1.はじめに
これは、SFではない。人工知能(AI)革命における科学・技術上の大きなブレイク・スルーが、多段階ニューラルネットワークの進化したデーブ・ラニングであるならぱ、このクリスパー・キャス9の発見とその応用が、まさしく生命科学における科学・技術上の大きなブレイク・スルーであった。そして、そのことに私は、すでに10年以上も前に着目して、小冊子「SFに連なる未来」(2019年発行)の中で指摘しておいた。しかし、この当時その事実に共感してくれたのは、食問題研究会でも、大学で生物科学を専攻してきた極少数の技術者しかいなかった。AI革命の初期のときと同じように、世間は、物事がはっきりとした姿を見せるまで無関心なのだ。そして、私自身も、AI革命の喧騒の中で、その事実からすっかり遠ざかっていた。そんなとき、書店で出会ったのがみの本であった。
「CRISPR ―究極の遺伝子編集技術の発見:ジェニファー・ダウドナ:サミュエル・スターンバーグ:桜井裕子(訳):文春文庫:株式会社文藝春秋:2021年10月10日第1刷」
著者のジェニファー・ダウドナは、2020年のノーベル科学賞の受賞者の一人だ。サミュエル・スターンバーグ(Samuel Sternberg)は、ダウドナの研究室でCRISPR-Cas9の研究に従事し、ジェニファー・ダウドナ教授のラボで博士号を取得した後、バイオテクノロジー企業での勤務を経て、現在はコロンビア大学の准教授として自身の研究室を率い、ゲノム編集の最前線で活躍しており、この本の共同執筆者となっている。
翻訳家櫻井裕子(1970年?~)
京都大学経済学部経済学科卒、大手都市銀行在籍中にオックスフォード大学大学院で経営学修士号を取得。訳書に『1兆ドルコーチ』『創始者たち』(以上、ダイヤモンド社)、『選択の科学』(文春文庫)、『イノベーション・オブ・ライフ』(翔泳社)、『BIG THINGS』(サンマーク出版)など多数
解説須田桃子(1975年~) 千葉県出身。早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了(物理学専攻)2001年に毎日新聞社に入社し、2006年から科学環境部の記者としてiPS細胞や生命科学などを担当。News Picksの副編集長を経て、現在はフリーランスとして活動しながら東京農工大学の特任教授も務めています。科学技術、医療、生命科学の分野における徹底した調査報道で高く評価されている。
この本は、文字通り、現代の先端の女性科学者、翻訳家、科学ジーナリスト達の総力と叡智が結実した本である。
2.本書の構成と概要
2.1本書の構成(目次)
プロローグ まったく新しい遺伝子編集技術の誕生
第一部 開発
第一章 クリスパー前史
第二章 細菌のDNAに現れる不思議な「回文」
第三章 免疫機構を遺伝子編集に応用する
第四章 高校生も遺伝子を編集できる
第二部 応用
第五章 アジア象の遺伝子をマンモスの遺伝子に変える
第六章 病気の治療に使う
第七章 核兵器の轍は踏まない
第八章 福音か厄災か
エピローグ 科学者よ、研究室を出て話をしよう
謝辞
原注
訳者 あとがき
解説 須田桃子
2.2基礎事項の確認 2.2.1 ゲノムと遺伝子とDNA
ゲノム(Genome)とは生物が持つ「遺伝情報のすべて」のことで、遺伝子(Gene)はその中にある「具体的な情報が書かれた一つひとつのパーツ」を指す。
1) 遺伝子は、DNAという長い紐(ひも)のような物質の一部分だ。
- 役割: 目を何色にするか、どんな筋肉を作るかなど、タンパク質を作るための具体的な設計図(文字データ)だ。
- 特徴: ヒトの体には約2万個の遺伝子がある。しかし、これはDNA全体のたった1.5%程度しかない。残りの約98.5%は、遺伝子の働きをコントロールするスイッチの役割などを持っている。
2) ゲノムとは:命の全データ
ゲノムは「遺伝(gene)」と「すべて(-omen)」を組み合わせた言葉だ。
· 役割: その生物を形作るために必要な、すべてのDNA情報(1.5%の遺伝子 + 98.5%のその他の領域すべて)の塊だ。
· 特徴
: 親から子へ引き継がれる「生命の設計図の1セット」そのものを指す。
3) 関係性のまとめ
細胞の中には「染色体」があり、それを細かく紐解くと「DNA」という物質になる。そのDNAの全体像がゲノムであり、その中に点在する大切な情報エリアが遺伝子だ。「ゲノム」と「DNA」は、よく混同されるが「情報そのもの」と「情報を記録している物質」という決定的な違いがある。本に例えると、DNAは「紙とインク(物質)」であり、ゲノムはそこに書かれている「本の物語のすべて(情報)」だ。
2.2遺伝学とゲノム編集の歴史
1) 遺伝の「法則」と「言葉」の誕生(19世紀〜20世紀初頭)
最初は、遺伝がどのような「物質」によって行われているのか誰も知らなかった。
- 1865年:グレゴール・メンデルの法則
- エンドウ豆の交配実験から、親から子へ形質を伝える「遺伝粒子(因子)」が存在することを発見した。これが遺伝子概念の誕生だ。
- 1903年:ウォルター・サットンの染色体説
- 顕微鏡での観察から、遺伝因子は細胞の中にある「染色体」の上にあると提唱した。
- 1909年:言葉の誕生(ヨハンセンとウィンクラー)
- デンマークのヨハンセンがメンデルの因子を「遺伝子(Gene)」と命名した。
- その後、1920年にドイツのウィンクラーが、遺伝子(Gene)と染色体(Chromosome)を組み合わせて「ゲノム(Genome)」という言葉を作った。
2) 遺伝子の正体が「DNA」と判明(20世紀半ば)
しばらくは、複雑な遺伝情報を担うのは「タンパク質」だろうと考えられた。
·
1944年:オズワルド・エイブリーらの実験
o 肺炎双球菌を使った実験により、遺伝情報を伝える本体がタンパク質ではなくDNA(デオキシリボ核酸)であることを証明した。
· 1953年:ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックの二重らせん構造
o ロザリンド・フランクリンらのX線回折データを元に、DNAが「二重らせん構造」をしていることを突き止めた。
o A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)という4つの塩基が対になって並ぶことで、デジタルデータのように遺伝情報を記録している仕組みが明らかになった。
3) 文字を読み解く「ゲノム解読」の時代(20世紀後半〜21世紀初頭)
構造が分かったことで、次は「そこに何が書かれているか」を全文字読む挑戦が始まった。
- 1977年:フレデリック・サンガーのDNAシーケンシング技術
- DNAの文字(塩基配列)を確実に見分ける「サンガー法」を開発し、のちの大量解読への道を開きました(サンガーはこの功績などでノーベル化学賞を2度受賞)。
- 2003年:ヒトゲノム計画の完了
- 日米欧などの国際共同プロジェクトにより、人間の全遺伝情報(約30億文字)を解読する「ヒトゲノム計画」が完了した。これにより、人類は自らの「完全な設計図」を手に入れた。
4).
設計図を書き換える「ゲノム編集」の時代(現代)
読むだけでなく、ピンポイントで書き換える技術へと進化している。
· 2012年:CRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)の発表 o ジェニファー・ダウドナとエマニュエル・シャルパンティエが、狙った遺伝子を極めて正確に切断・編集できる技術を発表し、2020年にノーベル化学賞を受賞した。医療や農業の分野で革命を起こした。
2.3 本書の概要
1)プロローグ まったく新しい遺伝子編集技術の誕生
ここでは、著者等が発見した まったく新しい遺伝子編集技術CRISPR Cas 9の歴史的意義と将来展望が熱く語られ、この本の構成が、第一部でその開発の歴史を取り上げ、第二部でその応用の現状と展望・課題について述べ、この本がジェニファー・ダウドナの一人称で書かれているが、これは、表現上のわかりやすさのためで、実際には、ミュエル・スターンバーグとの共同執筆であるとのことわり書きがされている、
2)第一部 開発
第一章クリスパー前史
遺伝性疾患は、DNA上の配列の異常によって起こる。では、それを編集修正できれば、病気は治療できるのではないか?。ある遺伝病患者の奇跡的回復は、そのことを示唆していた。
クリスパーが開発されるまでの人類の遺伝子編集研究の歴史をたどる。
第二章 細菌のDNAに現れる不思議な「回文」
動物のウイルス感染の防御としてのRNA干渉を研究していた私のもとに、見知らぬ研究者から不思議な電話かせかかる。「クリスパー」彼女は言った。それは細菌の中のDNA配列に見られる不思議な「回文」のことを指していた。
回文:バリンドローム、バリンドローム構造とは、前からよんでも後ろから読んでも同じ配列(例えばsenile felines 年老いたねこ)
クリスパー:Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic
Repeats(クラスター化され、規則的に間隔が空いた短い回文構造の繰り返し)
第三章 免疫機構を遺伝子編集に応用する
CRISPRのⅠ型は、DNA塩基を高速で破壊する。ブレイク・スルーは、Ⅱ型にあった。Ⅱ型のCRISPR特有酵素Cas9を研究するフランスの研究者(エマニエル)から共同研究の申し出があった。それが特定の場所で遺伝子を自在に編集できるツールの発見の鍵となる。
第四章 高校生も遺伝子を編集できる
私達が2012年に論文を発表してから堰を切ったようにCRISPRの多様な利用方法が発見されている。私を含む科学者は、医療ベンチャー企業を立ち上げた。これまでの600分の1以下のコストで、短時間でできるこの「魔法の杖」を誰もが使い始めた。
第二部 応用
第五章 アジア象の遺伝子をマンモスの遺伝子に変える
CRISPRを利用したさまざまな試みが世界中の研究室や企業で始まっている。うどんこ病抵抗性遺伝子を挿入したパンコムギの作成、角の生えない牛。ハーバード大学は、マンモスを現代に蘇らせるプロジェクトも始めた。が倫理的境界線をどこにひくべきか?
第六章 病気の治療に使う
CRISPRは、7000以上ある単一遺伝子疾患の治療に福音となる。先天性白内障、筋ジストロフィー等では、すでにマウスの治療は成功済みだ、TALENを使った遺伝子編集では、末期の小児がんを治療した例もある。その最前線を報告する。
第七章 核兵器の轍は踏まない
豚の顔を持つヒトラーは、私にこう語りかけた。「君が開発した素晴らしい技術の利用法を知りたい」CRISPRは核兵器の轍を踏むのか?。そうさせないためにも、社会を巻き込んだ議論が必要だ。私たちは、「サイオンス」誌に呼びかけの一文を掲載する。
第八章 福音か厄災か
私たちパースペクティブ論文の直後に、中国の科学者によるヒト胚にCRISPRを使った論文が発表された。米国の諜報機関は、CRISPRを「第六の大量破壊兵器」と指摘する報告書を書く。人間が人間の遺伝子を改変することはどこまで許されるのか?。
エピローグ 科学者よ研究室を出て話をしよう
遺伝子編集が人類と地球を根底からゆるがすような影響を及ばそうとしている。私たちは、今新しい時代の戸口に立っている、
謝辞
執筆者としての共同謝辞、執筆者 個々の謝辞
訳者あとがき(櫻井裕子)
原題が A Crack in Creation (創造の亀裂)の意味と訳が2か月という短期間で行われたこと等が書かれている。
解説 百年に一度の+技術(須田桃子)
この複雑で難解な本の全貌を数ページで要領よくまとめている。
2.4 CRISPR-Cas9によるゲノム編集プロセス
この本の核心的な部分は、生第二章と第三章であるので、それを要約してまとめると次のようになる(以下は、書いた文章をAIに校正してもらって完成させた)
CRISPR-Cas9によるゲノム編集は、細菌がウイルスの攻撃から身を守るために発達させた免疫防御システム(CRISPR-Cas9)の「標的を認識して切断する仕組み」を応用した技術だ。これは、ガイドRNA(gRNA)が標的となるDNA配列を認識し、切断酵素であるCas9がその場所をピンポイントで切断した後、細胞が持つ自然な修復機構を利用して遺伝子を改変するプロセスで、次の四つのステップから成り立つ。
2.4.1. ガイドRNA(gRNA)とドナーDNAの設計
- 標的の選定: 編集したい目的の遺伝子配列(約20塩基)を特定する。
- PAM配列の確認: 標的の直後にCas9が認識するために必要な「PAM配列(SpCas9の場合はNGG)」が存在することを確認する。
- gRNAの作製: 標的配列にぴったり結合する相補的なRNAを設計・合成する。この作製には化学的プロセスも確立されており、この業務を請け負う企業もある。
- ドナーDNAの準備: 新しい遺伝子を挿入(ノックイン)する場合は、再生・挿入したい遺伝子配列(ドナーDNA)をあらかじめ準備して作成しておく。この作製を担う企業もある。
2.4.2 複合体の細胞内への導入
- 人工複合体の形成: 合成したgRNAと切断酵素であるCas9タンパク質を結合させ、複合体(RNP)を作る。
- 細胞への注入: エレクトロポレーション(電気穿孔法)や顕微注入(マイクロインジェクション)、ウイルスベクターなどを用いて、この複合体(ノックインの場合はドナーDNAも同時)を対象の細胞内へ導入する。
2.4.3. 標的DNAの認識と切断
- ゲノムの探索: 細胞内に入った複合体は、gRNAの案内によってゲノムDNA上から一致する標的配列を探し出す。
- 二本鎖DNAの切断: gRNAが標的配列に結合すると、Cas9がハサミの役割を果たし、DNAの二本鎖を正確に切断(DSB)する。
2.4.4. 細胞によるDNA修復(遺伝子の改変)
切断されたDNAは、細胞が本来持っている以下のいずれかの修復機構によって直される過程で配列が書き換わる。
- ホモロジー指向修復(HDR)/ ノックイン(ドナーDNAを利用する場合):
- 導入時にあらかじめ「理想の設計図(ドナーDNAテンプレート)」を同時に高濃度で入れておく方法だ。
- 細胞がそのテンプレートを参考にしながら正確に修復するため、任意の新しい遺伝子配列を組み込む(ノックイン)ことができる。
- 非相同末端結合(NHEJ)/ ノックアウト(ドナーDNAを利用しない場合):
- 切断された末端をそのまま繋ぎ合わせる修復方法だ。
- 修復の際に塩基の挿入や欠損のエラーが起こりやすく、遺伝子の機能が破壊(ノックアウト)される。
2.4.5まとめ
CRISPR-Cas9によるゲノム編集は、「gRNAの設計 ➔ 細胞への導入 ➔ Cas9による標的DNAの切断 ➔ 細胞自体の修復エラー(またはテンプレートに沿った修復)による配列改変」という一連の流れで完了する。
3.感想と所感
最初読み始めたときは、その前に読んだSFジイムズ・P・ホーガンの「創世記機械」を想起させる物語のごとき印象をもった「創世記機械」は物理学上の発見をテーマとしたSFであるが、これは、生化学、生物学上の発見の実話であり、その現在進行形の応用の可能性と見通し、希望と危惧の物語である。この本の核心的な部分は、生第二章と第三章であるが、化学と生物学の基礎知識の乏しい私には、極めて難しく、何度読み返しても良くわからなかった。しかし、その発見と開発の物語はエキサイティングであり胸躍るものがあることだけは伝わってきた。当初その書き手については、ほとんど関心が無かったが、ノーベル賞関連のWebサイトで、受賞の二人が美しい女性科学者であることに驚いた。しかも訳者と解説者までが女性である。詩的プロローグで始まるこの本は、まさしく女性時代を象徴するような本であるが、そこに一切の胡散臭さがないのは、彼女等が本物の科学者であり、現代の人類の知性を代表していると感じさせるからである。
遺伝子編集技術がSFのテーマとなった話は、既に小冊子「SFに連なる未来」の中で取り上げたT・Jバスの「神鯨」で取り上げたが、この話は、今から数千年後の未来の話であった。日本のSFでは、安部公房の「水中都市・テンドロカリヤ」があるが、これは、ハードSFではなくある種の幻想小説であり、遺伝子編集問題を正面から扱ったものではない。「神鯨」は1974年に出版されているので、今から50年以上も前の作品である。しかし、この作品以降あまり本格的に遺伝子編集技術を扱ったSFに出会ったことがない。これは、AIを題材としたSFに比べて圧倒的に少ない。これは多分生化学の現状に対する情報が圧倒的に少ないためであろう。しかし、SF世界が沈黙を続ける陰で現実の科学・技術は確実に加速度的に進化し続けている。この影響が突如として我々の目の前に姿を現す日は決して遠くはない。この本のエピローグの中で著者は「遺伝子編集技術が人類と地球を根底から揺るがすような影響をおよぼそうとしている今・・・私たちは、今新しい時代の戸口に立っている」と述べているが、その声は、まだ限られた人の耳にしか届いていない。
今の我々は、人類が生物的に変化しないことを前提として考えており、AIも生体としての人間または、人類の外部からの問題として考えられている。しかし、生物としての人間または人類には、自らを改変すべきか否かというもう一つの大きな問が目の前にある。地球環境が極端に変化した場合、人類には自らの生体を改変して生き延びる必要があるかもしれない。熱い大気環境を避けて水中生物化した人間を扱った安部公房の「水中都市・テンドロカリヤ」あるいは、放射能耐性を獲得した人類が、宇宙旅行したり、磁気圏がない火星環境で別生物として生き延びる物語が現実が出現する時代がやってくる可能性もある。いずれにせよ、遺伝子編集技術は、人類の未来に新たな可能性を切り開くものの一つであることは確かであろう。(了)


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