古書展で見つけて、「謀略は 誠なり」この言葉を本の裏表紙に見つけたためか、あるいは、陸軍中野学校と云う名前にイメージするものが無いことに突き動かされたのか、思わず手に取り読んでみたいと思い、購入した本、それが下記である。
「秘録 陸軍中野学校:畠山清行著:保坂正康編:新潮文庫:新潮社:平成15(2003)年8月1日発行」
インテリジェンス関連本と私
私が、何故こうした本に興味を持ったのか、そのきっかけとなった出来事がある。それはバブルの真っただ中の1985年3月26日付の朝日新聞に「スペインで戦死した無名の日本人ジャック白井の足跡たどって」と云う一文を読んだことに始まる。
その記事は、国際義勇軍としてスペイン戦争に参加したアメリカのリンカーン大隊。その一員として参加し、スペインで戦死した日本人ジャック白井に関する記事であった。そこにスペイン戦争で戦ったリンカーン大隊の義勇兵達が50年後にサンフランシスコの隣の町のオークランドに集まり、そこで「果敢なる闘争」と云う映画を上映したとの記載があり、その中で、当時リンカーン大隊の隊長だったミルトン・ウルフが「われわれは、未熟な反ファシストだった。今でも同じだ。」と語ったとの記事で、この言葉に集約されるが、このような観点を貫くことあるいは貫ける思想を持つことの困難さと素晴らしさに心から感動した。
。つまり、当時バブル真っただ中の経済大国日本の中で、一見平和な生活を送っている41歳の自分も「20年前には未熟に反ファシスト」で「今でも同じ」だが、残念ながら集まるべき仲間をおらず、「一人の孤独で未熟な反フゥシスト」でしかないと思い自分の仲間は、もっと広い歴史と世界に求めるしかないと思い定めた出来事であった。その時、この朝日新聞の記事を書いたのが、当時法政大学教授の川成洋氏であった。この記事の内容は、後に「スペイン戦争―ジャック白井と国際旅団:川成洋:朝日選書:朝日新聞出版:1989年2月」として発刊されている。
この川成洋氏の名前に再び出会ったのが定年後、古書展に通うようになってからで、そこの100円コーナーで見つけたのが「紳士の国のインテリジェンス:川成洋:集英社新書:株集英社:2007年7月第一刷発行」で、この本は、最も伝統と実力を持つと云われるスパイ王国イギリスの情報機関に関する祖国につくしたスパイと祖国を裏切ったスパイ列伝とも云うべき本で、この本に刺激されて、インテリジェンス関連の本を度々手にするようになった。その中には、次のような本がある。
「インテリジェンス武器なき戦争:佐藤優、手嶋龍一;幻冬舎新書:2006年11月第一刷発行」「情報立国・日本の戦争:山崎文明:角川新書:株KADOKAWA:2015年2月初版発行」
「インテリジェンス人間論:佐藤優:新潮文庫:新潮社:平成22(2010)年11月1日発行」
「秘録陸軍中野学校」の書物としての特徴
今回取り上げる「秘録陸軍中野学校」は、上に示したような一般的な本とは、格違いの本である。格違いと云う理由が、この本が著者自らによる資料の発掘、や取材、インタビューに基づくものであり、そこに著者のある種の執念か使命感を感ずるからである。
さらにこの本の面白さは、この本の編集者の視点にある。著者は、畠山清行氏であるが、編者は保坂正康氏であり、その保坂氏は、各編の末尾に、その簡潔な解説を追記しているだけでなく、この本を成立せしめた著者畠山氏そのものにも着目して作家畠山清行小伝とその後の陸軍中野学校の一文をこの本の一部として追記して、この秘録陸軍中野学校の価値をより広い視野から鮮明にして、編者としての役割を立派に果たしている。
著者畠山清行氏とは
畠山清行(1905~1991)は、明治38(1905)年北海道石狩次男として生まれた。父は、網元や町長を務めた地元の有力者であったが、13歳の時、父が病死し、家は一挙に傾き、親戚の家に預けられるが、まもなく東京に出奔し、アナーキズム運動に身を投じ、アナーキスト団体にも加わり、一端の活動家となる。彼は、文才に恵まれていて、実話雑誌に「読み物」を書き小作品も発表したりして生活費を稼いでいた。この間も皇太子の暗殺を企て死刑になった大正13(1924)年難波大助の遺体引き取り事件に参加する等血の気の多い活動をしている。昭和初期20歳を過ぎた頃から社会運動から少しずつ身を引き、文筆の世界に没頭、その当時、実録雑誌が相次いで刊行され、月刊誌のお抱えライターとして、幽霊もの、股旅もの、猟奇事件のルポルタージュ等を書いていたらしい。昭和10年代、思想弾圧の続く時代、そのエネルギーは文筆活動に向かい、徳川の埋蔵金伝説等の文筆の特徴は、現地調査によるルポルタージュ的文章にあったらしい。
戦時中は、大日本言論報国会に組み込まれるものの、子供向けの書、科学者の啓蒙書等を書いていた。
戦後の混乱期、カストリ雑誌の編集・発行に手をそめ、兄と共にいくつもの出版社を作り、幾つもペンネームを駆使して様々な記事や文章を書いていたらしい。酒を飲まない煙草好きの彼は、この事業で、莫大な富を積んだと云われている。
「カストリ雑誌は、太平洋戦争終結直後の日本で、出版自由化(ただし検閲あり、詳細は下段参照)を機に多数発行された大衆向け娯楽雑誌を指す。これらは粗悪な用紙に印刷された安価な雑誌で、内容は安直で興味本位なものが多く、エロ(性・性風俗)・グロ(猟奇・犯罪)で特徴付けられる。具体的には、赤線などの色街探訪記事、猟奇事件記事、性生活告白記事、ポルノ小説などのほか、性的興奮を煽る女性の写真や挿絵が掲載された。戦前の言論弾圧で消滅したエログロナンセンス(1929年 - 1936年)を引き継ぐ面もあり、戦後のサブカルチャーに与えた影響も大きい。」(wikipedea)。
昭和20年代の後半、このカストリ雑誌ブームが衰退してゆくが、この少し前、彼は、茨城県結城市で、国民協同党公認で、戦後最初の町議選に出馬し当選し、一期務めているが、これはかつての社会運動家達との縁がきっかけであったらしい。
しかし、昭和20年代後半から文筆業に本腰を入れ、旧軍人や兵士の聞き書きを始め、東京の第一師団の証言をもとに、昭和38(1963)年に「東京兵団(全3巻):光風社」を上梓している。この本は、昭和陸軍研究の基礎文献とも云えるもので、数百人の将兵の戦争体験を丹念に紹介している。
「秘録陸軍中野学校(正続)」誕生
畠山清行は、この取材の過程で、陸軍中野学校の関係者と知り合い、その話を聞いて、陸軍中野学校への関心が、一挙に高まり、この記録を残すことをライフワークとして自覚するようになる。これは、彼が60歳頃の話だ。そして昭和46(1971)年番町書房から刊行されたのが「秘録陸軍中野学校(正続)」の2冊である。
私が手にしたのは、この番町書房版を底本としたもので、番町書房版は、独立した60章から構成されているが、その中から28章を精選し、テーマごとに5篇に分けて収録したものである。つまり、底本が出版されてから32年後。著者が亡くなってから12年後の出版物ということになる。
編者保阪 正康について
編者の保阪 正康(1939年(昭和14年)―-)は、北海道札幌市生まれの日本の作家・評論家。同志社大学文学部社会学科卒後電通PRセンターへ入社。その後、物書きを志して転職した朝日ソノラマで編集者生活を送る。1970年に三島由紀夫事件をきっかけに死のう団事件を2年間取材。途中で5年勤務した朝日ソノラマを退社してフリーに転じて現在に至る。ちなみに、西部邁は札幌の中学校の1年先輩に当たる。札幌の高校生時代、北海道大学のシナリオ研究会に入会し、先輩に唐牛健太郎がいた。京都の私大に通っていた時は60年安保に反対する学生運動に参加する左翼系の学生であった。
また、この本は、彼の64歳当時の編集であり、畠山清行が「秘録陸軍中野学校(正続)」を発行した年齢66歳に近くなってからのものであることも興味深い。
文庫本の構成と概要
編者まえがき
まえがき
第一編 諜報戦の概要
第二編 陸軍中野学校の「秘密教育」
第三編 開戦前夜の南方工作
第四編 日米開戦と対外工作
第五編 戦慄の国内工作
小伝 作家・畠山清行
その後の陸軍中野学校(編者解説)
付録 陸軍中野学校関係年表
南方関係図
読後の感想
世の中に、沢山の本が出回っている。そしてその多くは、著者が一カ月、長くて数か月で書き上げた本が多い。地道な調査・取材をもとに一人の人間のライフワークとも云える執念で書き上げられた書物は極めて少ない。戦争や戦史に関連する本は多いが、その場に実際にいて、生きた当人達に直接取材して書かれた本は、それ程多くない。反戦や平和を語る前に世界の実体を知ることが必要である。戦争体験の語り部の話をきくのも結構だが、戦いに赴く人間達の実像をしることはさらに重要である。その意味で、これは一読に値するとつくづく感じた。特に自主的な判断と決断と行動を必要とされる諜報活動を行う人材教育が、日本でも自由な環境と教育によってつくられていたことに、諜報活動先進国のイギリスの情報機関の人材選抜システムとの類似性を感じて興味深かった。
なお、陸軍中野学校は、映画にもなっており、市川雷蔵、加藤大介出演の白黒映画は、現在でもYouTube上でみることが出来る。
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