとの認識では一致している。この本は、危機を乗り越えるものとしてユートピアニズムとリアリズムの融合を示唆しているが、それを可能にする原理には触れていない。しかしユートピアニズムとリアリズムの発生する背景については、具体的な政治史の中で詳しく記述されている。その背景を私の論理で理解すれば、生存活動に限界が見えないか薄く感じられる時期がユートピアニズムの時期であり、限界が意識される時期がリアリズムの時期である。その意味で、現在は、リアリズムの時代である。

5.リベラリズムと国連主義の終焉をめぐって

20254月トランプ以後の世界と云う一文を書いたとき、その主要なテーマはグローバリズムの終焉であった。その後この問題について考えてゆく過程で、グローバリズムが資本主義そのものの本性に基づく結果であって、それが17世紀のパーナード・マンデェヴィルの「私悪すなわち公益」つまり個人の利益追求が結果的に社会の利益になるとの考え方に源流があり、それが個人を社会の上位に位置づける個人主義すなわち現代のリベラリズムの根拠になっていることに気づかされた。そしてこの仮定が成り立つためには、世界が無限に広がっていることが経済成長の条件であり、有限の空間では成り立たないことを指摘した。

高市政権が、衆院選挙で、圧勝したしたとき、その衝撃の中で思わず戦後思想からの脱却を予感したが、それは13日の米軍によるベネゼイラ攻撃と16日の米国の66の国際機関からの離脱声明の衝撃とも重なっていた。

そして、228日のイスラエルと米国によるイラン攻撃の現実を目のあたりにして、グローバリズムの終焉は、リベラリズムと国連主義の終焉でもあるとの確信が強まり、このことに関連する思いをまとめる氣になった。

資本主義の必然的結果としてのグローバリズムが終焉を迎えたと云うことは、それと表裏一体をなすリベラリズムと国連体制も終焉を迎えたということである。すなわちそれは個人の権利を社会構成の最上位に置くリベラリズムの終焉であり、それを国家観に拡大した国家主権を最上位に置く国連憲章と国連主義の終焉でもある。

 アメリカのベネゼイラ、イランへの攻撃に対してアメリカの行動は、国家主権に対する侵害であり、国連憲章に違反するとの意見が多いが、それは。単に、国連体制の終焉と崩壊を言い換えただけにすぐない。アメリカの意図と姿勢ははっきりしている。第二次トランプ政権の安全保障戦略は、「多国籍機関による国家主権への拘束に反対する」と云うものであり、これは、アメリカが長年にわたって推し進めて来た自由主義、市場主義、民主主義を基調とするグローバリズムが、自国の製造業の崩壊と移民の増大による文化的無秩序さとIT・金融依存の格差社会と分断と国力の減退をもたらしたことへの危機感とその現状からの脱却のあがきとみることが出来る。そして、今回のトランプ政権の行動は、アメリカも、ロシアや中国同様、自国に都合がわるいと思ったら他からの干渉を排して国益優先に行動すると云うことである。なぜ、こんな事態になってしまったのか、それは、国家主権を何者も侵すことの出来ない神聖な権利とする思想とその裏返しの個人の権利を侵すことの出来ない神聖な権利とみなすリベラリズムの思想が、平和と繁栄をもたらすとの考えが現実世界で有効性を失ったと云うことである。しかし、この国家主権の神聖化の思想は、過去30年にわたって結果的には、世界的に、国内に独裁体制を敷く専制国家をはびこらせることになったし、弱小国家を主権国家として平等に扱う国連基準は、運営の経済的基盤を大国に依存しながら権利のみ主張する義務を伴わない実行性の乏しい空論をはびこらせることにも連なった。 

その典型が国連主導のIPCCによる地球温暖化防止条約であり、CO2主犯説がその責任の全てを先進国のせいにした結果、温暖化対策を議論する場が、先進国から開発途上国への資金援助をめぐる話に矮小化され、本来的には、開発途上国には先進国とは異なった文明モデルを構築する責任があるのに結果的には、開発途上国が先進国の経済成長モデルの後追いする場になってしまった。

新秩序への論理をめぐって

個人の権利を最上位に置く思想は、閉ざされた領域では、個人の権利同士が衝突する。国と国同士でもグローバルな閉じた世界では、国と国の利害が対立する。個人主義に規範を置く西欧社会が揺らいでいるように、国家主権を基礎として国際社会がゆらいでいる。 

個人の権利が地域社会と衝突するようであれば制限を受けざるをえない、個人の利益と社会の利益の両立を社会の個人に対する外部からの権力による規制に頼る方法は、行き過ぎた独裁体制を招きかねないし、個人の自由に任せれば無秩序の弱肉強食社会を招きかねない。従ってこの両立のためには、個人の意思が社会全体にとって有意義であることを証明し、社会がそれを受け入れてもらうか、あるいは、自らの利益を内発的な自己制御機能で抑制して、個人と社会の調和を図っていく以外に方法はない。これには、その地域の文化的・宗教的な伝統や習慣の力が必要であろう。

 国家と世界との関係についても同様な論理が成り立つ。有限な世界の中では、国家の膨張と発展と利害は、衝突の必然性にさらされている。国家の生存スタイルが、限界を迎えた場合、その限界をどう乗り越えるかが問題で、それを外部空間の拡大で解消しようとすれば、それが他国の利害や価値観と衝突しかねない。自国内部の社会改革や技術革新等の他国に迷惑を及ばさない形で、その限界をのり超えることが出来れば国同士の摩擦を最小限に抑えることが可能になる。

個人の主権の維持、国家主権の尊守の理念を叫ぶだけでは平和維持の方策にはならない。現実に存在する利害対立の具体的な解消もしくは妥協の方策が求められている。

おわりに

202628日の衆議院選挙での高市政権の圧勝は、国際環境が明らかにしつつあるグローバリズムと国連体制の終焉という現実に対して、高市政権発足にともなう国会論戦の中で立憲民主党と公明党があいかわらず30年前の国際情勢認識とユートピアニズム的発想しかできていないことへの国民的批判の結果であると云える。10年で軍事費を倍以上に増大させる中国の現実を横目に、国防費の増加が中国を刺激するとのユートピア的発想しか提示できない政党が支持を失うことは必然的なことであった。野党はユートピア的理念だけにたよる時代が終わったことにはやく気づくべきであった。

 本書は、国際政治の現実をそのまま分析してみせた本であり、特定の立場から見れば納得できない点もあるかもしれない。しかし、今まで読んだどの本よりも包括的で、客観的、公平な視点で書かれた本のように思われる。冷厳な事実を見れば、我々は、第三次世界大戦の到来と云う危機に直面している。そして、今求められているのは、希望的観測や願望による平和という平和論ではなく、国際政治のパワーポリテックの現実を見据えた冷静な現状認識と安全保障戦略である。本書は、このことに気づかされる名著であると云える。

 

2026年1月27日火曜日

「さまよえる魂のうた」日本の美と文化の発見者ラフカディオ・ハーン ―ハーンは何故小泉八雲になったのかー

 1.はじめに

当初私は、幽霊について書くつもりであった。それは朝ドラ「ばけばけ」を見ていて主人公達(ヘルンと節)が怪談に興味を待っていたことと関連しており、最近の脳科学の現状と幽霊についての科学者達の取り組みの歴史を整理したくなったためであった。そんな時、年末の部屋の大掃除のついでに始めた書籍の整理をしていて手つかずにいた一冊の本に気ずき、思わず手にしたのが、この本であった。

さまよえる魂のうた:小泉八雲コレクション:池田雅之翻訳:ちくま文庫(株)筑摩書房:20041110日第一刷発行」


2.小泉八雲とはなんであるか

当初なにげなく手にしたこの本は、小泉八雲の思想形成の自伝的エッセイと文学論をまとめた本であるらしいことが分かるに従って徐々に私の心を惹きつけて行った。

この本をどんな気持ちで購入したかは、はっきりした記憶はないが、その思想にどことなくスビリチァルな気配を感じたためであることには間違いがない。しかし、この本は長い間詩集と同じ場所に放置されていたことを考えるとこの本が何か詩的な雰囲気を持っていたことは確かであろう。

今回あらためて、本の全体に目を通してみて。次のようなことに気づいた。この本の性格については、訳者の早稲田大学教授である池田雅之氏が巻末に解説を書いているが、その題は「小泉文学の原風景とghostlyなるもの」というものであり、これがまさにこの本の性格をぴったり言い当てている気がした。

この本は、小泉八雲の思想的背景とかれの思想の中核概念を表すエッセイとそれにかかわる文章を収録したものであった。この解説文によれば、この本はそれ以前に出された「妖怪・妖精譚」(20048月刊、ちくま文庫)と対をなすものであり、訳者としては、この二冊で小泉八雲の全体像を示したい意図があったように思えた。そしてこの「妖怪・妖精譚」が小泉文学の精華・達成であり、「さまよえる魂のうた」がその思想的背景をまとめた本ということになる。この本を読み進む内に私の中にある一つの思いが芽生えて来た。それは小泉八雲と云う人間の日本史の中における役割について、整理してみる必要性についてである。

3.明治と小泉八雲

小泉八雲(18501904)は、ギリシャのイオニア諸島レフカダ島生まれ、父はアイルランド人の軍医補、母はギリシャ人、幼少期アイルランドにわたるも両親が離婚し、母は、ギリシャに帰り、叔母の手元で育てられるが、若くしてヨーロッパを彷徨するも19歳の時アメリカにゆき新聞記者として文才に頭角を現す。1890年来日して、小泉せつと結婚。その後の生活は、朝ドラ「ばけばけ」で描かれている。小泉八雲の人生は、日本の近代の曙明治の時代と重なっている。明治維新以降の年表を確認してみよう。

明治維新以降の年表

1868(明治元年)

1894年~1895年 日清戦争

1904年~1905年 日露戦争1

1910年 日韓併合

1912年 明治天皇崩御、大正元年

小泉八雲が日本にやって来たのは、日清戦争直前であり、亡くなるのは、日露戦争が始まった年である。8月にアップしたブログ「日本文化の自画像をめぐる三冊の本と3人の先人達」の中で触れたように、この時期は、岡倉天心(18631913 )、鈴木大拙(18701966)、新渡戸稲造(18621933 )等が世界に向けて日本の自画像を発信し始めた時期と重なっている。

小泉八雲は、この3人の日本人が本格的に活動する前にいち早く、日本文化を世界に向けて紹介していたことになる。日本人である岡倉天心、鈴木大拙、新渡戸稲造が、活躍する前に、西洋人として日本文化の価値をみとめ、その価値を記録に残し、世界に情報発信していた。このことに気づいたとき、私は、人知れぬ驚きと感動を感じざるを得なかった。そして、ラフカディオ・ハーンなる人物は、世界がまだ日本のことを知らない時代に日本の何に感動し、日本に帰化して小泉八雲として人生を終えることになったのか強烈な興味を抱くようになった。

4.小泉八雲の全体像への道

ラフカディオ・ハーンの全体像に迫るには、三つのことを知る必要があると思った。その一つは、彼の思想であり、もう一つは、彼が日本で何をみて何を感じたのかであり、三つ目は、その結果としての彼の作品を知ることである。小泉八雲の残した文章は、膨大でありその研究者でもないことから次に何を読むかに迷ったが、とりあえずこの本の訳者池田雅之氏の解説の言葉に従って「妖怪・妖精譚」(20048月刊、ちくま文庫)でも読んで考えをまとめることにしようと早速書店に出かけていった。

ところが、当初簡単に見つかると思っていたこの本は、なかなか見つからなかった。書店に置いてなかったのである。そのかわり、栄地下のジュンク堂書店には、小泉八雲関連本の特設コーナーが設けられており、そこになんと最近の小泉八雲関連の新刊書が10冊ばかり並べられていた。テレビの連ドラの影響のせいであった。執拗に「妖怪・妖精譚」を見つけようとしたがみあたらなかったので結局次の二冊を買い込んで帰宅した。

新編 日本の面影:ラフカディオ・ハーン:池田雅之訳:平成12925日初版発行、令和7121556版発行:角川文庫」

怪談: ラフカディオ・ハーン:池田雅之編訳:令和7825日初版発行、令和71020日再版発行:角川文庫

 この二冊を選んだ理由は、前者が、ハーンが日本で何をみて、何をかんじたかを端的に示していると思ったからであり、後者がその結果としての彼の作品群の一部と感じたためであった。ハーンが来日してから死ぬまでは、1890年から1904年までの15年間に過ぎないが、この間に膨大な文章を書いている。翻訳した池田雅之の解説によるとこれ等一連の文庫本は、ホートン・ミフリン版のハーン全集全16:1922)の中からテーマに沿って翻訳者によって選ばれた作品群を纏めて一冊の本としたアンソロジー「アンソロジー(anthology)は、特定のテーマや基準で複数の作家の作品を集めた「選集」「詞華集」「作品集」を意味し」という性格のものらしい。

従って彼の全体像に迫るためには、そうした彼の全作品群の背景を理解した上で、個々の文庫本を読み解くことになる。以下では、今回手にした三冊の本から見えて来たことと感想について簡単にまとめてみる

5.「さまよえる魂のうた」にみるハーンの思想

この本は、次の構成で編集されていた。

第1章         私の守護天使―自伝的断片(8編の文章)

第2章         赤裸の詩-文学の力(7編の文章)

第3章         生活の中の文学(3編の文章)

第4章         ロマン主義の魂(6編の文章)

小泉八雲の家庭生活  萩原朔太郎

解説 八雲文学の原風景とghostly  なるもの 池田雅之つまり、この本は、ハーンの書いた24篇の文章に荻原朔太郎が昭和51年に書いた文章と訳者池田雅之の解説からなる26の文章をまとめた本であった。

これらを読んだ感想を一言でいえば、ハーンはghostlyなるものを追求した詩精神をもったロマン主義的神秘主義作家と思えた。それは、この第4章の中に、「イギリス最初の神秘家ブレイク」と云う文章と「ロマン主義的なものと文学的保守主義」なる文章を見つけた時決定的となった。

 私がウイリアム・ブレイクの名前を知ったのは、大学1年生の時で、それは当時英語の講義でコールズ・ワージーの「林檎の木」を購読してくれた英文学者の梅津先生がこのウイリアム・ブレイクの研究家であったためである。そのウイリアム・ブレイクを今から130年も前にハーンが日本に紹介していたとは驚きであった。

ロマン主義は、18世紀末から19世紀ヨーロッパで古典主義や啓蒙主義の理性・秩序への反発から生まれた思想・芸術運動で、感情、個性、自由を重んじ、自然賛美、中世への憧憬、神秘性、個人の内面性(不安、苦悩も含む)を追求する。文学・美術・音楽など多岐にわたり、「想像力」を重視し、現実を客観的に描くのではなく、主観的な感情や情熱、そして「崇高」な体験を表現することを特徴とするが、その源流はもっと古く、中世のアリストテレス的キリスト教的世界観への批判的潮流に遡ることが出来る。ハーンのキリスト教に対する批判的姿勢はその点で深い意味を持つ。

その一方、神秘主義(しんぴしゅぎ)とは、神や絶対者(宇宙の根源など)と人間が、理性や通常の認識を超えて、直接的・体験的に接触・合一(一体化)することを目指す思想や実践の総称で、内面への沈静、瞑想、修行などを通して、言葉では表現できない「神秘体験」を追求し、宗教や哲学の根源に関わる立場を指し、キリスト教、イスラム教(スーフィズム)、仏教(禅など)、ヘルメス主義など世界中の様々な宗教・思想に見られる。 

これらの思想は、ドイツやフランス思想の底流を流れるのが主流である。アイルランドやイギリス等経験主義の支配的な文化圏では、ウイリアム・ブレイク等少数の人間しか知られておらず神秘主義の伝統は弱くその意味でアイルランド出身のハーンがこうした特徴ある思想を持つに至った経緯は、彼の若き日のョーロッパ放浪の体験の結果であるかもしれない。

こうした彼の思想は、池田雅之氏の云うようにghostlyの追求という言葉に要約できる。この場合、このghostlyと云う言葉は、「神聖」「神秘」「宗教的なもの」そしてさらには人間の内面や魂を表す「霊的」なものをも指している。つまり、このghostlyなる言葉には「神」「宗教・神秘」「霊・霊性」と云った三つの意味が含まれており、この追求こそがハーン文学の思想であり中核をなすもののようである。

6.「日本の面影」とハーンが観て感じた日本

 この本の構成は、次のようになっている。

はじめに・・・・18945月 日本九州熊本にて ラフカディオ・ハーン

東洋の第一日目

盆踊り

神々の国の首都

杵築―日本最古の神社

子供達の死霊の岩屋でー加賀の潜戸

日本海に沿って

日本の庭にて

英語教師の日記から

日本人の微笑

さようなら

ラフカディオ・ハーン略年譜

訳者あとがきー木霊する出雲の地霊とハーンの魂・・。2000825

 この本は、ハーンが189044日日本の横浜に上陸してから松江に行き、そこで生活し、18911115日に松江を去るまでの17カ月の間に書かれた日本の滞在印象記であるホートン・ミフリン版のハーン全集の作品集「知られざる日本の面影」に掲載された27編の文章か10編を選抜・編集したものである。

 この中には、彼が初めて見た日本の美しい風景と人々や風物との出会いが感動的に語られている。彼には、日本が神々と共生する妖精の国のように感じられたことが、美しい言葉で綴られている。この本を読みながらその詩的な文章に何故か中学から高校時代に読んだ国木田独歩の「武蔵野」を読んだ時の感動が蘇ってきた。それは、そこに日本の自然の美しさが感動的に表現されていたためかも知れない。この中には、西欧の近代化の影響を受けない古き時代の美しい日本の面影が書かれている。

 最後の文章「さよなら」には、彼が松江を去り熊本に向かう場面が描かれている。それはまるで、恋人とのわかれを惜しむ若き詩人のように美しくも切ない文章であり、その哀切の情に胸を締め付けられるような感動を覚えた。この文庫本が56版重ねられた理由が分かった気がした。この本には、続編がすでに出版されている。それが「新編 日本の面影Ⅱ」である。いつかまたこの続編も読んでみたいと思わせる一冊であった。


7.
決定版「怪談」とハーンの芸術

この本は、次のように構成されていた

はじめにー池田雅之

完訳「怪談」

 序    1904120日 ラフカディオ・ハーン

 怪談(17)

    虫の研究(3)

    解説エッセイ1:完訳「怪談」世界を読み解く:池田雅之

「骨董」より

 15編の骨董・奇譚関連物語

 解説ウッセイ2:{骨董}の再話と瞑想の世界:池田雅之

怪談・奇談コレクション

 23篇の怪談・奇談物語

7編の自伝的作品

解説ウッセイ3:「怪談」「奇談」の世界を楽しむ:池田雅之

ラフカディオ・ハーン年譜

これは、ハーンの日本を舞台とした怪談、奇譚や自伝的作品をまとめた一冊で、決定版の意味が、最後のページに書かれていた。この本は、この前に発刊された「「日本の怪談1」と「日本の怪談Ⅱ」の収録作品を再編集の上あらたに「序」「かけひき」「葬られた秘密」「蝶」「蚊」「蟻」(完訳怪談)「焼津にて」(自伝的作品ほか)および解説を加え大幅に加筆修正したものです。」とあるので、これがハーンの作品集の主要なアンソロジーと云うことだろう。

このように、この本は、全体で70篇もの膨大な文章を収集編集したもので、「すぐれた芸術と云うものは、多少なりとも宇宙の神秘を、ghostlyなるものの世界をうかがわせてくれるものなのです。」のハーンの言葉にあるように、日本に伝わる話をフォークロア(民間伝承)的口調で再構成したものと自伝的エッセイからできている。

彼は、霊や夢といったものを通しても、無意識的世界に広がる集団の深層心理的真実に肉薄しようとしていたかも知れない。その一方で日本人としては、柳田 國男(1875年(明治8年)731 - 1962年(昭和37年)88日)が、民俗学の研究を始めたのが、明治41(1908)年頃からで、明治43(1910)年には日本民俗学の嚆矢となる『遠野物語』を著した。しかしハーンは、それより10年以上も前から日本の民話や怪談に着目し、その人間社会における重要性に気づいていたことになる。柳田国男とハーンの視点の比較は面白いテーマになるかも知れない。

8.まとめ

当初2冊の本を読んでまとめようとしていたが、ラフカディオ・ハーンは考えていたような簡単な素材ではなかった、その感受性と思想の広がりは私の想像力をはるかに超えていた。芳醇な思想と作品を前に私の旅はほんの入り口に立ったばかりと思わざるを得ない。ハーンの作品は美しい文章で綴られているが、これは翻訳者によるところ大かもしれない。とくに「日本の面影」の美しい日本語訳は見事であるとしか言いようがない。そこで訳者の経歴をwikipediaで調べてみた。下記に訳者の概要を記したが2000年に出版されたこの本は、訳者54歳の本であり、まさに一番充実した時期のものである。この本が56版も重ねた理由かもしれない。また、決定版「怪談」は、ハーンの作品の全体像に迫るにふさわしい本と感じざるを得なかった。多くの人に薦めたいと感じた。

翻訳者の池田雅之の概要(wikipedia)

池田 雅之(いけだ まさゆき、1946 - )は、日本の英文学者、比較文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。専門はTS・エリオットや小泉八雲(Lafcadio Hearn)研究を通じた比較文学・比較文化研究。早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授、早稲田大学国際言語文化研究所所長を歴任した。(了)



2025年9月28日日曜日

 松平三代の女 ―ふと手渡された一冊の本―

 はじめに

コロナ下、ある勉強会の終わり際に、「読んでみて」となんの説明もなくT女史から手渡された本が、あった。それが、「松平三代の女―松平すゞ・語り書き:桑原恭子・構成:風媒社:1994825日第一刷発行、1994年第6刷発行」であった。

家に帰って本を開いてみると表紙の裏にメモ用紙が一枚はさんであり、「ひまつぶしに、気が向いたら、読んで下さい」と書いてあった。はしがきにざっと目を通し、パラパラとページをめくってみるとどうやら松平と云う家にまつわる家の歴史書の類としれた。松平家は、明治維新当時尾張藩で5000石の身分の高い由緒ある家柄でその家の明治維新後の一族の歴史を扱った本らしきことは分かった。しかし、他に読みたい本もあったので、再びその本を取り上げたのは、それから一か月程たった頃であった。しかし、最初の78頁ですぐ飽きてしまい。長いこと放置してあった。


その本を再び開いたのは、それから1年半ばか経ち、少し暇の出来た9月半ばの事であった、残暑厳しい夏が続いたせいで、冷房を入れ、家にいることが多くなったためか、懸念していた書類の整理も進んで、ほっとしたとき、たまたま脇テーブルに積んであったこの本が目に入った。早朝の比較的集中力のある時間に、中断していたそれを読み始めた。それが面白かった。珍しくあきることなく3日程で読み終えてしまった。

本の内容

本の内容は、明治維新当時尾張藩5000石の高級武士であった曽祖父松平甚之進保眞を中心とするその兄弟、その子供達、孫達総勢20人ばかりの生活がどのようなって行ったか、とりわけその女達の運命が克明に描かれていた。明治維新は、ある種の革命であり、社会体制の変革である。社会体制の変革は、旧来の体制の崩壊である。我々は歴史の中で、変革する側、つまり勝者の物語しか知らされてない。しかし、こうした社会変動の中には、変革される側、つまり破壊されてゆく人達もいるのである。

明治維新により、幕藩体制を支えて来た武士が録を失い士族と云う名誉称号だけの存在となったが、永らくその体制下で生きて来た人間達は、新しい環境で生きるすべも方法も知らず社会に放り出され、今まで蓄えて来た資産や財産を切り売りする以外に方法は、無かったし、その一族に仕える者達の多くも今までどおり主人に仕える以外の生き方しか出来なかった。武士階級の廃止は、単にその武士一家の生活崩壊のみならず、その一家に係わる全ての人の従来生活の崩壊をもたらす。その全体像が詳しく描かれる。

これを物語るのは本の著者松平すゞで、彼女は、松平甚之進保眞の孫の1人である。彼女は、幸運にも明治の女には珍しく8年間も学校に通うことになり、教員の職につくことによって結婚してからも自活能力を身に着け、第二次世界戦後の動乱期も山林を買い取り、山林を開拓して、そこに掘っ建て小屋をたてて半ば自給自足の生活を始めて戦後を生き抜き、膨大な記録を残し80歳で亡くなる。

この原稿をみつけ、本にしようと思い立ったのは、すゞの次女、西尾なほであり、その膨大な原稿に見出しをつけ本の体裁に原稿を整えたのが作家桑原恭子である。

松平家とすゞの略歴

松平家は、徳川家康の家系の本家筋の家柄で明治維新当時すゞの祖父松平甚之進保真は、尾張藩の5000石の家臣であった。すゞは、この甚之進保真の長男新之助の三女として明治24(1891)生まれ、明治31(1898)7歳の時愛知県師範学校附属小学校文教場に入学、その2年後母離婚して家を出る。その2年後、明治35年兄の勧めで附属小学校文教場高等科に進学、この頃下の姉結核で亡くなる。明治37年兄日露戦争で戦死。母一端家に戻るが再度離婚して家を出る。

明治39(1906)高等小学校卒業、郵便局事務員として勤務、明治41年友の勧めで裁縫女学校師範科に入学、校長に頼まれて小学校の代用教員となる。裁縫専科正教員試験と中等教員の受験資格の獲得、その後裁縫科の文部省資格を取得、代用教員をやめ裁縫女学校の教員となる。

大正4(1915)結婚、2年後男子出産で夫を婿養子にして入籍、大正7(1918)、第2子誕生、知多で二人の子供と教員生活大正9(1920)名古屋へ転勤。大正10(1921)第三子(なお)誕生。夫は、一時籍をぬくも、長男を戸主としてから、再入籍している。大正13年夫喀血して入院、昭和10(1935)退院。半年で夫死亡、すゞは44歳になっていた。昭和16(1941)父死亡、この時すゞは、50歳。この間愛知県立第一高等女学校、同刈谷高等女学校、安城女子職業学校等と長年教壇に立つ。

昭和20(1945)4月長男がニューギニアで戦病死。昭和22(1947)56歳の時挙母町の山奥山地を購入し、1人移住し移り住み、荒地を耕し、食糧や野菜を作り自活する。

「はばさ会」なるものをつくり、老人の自立ししと、老後をいかに生きがいのあるものにするかを率先垂範、老人達に勇気を与えた。また、新聞等にもしばしば投書して意見を述べた。昭和47(1972)680歳で没す。

所感

著者松平すゞは、明治24年の生まれであるが、私の祖母せいは、明治23年生まれで年は1歳しか違わない。また私の家は尾張藩の下級武士であり、曽祖父は、維新後士族の称号を受けている。祖母はそんな関係で没落士族の末裔として、このすゞと若干の共通点がある。そんな分けで、思わず祖母の面影と重ねて熱中して読んでしまった。

読み終わってあらためて、この書き手は、どうしてこんな文章を書き残すまでの知性と教養をみにつけたのかと興味を持った。私の祖母は、明治生まれの田舎の女として珍しく読み書きそろばんが出来る人だったが、それは尋常小学校4年まで学校に行けたためである。彼女が社家の出で、親が学校に行かせてくれたそうであるが、田舎では、女子が学校に行く事が珍しく、学校で乱暴ものの男子によくからかい囃されたと私に語ったことがあった。すゞはそんな時代に生まれこれだけの文章が書けるまで、どうしてなることができたのか。この疑問を整理して略歴をまとめるために再度読み直した。

彼女が尋常小学校でおわらず高等小学校に進学して普通の女子の倍(それでも8年間)もの年少教育を受けることになったのは、兄の存在があり、さらにその上の師範学校を目指し、当時の女子としては珍しい教員資格を師得して教員で身を立てるようになったのは小学時代からの友の勧めの影響が大きい。

 すゞは、明治時代の女子には珍しく、高度な教育を受けることになるが、それは、婚期を遅らせることになった。すゞは、24歳で結婚している。祖母は、16歳で嫁に来たと語っていたが、当時としては、祖母の方一般的であった。すゞの結婚相手は、7歳年上であったが祖母の相手も7歳年上であった。すゞは、結婚した当時、もう経済的に自立した女であり、松永家の家系を支える一員でもあった。

彼女の記録の中では、夫の籍の問題でのいざこざや夫が家に金を入れないこと等がくどくど書かれているが、その背景には、夫を養子として籍を入れると云う問題がある。これは、そのまま読めば夫の理不仁な振る舞いにみえるが、養子となることへの心理的抵抗があったように思われる。当時、女子の場合、結婚しても子供が生まれるまでは、籍に入れてもらえないことは、よくあることで、自分から望んで籍に入いらないことは、異常であった。すゞの夫の場合、養子の籍に入ることは貧乏な松平家の戸主となることであり、夫はその重圧を避けたかったということであろう。すゞの記述は女の立場からの思いである。家制度は、女にとってのしがらみであったが男にとってのしがらみでもあった。結局、この戸籍問題は、長男を戸主にすることで、松平の家の世継ぎ体制が出来た時、夫が籍を入れて問題が解消することになる。そうした男の気持ちについてすゞは、少し無理解であったように思う。

すゞは、44歳で夫を亡くし、50歳の時、父を亡くしている。祖母が、嫁ぎ先の義父を亡くしたのは、28歳の時で、夫を亡くしたのは48歳の時である。共に、比較的若くして夫を亡くしているが、「人間50年」の時代では、普通のことであったかも知れない。

終戦当時すゞは、54歳、祖母は、55歳である。すゞは、56歳の時にひとりで、挙母町の山奥で自活生活を始めるが、祖母は、既に55歳の時に疎開で、郷里の篠岡村に疎開して、長女と末娘と孫3人の6人家族とともに田舎暮らしを始めている。

その祖母の働きぶりを見て来た私にとって、戦後のすゞの1人暮らしの生活は、それ程珍しいものではなかった。それよりも大人の女のしかいない一家の生活を運営・指示した祖母の働きの方がはるかに困難で大変であったように思われる。

しかし、祖母は、その役割を立派に果たした。衣食住の全てに亘ったその働きぶりは、今の時代のものから見れば驚くべきことで、食事作りや掃除・洗濯はもちろん、畑での農作物の栽培から鶏やウサギの生育、サツマイモ等農作物の長期保存から自家製味噌の製造、切干大根の製造や餅つき、着物の製作や布団の作成までありとあらゆる生活に必要な全ての作業をこなすことが出来た。彼女は、それらの田舎暮らしの知恵を若いとき嫁ぎ先の姑から教えられ、学んだとのことであった。

つまりすゞが、高等小学校からさらに先の教育を受けていたその時期、祖母は、嫁ぎ先で、農作業を始め田舎暮らしに必要な全ての生活術を学んでいたことになる。

松平家の女3代を描いたこの本は、明治維新と敗戦と云う二つの社会変動が、具体的にどのように個人の生活レベルに影響を与えたのかを描いている。たまたま著者が、祖母とほとんど同じ年齢であったため、つい比較してみたくなった。すゞは、80歳で亡くなるが、その生涯を一冊の本に残した。祖母は、米寿を一族のものに祝ってもらい94歳まで生きた。いずれにせよ、すゞと祖母の二人の女性が男の保護受けず、変動の時代を生き抜いたことには、感嘆せざるを得ない。その彼女等を支えた原動力は何であったろう。それは、彼女等が自覚した自らの役割と責任観であり、その背後には、自らの家系に対する誇りとブライドのようなものでは、なかっただろうか。

明治維新と敗戦は、日本人が共通して経験した社会変動である。こうした社会変動が個人に与える影響は大きい。しかし、個人の立場から見れば、影響の大きな出来事は、社会変動に限らない。その余波とも云える出来事が一家や一族の生活を大きく変えることもある。

私の一族は、下級武士で生産の現場近くで生活していたため、比較的うまく明治維新の変動をやり過ごすことはできた、しかし、第一次世界大戦中に起こったスペイン風邪というパンデェミックの日本での流行のせいで、曽祖父とその跡継ぎを相次いで亡くし、やがてその影響が家運の衰退と一族の没落を招くことになる。しかし、こうした逆境にあっても人によってはそれが、転機となり別の可能性が開けることもある。「危機は崩壊につながるが、転機は希望に繋がる」それを決定する主体は、自立せる精神である。このことを感じさせてくれた一冊であった。()




2025年8月29日金曜日

日本文化の自画像をめぐる三冊の本と3人の先人達 

 ―もう一度窓を開けよう、広い大気を流れこませよう、英雄達の息吹を吸おうではないか(ロマンロラン、ベートーベンの生涯より)

1.はじめに

世界が曲がり角に来ている。戦後80年、日本の文化に多大な影響を与えて来た米国は、トランプ政権誕生にみるように大きな政治分裂と文化の亀裂の中でもがき、80年前人類の理想を掲げて人類初の人工衛星を打ち上げた社会主義国ソ連邦は35年前に崩壊し、その後再生したかに見えたプーチンのロシア帝国は、泥沼のウクライナ戦争で、もがいている。

気候変動対策と人権を掲げる個人主義をとキリスト教を基盤とするリベラルなEUは、移民問題とエネルギー危機の中で、その理想を頓挫させ、戦後一貫して追求してきた欧州統合の理想も危機に瀕している。さらにソ連邦崩壊後、市場経済社会主義を掲げて急成長してきた大国中国は、資本主義と社会主義の根本的矛盾を解決出来ぬまま巨大な不動産バブルに直面し、一党独裁の共産党政権は崩壊の危機に直面している。

日本の敗戦後目覚めたインドや東南アジアやアフリカ諸国は、急速な経済成長を遂げたが、中露や米国等先進国の混乱を前に不透明な未来に困惑している。豊富な石油資源で経済成長を遂げて来た中東もポスト石油の未来が描けないまま、部族対立や宗教対立も植民地主義の後遺症に苦しんでいる。西欧の植民地主義で、伝統社会を完全に破壊された中南米は、まだそのアイデンティティを確立できず、政治対立と経済成長の壁を前にもがいている。

世界が目指すべき方向を見失っている現在、日本はもう一度自らの立ち位置を明確にし、借り物の思想や理想ではなく自らの思想と理想に基づいて未来を展望すべき時期に来ていると云える。

しかし、この時代状況は、それ程深刻なものであろうか、日本が世界史の中に登場してきた明治維新直後の世界は、もっと過酷な時代ではなかったのか。そして、あの時代に大きな志と理想を持って生きぬいた知の巨人とも云える国際的視野を持つ先人達もいたのである。

大学時代の師、坂田昌一教授は亡くなる3年前、我々の卒業アルバムに言葉を送ってくれたが、それが冒頭に記したロマンロランの言葉であった。その言葉に導かれて、明治維新後の時代に日本の文化と自画像を初めて世界に告知した英雄達を思い起こしたい。

2.日本の自画像を世界に告知した三人の先人とその生きた時代

その三人とは、岡倉天心(18631913)、鈴木大拙(18701966)、新渡戸稲造(18621933)で、三者の共通点は、共に明治維新前後に生まれ、日本が初めて世界史に登場し始めた近代日本の黎明期に日本独自の精神文化と思想を英文の著作で世界に紹介したことである。以下では、まず三人が生きた時代背景を考えるため明治維新以降の概略歴史を確認し、最近手にした三人の代表作とその概要、背景を紹介することにする。

3.明治維新以降の日本の概略歴史年表

1868(明治元年)

1894年~1895年 日清戦争

1904年~1905年 日露戦争1

1910年 日韓併合

1912年 明治天皇崩御、大正元年

1914年~1918年 第一次世界大戦

1920年 国際連盟 ヴェルサイユ条約の発効

1926年 大正天皇崩御、昭和元年

1931年~1932年 龍条湖事件と満州事変と満州国の建国

1937年 盧溝橋事件と日中戦争、日独伊三国防共協定

1941年 日ソ中立条約、真珠湾攻撃、太平洋戦争

1945年 広島、長崎原爆投下、ソ連戦線、終戦、国際連盟解散、国際連合設立

1951年 サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約

1956年 日ソ共同宣言

1989年 昭和天皇崩御、平成元年

2019年 平成天皇退位、令和元年

 4.岡倉天心と「日本の覚醒」

その表紙の美しさとタイトルを見て、迷うことなく古書展で購入したのが、次の本であった。 日本の覚醒(THE  AWAKENING OF JAPAN):岡倉天心:夏野広訳:講談社学術文 庫:株式会社講談社:2014910日第1刷発行

4.1岡倉天心

岡倉 天心は、文久21226日〈1863214日〉は、福井の越前藩士(藩主は松平春嶽)で藩命により貿易商をしていた父岡倉勘右衛門の子供として横浜に生まれた。武家の出であったので漢学を治めるとともに、女流画家奥原晴湖に南画の手ほどきも受けている。場所柄幼児から英語を学んで、自由に話せた上に異国の商人達の卑劣、醜悪さも見て育ったため、欧米人=文明人と云う幻想を一早く脱していた。

明治13年、東京大学を第1期生として卒業した天心は、文部省に入省し、学事視察や古社寺の調査を行う。明治18年に図画取調掛が設置されると、委員として美術学校創立の準備に携わり、明治19年から20年には、美術取調委員として浜尾新やフェノロサとともに欧米各国の美術事情を視察した。明治22年、帝国博物館が開設されると理事および美術部長の任に就き、美術雑誌『国華』を創刊し、明治23年、東京美術学校長となりました。この間、東洋美術の伝統に西洋画の写実性を取り入れた新しい日本絵画の創造を推進して、明治17年にフェノロサらと鑑画会を組織し、明治24年、日本青年絵画協会を発足させ、会頭となります。また、明治29年には古社寺保存会の委員に任命され、古社寺保存法の制定に努めた。

天心は、9歳の時母を亡くし、父は、その後、後妻をもらうが、そのこともあり、家族環境は複雑であった。このためか、16歳のとき、岡倉家に出入りしていた大岡越前の守忠相の末裔でもある13歳の基子と結婚する。武家の誇り高き基子は、気が強く、妊娠中天心が2か月かかって書きあげた国家論の論文を痴話喧嘩で燃やしてしまったので、天心は、やむを得ず短期間で「美術論」を書き上げ提出したが、国家論に比べると拙劣であったと云う(父岡倉天心:岡倉一雄より)

(明治21年)、明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一は岡倉のパトロンであったが渡米中の九鬼の代わりに、体調を崩した波津子の面倒を岡倉が引き受けたことから、その妊娠中の妻・波津子と恋に落ちる。波津子は隆一と別居し、のち離縁する。岡倉天心は、詩情溢れる魅力的男であったせいか晩年インドの女流詩人ブリヤンダバ・デーヴィー・バネルジー夫人との交流等もあり、これについては、小説家大原文枝の作品「ベンガルの憂愁」に詳しくかかれている。
 明治31年、天心を中傷する怪文書が配布され、いわゆる東京美術学校騒動が起こる。天心は、東京美術学校長の職を退き、橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山らと日本美術院を創設して、近代日本美術の指導者としての新たな活動を展開した。明治34年から35年にかけてはインドを歴遊し、明治37年にはボストン美術館のエキスパートとなり ( 明治43年、中国日本部長に就任しました ) 、同館コレクションの調査、整理、蒐集を行うため、日本とアメリカを行き来する。大正24月、病気のためボストン美術館に休職願いを提出して帰国したが、病状が悪化して92日、新潟県の赤倉山荘で逝去する。岡倉天心は、東洋美術の理想を軸に、美術行政家、美術教育者、美術指導者として、すぐれた国際感覚で近代日本美術の基礎を構築した。

特に1890年(明治23年)から3年間、東京美術学校でおこなった講義「日本美術史」は、叙述の嚆矢(初の日本人自らの通史での美術史)とされる

4.2英文での主な著作

天心が英文での著作をしたのは、東京美術学校校長の職を辞して、インドを歴訪した

明治34(1901)から35(1902)頃のことで、次の4冊がある。

『東洋の理想』『The Ideals of the East-with special reference to the art of Japan 1903 ジョン・マレー書店(ロンドン)

『日本の目覚め』The Awakening of Japan 1904 センチュリー会社(ニューヨーク)及びジョン・マレー社(ロンドン)

『茶の本』The Book of Tea 1906 フォックス・ダフィールド社(ニューヨーク)

対訳本は、講談社インターナショナルと、「対訳ニッポン双書 茶の本」IBCパブリッシングほか。

『東洋の目覚め』The Awakening of the East 1902年稿  当時未公開

この内、東洋の理想と茶の本は、既に入手済みであった。そして、今回入手したのが、この内の「日本の目覚め(覚醒)であった。

4.3『日本の目覚め(覚醒)』の内容と構成


1.      アジアの夜

2.     

3.      仏教と儒教

4.      内からの声

5.      白禍

6.      幕閣と大奥

7.      過度期

8.      復古と維新

9.      再生

10.  日本と平和

解説 色川大吉

英文本文

なを、解説を執筆した色川氏によると翻訳者の夏野宏は、ペンネームで本名帯金豊、静岡出身、東大文学部卒の一年後輩の翻訳家で、結核のため奥さん共々若くして亡くなったとのことである。

4.4評価と感想

「日本の覚醒」が書かれた1904年、天心は、門下の横山大観、菱田春草等をつれてアメリカに向かうがその28日日露戦争が始まっている。そして欧米では、大国ロシアを相手に優勢に戦う日本への警戒感から「黄禍論」が生まれる。「日本の覚醒」はそうした情況の中で書かれた。「日本の覚醒」には大国ロシアと戦わざるを得なくなった小国日本の立場と文化を世界に分からせようとする意図がある。この本は10章からなっている。2章から9章までは、古代から明治までの思潮史、政治史などを文明史的に捉えたものであり、1章のアジアの夜は、世界史の中にアジアを位置づけそのアジアの中の日本の特異性を捉えようとしている。彼は全力を挙げて「新生日本」を西洋に世界に分からせようとしていた。その詩情溢れる情熱に当時の彼の息遣いを感じざるを得ない。人間、岡倉天心の奥は深い。天心を取り上げた作家や詩人も多いが、その基礎となるのが、4.3でしめした本だが、その人となりを知るにはその子岡倉和夫が書いた「父岡倉天心:岡倉一雄:岩波現代文庫:岩波書店:2013918日第1刷発行」、女性関係については。大原文枝の「ベンガルの憂愁―岡倉天心とインド女流詩人:ウェッジ文庫:株式会社ウェッジ:20081224日第1刷発行」が詳しい。

5.鈴木大拙と「禅堂生活」

 禅を初めてまもなく鈴木大拙の名前を知ったし、彼の著作「日本的霊性の誕生」を読んで日本の仏教思想が鎌倉・室町時代に土着性を獲得したとの主張にひどく感心した記憶があった。その鈴木大拙が禅堂生活と云うタイトルで本を書いている。これは是非一読の価値があると思った購入したが、なかなか落ち着いた時間が取れず、放置していたのがこの本である。

 「禅堂生活:鈴木大拙:横川顕正訳:岩波文庫:岩波書店:2016517日第1刷発行」

5.1鈴木大拙(wikipedia猪谷 聡の鈴木大拙:ZENを世界に広めた仏教哲学者他による)

鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki Daisetz Teitaro Suzuki〉、18701111日〈明治31018日〉 - 1966年〈昭和41年〉712日)は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。

名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。

川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。6歳の時金沢市本多小学校に入学するが、この年父良準逝去11歳で石川県専門学校中学科に入学後、18歳で同校の後身第四高等中学校(現・金沢大学)に進学するも生活困窮で退学し、英語教師をしていた。1890年、20歳の時、母増も逝去21歳の翌年、再び学問と参禅を志して東京に出た。東京専門学校(現・早稲田大学)を経て(中退)、東京帝国大学選科に学び(中退) 在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒のベアトリス・レイン(Beatrice Lane)と出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドのチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。1894年、24歳の時、見性(悟り)、釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。

1897年(明治30年)、27歳のときに釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラス(1852-1919)が編集長を務め、その義父、エドワード・C・ヘゲラーが経営する出版社オープン・コート社で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。

 1909年(明治42年)、39歳の時に帰国し、円覚寺の正伝庵に住み、学習院に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に柳宗悦や松方三郎等がいる。1911年(明治44年)41歳のときに米国人の仏教学者ベアトリスと結婚。1921年(大正10年)51歳のときに大谷大学教授に就任して、京都に転居した。同年、同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』(astern Buddhist )を創刊した。 193969歳のとき、妻のベアトリス・レイン死去]

晩年は鎌倉に在住、北鎌倉の東慶寺住職井上禅定と共に、1946年(昭和21年)に自ら創設した「松ヶ岡文庫」(東慶寺に隣接)で研究生活を行った。 1948年(昭和23年)1222日、昭和天皇に思想問題に関する進講を行う。1949年(昭和24年)には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、中華民国の胡適と禅研究法に関して討論を行う。同年に日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。1952年(昭和27年)82歳から1957年(昭和32年)87歳まで、コロンビア大学に客員教授として滞在し、仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。秘書として晩年の大拙を支えた日系2世の岡村美穂子(ブルックリン植物園の日本庭園担当者・岡村方雄の娘)も同大の聴講生だった。

1957年(昭和32年)には『ヴォーグ』『タイム』『ニューヨーカー』で大拙が紹介され、禅ブームとなった。ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などでも講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングらが主催したスイスでの「エラノス会議」に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボルグなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。ハイデッガーとも個人的に交流があった。1959年(昭和34年)に至るまで欧米各国の大学で、仏教思想や日本文化についても講義を行った。

 1960年(昭和35年)90歳のときに大谷大学を退任し名誉教授となる。90代に入っても研究生活を続けた。

 1966年(昭和41年)712日、例年のように避暑も兼ねて軽井沢に3ヶ月程度の執筆に出かけようとしていた大拙は、自宅で激しい腹痛を訴え嘔吐を繰り返し、痛みに叫びながら救急車で運ばれた。同日未明、絞扼性イレウス(腸閉塞)のため東京築地の聖路加病院で死去、没年95。最期の言葉は、秘書の岡村美穂子が「Would you like something Sensei ?」と言ったのに対し、「No nothing. Thank you.」であったという

5.2.主な英文著作他

  • 禅の論文集(Essays in Zen Buddhismシリーズ:第一輯(1933年)、第二輯(1933年)、第三輯(1934年)がある。これらは禅の思想や実践について深く掘り下げている。
  • 禅仏教入門(An Introduction to Zen Buddhis:禅仏教の基本的な概念や歴史を簡潔に解説した入門書。
  • 禅堂生活:昭和9(1934)(The Training of the Zen Buddhist Monk ):禅修行の実践的方法を著述した本
  • 禅と日本文化:昭和13(1938,)Zen Buddhism and Its Influence on Japanese Culture):鈴木大拙が英文で著し、後に日本語にも翻訳された代表作です。日本の文化や芸術における禅の役割を論じています。
  • 華厳の研究(Studies in the Huayan Sutra):華厳経(Avatamsaka Sutra)の研究書。
  • 日本的霊性:昭和19(1944)Spiritual Personality of Japan:1944年に刊行された本書も英文で執筆され、日本人の霊性や精神性について考察してい.る。

5.3.手元の書籍

私の手元には、上記「禅堂生活」と「日本的霊性」の他次の書籍があった

・禅(鈴木大拙:工藤澄子訳:ちくま文庫:(株)筑摩書房:1989年第11993年第5)

 ・東洋的な見方(鈴木大拙:上田閑照編:岩波文庫1997年第1:1999年第7)

 ・一禅者の思索(鈴木大拙:講談社学術文庫:(株)講談社:1987年第1:1994年第11)

・スエデンボルグ(鈴木大拙:講談社文芸文庫:(株)講談社:2016107日第1)

・天界と地獄(スエデンボルグ:鈴木大拙訳: 講談社文芸文庫:(株)講談社:2016810日第1)

 

5.4.禅堂生活の概要(目次)

 

第二版に序す



  緒言

1章 入衆

2章 没我

3章 作務
4章 陰徳
5章 祈願と報謝

6章 参禅弁道

挿絵目次(44)

付録(十仏名、施粥偈、粥畢偈、施斎偈、生飯偈、五観、三匙偈、折水偈、食畢偈)、亀鏡、日用規則、延寿堂規定、常住規則、日過寮規則、僧堂の鳴物

禅語解説
小篇

僧堂教育論―禅僧の友人に与う
鹿山庵居
洪川禅師のことども
楞伽窟老大師の一年忌に当りて

釈宗演師を語る

解説 横田南嶺

解題 小川 隆

 

5.5.評価と感想

思想界における鈴木大拙の最大の功績は、無意識の世界の哲学を現代に知らしめた点ではなかろうか。西洋は、神学とアリストテレスの哲学が支配する長い中世とルネッサンスを経験した近代においても、無意識の世界を悪魔的な領域として無視し続けてきた。西洋世界が無意識の世界を理性的に認めるのは、ジークムント・フロイト1856 - 1939年)の精神分析学を認めるようになった1900年代になってからであり、それまで西欧の思想界は、フランス革命以後主流となった意識が支配する合理的思想が支配しており、無意識の世界は、それへの反動としてロマン主義や スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家スウェデンボルグ(1688 - 1772年)等の神秘主義達の手に委ねられてきた。これ等のそれまで無視されてきた思想は、フランスを中心とするシュールリアリズム運動やダダイズム運動として20世紀初頭に表面化してくるが、それらが思想運動として形を見せるのがブラヴァツキー夫人ことヘレナ・P・ブラヴァツキーやヘンリー・スティール・オルコットが創設した神智学協会Theosophical Society1875年創設)運動やその流れから生まれるオーストリアの思想家ルドルトシュタイナー(1961~1925年)の1902年に生まれる人智学協会(The Anthroposophical Society)運動である一方東洋の仏教思想の一流である禅は、鎌倉・室町時代に日本に定着するが、不立文字を掲げる禅は、言語による説明を避けてきたため、その世界が理論として一般に知られることはなく、少数の体験者の言説で語られるのが、一般的であった。その思想を哲学としてまとめたのが西田哲学である。しかし西田哲学は、死地赴く若き学徒達の精神的な支えともなったため、戦後は、反動的な観念論思想として左翼から批判され柳田謙十郎のように唯物論に転向する哲学者も現れた。そんな中で、鈴木大拙は、一貫して禅の思想を世界に向けて発信し続けた。

 彼の強みは、禅を頭で理解しただけでなく、鎌倉円覚寺で実際に禅の修行をし、見性体験(悟り)をした点にある。さらに10年以上に亘る海外生活は、彼に自らの禅体験思想を世界の中で位置づけ整理する機会を与えた点にあると思われる。彼の関心が。スエデンボルグから神智協会、さらには、ハイディガーやユングに至る西欧思想の全体にまで及んでいることには、驚かざるを得ない。「禅堂生活」はこうした鈴木大拙の思想の根幹となった禅の修行の全貌を一冊にまとめたもので、禅を実践的に理解する上での必読の書であると感じた。

6.新渡戸稲造と「武士道」

真田広之が主演のハリウッド映画「SHOGUN 将軍」が世界的に話題になる中で、日本の武士道が、世界的に注目されている。そんな時、古書展で見つけたので迷うことなく購入したのが次の二冊である。

現代語で読む最高の名著 武士道:新渡戸稲造:奈良本辰也訳:三笠書房:1989年第11992年第10)

武士道; 新渡戸稲造;矢内原忠雄訳:岩波文庫:岩波書店:1938年第1刷、1974年第15刷、1995年第53刷発行

6.1新渡戸 稲造

1862年(文久2年)、新渡戸稲造は盛岡藩(現在の岩手県盛岡市)藩士の三男として誕生。この頃の日本は幕末の動乱期で、新渡戸稲造は、盛岡の伝統的な風土のなかで武士として育つ。

1868年(明治元年)、明治時代の幕開けとともに武士の時代は終了。それまで新渡戸稲造は、武士であることに誇りを持つよう教えられてきたが、そうした教育面にも変化が起こる。

新渡戸稲造が5歳のときに父が急死。以後、女手ひとつで子供達を育てた母は、新渡戸稲造に読み書きの他、初歩の英語を習わせた。

して9歳になると、東京に住む叔父から新渡戸稲造を養子に迎え、新しい時代にふさわしい教育を受けさせたいという申し出があり、1871年(明治4年)に新渡戸稲造は故郷・盛岡を離れ、東京で外国人教師から英語、西洋学問を学ぶことになる。

1875年(明治8年)に「東京英語学校」(現在の東京大学教養学部の前身)に入学し、語学力に磨きをかけるさらに農学を学ぶため、15歳で「札幌農学校」(現在の北海道大学の前身)へ進学。ちなみに東京英語学校・札幌農学校での授業は、すべて外国人教師によって英語で行われた。この時期における学習が、やがて広い分野で活かされることとなる。「札幌の農学校」では、教授クラークが、倫理の授業で「聖書」を取り上げた関係で、一期生は、ことごとくキリスト教徒になったと云われている。新渡戸稲造は、2期生であり、この時クラークは、学校を去っていたが、この雰囲気の中、キリスト教徒になっていた。

日本と世界の架け橋に

札幌農学校を卒業した新渡戸稲造は、英文学・経済学を学ぶため「東京帝国大学」(現在の東京大学の前身)へ進学。入学時の面接で「日本と外国の文化を仲立ちする、太平洋の架け橋になりたい」と、自らの将来を予見するような言葉を述べている。

しかし新渡戸稲造は、国際人としての第一歩を踏み出すため、早く広い世界に出たいと考え、せっかく入学した東京帝国大学をわずか1年で退学。1884年(明治17年)に、私費でアメリカの「ジョンズ・ホプキンス大学」へ留学。ジョンズ・ホプキンス大学では経済学・農政学を学ぶかたわら、キリスト教に帰依。

またこの頃、生涯の伴侶となる「メアリー・エルキントン」と出会う。その後の3年間、明治政府派遣留学生として、ドイツの「ハレ大学」(現在のマルティン・ルター大学)で農業経済学・統計学を修得。成果を論文「日本土地制度論」として発表し、日本初の農学博士号をハレ大学より贈られた。

帰国後は、札幌農学校、東京帝国大学、「京都帝国大学」(現在の京都大学の前身)などの教授を経て、「東京女子大学」(東京都杉並区)の初代学長に就任。

さらに、日本の女子教育の先駆者と言われた「津田梅子」(つだうめこ)に協力して、「女子英学塾」(現在の津田塾大学の前身)の創立にも貢献。日本の教育界をリードする多くの人材を育成した。

志半ばの客死

1920年(大正9年)に世界初の国際平和機構である国際連盟が設立されると、著作「武士道」によって世界的にも教育者として知られていた新渡戸稲造は、事務次長に選任。スイス・ジュネーブに7年間滞在する。

この間に、日本への理解を深めてもらうため、新渡戸稲造はヨーロッパ各地で講演を行うなど、国際親善に努めた。しかし、1924年(大正13年)、新渡戸稲造にとって第2の故郷とも言えるアメリカで「排日移民法」(日本人・日本製品を排斥することを定めた法律)が成立。日本が「第1次世界大戦後」の混乱にまぎれ、清(1720世紀初頭の中国王朝)に対し、日本の利権を認めさせる「二十一ヵ条の要求」を突き付けたことへのアメリカ側からの報復措置だった。

新渡戸稲造は、1926年(大正15年)に事務総長を退任し、翌1927年(昭和2年)に帰国。日本と諸外国との関係は次第に悪化し、1933年(昭和8年)、ついに日本は国際連盟か脱退する。

それでも新渡戸稲造は国際社会との関係改善のため尽力し、カナダで行われた「太平洋議」にも出席。しかしカナダで体調を崩し、71歳で客死した。その後、孤立した日本は「太平洋戦争」への道を突き進むこととなる。

6.2新渡戸稲造の著作と功績

英文著作と「武士道」

著作「武士道」は、1900年(明治33年)に英文で出版された。新渡戸稲造は日本人の根底にあるのは武士道だと考え、不正・卑劣な行動を嫌い、人として正しく美しく生きるのが日本人であると主張。

当時の欧米先進国からすれば、極東の島国である日本は発展途上の野蛮で戦争好きの国と考えられていた。新渡戸稲造は、そんな先入観を覆したかった。武士道は30ヵ国語以上に翻訳され、世界的ベストセラーになった。その他の著作として次のようなものがある。

·                  修養:日本人の生き方や精神性を説いた作品。

·                  東西相触れて:国際連盟事務次長時代の西洋見聞録。

·                  読書と人生:人生の意義や読書の重要性を説いた作品。

 国際連盟での功績

国際連盟の事務次長という重要な仕事を行うには、「語学が堪能で見識を備え、人格も素晴らしく欧米人と対等に仕事ができる」ことが条件。日本人として新渡戸稲造以上の適任者はいなかった。

国際連盟で新渡戸稲造が成し遂げた功績のひとつが、北欧のバルト海に浮かぶオーランド諸島の領土問題を平和的に解決したこと。オーランド諸島は、永くフィンランドとスウェーデンが領土権を争っていた。新渡戸稲造は「オーランド諸島の領土はフィンランドのもの、公用語はスウェーデン語とし、非武装・中立地帯としてオーランド諸島に自治権を与える」と裁定。オーランド諸島に平和な日々が訪れ、「新渡戸裁定」(にとべさいてい)は国際紛争解決の成功例として今も語り継がれている。

新渡戸稲造は日本で「軍国主義」(外交手段として戦争を重視し、あらゆる政治経済・文化活動は軍事力強化のために行わなければならないとする国家体制)が台頭する中においても、亡くなるまで日本と諸外国との関係修復に奔走した。その生き方こそ、まさに武士道そのものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

6.3武士道(Bushido: The Soul of Japan)の構成(目次:岩波文庫のもの)

  日本の魂―日本思想の解明―


訳者序

第一版序

増訂第10版序

緒言(グリッフィス)

1章 道徳体系としての武士道

2章 武士道の淵源

3章 義

4章 勇・敢為堅忍の精神

5章 仁・測隠の心

6章 礼

7章 誠

8章 名誉

9章 忠義

10章 武士の教育・訓練

11章 克己

12章 自殺及び復仇の制度

13章 刀・武士の魂

14章 夫人の教育および地位

15章 武士道の感化

16章 武士道はなお生きるか

17章 武士道の未来

 註および人名索引

 

6.4評価と感想 

 キリスト教徒であった新渡戸稲造が、何故「武士道」を書くことになったのか?この経緯と動機については、第1版の序に書かれている少し長いが引用することにする。

「約10年前(1889年頃)、私はベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏の歓待を受け、その許で数日を過ごしたが、ある日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。「あなたのお国の学校には、宗教教育はない、とおっしゃるのですか」とこの尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼はうち驚いて突然歩を停め。「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れうない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹き込んだものは、武士道であることをようやく見出したのである。この小著の直接の端緒は、私の妻が、かくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行われているのはいかなる理由であるかと、しばしば質問したことよるのである。私はド・ラヴレー氏並びに私の妻に満足なる答えを与えようと試みた。・・・・」

 新渡戸稲造は、自分の倫理規範を形成したものの正体を幼い頃自然に教えられて来た「武士道」にあると気づき、その「武士道」がなんであるかを西欧人にも分かるように書き表そうとする。彼によれば「武士道」とは、「成文法ではない、武士が守るべきものとして要求され、あるいは教えられる道徳的原理の掟、又は道徳的徳目の作法である」と捉えられ、聖書に代表される明文された立法ではなく、武士の世界を中心に歴史的に形成された目に見えぬ精神のあり方である。この本は、この「武士道」の1.起源と源泉、2.その特徴と教義、3.その大衆に及ぼした影響、そして4.その影響・感化の持続性と永遠性についての考えを初めて哲学的・思想的観点から体系的にまとめたものである。第1章の道徳体系としての「武士道」についての総論であり、第2章がその起源と源泉についての考察、そして、第3章から第13章までがその特徴と教義についての考察であり、第14章、第15章がその大衆に及ぼした影響、第16章、第17章がその永続性と永遠性についての考察である。「武士道」の源泉は、仏教とりわけ禅仏教と神道、儒教とりわき孔子の教えをベースにしており、禅宗が不立文字を掲げ言語表現を最小限にしてきたし、神道も儀式や形の中にその教義を体現してきた関係で、「武士道」の世界が言葉で体系的に語られることは無かった。

「武士道」についての書物には、「武士道とは死ぬこととみつけたり」の言葉が記されていることで有名な「葉隠」があるが、この本は全ての武士の武士道に対するものではなく、備前の国、鍋島家に仕える武士のためのもので、佐賀藩の歴史や慣例などを纏めたものである。新渡戸稲造の書物と全くことなる書物と云える。

 今回、古書展で最初に手に取ったのは、奈良本辰也訳の現代語で読む「武士道」であったが、たまたま近くに矢内原忠雄訳の文庫本も次いでに購入した。訳本としては、矢内原忠雄のものが古く、奈良本辰也の訳は、当然矢内原訳を参考としている。矢内原忠雄(1893 - 1961)は、戦前日本の中国侵略を暗に批判する論文「国家の理想」を発表し。いわゆる矢内原事件で、東大経済学部教授の職を失い、戦後東大総長になった人物で、奈良本辰也(1913 - 2001)は立命館大学教授をつとめた歴史学者である。

おわりに

世界史の中で、日本文化とは、どのような立ち位置と特徴を持ったものであろうか、我々は、あまり日常生活の中で、この問題を深く考えることは無かった。しかし、昨今の訪日外国人の増加により、外国人による日本の印象情報の増大や在住外国人や訪問外国人との文化トラブル事件の増大などにより、我々日本人の常識と外国人の常識のギャップを感ずることが多くなり、あらためて、世界の中での日本文化の特殊性を意識せざるを得なくなった。しかしこうした問題意識を100年近く前に持ち、そのことを世界に向けて発信したのが。この三人の先人達であった。彼等の視点には、もう古くなったものもあるかも知れないが、その思想の中核は、依然として今の日本人にとって重要な指針を与え続けているように思う。三人の経歴も境遇は異なっているが。共通しているのは、日本文化の持つ言語以前の領域に根ずく深い精神性であり、国土草木悉界成仏の自然との調和と人の秩序ある社会への愛着である。この根本思想こそ21世紀の世界に必要なものではなかろうか。

明治維新前後に生まれ、世界に日本文化の自画像を発信した三人の先人達に共通なのは、幼くして母又は父を亡くして、早くから精神の自立を余儀なくされたことである。特に鈴木大拙と新渡戸稲造の二人は、幼くして父親をなくしたため、経済的苦境の中で青春を送らざるを得なかった。この二人は、偶然、共に、外国女性と結婚しているが、このことは、幼くして父を亡くしたことにどこか関係しているのかも知れない、

また、岡倉天心は、父は健全であったが幼くして実の母親を亡くしており、これが、彼の中の女性に対する特別な思いを抱かせたのかも知れない。

この文書を書き上げたのは、たまたま、尊敬していた人生の先輩K89歳で亡くなられ、お宅を訪問して死因を尋ねたところ腸閉塞と云われ、思わず鈴木大拙と同じですねと叫んでしまった。鈴木大拙は、享年95歳、新渡戸稲造は、享年72歳、岡倉天心は、享年50歳。(了)