2026年4月18日土曜日

  未完の西郷隆盛―日本人はなぜ論じ続けるのかー ―日本の近代化と反近代化思想をめぐってー

 1.はじめに

現在がグローバリズムと戦後の国連体制の終焉と云う歴史の転換点であるなら、その中での日本のあり方を再び問い直す必要があると感じ始めたときに、真っ先に浮かんだのは、第二次世界大戦に伴う日本の敗戦と連合国の正義に対する疑念であった。そしてそれは、日本の近代化の出発点とも云える明治維新とそれに伴い進められた文明化の意味にまでさかのぼって考える必要があると思い至った。そんな時出会ったのが自分より30歳も若い日本思想史の研究者の次の著作であった。


「未完の西郷隆盛:先崎彰容:新潮選書:新潮社:20171220日発行 2024930日第5刷」

この本の表紙の帯には、西郷隆盛の肖像画を挟んで、近代化の立役者か、反近代の英雄か の二つの言葉が並べられている。そしてこの言葉がこの本のテーマを端的に物語っている。

 日本の近現代史は、明治(1868年~1911)、大正(1912年~1925)。昭和(1926年~1988)と云われ、それ以降が。平成(1989年~2019)、令和(2020年~2026年~)の現代となる。今年は、明治維新後158年であり、この本が書かれた2017年は、明治維新後約150年と云う区切りの年でもあった。

 そして現在は、日本の敗戦後81年、ソ連邦崩壊と日本のバブル崩壊後37年と云う時点である。「歴史とは、現在と過去の対話である」とはよく言われることであるが、トランプ政権誕生にみられる世界の混乱とその先の世界、その中での日本のあり方を考えるためには、もっと長いスパーンでのものの見方が必要であり、この本はそのための貴重な示唆を与えてくれるかも知れない。

2.私と西郷隆盛(18281877)との出逢い

   西郷隆盛についての一般的な知識は、歴史の教科書やテレビドラマを通じてよく知っているつもりであった。その私が、西郷隆盛に特に興味を持つきっかけとなったのは、友人達と山形県を旅した時のある特殊な体験からだった。その山形の旅行は、仙台でレンターカーを借り、藤沢周平ゆかりの湯田温泉に泊まり、出羽三山や最上川など荘内平野を巡るものであったが、旅の終わりに荘内藩の城跡を訪ね、荘内藩主が、徳川譜代の酒井家で、歴代かなり領民に慕われていたこと、この城を中心とした世界が藤沢周平の時代劇のモデルであること等を知ることが出来た。車で荘内を移動する時、やたらに、南洲神社、荘内南洲会と云う西郷隆盛関係ののぼりや看板が目についた。

 その違和感の正体が分かったのは、名古屋に帰って数か月たった頃古書展で一冊の本に出合ってからである。その本は「西郷先生と荘内」と云うタイトルの地味な本であったが、思わず購入してきた。  


家に帰って本の内容を確認するとそれは、次のような内容だった

「西郷先生と荘内:遺構・講述:長谷川信夫・題字酒井忠梯:編集荘内南洲会:発行()荘内南洲会理事長小野寺時雄:1998923日第1刷発行」

 この本は、西郷隆盛に心酔し荘内南洲会を設立した長谷川信夫が、戊辰戦争と荘内藩、その中での西郷との出会いとその後ラ交流、「南洲翁遺訓」刊行の経緯と長谷川信夫の講述、西郷隆盛の生涯、荘内藩と係わり等をまとめた本で、一般書籍ではなく荘内南洲会による刊行物であった。

それによれば、戊辰戦争で荘内藩は、奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と対峙して戦う。新政府軍は、会津と荘内の二手に分かれ、会津攻めは、長州主体、荘内攻めは薩摩主体であった。荘内藩は、酒井玄番などの優秀指揮官と近代的軍備をもっていたため、新政府軍を圧倒していたが、奥羽越列藩同盟の他の藩の敗北や裏切りにより、利なしとみて降伏の決断をする。

荘内藩は、幕末江戸の治安を任されており、薩摩による江戸攪乱の拠点であった薩摩屋敷の焼き討ち等をしており、京都の治安を任されていた会津藩同様、新政府軍から目の敵とされていた関係上、降伏に当たっては、新政府軍から厳しい条件を突き付けられることを覚悟していたが、この方面軍の責任者黒田清隆は、極めて寛大に処置をした。

このことに感激した荘内藩がお礼にゆくと黒田は。その処置が西郷隆盛の指示によるものだと沖らかにする。西郷は、戦いが終わったからには、同じ日本人として仲良くすべきだとのかんがえであるとこの指示をだしたとのこと。これに感激した荘内藩の人達は、その西郷に、直々にお礼を言い、教えを頂きたいと多人数の代表団を鹿児島に送り、直接会って話をきくことになる。以後荘内の人達は、西南戦争中もその後も西郷に対する崇拝の年を持ち続けたと云うことで、その時、聞いて学んだ西郷の思想をまとめたのが南洲公遺訓である。さらに明治22211日、大日本帝国憲法発布の日、明治天皇により、西郷隆盛の賊名が除かれ、正三位の位も授与されることになった。荘内の人達は、それを喜び、上野に銅像が建てられたとき、その費用の1/3は荘内の人達の寄付であったと云われている。

3.「未完の西郷隆盛」の構成と内容

 「西郷先生と庄内」が荘内藩と西郷隆盛の史実に基づく具体的な係わりと荘内の人達からみた西郷隆盛像を示した貴重な記録文書とも云える本であるのに対して、「未完の西郷隆盛」は、戦後の若き思想史研究者先崎彰容が、西郷隆盛を日本の現近代史

の中でどう位置付けるかを探究した本と云える。

この本は、大きく次の項目から成り立っている。

  はじめに

第一章      情報革命 ―福沢諭吉「丁丑公論」と西南戦争

第二章      ルソー  ー中江兆民「民約訳解」と政治的自由

第三章      アジア  ー頭山満「大西郷遺訓講評」とテロリズム

第四章      天皇   ―橋川文三「西郷隆盛紀行」とヤポネシア論

第五章      戦争   ―江藤淳「南洲残影」と二つの敗戦

第六章      未完   ―司馬遼太郎「翔ぶが如く」の問い

  あとがき

  註

  参考文献

第一章では、福沢諭吉が近代化を情報革命と云う観点からこととらえていたこと、西南戦争の終わった直後、福沢諭吉が、西郷擁護論の論文を書き上げながら、その論文が発表されたのは、事件の24年後の諭吉の死後であったこと等、諭吉が西郷を高く評価しながらそれを公表できなかった事情が、近代化や文明化の内蔵する問題点とともに語られている。

第二章では、フランス革命とルソーの民約論を学んだ中江兆民が、フランス革命後の混乱をみて野放しの自由では、混乱を生むことを感じ、そこに道徳的基盤が必要であると感じていたこと、そしてその点では、西郷と兆民は同じであり、兆民は西郷を高く評価していたことが語られる。

第三章では、西郷が文明と云うものを単に物量ではなく、その道徳性にあるとの視点をもっており、西欧諸国の植民他主義をみて、西欧が文明的に優れているとはいえないとの考えをもっていたこと、そしてこのことが、大アジア主義に繋がる。そして西郷の敬天愛人思想を支える儒学、陽明学の真誠、その純粋至上主義がテロリズムに連なる点だと指摘する。

第四章は、日本の天皇制についてである。西郷は、三度島流しにあっている。そしてそのことは、彼を辺境から日本国家を見直すことになる。その彼は、天皇を超える先に国家と云うものを見ている。この点をめぐって三島由紀夫の天皇論等が語られる。

第五章は、西南戦争と第二次世界大戦と云う二つの敗戦を通して見えてくる近代化とその敗戦の意味に対する江藤淳の視点を中心として夏目漱石や正岡子規の位置づけ等の日本の近代化論が語られる。江藤淳は西南戦争を、西欧の近代化に対する日本の抵抗を国内で反映した戦いと捉え、第二次世界大戦をその延長線上の出来ごととしてとらえ直す視点を提起して「南洲残影」と云う評伝エッセイを書いた。

第六章は、終章として、5章までに扱った、福沢諭吉、中江兆民、頭山満、橋川文三、江藤淳の5人が共通して近代化の問題を指摘し、西郷隆盛の中にその超克の方向を見出さそうとしていたこと、さらに司馬遼太郎が「翔ぶが如く」で政治のリアリズム、合理主義の観点から西郷隆盛を批判的にあつかったが、そりにもかかわらず日本人は西郷へ惹きつけられつ続けている。司馬遼太郎の思想は、敗北したのである。そしてこのことが「未完の西郷隆盛」の意味でもある。

4.著者先崎彰容について(AI)

概要

先崎彰容(せんざき あきなか、1975年〜)は、日本の近代日本思想史・日本倫理思想史研究者で、社会構想大学院大学教授。東京大学文学部卒業後、東北大学大学院で博士号(文学)を取得し、フランスへ留学した経験を持つ。現代日本が抱える閉塞感や攻撃性に対し、過去の思想史(特に明治末期や戦思想)から「成熟」への視座を提示する文明批評で知られる。社会構想大学院大学 )

 経歴と特徴

  • 学歴: 東京大学文学部倫理学科卒、東北大学大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程修了。
  • 研究・経歴: フランス社会科学高等研究院(EHESS)留学後、日本にて研究・教育に従事。社会構想大学院大学の教授として教鞭を執る。
  • 思想・専門: 近代日本の思想家(夏目漱石、石川啄木、坂口安吾など)を研究し、現代のSNS社会やコロナ禍といった不安定な社会情勢を歴史的な視点から分析・批評している。
  • 主な関心: 「成熟」と「日本的自己」の再構築。文明論的視点から、無意識の攻撃性や「公と私」の曖昧化を論じる。 

主な著作(関連分野含む)

  • 『ナショナリズムの復権』(ちくま新書、20136月)
  • 『維新の精神』(新潮新書、20131月)
  • 『高山樗牛美とナショナリズム』(論創社、201012月)
  • 『維新の精神』(新潮新書、20131月)
  • 『ナショナリズムの復権』(ちくま新書、20136月)
  • 『未完の西郷隆盛日本人はなぜ論じ続けるのか(新潮選書、201712月)
  • 『バッシング論』(新潮新書、20192月)
  • 『国家の尊厳』(新潮新書、20205月)
  • 『自壊する正義:バッシング化する日本』(新潮新書、20214月)
  • 『違和感の正体』(新潮新書、20236月)

·        『本居宣長「もののあはれ」と「日本」の発見(新潮選書、20245月)

·        『知性の復権「真の保守」を問う(新潮社、202511月)

  • 『令和日本をデザインする』(文藝春秋、20263月予定)落合陽一氏との共著
  • NHK 100de名著『吉本隆明『共同幻想論』』など 
  • 『教養としての戦後思想史

5.感想とまとめ

 「未完の西郷隆盛」のタイトルと「反近代の英雄」か「近代の立役者」か と云う言葉に魅かれて購入した本であった。それは、近代日本の国家建設の原点に関心があったためである。そしてその中心に西郷隆盛がおり、その影響は、明治、大正、昭和と云う近現代史まで及んでいる。西郷亡き後、日清、日露、第一次世界大戦、第二次世界大戦に至る日本の思想史は、すべからく西郷隆盛が描いた世界像と日本の国家像をめぐって展開されてきた感がある。何故そうなったかと云えば、明治維新が、日本が始めて欧米と云う他文明と国家規模で対峙し、それを乗り越えた事件であり、その経験を身を持って体験したのが西郷隆盛であり、彼をめぐる出来事と思想の中に日本と日本人が、自身と世界に向かい合う上での全ての問題が凝縮して示されているためである。アメリカのトランプ政権の誕生にみられるグローバリズムと戦後の国連体制の終焉と云う世界史の転換点を目前にして、日本と日本人は、如何なる思想で世界に対峙すべきか、そのヒントがこの本の中にあるように感じた。大江健三郎と江道淳は、同年代である。江藤淳は、若い時、ロックヘラー財団の奨学金で、米国に留学している。そしてその彼が帰国後、大江と反対の保守的評論家となっていったと云われている。その彼の著作「閉ざされた言語空間」を古書展で見つけた。これは日本の戦後思想と現代アメリカを理解する視点に連なっている。


 この文をまとめるに及んで、まだ「西郷南洲遺訓」を手にしていないことに気ずいた。栄のジュンク堂の岩波文庫の書棚で、1冊だけあった。この本は、荘内の人達がまとめた遺訓に、その他の資料も集めた100頁ばかり文語体の小冊子であったが193922日第1刷発行2024515日第70刷発行となっていた。つまり、この本は、第二次世界大戦の勃発した年に発刊され、その後87年も読み続けられていると云うことで、それだけ西郷隆盛が日本人の中に息づいていると云うことであろう。

6.おわりに

西南戦争関連詩には、次のような作品があり、西南戦争が単なる歴史上の一事件というだけでなく広く国民の感情を揺さぶった事件であることが分かる。

1.西郷隆盛の漢詩

偶成

幾歴辛酸志始堅 (幾たび か 辛酸を経て志始めて堅 し)

丈夫玉砕愧甎全   (丈夫は玉砕するも 甎全を愧 ずかしむ)

一家遺事人知否       (一家の遺事人知るや否や)

不為児孫買美田   (児孫のために 美田を買わず)


2.城 山  <西 道仙>

  • 孤軍奮闘 囲みを破って還る
  • 一百の里程 塁壁の間
  • 吾が剣は既に折れ 吾が馬は斃る
  • 秋風 骨を埋む 故郷の山

 ※西道仙:明治の長崎を代表する、活躍の幅の極めて広かった大文化人。天保七年(1836年)~大正二年(1913年)。名は喜大。字は道仙。号は琴石。明治十年西南の役に際して、長崎自由新聞を発行している。この作品は、西郷隆盛の作とも謂われていたが、西道仙自身の長崎自由新聞紙上に彼が発表したものという。

3.和歌「桜島」

わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山

幕末の志士・平野国臣(ひらの くにおみ)が詠んだ、倒幕の情熱を桜島の噴煙に例えた非常に情熱的で有名な和歌です。自身が抱く倒幕・尊皇攘夷への熱い思いは、噴火する桜島の煙よりも激しいと表現しました。

西郷と月照は錦江湾へ入水自殺を図るが。このとき、同じ船に同乗していた国臣らが、入水した二人を懸命に引き上げた。月照は亡くなったが、西郷が一命を取り留めたのは国臣らの介抱があったからだと言われている。

4.阿蘇の白菊 孝女白菊詩  井上巽軒(哲次郎)

阿蘇山下荒村晩 阿蘇の山里秋ふけて、

夕陽欲沈鳥爭返 眺めさびしき夕まぐれ

無邊落木如雨繁 いずこの寺の鐘ならむ、

隔水何處鐘聲遠 諸行無常とつげわたる

――――――――――――――以下略

孝女白菊の歌(こうじょしらぎくのうた)は、井上哲次郎が作った漢詩「孝女白菊詩」に感動した落合直文が刺激を受け作った新体詩形式の詩で、明治21年(1888年)から明治22年(1889年)に作られた。内容は西南戦争時、行方不明になった父を慕う孝女の話である。その詩は当時の人々に感涙を流させ、独訳、英訳もされた。現地である阿蘇にもフィクションであるにもかかわらず碑や伝説を生んだ。

 5.田原坂

(熊本民謡、歌謡曲、歌詞や節にはいくつものバリエーションがある下記はその一部)

 雨は降る 降る 人馬(じんば)は濡れる

越すに越されぬ 田原坂


 右手(めて)に血刀(ちがたな) 左手(ゆんで)に手綱(たづな)

馬上ゆたかな 美少年


 泣いてくれるな 可愛い駒よ

今宵しのぶは恋でなし

 

田原坂なら昔が恋し

男同士の夢の跡

 

山に屍(しかばね) 川に血流がる

肥薩(ひさつ)の天地 秋淋し

 

夢を褥(しとね)に 夢やいずこ

明けの三空(みそら)に 日の御旗(みはた)

 

心濡らすな 虫の音時雨

ここは田原の古戦場

 

退くに魅かれぬ田原の嶮(けん)

男涙の小夜嵐(さよあらし)

 

春はさくらよ 秋なら紅葉

夢も田原の草枕

2026年3月31日火曜日

坂口安吾と戦後思想

 1.    最初の出逢い

    私が坂口安吾に関心を持つきっかけと出会いは、全く偶然の出来事からだった。数年前、私は、大学時代の仲間達と新潟県を旅していて、そこに住む友人の案内で、十日町市を訪れることになった。十日町に来た当初からの目的は、津南町の秋山郷を訪れることであったが、それは翌日に計画されており、到着した当日は、宿の松之山温泉ちとせに入る前の数時間を使ってその近くのブナの林、美人林を散策する予定であった。しかし、その途中で、雲行きが怪しくなり、雨を避けるため急遽行き先を変更して訪れたのが大棟山美術博物館(坂口安吾記念館)であった。その建物は、杉木立に囲まれた山村の奥に静かに佇んでいた。高麗門形式の立派な表門を抜けると南北20.907m、東西17.574mの広さの木造2階建切妻造りの母屋がある。建物は古くみえるが、その内部は、良質な木材を使い、豪雪に耐えられる太く頑丈な柱や梁に支えられた堅固な建物であることが分かる。この施設は、700年に近い歴史をもつ、元造り酒屋であり庄屋であった村山家の旧宅と庭を博物館にしたもので、内部には、その当主が集めた伊万里焼の皿やその他の美術品や当時の調度品類が、展示されていた。そしてその2階の一角に、坂口安吾がそこで執筆したと云われる部屋があり、その中に書籍や坂口安吾の戯画等が展示されていた。こんな山村の山奥で、坂口安吾の名前にであうとは、全く予期せぬ出来事であった。しかし、その時もっと衝撃的であったのは、坂口安吾の名前からなんのイメージも浮かんでこないことだった。名前は知っていたが、彼の書いたものを何も読んでいないことに気づいた瞬間だった。

 この出来事が引き金となり、旅から帰ってまもなく書店で坂口安吾の「堕落論・日本文化私観他二十二篇:坂口安吾:岩波文庫:2008917日第1刷発行:2019219日第13刷発行」を購入して読み始めた。しかし、読み始めてすぐに全く興が乗らず、放り出してしまったそしてそのまま、書棚に置き忘れてしまった。

2.二度目の出逢い

 私が再び坂口安吾に出会うのは、トランプ政権が1666の国際機関からの離脱声明を発表し、ベネゼイラの大統領の拉致作戦を実行し、国内では、2月高市政権の衆議院選挙の圧勝し、アメリカとイスラエルがイランの軍事施設を先制攻撃したのを見て、戦後の国連体制の終末と崩壊を感じて、戦後日本の出発点となった戦後思想を見直す必要を感じた時期である。そんなとき開催された恒例の丸田町高くの古書センターの古書展で坂口安吾の「堕落論」に出会い、この「堕落論」は、一度手にしたことがあるような微かな記憶があったが、何かに導かれるように購入してしまった。家に帰って確認するとそれは、次の本であった。

「堕落論:坂口安吾:角川文庫昭和32530日初版発行:昭和43122518版発行:平成36月改版58版発行」

この本に何故か心惹かれて最後まで読み通し、そして坂口安吾の世界に私をつれて行ってくれることになった。そして本文章は、この二度目の出逢いを中心とする話である。

3坂口安吾の概要と略歴

概要

坂口安吾(1906–1955)は、昭和期に活躍した新潟市出身の小説家、随筆家。敗戦直後に『堕落論』や『白痴』を発表し、無頼派(新戯作派)を代表する作家として時代の寵児となった。固定観念を打破する文学姿勢と、人間味を重視した思想で知られる。

略歴

1906(明治39): 新潟県新潟市の裕福な大地主の家に生まれる(13人兄弟の12番目)。本名炳五、父は地方政治家、母も大地主吉田家の娘

1913(大正2):7:新潟県立尋常高等小学校入学

1919 (大正8) :13:新潟県立新潟中学校入学 

1922(大正11): 16:中学時代、机に「余は偉大なる落伍者となっていつの日か歴史の中によみがえるであろう」と刻み、中退して上京 東京豊山中学校へ転校。

1926(昭和元): 20:東洋大学文学部印度哲学倫理学科に入学し、宗教・哲学を学ぶ。

1928(昭和3):22:神田のアテネ・フランスに入学

1930(昭和5):24:東洋大学卒業

1931(昭和6):25: 短編『風博士』で文壇デビューし、注目される。ピエロ伝道者

1932(昭和7):26:矢田津世子(25)に出会う FARCEについて

1941(昭和16): 35: 文学のふるさと

1942(昭和17): 36: 母アサが死亡。日本文化私観 青春論

1944(昭和19): 38: 田津世子死亡(36)

1946(昭和21): 40:『堕落論』『白痴』を発表し、戦後文学の旗手として爆発的なブームを巻き起こす。続堕落論、デカダン文学論 欲望論 インチキ文学撲滅談義

1947(昭和22): 41: 梶三千代(24)と結婚 17歳の年の差婚 戯作者文学論 悪妻論 恋愛論 教祖の文学 大阪の反逆

1953(昭和28): 47: 長男網雄誕生

1955 (昭和30) : 49歳で急逝。

4.「堕落論」の構成と内容

この32年初版本の構成は、次のような構成になっているが、ここに収録されている作品群の全てが昭和17年から昭和23年の終戦を挟んで発表された作品群であり。坂口安吾の思想が一世を風靡した時期に発表されたものである。

本の表紙の裏書には、「堕落論」の説明として次のような言葉がかかれていた。

 「第二次世界大戦直後の混迷した社会に戦前戦中の倫理観を明確に否定して新しい指標を示した「堕落論」は当時の若者達の絶大な支持を得た。「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことは出来ないし、防ぐことによって人をすくうことは出来ない。」堕ちることにより真の自分を発見して救われると云う安吾流の考えは、いつの世でも受け入れられるに違いない。ほかに「日本文化私観」「恋愛論」など名エッセイ12編を収める」

目次 (発表年齢)     発表年月日と雑誌

日本文化私観 (37)   昭和173月「現代文学」

青春論(37)       昭和171112月「文学界」

堕落論(40)       昭和214月「新潮」

続堕落論(40)      昭和2112月「文学季刊」(堕落論・続編」

デガタンス文学論(40)  昭和2110月「新潮」

戯作者文学録(41)    昭和221月「近代文学」

悪妻論(41)       昭和227月「婦人公論」

恋愛論(41)       昭和224月「婦人公論」

エゴイズム小論(40)   昭和2112月「社会批評」

欲望について(40)    昭和219月「人間」

大阪の反逆(41)     昭和224月「改造」

教祖の文学(41)     昭和226月「新潮」

不良少年とキリスト教(41)昭和237月「新潮」

注釈         三枝康高

解説

 坂口安吾-人と作品 磯田光一

 作品解説  檀一雄

年譜

5.坂口安吾の思想と背景

戦後無頼派と云われる一群の人達の思想は、現在の言葉で云えば、アウトサイダーもしくは、ニヒリストと云うことが出来る、彼等のそうした思想背景については、彼等の生い立とその後の青春期の経験や体験、出会いがある。

こうした人達を我々はどう理解したらよいか、その手掛かりとなるのが、イギリスの作家コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」のように思われ、それとの関係で調べてみた。   

コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』(1956年)は、社会の枠組みに馴染めず、日常の裏側に潜む「非現実的」な真実を見つめてしま孤高の人物たちを分析した文芸批評・思想書だ。この中で コリン・ウィルソンはアウトサイダーを次のような人々として特徴づけている。

・アウトサイダーの定義: 文明社会の秩序や道徳に違和感を抱き、「自分はどこにも属していない」と感じる人々を指す。

・多彩な実例の分析: ドストエフスキー、ニーチェ、ヴァン・ゴッホ、ヘッセ、T・E・ロレンス等、文学者や芸術家の生涯と思想を通じて、彼らが直面した精神的危機を考察。

・「見えすぎること」の苦悩: アウトサイダーは感受性が強すぎるため、他人が気づかない世界の混沌や虚無を直視してしまい、深い絶望に陥りやすいと説く。

・実存的危機の克服: 本書は単なる絶望の記録ではなく、彼らがどのようにしてその疎外感を乗り越え、新しい自己や生命の肯定(至高体験)に至るかというプロセスを追求している。

・時代の象徴: 発表当時、24歳の無名の青年だったウィルソンが執筆し、「怒れる若者たち」の時代の先駆けとして世界的なベストセラーとなった。 

現在でも、生きづらさを感じる人々にとっての「精神的なバイブル」として、中公文庫などで読み継がれている。 但し今は絶版になっている。

坂口安吾も、コリン・ウィルソンが定義する「アウトサイダー」の条件に非常に合致する人物と云える。ウィルソンの理論に照らし合わせると、安吾の思想には以下のようなアウトサイダー的特徴が見て取れる。

・社会の虚飾への違和感: 安吾は戦中・戦後の日本社会が掲げた「武士道」や「天皇制」といった既存の道徳・制度を、人間の本質を隠す「まやかし」として否定した。これは、文明の秩序に違和感を抱くアウトサイダーの典型的な姿勢だ。

・「正しく堕落する」という実存: 代表作『堕落論』で説いた「生きよ、堕ちよ」という言葉は、社会が押し付ける偽りの美徳を捨て、孤独で無残な「人間本来の姿」を直視せよという呼びかけだ。この絶望の直視とそこからの自己救済というプロセスは、ウィルソンが説くアウトサイダーの探求そのものだ。

・孤独の中の自由: 安吾は「救われない孤独」の中にこそ精神の自由があると信じていた。群れに属さず、剥き出しの自己として世界と対峙しようとする姿勢は、まさに孤高のアウトサイダーだ。

実際に、批評家の河上徹太郎はウィルソンの著書に触発されて書いた『日本のアウトサイダー』において、日本の知識人たちの孤立した精神性を分析している。

安吾が「アウトサイダー」として覚醒し、その危機を乗り越えていく過程は、まさに壮絶な自己破壊と再生の物語で、その核心をまとめると次のようになる。

・「偉大なる落伍者」への志向: 幼少期から既存の教育や道徳に馴染めず、試験に白紙を出すなど、社会の枠組みに対する強烈な違和感(アウトサイダーの初期症状)を持っていた。

・「癩(らい)病」への恐怖と虚無: 青年期、自分は業病にかかっているのではないかという死への恐怖と、救いのない孤独(精神的危機)に突き落とされる。この時、仏教(東洋大学)を猛烈に修行し、悟り」ではなく「絶望の徹底」を学んだ。

・戦争という巨大な舞台: 戦時中の非日常的な空間で、彼は「美しき日本の伝統」が単なる飾りであることを看破し、空襲の下で、死と隣り合わせの「むき出しの生」にこそ真実があると確信した。

・「ふるさと」の否定: 安吾にとって、甘い郷愁や道徳は「精神の牢獄」だった。彼はそれらをかなぐり捨て、「孤独のどん底」へ自ら飛び込むことで、誰にも依存しない精神の自由を掴み取り組んだ。

・「堕落」による救済: 彼の結論は、「人間は正しく堕ちることでしか、自分を救えない」という逆説だった。社会が作った「型」を壊し、ドロドロの人間本来の姿を肯定することで、アウトサイダー特有の「疎外感」を「絶対的な自己肯定」へと転換させた。 

安吾にとっての克服とは、光を見つけることではなく、「暗闇の中でも眼を開けて立っている」という強靭な意志そのものだった。

6.坂口安吾の恋と結婚

 坂口安吾の恋と堕落論

坂口安吾にとって矢田津世子(やだ つよこ)は、生涯で最も激しく、かつ絶望的な影響を与えた「運命の女性」だった。コリン・ウィルソン流に言えば、彼女との恋愛は安吾を「アウトサイダーの地獄」へと引きずり込んだ決定的な事件と云える。

1933年(昭和8年)、安吾26歳の時、新進作家として注目されていた25歳の矢田津世子と、まだ無名に近かった安吾は、雑誌『青い馬』の集まりで出会う。

第一印象で彼女は「秋田おわら風の盆」を思わせるような、凛とした知的な美貌の持ち主だった。魂の恋であり、二人はすぐに惹かれ合う。安吾は彼女の才能を認め、彼女もまた安吾の破天荒な知性に惹かれた。手紙を頻繁に交わし、純粋で激しい恋愛が始まった。

しかし、二人の関係は数年で破綻する。その理由は、安吾の「アウトサイダーとしての業」にあった。その一つは、生活力の欠如で、安吾は定職を持たず、睡眠薬に溺れ、混沌とした生活を送っていた。一方、矢田は家庭の事情もあり、現実的な結婚生活を求めていた。安吾が求めたのは「魂の裸の付き合い」だったが、矢田は世俗的な平穏も捨てられなかった。安吾は彼女の中に「偽善」を感じ、彼女は安吾の「狂気」に恐怖を感じた。

 1936年、安吾は彼女をモデルにした小説『吹雪物語』を執筆。私生活を切り売りするような安吾の姿勢に彼女は絶望し、二人の仲は決定的に壊れた。

別離後、矢田は肺結核を患い、1944年に36歳の若さで亡くなる。 彼女の死を知った安吾は、激しい自己嫌悪と虚無に襲われた。 彼は、自分が彼女を救えなかったこと、そして彼女が最後まで「清純な作家」という仮面を脱ぎ捨てられなかったことに、人間の限界を見た。この死すらも救いにならない」という絶望が、後に「美しく死ぬのではなく、ドロドロに汚れながらも生きろ」と説く『堕落論』の原動力となった。

安吾にとって矢田津世子は、「失われた清純さ」の象徴であり、彼女を失うことで彼は「救いようのない現実」を生きる覚悟を決めたと言える。

坂口安吾の結婚と家族

安吾は41歳で24歳の三千代と結婚し、後に長男(綱男)を授かるが、その受け止め方は彼らしい「照れ」と「覚悟」に満ちたものだった。

アウトサイダーとしての独身を貫くかと思いきや、彼は「生活」という泥臭い現実を正面から引き受けた。 それまで無頼な放浪生活を送っていた安吾だが、結婚して家庭を持つことを「人間として正しく堕落すること(=普通に生きること)」の一環として捉えた。高潔な孤高を気取るのではなく、泥臭い日常に埋没することを恐れなくなった。

  子供が生まれると、周囲が驚くほどの親バカぶりを発揮した。机に向かって執筆している最中も子供を離さず、あやしながら原稿を書くなど、かつての「孤独な哲学者」の面影がないほど深い愛情を注いた。家族を持っても、彼の精神的な「孤独(アウトサイダーとしての核心)」は消えなかった。しかし、それは「寂しい孤立」ではなく、守るべきものがあるゆえの「重みのある孤独」へと変化した。 睡眠薬中毒や精神的な不安定さを抱えながらも、家族を養うために膨大な仕事量をこなし、「生活者としての戦い」に身を投じた。

ウィルソンの『アウトサイダー』の結末が「社会との和解」を示唆するように、安吾もまた、家族という最小単位の社会を受け入れることで、自身の思想を完成させていったと言える。

安吾は、結婚して8年後49歳のとき脳溢血で、亡くなる、この急逝後、遺された妻(32)千代と長男の綱男は、安吾の伝説を守りながらも、それぞれが自立した道を歩んだ。

妻・坂口三千代:は、安吾の死後、銀座で「クラクラ」というバーを経営し、文士たちの集うサロンのような場所を作り上げた。安吾との破天荒な結婚生活を綴った自伝的エッセイ『クラクラ日記』はベストセラーとなり、後にドラマ化もされた。彼女は、安吾の「無頼」を支え切った強い女性として、多くのファンに愛された。

長男・坂口綱男は安吾が41歳の時に生まれた一人息子だが成長後は写真家として活躍し、父・安吾の未発表原稿の整理や著作権管理にも尽力した。父の思い出を綴った『安吾のいる風景』などの著書があり、安吾の「人間味あふれる父」としての姿を世に伝え続けた。安吾は膨大な蔵書や原稿、そして多額の税金の滞納(!)を遺したが、三千代は持ち前のバイタリティでこれらを整理し、安吾の文学が埋もれないよう守り抜いた。安吾が「生活」を引き受けた証である家族が、彼の死後もたくましく、かつ愛情深く彼を語り継いだことは、アウトサイダーだった安吾にとって最大の救いだったのかもしれない。

7.坂口安吾と村山家

坂口安吾は、13人というあまりに多い兄弟の中で、自分を「余計もの」のように感じていた節がある。特に父・仁一郎からは「お前のような奴は、将来ろくな人間にならない」といった言葉を投げかけられており、この大家族の中での「孤立感」が、彼をアウトサイダー的な思索へと向かわせる一因となったと思われる。

坂口家の兄弟は、安吾のように文学や芸術に傾倒する者もいれば、家業や政治を引き継ぐ者もおり、非常に個性豊かだった。安吾の本名「炳五(へいご)」は、丙午(ひのえうま)の年に生まれた5男であることに由来している。 

兄弟の中でも、坂口安吾を特に可愛がったのは、次男の献吉と長兄姉のせきであった。次男の坂口献吉は、新潟日報社の社長などを務めた地元の名士だった。安吾は献吉を精神的な支柱として慕っており、敗戦直後には「戦後の新聞社の使命」などを熱く論じた手紙を献吉に送っている。放蕩の限りを尽くしていた安吾を経済的・精神的に支え続けたのが献吉であり、安吾が作家として活動できた背景には彼の理解があった。

安吾がよく身を寄せたのは、長姉のセキ(関)である。彼女は新潟県10日町市の松之山の旧家、村山家に嫁いでいました。安吾とセキの関係、そして村山家での生活には、彼のアウトサイダー的な側面がよく表れている。セキは13人兄弟の長女として、年の離れた弟である安吾(12番目)を非常に可愛がった。安吾が東京での生活に疲れ、精神的に不安定になったり行き詰まったりすると、彼女はいつも村山の家で彼を温かく迎え入れ、休息の場を提供した。

  安吾は村山家に滞在しながら、多くの着想を得ている。代表作の一つ『いずこへ』などは、村山での滞在体験や、その地の風土、人間模様が色濃く反映された作品だ。彼は村山家で、何をするでもなくボヤボヤと過ごしたり、あるいは猛烈に執筆したりと、自由奔放に振る舞っていた。家系図や古い資料を調べ上げるなど、後の歴史探偵的な資質もこの「逗留」の中で養われた。

 厳格だった父や、期待を寄せる兄たちとは違い、姉のセキは安吾の「ダメな部分」も含めて丸ごと受け入れる存在だった。アウトサイダーにとって、こうした「無条件の肯定」をくれる女性の存在は、精神の崩壊を防ぐ最後の砦だったと言える。

安吾にとって村山家は、社会の荒波から逃れ、再び戦うためのエネルギーを蓄える繭(まゆ)のような場所だったのかもしれない。

ここで安吾は、「吹雪物語」、「閑山」、「勉強記」や「黒谷村」、『村のひと騒ぎ』などの作品群を執筆している、

8.まとめと感想

 坂口安吾の堕落論や恋愛論等を読んでみて、彼の主張に全く違和感も覚えなかった。坂口安吾の云いたかったこと、それは、ものごとを人間と云う生物的存在の本性を見据えて考えろと云うごく当たり前のことだったように思う。けれども、それは、己とは何かと云う哲学的な根本的な問いかけに他ならず、そこにアンリ・ウイルソンが「アウトサイダー」で追求しようとした課題、つまりドフトエフスキーやニーチェが追求したような問題と繋がる問題意識があったと云うことである。敗戦後、戦前の価値観や道徳が崩壊し、戦後の混乱の中で、人々が生きるのに右往左往する中での主張であっただけに。脚光を浴びたのだと思う。32年度版の「堕落論」に取り上げられた作品やエッセイがほとんど終戦前後のものすなわち敗戦と云う国民的な思想的混乱期に書かれたものを収録しているのはそのためであろう。そしてまた、その時期が坂口安吾の思想が完成してゆく時期だったことと関係している。敗戦という戦前の価値観がひっくり返るような事態の中で坂口安吾は、それまでの伝統や慣習や常識にとらわれず人間の根本を見据えた地点から物事を自分の頭で、考えることを主張し、彼のライバルでもあった小林秀雄は、日本の伝統文化の精髄を見直す必要を主張したのではなかろうか。小林秀雄が晩年にライフワークとして「本居宣長」をテーマとしたのは、その作業の仕上げの意味があったと感じた。

 戦前、戦中、戦後を通してその思想が一貫している人物で、私が出会ったのは、柳宗悦、鈴木大拙、小林秀雄、そして今回であった坂口安吾あるが、皆その根底に人間とは何かを問い詰め見据えていた人達であった。

 32年度版の「堕落論」では、2007年度版にはなかった注釈や年譜があり、安吾と最も親しかった檀一雄の解説までついているし、磯田光一の解説では彼の思想に影響を与えた恋愛体験にも触れられており、解説者や編集者達の安吾に対する愛情が伝わってきた。

 それは、この本が出版されたのは彼が亡くなった昭和30年の2年後のことだったことと関係している。2008年度版の解説者、七北数人(ななきた かずと、1961923 - )は、愛知県名古屋市出身の日本の文芸評論家、小説家、編集者であるが50歳前なので、坂口安吾を自分とかけ離れた歴史の中の人として扱っている印象があり、それが初めて出会う私には、とっつきにくかった理由かもしれない。とにかく、「堕落論」の初版本との出会いが無ければ、ここまで坂口安吾を読み解くことは無かった。なにかの導きか運命を感じざるを得ない。()

本文は、その詳細版「坂口安吾ーその思想と生涯」の一部の伐採で。全文は、私のホームページ「知の宇宙船ー永遠の探究」に掲載する予定である。

 

2026年3月7日土曜日

危機の三十年―冷戦後秩序はなぜ崩壊したか

 1.はじめに

20254月に「ポストトランプの世界」と云う一文を書いたとき、私は、その世界をグローバリズムの終焉として捉えていた。しかし96日のトランプによる国連総会での演説と13日の米軍によるベネゼイラ攻撃とそれに続く16日のアメリカの66の国際機関からの離脱声明を目の当たりにし、28日の衆議院選挙の高市政権の圧勝に直面したとき、直感的にそれが、戦後の国連体制の崩壊を意味すると思った。そうであるならば、それは国連体制を前提とした戦後思想の劣化と破綻を意味すると直感的に思い、それは終戦直後の連合国の正義とそれに繋がる戦後思想を見直す必要があると思った。さしてその作業をすすめつつある途中で出会ったのがこの本であった。

「危機の30年―冷戦後秩序はなぜ崩壊
したか」細川雄一:新潮選書:  株式会社新潮社:2026220日発行

この本は、その紹介文と目次からこの数年来私が気にかけて来たソ連邦崩壊後の世界秩序の現状について同じような認識すなわち戦後ながらく続いた国連体制の終焉と云うテーマを初めてまともに取り上げた本であることがわかり、しかもこれを購入した翌日の228日にアメリカとイスラエルのイラン攻撃と云うニュースが飛び込んできたので、急遽取り上げることにした。

2.本書の構成と内容

本書の全体構成と内容は、以下のようになっている。

はじめにーウクライナ侵攻はなぜ起きたのか

   せまりくる戦争の危機、ソ連崩壊の30周」年、「危機の30年」を回顧する冷戦後世界の光と影

序章 逆回転する世界史

   「ポスト冷戦時代の終わり」、「世界史の転換点」の到来、リベラルな国際秩序の危機、国際秩序を破壊する大国、国際経済秩序の崩壊、アメリカの覇権的地位の終焉、孤立主義への回帰、「米国第一主義」の系譜、「危機の30年」と云う視座

1章「危機の30年」とはなにか

    ユートピアニズムとリアリズム国際政治学の最も重要な古典、啓蒙思想と反啓

蒙思想「レッセフェールの終焉」、「危機

20年」におけるユートピアニズム, リアリズムの時代としての冷戦、ポスト冷戦期の到来、「新・危機の20年」の時代、「危機の30年」時代のリアリズム

2章 ユートピアニズムの再来

    台頭するユートピア思想、ユートピアの復権 グレイの新自由主義批判、「歴史の終わり」のイデオロギー、冷戦後の民主的平和。グローバリズムの奔流、コスモポリタリズムの思潮、資本主義が勝利した世界

3章 冷戦終結からポスト冷戦へ

    冷戦終結期の歴史、「魔法の杖」で消えた帝国、ポスト冷戦時代の到来へ、「冷戦後秩序の産物」ウイルソンむの夢、「自決権」をめぐる政治力学、「自決権を擁護するゴルバチョフ」、歴史家

    サロッティの警告、「1インチの攻防」をめぐる真相、「自決権」か「勢力圏」か、キッシンジャーの予言、消えたユートピアニズム

4章 西側世界の驕り

    勝利主義と怨恨、民主主義拡大への批判、「最後の巨大な帝国」の崩壊、冷戦の終わり方、協調を模索するNATO、「新しいNATO」の誕生、NATOとロシアの協調、「平和のためのパートナーシップ」の誕生、「民主主義の拡大」戦略、NATO加盟への道、NATO東方拡大論争、ウクライナの自決権と安全保障、ウクライナ非核化むへの日本の関与、NATOの拡大へ向けた交渉

5章 リアリズムの復権

    米ロの協力関係、ブレアとプーチン、9.11テロ後の協力、ラムズフェルドの警戒感、「フリーダム・アジェンダ」の促進、オレンジ革命の衝撃、オレンジ革命以後、西側と敵対するプーチン

    ゲーツ国防長官とバーンズ大使の懸念、ブカレストNATOの首脳会談、すれ違うブッシュとプーチン、「リセット」の限界、勢力圏を追求するプーチン、戸惑うメルケル、米英両国の融和的姿勢、抑止力の強化への動き、ポリス。ジョンソンの矜持、ユートピア主義の蹉跌

終章  「第三次世界大戦」を防ぐために

    「旧い秩序の終焉」「新しい戦前」と云う時代、「危機の30年」とは何だったのか

おわりに ユートピア主義とリアリズムのはざまで

  註

3著者 細川雄一について(AIWikipedia)

細谷雄一(ほそや・ゆういち1971813 -)氏は、慶應義塾大学法学部教授(2026年時点)で、専門は国際政治学、国際政治史、英国外交史、安全保障政策。サントリー学芸賞や読売・吉野作造賞を受賞した『戦後国際秩序とイギリス外交』『倫理的な戦争』など多数の著書を持つ、日本の安全保障政策や冷戦後の国際秩序に関する第一人者。 

プロフィール(2026年時点) 

  • 所属慶應義塾大学 法学部 教授 (2011年より現職)
  • 専門分野国際政治学、国際政治史、イギリス外交史、安全保障政策
  • 学位博士(法学)(慶應義塾大学・2000年)
  • 主な経歴北海道大学専任講師、プリンストン大学客員研究員、パリ政治学院客員教授などを経て現職

4.この本の概要と特徴について

4.1この本の背景

この本の中にあまり、見慣れないユートピアニズムとリアリズムの言葉が出てくるので少し不思議に思った。これは、題名の「危機の30年」とも関連することであるが、この本は、今や古典的名著となったイギリスの政治学者EHカーの「危機の20年」を参考としてソ連邦崩壊後の世界秩序の危機を扱った本ということが分かった。


EH・カーの『危機の二十年』は、第一次大戦後から第二次大戦勃発(1919-1939年)までの戦間期を分析した国際政治学の古典。国際連盟に代表される「理想主義(ユートピアニズム)」の限界を暴き、力と利害が支配する「現実主義(リアリズム)」の視点から、秩序崩壊の本質を突いた 

4.2「危機の二十年』について

193991日: ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。本書は、イギリスで発行されたが、第一版の序文には「1939930日」という日付が記されており、まさに戦争が始まったわずか4週間後に世に出たことになる。

この本は 1930年代の戦雲が立ち込める中で執筆された。カーは、当時の国際社会が信じていた「国際連盟や条約で平和を維持できる」という考え(理想主義)が、迫りくる戦争を止めるには無力であることを論理的に解明しようとしました。

的中した警告: 本書が店頭に並んだ瞬間に実際に大戦が始まったことで、カーの「理想主義は破綻しており、権力政治(パワー・ポリティクス)を直視すべきだ」という主張が残酷なまでに証明される形となった。

「危機の二十年』は、入手できずまだ読んでいないがAIによりその概要は次のように要約されている。

「危機の二十年』の主要なポイント:(AI)

①ユートピアニズムの批判: 第一次大戦後、道徳や理性で平和が維持できると信じられた「理想主義」は、強国の利害が衝突する実際の国際情勢に対応できず無力であったと論じた。

②リアリズムの強調: 国際関係は「何があるべきか」ではなく「何が存在するか(力)」で動いており、政治は権力闘争(パワー・ポリティクス)の側面が不可欠であると指摘。

③危機の本質: 英仏などの現状維持国が唱える「平和」が、弱者や後発国を犠牲にして自国の利益を守る偽善であったとし、秩序の崩壊(危機の二十年)を招いた。

➃目指すべき姿勢: 理想を欠く現実主義は無気力に陥り、現実を無視した理想主義は偽善に終わる。両者の相克の中で、力の現実を認めつつ平和を模索する「弁証法的な接近」が必要であると結論付けた。 (東京大学社会科学研究所 )

1939年の出版以来、現在に至るまで、国際秩序が流動化し「力の政治」が復活する局面でたびたび再評価されている。

 4.3「危機の30年」と云うこの本の性格と限界

 この本は、さすがに政治学者らしく政治学の観点からソ連邦崩壊後の過去30年間の国際秩序の変遷をEHカーの「危機の20年」を手本としてまとめたものである。それだけに実際の世界政治の動きを通して、戦後の国連体制の形成と崩壊プロセスが政治史として語られている。一方私の視点は、近代資本主義の思想的原理の必然的結果としてグローバリズムの終焉とリベラリズムと国連体制の終焉を理解しようとするものであるが、現在の国連体制とリベラリズムが終焉を迎えつつあり、現在が時代の転換点であるとの認識では一致している。この本は、危機を乗り越えるものとしてユートピアニズムとリアリズムの融合を示唆しているが、それを可能にする原理には触れていない。しかしユートピアニズムとリアリズムの発生する背景については、具体的な政治史の中で詳しく記述されている。その背景を私の論理で理解すれば、生存活動に限界が見えないか薄く感じられる時期がユートピアニズムの時期であり、限界が意識される時期がリアリズムの時期である。その意味で、現在は、リアリズムの時代である。

5.リベラリズムと国連主義の終焉をめぐって

20254月トランプ以後の世界と云う一文を書いたとき、その主要なテーマはグローバリズムの終焉であった。その後この問題について考えてゆく過程で、グローバリズムが資本主義そのものの本性に基づく結果であって、それが17世紀のパーナード・マンデェヴィルの「私悪すなわち公益」つまり個人の利益追求が結果的に社会の利益になるとの考え方に源流があり、それが個人を社会の上位に位置づける個人主義すなわち現代のリベラリズムの根拠になっていることに気づかされた。そしてこの仮定が成り立つためには、世界が無限に広がっていることが経済成長の条件であり、有限の空間では成り立たないことを指摘した。

高市政権が、衆院選挙で、圧勝したしたとき、その衝撃の中で思わず戦後思想からの脱却を予感したが、それは13日の米軍によるベネゼイラ攻撃と16日の米国の66の国際機関からの離脱声明の衝撃とも重なっていた。

そして、228日のイスラエルと米国によるイラン攻撃の現実を目のあたりにして、グローバリズムの終焉は、リベラリズムと国連主義の終焉でもあるとの確信が強まり、このことに関連する思いをまとめる氣になった。

資本主義の必然的結果としてのグローバリズムが終焉を迎えたと云うことは、それと表裏一体をなすリベラリズムと国連体制も終焉を迎えたということである。すなわちそれは個人の権利を社会構成の最上位に置くリベラリズムの終焉であり、それを国家観に拡大した国家主権を最上位に置く国連憲章と国連主義の終焉でもある。

 アメリカのベネゼイラ、イランへの攻撃に対してアメリカの行動は、国家主権に対する侵害であり、国連憲章に違反するとの意見が多いが、それは。単に、国連体制の終焉と崩壊を言い換えただけにすぐない。アメリカの意図と姿勢ははっきりしている。第二次トランプ政権の安全保障戦略は、「多国籍機関による国家主権への拘束に反対する」と云うものであり、これは、アメリカが長年にわたって推し進めて来た自由主義、市場主義、民主主義を基調とするグローバリズムが、自国の製造業の崩壊と移民の増大による文化的無秩序さとIT・金融依存の格差社会と分断と国力の減退をもたらしたことへの危機感とその現状からの脱却のあがきとみることが出来る。そして、今回のトランプ政権の行動は、アメリカも、ロシアや中国同様、自国に都合がわるいと思ったら他からの干渉を排して国益優先に行動すると云うことである。なぜ、こんな事態になってしまったのか、それは、国家主権を何者も侵すことの出来ない神聖な権利とする思想とその裏返しの個人の権利を侵すことの出来ない神聖な権利とみなすリベラリズムの思想が、平和と繁栄をもたらすとの考えが現実世界で有効性を失ったと云うことである。しかし、この国家主権の神聖化の思想は、過去30年にわたって結果的には、世界的に、国内に独裁体制を敷く専制国家をはびこらせることになったし、弱小国家を主権国家として平等に扱う国連基準は、運営の経済的基盤を大国に依存しながら権利のみ主張する義務を伴わない実行性の乏しい空論をはびこらせることにも連なった。 

その典型が国連主導のIPCCによる地球温暖化防止条約であり、CO2主犯説がその責任の全てを先進国のせいにした結果、温暖化対策を議論する場が、先進国から開発途上国への資金援助をめぐる話に矮小化され、本来的には、開発途上国には先進国とは異なった文明モデルを構築する責任があるのに結果的には、開発途上国が先進国の経済成長モデルの後追いする場になってしまった。

新秩序への論理をめぐって

個人の権利を最上位に置く思想は、閉ざされた領域では、個人の権利同士が衝突する。国と国同士でもグローバルな閉じた世界では、国と国の利害が対立する。個人主義に規範を置く西欧社会が揺らいでいるように、国家主権を基礎として国際社会がゆらいでいる。 

個人の権利が地域社会と衝突するようであれば制限を受けざるをえない、個人の利益と社会の利益の両立を社会の個人に対する外部からの権力による規制に頼る方法は、行き過ぎた独裁体制を招きかねないし、個人の自由に任せれば無秩序の弱肉強食社会を招きかねない。従ってこの両立のためには、個人の意思が社会全体にとって有意義であることを証明し、社会がそれを受け入れてもらうか、あるいは、自らの利益を内発的な自己制御機能で抑制して、個人と社会の調和を図っていく以外に方法はない。これには、その地域の文化的・宗教的な伝統や習慣の力が必要であろう。

 国家と世界との関係についても同様な論理が成り立つ。有限な世界の中では、国家の膨張と発展と利害は、衝突の必然性にさらされている。国家の生存スタイルが、限界を迎えた場合、その限界をどう乗り越えるかが問題で、それを外部空間の拡大で解消しようとすれば、それが他国の利害や価値観と衝突しかねない。自国内部の社会改革や技術革新等の他国に迷惑を及ばさない形で、その限界をのり超えることが出来れば国同士の摩擦を最小限に抑えることが可能になる。

個人の主権の維持、国家主権の尊守の理念を叫ぶだけでは平和維持の方策にはならない。現実に存在する利害対立の具体的な解消もしくは妥協の方策が求められている。

おわりに

202628日の衆議院選挙での高市政権の圧勝は、国際環境が明らかにしつつあるグローバリズムと国連体制の終焉という現実に対して、高市政権発足にともなう国会論戦の中で立憲民主党と公明党があいかわらず30年前の国際情勢認識とユートピアニズム的発想しかできていないことへの国民的批判の結果であると云える。10年で軍事費を倍以上に増大させる中国の現実を横目に、国防費の増加が中国を刺激するとのユートピア的発想しか提示できない政党が支持を失うことは必然的なことであった。野党はユートピア的理念だけにたよる時代が終わったことにはやく気づくべきであった。

 本書は、国際政治の現実をそのまま分析してみせた本であり、特定の立場から見れば納得できない点もあるかもしれない。しかし、今まで読んだどの本よりも包括的で、客観的、公平な視点で書かれた本のように思われる。冷厳な事実を見れば、我々は、第三次世界大戦の到来と云う危機に直面している。そして、今求められているのは、希望的観測や願望による平和という平和論ではなく、国際政治のパワーポリテックの現実を見据えた冷静な現状認識と安全保障戦略である。本書は、このことに気づかされる名著であると云える。

 

2026年1月27日火曜日

「さまよえる魂のうた」日本の美と文化の発見者ラフカディオ・ハーン ―ハーンは何故小泉八雲になったのかー

 1.はじめに

当初私は、幽霊について書くつもりであった。それは朝ドラ「ばけばけ」を見ていて主人公達(ヘルンと節)が怪談に興味を待っていたことと関連しており、最近の脳科学の現状と幽霊についての科学者達の取り組みの歴史を整理したくなったためであった。そんな時、年末の部屋の大掃除のついでに始めた書籍の整理をしていて手つかずにいた一冊の本に気ずき、思わず手にしたのが、この本であった。

さまよえる魂のうた:小泉八雲コレクション:池田雅之翻訳:ちくま文庫(株)筑摩書房:20041110日第一刷発行」


2.小泉八雲とはなんであるか

当初なにげなく手にしたこの本は、小泉八雲の思想形成の自伝的エッセイと文学論をまとめた本であるらしいことが分かるに従って徐々に私の心を惹きつけて行った。

この本をどんな気持ちで購入したかは、はっきりした記憶はないが、その思想にどことなくスビリチァルな気配を感じたためであることには間違いがない。しかし、この本は長い間詩集と同じ場所に放置されていたことを考えるとこの本が何か詩的な雰囲気を持っていたことは確かであろう。

今回あらためて、本の全体に目を通してみて。次のようなことに気づいた。この本の性格については、訳者の早稲田大学教授である池田雅之氏が巻末に解説を書いているが、その題は「小泉文学の原風景とghostlyなるもの」というものであり、これがまさにこの本の性格をぴったり言い当てている気がした。

この本は、小泉八雲の思想的背景とかれの思想の中核概念を表すエッセイとそれにかかわる文章を収録したものであった。この解説文によれば、この本はそれ以前に出された「妖怪・妖精譚」(20048月刊、ちくま文庫)と対をなすものであり、訳者としては、この二冊で小泉八雲の全体像を示したい意図があったように思えた。そしてこの「妖怪・妖精譚」が小泉文学の精華・達成であり、「さまよえる魂のうた」がその思想的背景をまとめた本ということになる。この本を読み進む内に私の中にある一つの思いが芽生えて来た。それは小泉八雲と云う人間の日本史の中における役割について、整理してみる必要性についてである。

3.明治と小泉八雲

小泉八雲(18501904)は、ギリシャのイオニア諸島レフカダ島生まれ、父はアイルランド人の軍医補、母はギリシャ人、幼少期アイルランドにわたるも両親が離婚し、母は、ギリシャに帰り、叔母の手元で育てられるが、若くしてヨーロッパを彷徨するも19歳の時アメリカにゆき新聞記者として文才に頭角を現す。1890年来日して、小泉せつと結婚。その後の生活は、朝ドラ「ばけばけ」で描かれている。小泉八雲の人生は、日本の近代の曙明治の時代と重なっている。明治維新以降の年表を確認してみよう。

明治維新以降の年表

1868(明治元年)

1894年~1895年 日清戦争

1904年~1905年 日露戦争1

1910年 日韓併合

1912年 明治天皇崩御、大正元年

小泉八雲が日本にやって来たのは、日清戦争直前であり、亡くなるのは、日露戦争が始まった年である。8月にアップしたブログ「日本文化の自画像をめぐる三冊の本と3人の先人達」の中で触れたように、この時期は、岡倉天心(18631913 )、鈴木大拙(18701966)、新渡戸稲造(18621933 )等が世界に向けて日本の自画像を発信し始めた時期と重なっている。

小泉八雲は、この3人の日本人が本格的に活動する前にいち早く、日本文化を世界に向けて紹介していたことになる。日本人である岡倉天心、鈴木大拙、新渡戸稲造が、活躍する前に、西洋人として日本文化の価値をみとめ、その価値を記録に残し、世界に情報発信していた。このことに気づいたとき、私は、人知れぬ驚きと感動を感じざるを得なかった。そして、ラフカディオ・ハーンなる人物は、世界がまだ日本のことを知らない時代に日本の何に感動し、日本に帰化して小泉八雲として人生を終えることになったのか強烈な興味を抱くようになった。

4.小泉八雲の全体像への道

ラフカディオ・ハーンの全体像に迫るには、三つのことを知る必要があると思った。その一つは、彼の思想であり、もう一つは、彼が日本で何をみて何を感じたのかであり、三つ目は、その結果としての彼の作品を知ることである。小泉八雲の残した文章は、膨大でありその研究者でもないことから次に何を読むかに迷ったが、とりあえずこの本の訳者池田雅之氏の解説の言葉に従って「妖怪・妖精譚」(20048月刊、ちくま文庫)でも読んで考えをまとめることにしようと早速書店に出かけていった。

ところが、当初簡単に見つかると思っていたこの本は、なかなか見つからなかった。書店に置いてなかったのである。そのかわり、栄地下のジュンク堂書店には、小泉八雲関連本の特設コーナーが設けられており、そこになんと最近の小泉八雲関連の新刊書が10冊ばかり並べられていた。テレビの連ドラの影響のせいであった。執拗に「妖怪・妖精譚」を見つけようとしたがみあたらなかったので結局次の二冊を買い込んで帰宅した。

新編 日本の面影:ラフカディオ・ハーン:池田雅之訳:平成12925日初版発行、令和7121556版発行:角川文庫」

怪談: ラフカディオ・ハーン:池田雅之編訳:令和7825日初版発行、令和71020日再版発行:角川文庫

 この二冊を選んだ理由は、前者が、ハーンが日本で何をみて、何をかんじたかを端的に示していると思ったからであり、後者がその結果としての彼の作品群の一部と感じたためであった。ハーンが来日してから死ぬまでは、1890年から1904年までの15年間に過ぎないが、この間に膨大な文章を書いている。翻訳した池田雅之の解説によるとこれ等一連の文庫本は、ホートン・ミフリン版のハーン全集全16:1922)の中からテーマに沿って翻訳者によって選ばれた作品群を纏めて一冊の本としたアンソロジー「アンソロジー(anthology)は、特定のテーマや基準で複数の作家の作品を集めた「選集」「詞華集」「作品集」を意味し」という性格のものらしい。

従って彼の全体像に迫るためには、そうした彼の全作品群の背景を理解した上で、個々の文庫本を読み解くことになる。以下では、今回手にした三冊の本から見えて来たことと感想について簡単にまとめてみる

5.「さまよえる魂のうた」にみるハーンの思想

この本は、次の構成で編集されていた。

第1章         私の守護天使―自伝的断片(8編の文章)

第2章         赤裸の詩-文学の力(7編の文章)

第3章         生活の中の文学(3編の文章)

第4章         ロマン主義の魂(6編の文章)

小泉八雲の家庭生活  萩原朔太郎

解説 八雲文学の原風景とghostly  なるもの 池田雅之つまり、この本は、ハーンの書いた24篇の文章に荻原朔太郎が昭和51年に書いた文章と訳者池田雅之の解説からなる26の文章をまとめた本であった。

これらを読んだ感想を一言でいえば、ハーンはghostlyなるものを追求した詩精神をもったロマン主義的神秘主義作家と思えた。それは、この第4章の中に、「イギリス最初の神秘家ブレイク」と云う文章と「ロマン主義的なものと文学的保守主義」なる文章を見つけた時決定的となった。

 私がウイリアム・ブレイクの名前を知ったのは、大学1年生の時で、それは当時英語の講義でコールズ・ワージーの「林檎の木」を購読してくれた英文学者の梅津先生がこのウイリアム・ブレイクの研究家であったためである。そのウイリアム・ブレイクを今から130年も前にハーンが日本に紹介していたとは驚きであった。

ロマン主義は、18世紀末から19世紀ヨーロッパで古典主義や啓蒙主義の理性・秩序への反発から生まれた思想・芸術運動で、感情、個性、自由を重んじ、自然賛美、中世への憧憬、神秘性、個人の内面性(不安、苦悩も含む)を追求する。文学・美術・音楽など多岐にわたり、「想像力」を重視し、現実を客観的に描くのではなく、主観的な感情や情熱、そして「崇高」な体験を表現することを特徴とするが、その源流はもっと古く、中世のアリストテレス的キリスト教的世界観への批判的潮流に遡ることが出来る。ハーンのキリスト教に対する批判的姿勢はその点で深い意味を持つ。

その一方、神秘主義(しんぴしゅぎ)とは、神や絶対者(宇宙の根源など)と人間が、理性や通常の認識を超えて、直接的・体験的に接触・合一(一体化)することを目指す思想や実践の総称で、内面への沈静、瞑想、修行などを通して、言葉では表現できない「神秘体験」を追求し、宗教や哲学の根源に関わる立場を指し、キリスト教、イスラム教(スーフィズム)、仏教(禅など)、ヘルメス主義など世界中の様々な宗教・思想に見られる。 

これらの思想は、ドイツやフランス思想の底流を流れるのが主流である。アイルランドやイギリス等経験主義の支配的な文化圏では、ウイリアム・ブレイク等少数の人間しか知られておらず神秘主義の伝統は弱くその意味でアイルランド出身のハーンがこうした特徴ある思想を持つに至った経緯は、彼の若き日のョーロッパ放浪の体験の結果であるかもしれない。

こうした彼の思想は、池田雅之氏の云うようにghostlyの追求という言葉に要約できる。この場合、このghostlyと云う言葉は、「神聖」「神秘」「宗教的なもの」そしてさらには人間の内面や魂を表す「霊的」なものをも指している。つまり、このghostlyなる言葉には「神」「宗教・神秘」「霊・霊性」と云った三つの意味が含まれており、この追求こそがハーン文学の思想であり中核をなすもののようである。

6.「日本の面影」とハーンが観て感じた日本

 この本の構成は、次のようになっている。

はじめに・・・・18945月 日本九州熊本にて ラフカディオ・ハーン

東洋の第一日目

盆踊り

神々の国の首都

杵築―日本最古の神社

子供達の死霊の岩屋でー加賀の潜戸

日本海に沿って

日本の庭にて

英語教師の日記から

日本人の微笑

さようなら

ラフカディオ・ハーン略年譜

訳者あとがきー木霊する出雲の地霊とハーンの魂・・。2000825

 この本は、ハーンが189044日日本の横浜に上陸してから松江に行き、そこで生活し、18911115日に松江を去るまでの17カ月の間に書かれた日本の滞在印象記であるホートン・ミフリン版のハーン全集の作品集「知られざる日本の面影」に掲載された27編の文章か10編を選抜・編集したものである。

 この中には、彼が初めて見た日本の美しい風景と人々や風物との出会いが感動的に語られている。彼には、日本が神々と共生する妖精の国のように感じられたことが、美しい言葉で綴られている。この本を読みながらその詩的な文章に何故か中学から高校時代に読んだ国木田独歩の「武蔵野」を読んだ時の感動が蘇ってきた。それは、そこに日本の自然の美しさが感動的に表現されていたためかも知れない。この中には、西欧の近代化の影響を受けない古き時代の美しい日本の面影が書かれている。

 最後の文章「さよなら」には、彼が松江を去り熊本に向かう場面が描かれている。それはまるで、恋人とのわかれを惜しむ若き詩人のように美しくも切ない文章であり、その哀切の情に胸を締め付けられるような感動を覚えた。この文庫本が56版重ねられた理由が分かった気がした。この本には、続編がすでに出版されている。それが「新編 日本の面影Ⅱ」である。いつかまたこの続編も読んでみたいと思わせる一冊であった。


7.
決定版「怪談」とハーンの芸術

この本は、次のように構成されていた

はじめにー池田雅之

完訳「怪談」

 序    1904120日 ラフカディオ・ハーン

 怪談(17)

    虫の研究(3)

    解説エッセイ1:完訳「怪談」世界を読み解く:池田雅之

「骨董」より

 15編の骨董・奇譚関連物語

 解説ウッセイ2:{骨董}の再話と瞑想の世界:池田雅之

怪談・奇談コレクション

 23篇の怪談・奇談物語

7編の自伝的作品

解説ウッセイ3:「怪談」「奇談」の世界を楽しむ:池田雅之

ラフカディオ・ハーン年譜

これは、ハーンの日本を舞台とした怪談、奇譚や自伝的作品をまとめた一冊で、決定版の意味が、最後のページに書かれていた。この本は、この前に発刊された「「日本の怪談1」と「日本の怪談Ⅱ」の収録作品を再編集の上あらたに「序」「かけひき」「葬られた秘密」「蝶」「蚊」「蟻」(完訳怪談)「焼津にて」(自伝的作品ほか)および解説を加え大幅に加筆修正したものです。」とあるので、これがハーンの作品集の主要なアンソロジーと云うことだろう。

このように、この本は、全体で70篇もの膨大な文章を収集編集したもので、「すぐれた芸術と云うものは、多少なりとも宇宙の神秘を、ghostlyなるものの世界をうかがわせてくれるものなのです。」のハーンの言葉にあるように、日本に伝わる話をフォークロア(民間伝承)的口調で再構成したものと自伝的エッセイからできている。

彼は、霊や夢といったものを通しても、無意識的世界に広がる集団の深層心理的真実に肉薄しようとしていたかも知れない。その一方で日本人としては、柳田 國男(1875年(明治8年)731 - 1962年(昭和37年)88日)が、民俗学の研究を始めたのが、明治41(1908)年頃からで、明治43(1910)年には日本民俗学の嚆矢となる『遠野物語』を著した。しかしハーンは、それより10年以上も前から日本の民話や怪談に着目し、その人間社会における重要性に気づいていたことになる。柳田国男とハーンの視点の比較は面白いテーマになるかも知れない。

8.まとめ

当初2冊の本を読んでまとめようとしていたが、ラフカディオ・ハーンは考えていたような簡単な素材ではなかった、その感受性と思想の広がりは私の想像力をはるかに超えていた。芳醇な思想と作品を前に私の旅はほんの入り口に立ったばかりと思わざるを得ない。ハーンの作品は美しい文章で綴られているが、これは翻訳者によるところ大かもしれない。とくに「日本の面影」の美しい日本語訳は見事であるとしか言いようがない。そこで訳者の経歴をwikipediaで調べてみた。下記に訳者の概要を記したが2000年に出版されたこの本は、訳者54歳の本であり、まさに一番充実した時期のものである。この本が56版も重ねた理由かもしれない。また、決定版「怪談」は、ハーンの作品の全体像に迫るにふさわしい本と感じざるを得なかった。多くの人に薦めたいと感じた。

翻訳者の池田雅之の概要(wikipedia)

池田 雅之(いけだ まさゆき、1946 - )は、日本の英文学者、比較文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。専門はTS・エリオットや小泉八雲(Lafcadio Hearn)研究を通じた比較文学・比較文化研究。早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授、早稲田大学国際言語文化研究所所長を歴任した。(了)