1. はじめに
澁澤龍彦について語ることは、おそらく僕にとって最後の秘密を晒す出来事となるかも知れない。それは、自分にとっての「仮面の告白」にもなりかねない話であるからだ。そして、こんな僕の考えを理解してくれる友人達は、多分もういないのかも知れない。それを承知の上でこの文章を書いてみることにする。そしてこの文章を読み終えたとき、サブタイトルの意味が分かったとするならば、それは僕の密やかな内面世界の一部を垣間見たと云えるかも知れない。
2僕の片思いと一冊の本
澁澤龍彦は、この十数年間僕の片思いの作家であった。この片思いの感情は、異性に対するものと同様はっきりした理由がなく、性の衝動にも似た根源的な欲求であった。この根源的な欲求に導かれて、気がつけば、この10数年間に古書展で彼の名前の付いた文庫本をかたっぱしから購入していて、気が付けばそれが20冊近くにまで登っていた。しかも奇妙なことに僕が実際に目を通したのは、その内の数冊に過ぎない。それにも拘わらず、彼の本を集め続ける漠たる理由は、その一冊、一冊が人間と云う奇妙な生き物の小宇宙の一部とその広がりを感じさせてくれそうな気がしているからである。その最初のものを形にしたのが2020年に書いた「フランスロマン主義とシュールリアリズム」と云う私的論考であった。これは、渋澤龍彦の生前最後のエッセイ集「都心の病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」と「悪魔のいる文学史」と日夏耿之介の「サバト恠異帳」を手かかかりに、フランス文学の象徴主義(サンボリズム)や超現実主義(シュールリウリズム)等の芸術運動の意義を明らかにしたものであった。それから6年たった今、また再び、澁澤龍彦の一冊の本が、私に語りかけて来た。それが「三島由紀夫おぼえがき;澁澤龍彦:中公文庫:1986年11月10日初版;2004年10月20日14刷発行」であった、澁澤龍彦は。1987年8月5日に亡くなっているので、この本は、彼の生存中に発行された最後の本かも知れない。この本が古書展で僕の前に現れたのにはね何か宿命的な理由があるように感じ、とにかく読み進めることにした。
3.本書の背景
三島由紀夫は、川端康成に見いだされ、澁澤龍彦は、三島由紀夫に見いだされ、泉鏡花賞を受賞している。私自身は、三島由紀夫にはあまり縁がなく、泉鏡花に魅かれ、澁澤龍彦に魅かれて今日に至っている。その私の前に、現れた「三島由紀夫おぼえがき」の内容は、あとから紹介するとして、彼と三島由紀夫の出逢いと関係の概要がこの本のあとがきに書かれていた。それによれば、「彰考書院版「サド選集」に序文をもらうために、私が三島由紀夫に初めて手紙を出したのは、昭和31年5月ことだったから昭和45年11月に三島さんが亡くなるまで14年6カ月間に及ぶ付き合いだったと云うことになる」
昭和31年は、1956年、第二次中東戦争が勃発した年であり、この時大正14年(1925,年)生まれの三島由紀夫は、31歳。昭和3年(1928年)生まれの澁澤龍彦は、28歳ということになる(僕は12歳だった)。そして三島由紀夫が亡くなるのは、昭和45年(1970年)45歳のときで、この時澁澤龍彦は、42歳である(僕は26歳)。澁澤龍彦が泉鏡花賞を受賞したのは昭和56年(1981年)53歳のときであるので、彼が作家として広く認められるのは、三島の死後ということになる。昭和3年生まれの澁澤は、終戦当時17歳であり、亡くなったのは昭和62年(1987年)59歳のときである、澁澤が三島の死を終戦に次ぐ彼の人生のエボットメイキングと位置付けている理由も分かるような気がする。その彼が自分の死の一年前に出したのがこの本であった。しかもこの本は、2004年で14刷を数えていることは、それ程多くの人に読まれているということである。
4.本書の内容
この本の内容は、渋澤龍彦が三島由紀夫に関連して発表してきた長短さまざまな文章と対談の記録23篇から構成されており、最も古いものは、昭和36年11月20日の読書新聞掲載の「美の襲撃」の書評で、最も新しいものは、昭和61年5月のユリイカに掲載された山口祐弘との対談「三島由紀夫―世紀末デガダンス」で、この最後の対談記録文は、昭和58年立風書房刊行本に文庫本化の時に付け加えられ。つまり最初の文は、澁澤33歳のとき、最後の対談は、澁澤の死の1年前58歳のときのもので、この本はこの間の25年間に亘って三島について書いたことの集大成と云うことになる。しかもこの間の16年は、三島の死後に属していて、これは、澁澤が実際に三島と交流していた14年間より長いのである。
冒頭の「三島由紀夫をめぐる断層「すばる:昭和58年7月」と次に続く「三島由紀夫覚書「海:昭和51年11月」は、三島の死後6年以上経ってから書かれたもので、澁澤の三島由紀夫論といってもよい。そして最後の山口祐弘との対談「三島由紀夫―世紀末デガダンス」が、それを全体的に補足する内容になっている。三島の死の直後に書かれた「三島由紀夫を悼む「ユリイカ:昭和46年1月」は、三島の死のトー直後に書かれたもので、胸を打つ、真の理解者を無くした時の悲しみは、僕にも経験がある。それは僕の58歳のとき、最愛の友であったS君と僕のもっとも良き理解者であった姉を2か月あまりの間に亡くした時の体験であった。この時の胸に空洞が出来たような沈痛な思いは、それまでの人生で初めて味わった感覚であったが、これは、その時の痛みを彷彿として思い出させる一文であった。
澁澤は、三島が亡くなる3か月半ばかり前の時期に初めて夫婦で欧州旅行に出かけているが、その時三島はわざわざ羽田まで見送りに行っており、澁澤は、この時が三島をみた最後であったと語っている。外国旅行に行くのに見送りかと思われるが、当時は1ドル360円もの時代であり、外国へ行くことは、極めて特別な行動であった。私自身も昭和53年(1978年)政府の使節団の一員として米国に3週間ばかり旅したことがあったが、その時でさえ外国へ行く事は、特別にことであり、兄と姉がわざわざ走行会を開いてくれたし、妻は、幼い子供をつれてバスの出る東京駅まできて見送ってくれた。円相場は1971年までは、日本は、1ドル=360円の固定相場制を採用しており、それが変動相場制に移るのは1974年以降のことで、変動相場制に移っても1978年当時は、1ドル=280円程度であった。
では、澁澤にとって三島は、どのような存在であったのであろうか、「三島由紀夫氏を悼む」の中に次のような一文があった。「その作品を処女作から絶筆にいたるまで、すべて発表の時点で。読んでいるという作家は、私にとって、三島氏を措いて他にない、こういうことは、たまたま世代を同じくしなければありえないことである。私のさささかな魂の発展は、氏のそれと完全にパラレルであったといえる。」では、三島にとって澁澤とはなんであったのだろうか、「三島由紀夫をめぐる断層」の中に次の一文があった「かつての私にとって三島がかけがえのない先達であったことは、申すまでもなく、それでは、三島にとって私は、なんであっただろうかと考えないわけにはゆかない。目のきいたフランス文学者、練達の翻訳者、思想や気質において自分と一脈通ずるものを持っている友人、おそらく三島はそんなふうに私を見ていたんだろうと思うが、表現者として一流だとは必ずしも思っていなかっただろう。私は、三島が生きているあいだ、私はろくな仕事をしていなかったし、曲がりなりにも自分の意にかなう仕事が出来るようになったのは、もっぱら三島の死後だからである。」
こうした関係の澁澤が、わざわざ「三島由紀夫おぼえがき」の中で扱っている話題は、三島の最後の作品「豊饒の海」4部作をめぐる、三島のデガダンス思想や死生観と死をめぐる議論、澁澤の「「サド侯爵の生涯」に影響を受けて三島が書いた戯曲「サド侯爵夫人」をめぐる5編のエッセイ、ベルギー生まれのフランスの女性小説家で、西洋の歴史や古典に深い造詣を持ち、1981年には女性初のアカデミー・フランセーズ(フランス学士院)正会員に選出されたマルグリット・ユルスナール(1903–1987)、彼女が初めて三島由紀夫を取り上げた「三島あるいは空虚ヴィジョン」についての感想。
三島と澁澤の直接の対話として、泉鏡花の魅力について語りあった対談記録「鏡花の魅力:「日本の文学」:昭和44年1月」、作家稲垣足穂についての対談記録「タルホの世界「日本の文学」:昭和45年6月」、日夏耿之介について触れた「サロメの時代:公演パンフレット:d」昭和46年2月」。「セバスティアン・コンプレックスと三島由紀夫戯曲の根底にあるもの:「鹿鳴館」公園パンフレット:昭和42年6月」、出口との対談で、三島文学の根底は、デカダンス文学だったといい。「三島由紀夫とデカダンス」:「解釈と観賞:昭和51年2月」の中で「三島がデカダンスに関する文学的素養を深めるのに及ばずながらお手伝いさせてもらった。」と語っている。ちなみにデカダンス文学とは、19世紀末の産業革命や物質主義に反発し、新しい世紀への不安や焦燥を背景とする退廃的、耽美的な芸術文化運動であり、ロマン主義の崩れた側面といってもよい。
5.読後の感想
三島にとって澁澤は、西洋とりわけフランスロマン主義あるいは、デカタンス文学の吸収窓口であり、日夏耿之介は、三島にとっても渋澤にとっても西洋のその世界への先駆者であった。澁澤にとって三島は、フランス文学と日本の伝統を結ぶ先達であったのだと思った。その日本の伝統の中で、同じ不可知の世界を描いたのが泉鏡花で、三島と澁澤の二人が鏡花を評価している当然の理由がそこににあった。
三島は、日本の伝統世界から西欧へ、澁澤はフランス文学から日本の伝統世界へ、その交点の記録が本書である。しかし、驚かされるのは、彼等の膨大な読書量であり、執筆量である。それらを互いによみ感想を述べ、評価し合っている。しかも文学と云う限られた領域においてである。理学の徒であった私には、物理の世界の壁があり、それとの格闘で多くの力を割いたため、文学作品を読む時間は、極めて限られていた。会社に入ってからは、それに工学分野が加わったため、文学作品を読み味あう時間はほとんどなかった。70歳以後ようやく、物理の壁を乗り越え、科学・哲学の水平線を眺めるようになってから、目の前に文学の豊な原野が広がっている感覚を覚えた。
山口は対談の中で三島との距離を澁澤に問うている。澁澤は「距離は特に感じない」と即座に応えている。これは、二人が分かりあっていることを意味する。世の中で分かると云う感覚は、度々あるが、分かりあえたと云う感覚を持つことは、稀にしかない。ある勉強会で出会った独身のN君が、名古屋を去って遠縁を頼って四国に引っ越してゆくとき、しきりに僕が議論するのは繋がりたいためだと言っていた。会社勤めすることなく学習塾の収入だけで、自分の信念に基づいて生きて来たその孤独感は僕には、痛いほど分かったが企業と云う組織の中で生きてきた私の現実感覚は、彼にはどうしても理解し難い世界らしく、僕との差異は最後まで残った。
分かり合えるためには、意見が違っても時代とその中であがいた共通の体験とその中での気持ちのやり取りと感ずる世界の感触への理解と共感が必要である。それは、人間というものの捉え方であり、相手の生そのものに対する信頼感である。澁澤には、一般には、不可解に見える三島の自殺も、よく理解できていた。それは、その行為に対する是非の感覚ではなく、その行為に及ぶ生の流れが見えると云うことだと思う。
この文を書きながら、僕は大学時代の友人Y君のことを思い出した。風のたよりで知ったことだが、真面目で不器用で無垢な精神を持っていた彼は、企業社会に適合できず、やがて本来の研究職から購買部門に移動させられ、人間不信におちいり、自分の殻に閉こもり、大学時代の友達とも一切の連絡を絶つようになった。企業社会の中で、彼がどうしてそうなったかは、僕には、手に取るように想像できた。自分には、彼を孤立世界から救い出すことが出来る。その確信のようなものはあったが、大学時代以降ついにこの歳まで一度も会うことが出来なかった。
それに比べて、社会への適合の過程で、悩みながら法学部に学部入学して弁護士になったS君とは、理学から全く別世界に移って生きた仲間として何も言わなくても通ずる共通の世界があり、互いの生きる世界とそれに立ち向かう互いの心や気持ちがよく理解し合えた。その彼が還暦を前に胃癌で早世した時、僕は、澁澤が三島の死を知ったときと同じような悲しみを覚えた。それは、分かりあえたものを失った悲しみであった。(了)










