1. 最初の出逢い
私が坂口安吾に関心を持つきっかけと出会いは、全く偶然の出来事からだった。数年前、私は、大学時代の仲間達と新潟県を旅していて、そこに住む友人の案内で、十日町市を訪れることになった。十日町に来た当初からの目的は、津南町の秋山郷を訪れることであったが、それは翌日に計画されており、到着した当日は、宿の松之山温泉ちとせに入る前の数時間を使ってその近くのブナの林、美人林を散策する予定であった。しかし、その途中で、雲行きが怪しくなり、雨を避けるため急遽行き先を変更して訪れたのが大棟山美術博物館(坂口安吾記念館)であった。その建物は、杉木立に囲まれた山村の奥に静かに佇んでいた。高麗門形式の立派な表門を抜けると南北20.907m、東西17.574mの広さの木造2階建切妻造りの母屋がある。建物は古くみえるが、その内部は、良質な木材を使い、豪雪に耐えられる太く頑丈な柱や梁に支えられた堅固な建物であることが分かる。この施設は、700年に近い歴史をもつ、元造り酒屋であり庄屋であった村山家の旧宅と庭を博物館にしたもので、内部には、その当主が集めた伊万里焼の皿やその他の美術品や当時の調度品類が、展示されていた。そしてその2階の一角に、坂口安吾がそこで執筆したと云われる部屋があり、その中に書籍や坂口安吾の戯画等が展示されていた。こんな山村の山奥で、坂口安吾の名前にであうとは、全く予期せぬ出来事であった。しかし、その時もっと衝撃的であったのは、坂口安吾の名前からなんのイメージも浮かんでこないことだった。名前は知っていたが、彼の書いたものを何も読んでいないことに気づいた瞬間だった。
この出来事が引き金となり、旅から帰ってまもなく書店で坂口安吾の「堕落論・日本文化私観他二十二篇:坂口安吾:岩波文庫:2008年9月17日第1刷発行:2019年2月19日第13刷発行」を購入して読み始めた。しかし、読み始めてすぐに全く興が乗らず、放り出してしまったそしてそのまま、書棚に置き忘れてしまった。2.二度目の出逢い
私が再び坂口安吾に出会うのは、トランプ政権が1月6日66の国際機関からの離脱声明を発表し、ベネゼイラの大統領の拉致作戦を実行し、国内では、2月高市政権の衆議院選挙の圧勝し、アメリカとイスラエルがイランの軍事施設を先制攻撃したのを見て、戦後の国連体制の終末と崩壊を感じて、戦後日本の出発点となった戦後思想を見直す必要を感じた時期である。そんなとき開催された恒例の丸田町高くの古書センターの古書展で坂口安吾の「堕落論」に出会い、この「堕落論」は、一度手にしたことがあるような微かな記憶があったが、何かに導かれるように購入してしまった。家に帰って確認するとそれは、次の本であった。
「堕落論:坂口安吾:角川文庫昭和32年5月30日初版発行:昭和43年12月25日18版発行:平成3年6月改版58版発行」
この本に何故か心惹かれて最後まで読み通し、そして坂口安吾の世界に私をつれて行ってくれることになった。そして本文章は、この二度目の出逢いを中心とする話である。
3坂口安吾の概要と略歴
概要
坂口安吾(1906–1955)は、昭和期に活躍した新潟市出身の小説家、随筆家。敗戦直後に『堕落論』や『白痴』を発表し、無頼派(新戯作派)を代表する作家として時代の寵児となった。固定観念を打破する文学姿勢と、人間味を重視した思想で知られる。
略歴
1906(明治39)年: 新潟県新潟市の裕福な大地主の家に生まれる(13人兄弟の12番目)。本名炳五、父は地方政治家、母も大地主吉田家の娘
1913(大正2)年:7歳:新潟県立尋常高等小学校入学
1919 (大正8) 年:13歳:新潟県立新潟中学校入学
1922(大正11)年: 16歳:中学時代、机に「余は偉大なる落伍者となっていつの日か歴史の中によみがえるであろう」と刻み、中退して上京 東京豊山中学校へ転校。
1926(昭和元)年: 20歳:東洋大学文学部印度哲学倫理学科に入学し、宗教・哲学を学ぶ。
1928(昭和3)年:22歳:神田のアテネ・フランスに入学
1930(昭和5)年:24歳:東洋大学卒業
1931(昭和6)年:25歳: 短編『風博士』で文壇デビューし、注目される。ピエロ伝道者
1932(昭和7)年:26歳:矢田津世子(25歳)に出会う FARCEについて
1941(昭和16)年: 35歳: 文学のふるさと
1942(昭和17)年: 36歳: 母アサが死亡。日本文化私観 青春論
1944(昭和19)年: 38歳: 田津世子死亡(36歳)
1946(昭和21)年: 40歳:『堕落論』『白痴』を発表し、戦後文学の旗手として爆発的なブームを巻き起こす。続堕落論、デカダン文学論 欲望論 インチキ文学撲滅談義
1947(昭和22)年: 41歳: 梶三千代(24歳)と結婚 17歳の年の差婚 戯作者文学論 悪妻論 恋愛論 教祖の文学 大阪の反逆
1953(昭和28)年: 47歳: 長男網雄誕生
1955 (昭和30) 年: 49歳で急逝。
4.「堕落論」の構成と内容
この32年初版本の構成は、次のような構成になっているが、ここに収録されている作品群の全てが昭和17年から昭和23年の終戦を挟んで発表された作品群であり。坂口安吾の思想が一世を風靡した時期に発表されたものである。
本の表紙の裏書には、「堕落論」の説明として次のような言葉がかかれていた。
「第二次世界大戦直後の混迷した社会に戦前戦中の倫理観を明確に否定して新しい指標を示した「堕落論」は当時の若者達の絶大な支持を得た。「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことは出来ないし、防ぐことによって人をすくうことは出来ない。」堕ちることにより真の自分を発見して救われると云う安吾流の考えは、いつの世でも受け入れられるに違いない。ほかに「日本文化私観」「恋愛論」など名エッセイ12編を収める」
目次 (発表年齢) 発表年月日と雑誌
日本文化私観 (37歳) 昭和17年3月「現代文学」
青春論(37歳) 昭和17年11月12月「文学界」
堕落論(40歳) 昭和21年4月「新潮」
続堕落論(40歳) 昭和21年12月「文学季刊」(堕落論・続編」
デガタンス文学論(40歳) 昭和21年10月「新潮」
戯作者文学録(41歳) 昭和22年1月「近代文学」
悪妻論(41歳) 昭和22年7月「婦人公論」
恋愛論(41歳) 昭和22年4月「婦人公論」
エゴイズム小論(40歳) 昭和21年12月「社会批評」
欲望について(40歳) 昭和21年9月「人間」
大阪の反逆(41歳) 昭和22年4月「改造」
教祖の文学(41歳) 昭和22年6月「新潮」
不良少年とキリスト教(41歳)昭和23年7月「新潮」
注釈 三枝康高
解説
坂口安吾-人と作品 磯田光一
作品解説 檀一雄
年譜
5.坂口安吾の思想と背景
戦後無頼派と云われる一群の人達の思想は、現在の言葉で云えば、アウトサイダーもしくは、ニヒリストと云うことが出来る、彼等のそうした思想背景については、彼等の生い立とその後の青春期の経験や体験、出会いがある。
こうした人達を我々はどう理解したらよいか、その手掛かりとなるのが、イギリスの作家コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」のように思われ、それとの関係で調べてみた。
・アウトサイダーの定義: 文明社会の秩序や道徳に違和感を抱き、「自分はどこにも属していない」と感じる人々を指す。
・多彩な実例の分析: ドストエフスキー、ニーチェ、ヴァン・ゴッホ、ヘッセ、T・E・ロレンス等、文学者や芸術家の生涯と思想を通じて、彼らが直面した精神的危機を考察。
・「見えすぎること」の苦悩: アウトサイダーは感受性が強すぎるため、他人が気づかない世界の混沌や虚無を直視してしまい、深い絶望に陥りやすいと説く。
・実存的危機の克服: 本書は単なる絶望の記録ではなく、彼らがどのようにしてその疎外感を乗り越え、新しい自己や生命の肯定(至高体験)に至るかというプロセスを追求している。
・時代の象徴: 発表当時、24歳の無名の青年だったウィルソンが執筆し、「怒れる若者たち」の時代の先駆けとして世界的なベストセラーとなった。
現在でも、生きづらさを感じる人々にとっての「精神的なバイブル」として、中公文庫などで読み継がれている。 但し今は絶版になっている。
坂口安吾も、コリン・ウィルソンが定義する「アウトサイダー」の条件に非常に合致する人物と云える。ウィルソンの理論に照らし合わせると、安吾の思想には以下のようなアウトサイダー的特徴が見て取れる。
・社会の虚飾への違和感: 安吾は戦中・戦後の日本社会が掲げた「武士道」や「天皇制」といった既存の道徳・制度を、人間の本質を隠す「まやかし」として否定した。これは、文明の秩序に違和感を抱くアウトサイダーの典型的な姿勢だ。
・「正しく堕落する」という実存: 代表作『堕落論』で説いた「生きよ、堕ちよ」という言葉は、社会が押し付ける偽りの美徳を捨て、孤独で無残な「人間本来の姿」を直視せよという呼びかけだ。この絶望の直視とそこからの自己救済というプロセスは、ウィルソンが説くアウトサイダーの探求そのものだ。
・孤独の中の自由: 安吾は「救われない孤独」の中にこそ精神の自由があると信じていた。群れに属さず、剥き出しの自己として世界と対峙しようとする姿勢は、まさに孤高のアウトサイダーだ。
実際に、批評家の河上徹太郎はウィルソンの著書に触発されて書いた『日本のアウトサイダー』において、日本の知識人たちの孤立した精神性を分析している。
安吾が「アウトサイダー」として覚醒し、その危機を乗り越えていく過程は、まさに壮絶な自己破壊と再生の物語で、その核心をまとめると次のようになる。
・「偉大なる落伍者」への志向: 幼少期から既存の教育や道徳に馴染めず、試験に白紙を出すなど、社会の枠組みに対する強烈な違和感(アウトサイダーの初期症状)を持っていた。
・「癩(らい)病」への恐怖と虚無: 青年期、自分は業病にかかっているのではないかという死への恐怖と、救いのない孤独(精神的危機)に突き落とされる。この時、仏教(東洋大学)を猛烈に修行し、「悟り」ではなく「絶望の徹底」を学んだ。
・戦争という巨大な舞台: 戦時中の非日常的な空間で、彼は「美しき日本の伝統」が単なる飾りであることを看破し、空襲の下で、死と隣り合わせの「むき出しの生」にこそ真実があると確信した。
・「ふるさと」の否定: 安吾にとって、甘い郷愁や道徳は「精神の牢獄」だった。彼はそれらをかなぐり捨て、「孤独のどん底」へ自ら飛び込むことで、誰にも依存しない精神の自由を掴み取り組んだ。
・「堕落」による救済: 彼の結論は、「人間は正しく堕ちることでしか、自分を救えない」という逆説だった。社会が作った「型」を壊し、ドロドロの人間本来の姿を肯定することで、アウトサイダー特有の「疎外感」を「絶対的な自己肯定」へと転換させた。
安吾にとっての克服とは、光を見つけることではなく、「暗闇の中でも眼を開けて立っている」という強靭な意志そのものだった。
6.坂口安吾の恋と結婚
坂口安吾の恋と堕落論
坂口安吾にとって矢田津世子(やだ つよこ)は、生涯で最も激しく、かつ絶望的な影響を与えた「運命の女性」だった。コリン・ウィルソン流に言えば、彼女との恋愛は安吾を「アウトサイダーの地獄」へと引きずり込んだ決定的な事件と云える。
1933年(昭和8年)、安吾26歳の時、新進作家として注目されていた25歳の矢田津世子と、まだ無名に近かった安吾は、雑誌『青い馬』の集まりで出会う。
第一印象で彼女は「秋田おわら風の盆」を思わせるような、凛とした知的な美貌の持ち主だった。魂の恋であり、二人はすぐに惹かれ合う。安吾は彼女の才能を認め、彼女もまた安吾の破天荒な知性に惹かれた。手紙を頻繁に交わし、純粋で激しい恋愛が始まった。
しかし、二人の関係は数年で破綻する。その理由は、安吾の「アウトサイダーとしての業」にあった。その一つは、生活力の欠如で、安吾は定職を持たず、睡眠薬に溺れ、混沌とした生活を送っていた。一方、矢田は家庭の事情もあり、現実的な結婚生活を求めていた。安吾が求めたのは「魂の裸の付き合い」だったが、矢田は世俗的な平穏も捨てられなかった。安吾は彼女の中に「偽善」を感じ、彼女は安吾の「狂気」に恐怖を感じた。
1936年、安吾は彼女をモデルにした小説『吹雪物語』を執筆。私生活を切り売りするような安吾の姿勢に彼女は絶望し、二人の仲は決定的に壊れた。
別離後、矢田は肺結核を患い、1944年に36歳の若さで亡くなる。 彼女の死を知った安吾は、激しい自己嫌悪と虚無に襲われた。 彼は、自分が彼女を救えなかったこと、そして彼女が最後まで「清純な作家」という仮面を脱ぎ捨てられなかったことに、人間の限界を見た。この「死すらも救いにならない」という絶望が、後に「美しく死ぬのではなく、ドロドロに汚れながらも生きろ」と説く『堕落論』の原動力となった。
安吾にとって矢田津世子は、「失われた清純さ」の象徴であり、彼女を失うことで彼は「救いようのない現実」を生きる覚悟を決めたと言える。
坂口安吾の結婚と家族
安吾は41歳で24歳の三千代と結婚し、後に長男(綱男)を授かるが、その受け止め方は彼らしい「照れ」と「覚悟」に満ちたものだった。
アウトサイダーとしての独身を貫くかと思いきや、彼は「生活」という泥臭い現実を正面から引き受けた。 それまで無頼な放浪生活を送っていた安吾だが、結婚して家庭を持つことを「人間として正しく堕落すること(=普通に生きること)」の一環として捉えた。高潔な孤高を気取るのではなく、泥臭い日常に埋没することを恐れなくなった。
子供が生まれると、周囲が驚くほどの親バカぶりを発揮した。机に向かって執筆している最中も子供を離さず、あやしながら原稿を書くなど、かつての「孤独な哲学者」の面影がないほど深い愛情を注いた。家族を持っても、彼の精神的な「孤独(アウトサイダーとしての核心)」は消えなかった。しかし、それは「寂しい孤立」ではなく、守るべきものがあるゆえの「重みのある孤独」へと変化した。
睡眠薬中毒や精神的な不安定さを抱えながらも、家族を養うために膨大な仕事量をこなし、「生活者としての戦い」に身を投じた。
ウィルソンの『アウトサイダー』の結末が「社会との和解」を示唆するように、安吾もまた、家族という最小単位の社会を受け入れることで、自身の思想を完成させていったと言える。
安吾は、結婚して8年後49歳のとき脳溢血で、亡くなる、この急逝後、遺された妻(32歳)の三千代と長男の綱男は、安吾の伝説を守りながらも、それぞれが自立した道を歩んだ。
妻・坂口三千代:は、安吾の死後、銀座で「クラクラ」というバーを経営し、文士たちの集うサロンのような場所を作り上げた。安吾との破天荒な結婚生活を綴った自伝的エッセイ『クラクラ日記』はベストセラーとなり、後にドラマ化もされた。彼女は、安吾の「無頼」を支え切った強い女性として、多くのファンに愛された。
長男・坂口綱男は安吾が41歳の時に生まれた一人息子だが成長後は写真家として活躍し、父・安吾の未発表原稿の整理や著作権管理にも尽力した。父の思い出を綴った『安吾のいる風景』などの著書があり、安吾の「人間味あふれる父」としての姿を世に伝え続けた。安吾は膨大な蔵書や原稿、そして多額の税金の滞納(!)を遺したが、三千代は持ち前のバイタリティでこれらを整理し、安吾の文学が埋もれないよう守り抜いた。安吾が「生活」を引き受けた証である家族が、彼の死後もたくましく、かつ愛情深く彼を語り継いだことは、アウトサイダーだった安吾にとって最大の救いだったのかもしれない。
7.坂口安吾と村山家
坂口安吾は、13人というあまりに多い兄弟の中で、自分を「余計もの」のように感じていた節がある。特に父・仁一郎からは「お前のような奴は、将来ろくな人間にならない」といった言葉を投げかけられており、この大家族の中での「孤立感」が、彼をアウトサイダー的な思索へと向かわせる一因となったと思われる。
坂口家の兄弟は、安吾のように文学や芸術に傾倒する者もいれば、家業や政治を引き継ぐ者もおり、非常に個性豊かだった。安吾の本名「炳五(へいご)」は、丙午(ひのえうま)の年に生まれた5男であることに由来している。
兄弟の中でも、坂口安吾を特に可愛がったのは、次男の献吉と長兄姉のせきであった。次男の坂口献吉は、新潟日報社の社長などを務めた地元の名士だった。安吾は献吉を精神的な支柱として慕っており、敗戦直後には「戦後の新聞社の使命」などを熱く論じた手紙を献吉に送っている。放蕩の限りを尽くしていた安吾を経済的・精神的に支え続けたのが献吉であり、安吾が作家として活動できた背景には彼の理解があった。
安吾がよく身を寄せたのは、長姉のセキ(関)である。彼女は新潟県10日町市の松之山の旧家、村山家に嫁いでいました。安吾とセキの関係、そして村山家での生活には、彼のアウトサイダー的な側面がよく表れている。セキは13人兄弟の長女として、年の離れた弟である安吾(12番目)を非常に可愛がった。安吾が東京での生活に疲れ、精神的に不安定になったり行き詰まったりすると、彼女はいつも村山の家で彼を温かく迎え入れ、休息の場を提供した。
安吾は村山家に滞在しながら、多くの着想を得ている。代表作の一つ『いずこへ』などは、村山での滞在体験や、その地の風土、人間模様が色濃く反映された作品だ。彼は村山家で、何をするでもなくボヤボヤと過ごしたり、あるいは猛烈に執筆したりと、自由奔放に振る舞っていた。家系図や古い資料を調べ上げるなど、後の歴史探偵的な資質もこの「逗留」の中で養われた。
厳格だった父や、期待を寄せる兄たちとは違い、姉のセキは安吾の「ダメな部分」も含めて丸ごと受け入れる存在だった。アウトサイダーにとって、こうした「無条件の肯定」をくれる女性の存在は、精神の崩壊を防ぐ最後の砦だったと言える。
安吾にとって村山家は、社会の荒波から逃れ、再び戦うためのエネルギーを蓄える「繭(まゆ)」のような場所だったのかもしれない。
ここで安吾は、「吹雪物語」、「閑山」、「勉強記」や「黒谷村」、『村のひと騒ぎ』などの作品群を執筆している、
8.まとめと感想
坂口安吾の堕落論や恋愛論等を読んでみて、彼の主張に全く違和感も覚えなかった。坂口安吾の云いたかったこと、それは、ものごとを人間と云う生物的存在の本性を見据えて考えろと云うごく当たり前のことだったように思う。けれども、それは、己とは何かと云う哲学的な根本的な問いかけに他ならず、そこにアンリ・ウイルソンが「アウトサイダー」で追求しようとした課題、つまりドフトエフスキーやニーチェが追求したような問題と繋がる問題意識があったと云うことである。敗戦後、戦前の価値観や道徳が崩壊し、戦後の混乱の中で、人々が生きるのに右往左往する中での主張であっただけに。脚光を浴びたのだと思う。32年度版の「堕落論」に取り上げられた作品やエッセイがほとんど終戦前後のものすなわち敗戦と云う国民的な思想的混乱期に書かれたものを収録しているのはそのためであろう。そしてまた、その時期が坂口安吾の思想が完成してゆく時期だったことと関係している。敗戦という戦前の価値観がひっくり返るような事態の中で坂口安吾は、それまでの伝統や慣習や常識にとらわれず人間の根本を見据えた地点から物事を自分の頭で、考えることを主張し、彼のライバルでもあった小林秀雄は、日本の伝統文化の精髄を見直す必要を主張したのではなかろうか。小林秀雄が晩年にライフワークとして「本居宣長」をテーマとしたのは、その作業の仕上げの意味があったと感じた。
戦前、戦中、戦後を通してその思想が一貫している人物で、私が出会ったのは、柳宗悦、鈴木大拙、小林秀雄、そして今回であった坂口安吾あるが、皆その根底に人間とは何かを問い詰め見据えていた人達であった。
32年度版の「堕落論」では、2007年度版にはなかった注釈や年譜があり、安吾と最も親しかった檀一雄の解説までついているし、磯田光一の解説では彼の思想に影響を与えた恋愛体験にも触れられており、解説者や編集者達の安吾に対する愛情が伝わってきた。
それは、この本が出版されたのは彼が亡くなった昭和30年の2年後のことだったことと関係している。2008年度版の解説者、七北数人(ななきた
かずと、1961年9月23日 - )は、愛知県名古屋市出身の日本の文芸評論家、小説家、編集者であるが50歳前なので、坂口安吾を自分とかけ離れた歴史の中の人として扱っている印象があり、それが初めて出会う私には、とっつきにくかった理由かもしれない。とにかく、「堕落論」の初版本との出会いが無ければ、ここまで坂口安吾を読み解くことは無かった。なにかの導きか運命を感じざるを得ない。(了)
本文は、その詳細版「坂口安吾ーその思想と生涯」の一部の伐採で。全文は、私のホームページ「知の宇宙船ー永遠の探究」に掲載する予定である。












