2021年12月28日火曜日

  時空2688年の旅 ―明日香幻想に観る事象と風景の裏側―

はじめに

一つの言葉が、様々な風景と出来事を結び付け、思いがけない世界へ導くことがある。スケッチ旅行で、度々訪れた明日香の地で出会った石舞台遺跡の横の丘から見た吉野の山々を背景にした明日香村の一筋の道、甘樫の丘から眺めた大和三山、それらの風景が、一冊の本の世界と結び付いたとき全く別の風景が見えて来た。

2021年12月7日火曜日

2021年火星への旅―アーサー・C・クラーク「火星の砂」に寄せてー

 

概要

新型コロナによるパンディミック、地球温暖化、米中対立、閉塞感漂う時代を生きるには、

先人達の言葉が導きとなる。「我らを取り巻く空気は重い。世界は窒息して死にかかっている。もう一度窓をひらけよう。広い大気を流れ込ませよう。英雄達の息吹を聞こうではないか。(ロマンロラン:ベートーベンの生涯より)

2001年「宇宙への旅」で一躍一般の人にも知られるようになった20世紀のイギリス生まれのSF界の巨匠アーサー・C・クラーク。月の探査や基地計画、火星の探査や移住計画が現実のものになりつつある現在、彼はこうした人類の宇宙への進出をどのように考えていたのだろうか。

第二次世界大戦後の廃墟の中で、若きクラークが夢見たこと。その原点とも云える初期長編小説2作「宇宙への序曲」と「火星の砂「を手掛かりに、作家誕生の原点と若き日に構想した、人類の月旅行と火星移住計画の思想とその現代的意義について考えてみる。

SFとの出会いと火星旅行

私が、SFなる分野に興味を持ったのは、中学時代、ウェルズ原作の「来たるべき世界の物語」の映画を見て以来である。東西冷戦真っただ中、核戦争の恐怖が世界を覆っていた時期、この映画は、未来への希望を示す一筋の光を与えてくれた。その後、大学時代の初めに、アーサー・C・クラークの初期の作品「太陽系最後の日」に出会い、クラークの宇宙的世界観にすっかり魅せられてしまい。本格的にSFを読むようになった。

それ以来SFは、私の精神世界の一分野としてすっかり定着してしまった。古書展でも、SFは、私のターゲットの一ジャンルとなった。そんな中、コロナ以後の初めての古書展で、久々にまだ読んだことのないアーサー・C・クラークの作品平井イサク訳「火星の砂(昭和53(1978)731日発行:早川書店)を見つけた。

火星については、「宇宙戦争」や「火星のカーター」等のSFでも空想科学の空想に力点が置かれた作品が多かったが、近年映画「火星の人」等で、最近の惑星科学をバックに、より実的な科学に力点を置く作品も現れるようになってきた。

さらに、2016年、米国のベンチャースペースXの創業者、イーロン・マスクが、宇宙旅行の商用ビジネスや火星への移住計画を発表する等、月や火星を目指す商用事業構想が現実的に議論される時代になり、1970年代以降停滞していた人類の宇宙を目指す動きが、再び活発化しようとしている。

こんなこともあって、クラークと火星の取り合わせに興味を覚えて、「火星の砂」を読み始めたが、それが図らずも作家クラークの誕生と彼の思想の源流とその思想の現代的意義を考えるきっかけとなった。

クラークの生涯

1968年の抒情詩的SF映画2001年宇宙への旅: 原題:2001: A Space Odysseyで一躍有名になったアーサー・C・クラーク(19171216日~200831491歳没)は、20世紀SF界の巨匠であるが、彼の経歴は、あまり知られていない。

Wikipediaによれば、彼はイギリスの南西部サマセット州の生まれで1936(19)にグラマースクールを卒業した後は公務員として働いていたが第二次世界大戦中にはイギリス空軍の将校として電波探知法、着陸誘導管制 (GCA) 用レーダー等の開発に取り組み、教官も務め、1944年復員時(27)には、イギリス空軍の大尉となっていた。戦後、ロンドン大学のキングス・カレッジに入学し、物理学と数学を専攻する。一時、大蔵省に勤めるがすぐに退職。とある。

クラークは1937年から1945年まで同人誌にいくつか小説を発表していたが、1946(29)、アメリカのSF雑誌アスタウンディング4月号に掲載された短編「抜け穴」で商業誌デビューする。実際に最初に売れたのは翌5月号に掲載された「太陽系最後の日」である。この作品は評価が高く、日本では1960年『S-Fマガジン』創刊号に翻訳が掲載され、支持を得た。作家活動が本格化してきた1949年に Science Abstracts 誌の編集助手として働くようになったが、1951年以降は専業作家となった。1951年には第一長編『宇宙への序曲』を発表。同時期に第二長編「火星の砂」を発表している。

クラークは1956年から亡くなる2008年までスリランカに住んだ。その理由について、クラークと同じく同性愛者であった電子計算機の原理を築いたアラン・チューリングが1954年に自殺に追い詰められた事件にショックをうけ、性的に寛容なスリランカに移住したと、親しい知人には語っていたという。

クラークは、少年時代から天体観測を趣味としSF小説に熱中していた。1934年に英国惑星間協会へ入会し、1946年には会長も務めている。クラークのその後の活躍はあまりに有名であるが、ここでは省略し、以下では、作家クラークの誕生と初期長編2作の概要から彼の思想の原点を探ってみる。

作家クラークの誕生

クラークの長編第1作は、「宇宙序曲:PRELUDE TO SPACE」であるが、これも以前古書展で見つけて入手してあった。それがハヤカワ・SF・シリーズ3294の山崎昭訳「宇宙への序曲(昭和47(1972) 815日発行:早川書店)であった。2作目は「火星の砂:SANDS OF MARS」であるが、これらは共に1951年に発行されている。

「宇宙への序曲」が実際に執筆されたのは19477月、クラークが、ロンドン大学のキングス・カレッジ在学中の夏休み中の時で、若干30歳の時であるが、それが実際の出版にこぎつけるのは、4年後の1951年のことでその年は、二番目の長編小説「火星の砂」が発行された年でもある。とすれば、「火星の砂」が実際に書かれたのは、1947年以降の1948年から1949年、31歳から32歳頃のことと思われる。

グラマースクール出て、まもなく20代の前半を第二次世界大戦の戦時下で過ごしたSF好きの青年が、科学や技術の基礎的素養である物理学や数学を学びたいと28歳でカレッジに入学したのは、青春を戦時下で過ごした青年の当然の要求であった。カレッジ卒業の記述がないため、彼が、実際に卒業したかどうかは不明である。

空軍を退役した後の29歳から二つ作品が発行される34歳までの5年間は、彼が、科学や技術又は関連する産業分野の職業人として生きる道を断念し、作家として自立する時期であり、1947(30)発表の「太陽系最後の日」の高評価が彼の作家への道を強く後押ししたことは、間違いない。

初期長編2作品

この長編処女作2編が取り上げたのが月旅行と火星旅行であったのは、彼が単なる作家ではなく、物理や数学、そして産業と密接に関係する工学を知る技術者としての経験を持つことからも理解される。既に1945(28)、人工衛星による通信システムを構想し、提案した論文を発表していることに現れている。

第二次世界大戦が終わる1945年は、広島、長崎に原爆が投下された年であり、この当時核エネルギーについての知識は、ほとんど知られてなかったことを考えると彼の想像力の豊かさに驚かされる。

宇宙への序曲」は、イギリスを中心とする人類初の月を目指すプロジェクトのロケット打ち上げまでの物語であり、その動力源に原子力を想定していた。19697月のアポロ11号による人類初の月着陸の事実を知っている現代のわれわれから見れば、今となっては、歴史ファタタジーでしかない。しかしこの頃既に月着陸は人類にとって、宇宙進出の始まりに過ぎないこと、人類は、この月に宇宙基地を建設し、そこを起点として、太陽系内の他の惑星に進出すると云う壮大な見通しをこのプロジェクトの総責任者の口を借りて語らせている。

これに続く「火星の砂」では、さらに火星での基地建設プロジェクトの模様を取り上げているが。そこでは、火星旅行の商用化開始時期に焦点が当てられている。物語は、SF作家がその初めての顧客として、地球の周回軌道上の宇宙ステーションで、惑星間宇宙船に乗り換え、火星の衛星の一つであるダイモス上の基地まで到達し、そこから火星上に建設されつつある都市を旅する物語であり、2021年でもリアリティを持つ未来物語となっている。

 この作品は、データをマイクロフィルムで保存するとか、原稿をタイプライターで書くとか、既に現代から見れば、陳腐化したツールが登場しているが、こうした生活レベルでの科学や技術ツールを除けば、宇宙船の動力に核反応を利用する、火星の環境を人類が居住可能なように改変するテラフォーミングに関する技術、さらには、第二の太陽を出現させるノバ技術等今でもSFファンタジーとしての生命力を持ち続けている。これ等の作品が30歳を過ぎたばかりの若者の手によって1950年前に書かれたのは驚くべきことである。

その後の宇宙開発と世界

クラークが、「宇宙への序曲」を書いてから10年後の1957年、ソ連が初めて人工衛星スプートニクを打ち上げ、それを契機に米ソの宇宙開発競争が加速し、その12年後の1969年にアメリカは、人類初の月着陸に成功する。

1959年、高校生であった私は、自然文学の影響もあって山岳部と共に天文部に所属しその天文部で、先輩達の岩波新書の「宇宙と星:畑中武夫」の輪講会等に参加したり、山岳部で知り合った同好の友人T君と学校の屋上にシュラフを敷いて、ペルセウス座星群の観測等をしていた。その頃天文部での話題は、人類は、月着陸を実現するのかであり、何故大人達は、こうした宇宙の神秘に関心がないのかといったことであった。

こうした少年期の宇宙へ興味や関心は、目前に横たわる受験の壁や青春期に突如として襲ってくる恋の熱病や社会的な政治の波により、次第に薄れていったが、広大な宇宙や世界への憧れは、心の奥で生き続けていたように思う。

1970年以降は、宇宙開発は、もっと実用的な宇宙ステーション建設に焦点が当てられてゆく。すなわち、1980年代初期、米大統領のレーガンにより冷戦期における西側諸国の宇宙ステーション「フリーダム計画」が立案される。この計画は、西側の結束力をアピールしてソビエト連邦に対抗する政治的な意図が非常に強いものであった

一方、ソ連は1970年代、滞在型の宇宙船「サリュート」を打ち上げていたが、1980年代にはこれに続く宇宙ステーション「ミール」を打ち上げ、宇宙滞在を実現していたが、1991年末のソビエト連邦の崩壊による混乱と財政難で、ミールは宇宙空間で劣化していった。

国際宇宙ステーション(International Space Station、略称:ISS)は、19889月に締結された日米欧の政府間協定により着手され、1998年にはロシア、スウェーデン、スイスを加えた国際宇宙ステーション協定が署名された。

これによりISS計画の参加国は、アメリカ、ロシア、カナダ、日本、欧州宇宙機関(ESA)加盟国を加え15カ国となって1998年にロシアが製造したザーリャモジュールが打ち上げられてISSの建設が開始され、20117月に完成した。

当初の運用期間は2016年までの予定であったが、アメリカ、ロシア、カナダ、日本は少なくとも2024年までは運用を継続する方針を発表している。

中国はISSの参加を打診したことはあるものの、独自の宇宙ステーションである「天宮」を開発中である。インドもISSへの参加を希望するも他の参加国の反対に遭ったため、独自の宇宙ステーションの建設を決定した。

ソ連の経済的後退と1989年のソ連邦崩壊により、宇宙開発は沈静期を迎える。対抗者を無くした米国でも、スペースシャトルの事故以降宇宙開発熱はさめ、それ以後は、各国の協力に基づく宇宙ステーションを中心とする地道な技術蓄積時代が続いてきた。

しかし、2010年以降になって中国が、科学・技術の覇権を握るべく、月探査や火星探査計画を発表し、実行に移し始めるとそれと期を一にして米国における民間のベンチャーによる商業ベースの宇宙事業が立ち上がり、新宇宙開発競争の時代が始まったかに見える。しかし、そうは云うものの、残念ながら、現代の宇宙開発の主体は、米国、ロシア、中国の宇宙空間での軍事的覇権争いの色彩が強い。しかし、これ等が新たな宇宙時代への道に微かな光を照らしているのも事実である。クラークの世界は、この微かな光と繋がっている。

クラークとチューリングの青春と世界

アーサー・C・クラークは、こうした少年期の若々しい知的精神を確実に実らせていった人物であろう。彼は。195336歳の時、フロリダで偶然知り合った子持ちの女性と電撃結婚するが、6カ月で別れ離婚している。(正式に離婚が成立するのは、1964年)

後日あの結婚は初めから間違っていたと語っていたがその事件は、彼が遅まきに訪れた青春の熱病に罹かり、初めて自分の本性に目覚めた事件であったようだ。1956年彼はスリランカ(セイロン)に移住し、終生ここを拠点として執筆活動を行う。このスリランカ移住には、その前に起こった天才数学者アラン・マシスン・チューリングAlan Mathison Turing)の自殺事件があったと云われている。

チューリングは、第二次世界大戦中、ドイツが使用していた暗号機エグニマの解読に寄与すると共にコンピュータの原理等を考えた天才数学者であるが、同性愛者であることが、分かり迫害され、自殺に追い込まれた、彼が政府により、公式に名誉回復をしたのは2009年のことで、映画「エグニマ」は、彼の生涯を扱っている。

クラークは、1953年の結婚の苦い経験から、自分が同性愛者であることを自覚したに相違ない。さらに、チューリングが自殺したのは、195441歳の時である。クラークは、チューリングの自殺の影響で、同性愛に厳しいイギリスの地を離れて、スリランカに移住したと云うことだと思う。

クラークもチューリングもその知的世界は、およそ女性の官能的・感情的・性的世界とはかけ離れており、女性との生活は、耐えられないものであったに違いない。

クラークはスリランカの地で、同性のパートナーに寄り添われ、少年の頃の精神を開花させ、膨大に作品群を残して2008319日、91歳で亡くなった。チューリングとクラークの生涯は同性愛問題を理解するヒントとなるかもしれない。

クラークの作品群とその思想

月旅行と火星旅行と云う長編2作品を発表して以降、彼の視点は、太陽系内のその他の惑星へ、さらには銀河系全体へと広がってゆく、彼は、人類はまだ幼年期にあると考え、宇宙全体を舞台とする。膨大な作品群を生み出してゆく。その根底にあるのは、知性とその進歩への限りない信頼と楽観論である。

作家として自立した以降のクラークの活躍には、目を見張るばかりである。膨大な作品群を生み出しながら、宇宙や科学に関する啓発活動にも取り組み、数々の賞を得ており、1989年にCBE(大英帝国勲章)授与され、2000年にナイトの称号を得ている。2005年にはスリランカ政府が文民向けの最高勲章 Sri Lankabhimanya を授与している。

その作品群には、私が、読んだ主な作品だけでも、次のようなものがあり、その他の短編やエッセイを含めると膨大な量になる。

『幼年期の終り』 Childhood's End (1953年) ISBN 4488611028 ISBN 4150103410

『銀河帝国の崩壊』 Against the Fall of Night (1953年) ISBN 448861101X

『地球光』 Earthlight (1955年) ISBN 4150103089

『都市と星』 The City and the Stars (1956年) ISBN 4150102716

『海底牧場』 The Deep Range (1957年) ISBN 4150102252

『渇きの海』 A Fall of Moondust (1961年) ISBN 415010235X

『2001年宇宙の旅』 2001: A Space Odyssey (1968年) ISBN 4150102430 ISBN 415011000X (改訳決定版)

『楽園の泉』 The Fountains of Paradise (1979年) ISBN 4152020318 ISBN 4150107319 - ヒューゴー賞[101]、ネビュラ賞[102]受賞

『遥かなる地球の歌』 The Songs of Distant Earth (1986年) ISBN 4152020598 ISBN 4150111359

『星々の揺籃』 Cradle (1988年、ジェントリー・リーと共著) ISBN 4152020660 ISBN 4150112185

『悠久の銀河帝国』Beyond the Fall of Night (1990年、グレゴリー・ベンフォードと共著) ISBN 4152020741

『2010年宇宙の旅』 2010: Odyssey Two (1982年) ISBN 4152020555 ISBN 4150110522

『2061年宇宙の旅』 2061: Odyssey Three (1987年) ISBN 4152020636 ISBN 4150110964

『3001年終局への旅』 3001: The Final Odyssey (1997年) ISBN 4152080884 ISBN 4150113475

さすがに晩年には、共著が多くなっており、下記に示す2000年以降の長編はすべて共同作品となっている。

『時の眼』(タイム・オデッセイ1)Time's Eye (2003年、スティーヴン・バクスターと共著) ISBN 4152087838

『太陽の盾』(タイム・オデッセイ2)Sun storm (2005年、スティーヴン・バクスターと共著) ISBN 4152089121

『最終定理』The Last Theorem (2008年、フレデリック・ポールと共著) ISBN 9784152091017

『火星の挽歌』(タイム・オデッセイ3)FIRSTBORN (2008年(邦訳は2011年)、スティーヴン・バクスターと共著) ISBN 4152092599

SF的ロマンと発想をめぐって

閉鎖系としての地球温暖化論の政治的プロパガンダの中で、縮小均衡論的思考が支配する現代、月への進出を出発点とする宇宙への進出の意義について、74年前、30歳のクラークは、「宇宙への序曲」の主人公に次のように語らせている。「この道は、どんな種族であろうと、彼等がその小さな天体で衰え死滅しないためには、最後には、必ず通らねばならない道なのだと云うことを彼は今信じたのである。」

iPADで、世界に衝撃を与えたアップルのステーヴ・ジョブズ達が、その製品を思い立ったのは、1979年から始まった米国のSF映画スタートレックに出てくるタブレットをみてからだと云われており、それ以降、SF的発想が新技術や新製品開発に有効であるとの認識が徐々に広がってきた。

すなわち、最初に、新しいツールや製品を使う場面や使われ方を想定し、それを実現するための部品や技術を逆に辿ると云うデザイン思考の製品開発である。これ等は、既に腕時計型の通信端末として市場に現れている。

また、スタートレックの中で頻繁に出てくる。バーチャルリアリティのシミョレーションは、メタバースと云うリアルと仮想空間を結合した商用市場として急速に普及しようとしている。

多数の人間が、直接月旅行や火星旅行は出来ないかもしれないが、メタバースを利用した宇宙旅行は、可能かもしれない。

悲観論者は、フロンティアの消滅による資本主義の終焉、地球温暖化による文明の崩壊や恐怖を語るが、その打開と解決のヴィジョンは語らない。

アーサー・C・クラークに代表されるSF的発想こそが、人類の未来を切り開くものであるかもしれない。

冒頭のロマンロランの言葉は、大学時代の物理学の恩師坂田昌一先生が卒業アルバムに寄せて書いてくれた言葉でもある。


2021年11月23日火曜日

青春自然派歌人と老成荒地派詩人 ―若山牧水と加島祥造をめぐって―


 

コロナ下で2年近く中止になっていた古書展が再開されたのは、2021年の10月の末だった。古書展での私の目当ては、主に詩集、SF、怪奇物や宗教書である。全集物は、かさばるし画集類は、今から見れば印刷が悪い。また、科学技術関係書は、古典を除き中身が古い。

この時、2時間ばかり、会場を見て歩き、5冊程の本を買って帰ったが、その中の詩の関連の一冊が大岡信の若山牧水論であり、もう一冊が、加島祥造の詩集である。

大岡の本は、若山牧水―流浪する魂の歌:大岡信:中央文庫:昭和56910日発行で、当時の定価240円であり、これが200円で売り出されていた。大岡信は、1931年生まれの詩人で201786歳で亡くなっている。昭和56年は、1981年であり、この本は、彼が50歳の時に書かれた本である。解説は、歌人、評論家で国文学者の佐々木幸綱(1938年~)が書いている。

若山牧水は、中学の終わり頃から高校にかけて私が影響を受けた歌人であるが、この本を読みながら、この頃影響を受けたもう一人の詩人・小説家の国木田独歩のことを思い出した。

  その国木田独歩についても以前古書展で、関連本を入手した記憶があった。本棚の片隅で見つけたその本は、清水書院が明治、大正、昭和の近代文学の代表的作家の生涯と作品を平明に解説した全38冊の内の一冊で昭和411030日発行16巻目の本で、当時の定価250円であった。これは100円で入手した記憶がある。この本は児童文学作家で文芸評論家の福田清人が、その研究に出入りしていた本田浩に書かせ監修した作品であった。この2冊の本を今回あらためて読み直して、あらためて自分のこの二人の作家との出会いを振り返ることになった。

中学時代教科書に載っていた独歩の作品「武蔵野」の美文に魅かれて、彼の作品を読んだが、その中に散文と共に「山林に自由存す」との詩に出会い、それが山や山林等自然に対するあこがれを駆り立てられたものであった。この独歩との出会いは、すぐに若山牧水の紀行文と歌への共感となり、高校への入学と共に私を山岳部に導くことになった。

その当時その牧水と独歩自身の人物像や作品の背景に興味があったわけではない。その当時は、彼等の作品そのものに魅かれていたためである。

しかし、独歩や牧水が歌った自然への憧れに魅かれて入った高校の山岳部は、そうした世界とは、およそ無縁な体育会系の運動部であり、私は、全く異なる世界へ迷い込むことになった。若さの柔軟性のためかそれは、それで、楽しくなった。しかしその部活動は、2年生の初夏のロッククライミング中の滑落事故で、一年足らずで退部することになってしまった。けれど、この一年足らずの山岳部生活の中で、鈴鹿山系の山々や中央アルプスの駒ヶ岳、穂高連峰の山行等貴重な体験することになったが、滑落事故のため、左手を怪我し、その後遺症が握力の低下となって、左手が大切な役割を果たす運動分野での能力開花の可能性を閉ざすことにもなった。

独歩と牧水は、こうした青春の出来事を通して現在の自分のありようにまで影響を及ぼしている。それは、明治の時代の近代的自我の誕生が大自然を前に引き起こした驚愕と感動の律動、それが思春期に目覚める私の自我と共振した出来事であった。

「ああ山林に自由存す・・・・」と詠 こった独歩と「幾山川声去り行かば・・・」と歌った牧水とはいかなる人であったのか、現在の視点で確認しておきたくなった。

国木田独歩の生きたのは、1871(明治4)830日~1908(明治41)623日の37年間であり、牧水は、1885(明治18)824日~1928(昭和3)917日の43年間で、二人の年齢差は14歳であるが、この二人には幾つもの共通点がある。

その一つは、二人共短命であったことである。また、二人は、独歩は、千葉銚子の生まれ、牧水は、宮崎県臼杵郡東郷村(現日向市)の生まれであるが、共に上京し、独歩は、東京専門学校(後の早稲田大学)の英語普通科に入学しているし、牧水も早稲田大学文学部英文学科に入学している。共に主として新聞や雑誌の発行や編集等と文筆業で生活しており、教師や新聞社等の勤務経験をもつが長続きせず、ほとんど文筆や編集、揮毫や選歌等で、生計を立てていて、貧しい生活であった点、また20代前半で結ばれることのない熱烈な恋愛体験をもつが、その後の結婚で、よき伴侶に巡り合っていること等である。

独歩は、神奈川県茅ケ崎で亡くなっているし、牧水は、静岡県沼津市で亡くなっている。牧水は、独歩の武蔵野等の影響を強く受けているが、独歩が短命であったため、直接的な交流はない。独歩には、一男二女があり、牧水は、二男、二女に恵まれている。

7年程前のことである。大学時代の友人達と山口市を訪れたとき、聖ザビエル講会堂の近くの亀山公園を散策したが、その時、牧水の「ああ山林に自由存す・・」の詩碑を見つけ奇異に感じたが、独歩が、父親の転勤で、山口市で、青春時代を送ったことがあることを知り、得心した覚えがある。今回大岡信の「若山牧水」を読んで、彼が沼津の千本松原の保護活動

をしたこと。彼が石川啄木の寂しい臨終に立ち会ったただ一人の友人で、病弱な啄木夫人に代わって通夜から葬儀の一切の手配をしていたこと。北原白秋の親友で荻原朔太郎とも親しかったことを改めて知った。旅と自然を愛し続けた牧水の生涯、妻貴志子は、「汝が夫は家におくな、旅にあらば、命光ると人の言へども」の句を残している。牧水は、晩年幸せだったと思う。

 独歩も牧水も短い生涯であったが、その中でも、膨大な詩、散文、小説、歌を残している。それらの作品の大部分をまだ読んでいない気がする。しかし、その世界は、近代日本の青春の目覚めの書として、高齢化の日本に活力を与えてくれるかもしれない。そういえば2021年、歌人の俵万智が、「牧水の恋」と云う本を出版していた。

古書展で入手したもう一冊は、加島祥造詩集は、思想社の現代詩文庫の中の一冊で2003415日発行定価1165円のもので、これが500円で売りだされていた。軽い気持で、当面積読する気でいたが、彼が東京府立第三商業学校での田村隆一の同級生で、荒地派のグループに所属していたと知り、俄然と興味が湧いてきた。彼は5年ばかり荒地に詩を発表していたが、早稲田の文学部英文科を卒業するとフルブライト奨学金で、米国シアトルのワシントン大学に留学、帰国して信州大学、横浜国大、後には、青山学院女子短大等で英米文学を教える。

197350歳の時信州伊那谷の駒ケ根市大徳原に山小屋をつくると15年のブランクの後作詞をはじめる。60歳の時妻子と湧かれて伊那谷に移り住み、199067歳の時駒ケ根市中沢に家を建て、終の棲家とし、伊那谷の仙人と称され、20151225日ここで亡くなる。

同級の田村隆一は199976歳で亡くなっている。この詩集は田村の死から4年後に出されている。田村の最後の詩集1999年は、死の直前の1998年に出版されその最後の「蟻」と云う詩の中で人間社会を蟻と対比させ、「さようなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの 人間の世紀末 1999」と詠ってこの世を去った。

彼の詩には、最後までどこか軽妙な悲哀と静なロマンがあった。都会でウイスキーを毒を啜るようにして飲み、空想の翼を広げて世界を鳶のように眺めた田村隆一に対して、荒地派の生き残りとなって92歳まで生き加島祥造は、どんな詩を書いているのか、興味をもって読み進んだ。この詩集を出した時、彼は80歳であり、そこに掲載された詩の書かれた時期は、私の定年後に重なる。

 田村は、詩によって人間の宿命から逃れようとして空を飛びまわったが、加島は、人間の愛憎から逃れるために山林に戻ってきて、植物や動物、生き物達の世界に身をゆだねようとした。

自然の中には、人間世界とは別の時間が流れている。加島は、若くして勤務した信州大学時代にそのことに気が付いたに違いない。そのことが人間世界に疲れたとき、加島を伊那谷へと導いたに違いない。

定年後本格的に絵をはじめ、スケッチ旅行に行くようになり、23時間同じ風景を見続けていると光の陰影の変化で、時間の推移を知ることが出来る。

時計で管理される時間とは、別の時間のありように驚かされたものだ。そうした芽で周囲を眺めると自然が己のリズムで時を刻んでいることを至るところで感ずることが出来る。 

加島が、伊那谷で見つけたのは、そうした世界であったに違いない。その一方で文明人である我々は、人間社会という別の時間のリズムに支配され生きている。社会が生み出すリズムと時間。女王蜂を頂点とする組織された階級社会、そのスローガンは「帝国主義」、田村は人間社会を「蟻」の世界になぞらえ、我々に提示して去っていった。

 空から眺めるか、地面の上で感ずるのか、あるいは、その両者か、二人の荒地派の詩人の晩年は、私を新たな詩空間に導いてくれそうな気がする。   了

 

 

 

 




2021年11月16日火曜日

姿なき黒船との戦い ―「膨張GAFAとの闘い」を読んでー

 

書店で何気なく手にとった一冊の本、それが中央公論新書(2021610日発行)のこの本である。著者は、読売新聞の女性記者若江雅子氏。久々に熱い思いに満ちた本にであった。これは、自省と使命感に駆られて書かれた本のように思われる。


2020年以来日本社会は、新型コロナと云う見えない存在との闘いに翻弄され続けている。

しかし、その10年以上も前から、日本社会は、グローバル化の波に乗って密に押し寄せてきた通信技術革新とりわけGAFAに象徴されるIT企業の進出・侵略に直面していた。

けれど、その巨大な波は、2011年の3.11のように、目に見えるもものではなく、一部を除いてほとんどの人が意識することはなかった。この波が、日本の社会のビジネス、知的環境、生活環境を根本的に変えつつあることを我々が意識するようになったのは、皮肉なことにリモートが日常化した今回のコロナ下でのことであった。

 私にとってのIT技術は、主にビジネス環境の側面からの興味の対象であり、それが、現実の我々の生活基盤に直接かかわるとは、あまり意識してこなかった。これらの技術が日常生活と直結している予感はあった。それに注意が行くようになったのは、2016年欧州委員会が、「一般データ保護規則(GDPR)」を制定し、20185月にその運用が開始されると云う事態を受けて328日に出た日経新聞の一本の記事であった。しかしその時の受け止め方は、その企業活動への影響といった側面からしか見ていなかった。生活の中に急速に浸透IT技術の実態がよく見えていなかったためであった。

 2010年当時「無償で提供されるサービスの収益源は、どこから生まれるのか」この疑問を持ちつつその利用の魅力にひきつけられ、そのからくりまで、注意が及ばなかった。今では、その収益源は「サービス提供と引き換えに収集するユーザー情報の収集であり」、そこにプライバシー侵害の可能性があることはあまり意識されていなかった。

 この無償のプラットホームを土台とするビジネスモデルが、GAFAの急成長の原動力であるが、それまでにないこの新たなビジネスモデルに対して、日本社会は、それを規制する法体系が未整備のままであった。すなわち、目に見えるハードや物を中心とする法体系では、

海外に拠点を置くソフト中心の業態に対応できないと云うみとであった。その象徴が個人情報保護法で、個人情報を名前、住所、電話番号しいった狭い直接情報に限定いた法律は、IT時代には、時代遅れになっていたし、物品の売買を想定した独占禁止法も非対称取引の

ビジネスモデルには対応できなくなっていた。さらに、ハード機器を国内に設置しない通信

事業者への国内法の適用が出来ない等の問題もあった。

 つまり、実生活に急速に浸透しつつあるあらたな技術による生活環境の変化に日本人の意識や法体系が全く追いついて行けない事態がいたるところで発生しつつあった。

 本書は、こうした事態に危機感を抱いた政府や民間の人達が日本の法整備に尽力した

コロナ後も見据えた奮闘の記録である。

 「データ時代の大きな社会構造の変化」それは、今我々の生活のあらゆる分野に及んでいる。しかし、このことを自覚している人はまだ少数である。メディアや政治は、相変わらず

スキャンダルを追いかつづけている。こうした中、ここ数年で、日本の科学技術の衰退

が、目に見える形で明らかになりつつある。この20年間日本は、平成の太平の夢をむさぼって眠っていたように思う。黒船の来航は、明治維新を引き起こした。GAFAの来航の実体に目覚めて、日本は、新たな令和の改革で再生できるであろうか。

 文系ジャーナリズムへの期待をほとんどなくしかけていた私にとって、初めてまともな

ジャーナリストの書いた本に出合った思いである。

 

2021年11月4日木曜日

 日常の隙間よりー弥勒菩薩の微笑みの秘密を求めてー

 

もう20年近きく前のことだ、日経新聞の文化欄「美の美」で、弥勒菩薩の特集があり、その中で、思わず目に入ってきたのが、そのタイトルの「微笑みに始まる」と「弥勒菩薩の内なるまなざし、人は深い安らぎを覚える」のことばであり、その記事の横にあったのが広隆寺の弥勒菩薩のクローズアップされた顔の写真であった。

この時の記事によれば、広隆寺は、推古天皇と聖徳太子が建てたと云われる斑鳩七つの寺の一つであり、この仏像は、聖徳太子から秦氏に下されたとされている。一本の丸太から彫られたと云うこの仏像は、赤松出来ており、一部に楠が使われていることから朝鮮半島から帰化した工人の作ではないかとも云われている。

しかし、こうした仏像の由来より、私を深くひきつけたのは、その仏像の微笑みであった。その仏像のなんともいえぬ微笑みが私の心を捉えて離さなかった。これは定年近くになって絵を始めたばかりの私の中にあの微笑みを描いてみようとの強烈な意志が芽生えた。

そのことを絵の仲間の一人に話したとき、それは無理な話と即座に反応があった。しかし、その言葉に納得できず、微笑みを描こうとする私の挑戦が始まった。様々な人物画を描き始めて以来、そのことが絶えず頭にあった。当初は、弥勒菩薩の微笑みのデッサンを何度も繰り返したがなかなか思う微笑みにはならない。


そんな時、テレビの番組で砺波の仏師の番組があり、その時、弟子が何年もかかって製作した仏像を師匠がみて、最後に一鑿入れるだけで表情ががらりと変わると語る場面があった。その話を聞いて、はっとさせられた。人間の表情は、1mmの何分の一かの口角の変化によってコロッと変化することつまり、美は細部に宿ると云うことを改めて教えられた。

それ以来、何分の1mm単位での修正によって自分の思い描く微笑みに、次第に近づいてきたように思えてきた。しかし、微笑みを描くことには、さらに奥深い課題があった。

人は、微笑みによって何故安らぎを覚えるのかの謎である。人は、微笑みの先に自分が暗黙の内に求める世界を見ようとしているのではないか。だとすれば、仏像や絵画の微笑みは、その世界へいざなう入り口のようなものかもしれない。そしてその世界とは、目に見えない世界である。かくして、絵画や彫刻は見えるものでも見えない世界を描くものではないか。 

「死者と霊性」と云う本の中では、近代の合理主義が、見えないものを駆逐したとし、その代表として死者を挙げていたが、絵画や造形においても見えないものを意識した表現が求められているのではないか。弥勒菩薩の微笑みは、1300年の時空を超えて現代人が失いかけている人間にとって大切な世界へいざなっているように思われる。弥勒の微笑みのいざなう世界とは、何か 微笑みの秘密を探る私の旅はなかなか終わりそうにはない   了

 

2021年10月24日日曜日

 震災とコロナ禍を体験した日本人への思想家達の提言 ―死者と霊をめぐってー

 

1.背景と意義

2011311日の東日本大震災は、私にとって衝撃的な出来事であった。3月に予定されていた国際シンポジウムは、急遽5月に延期されることになった。当時NPOの理事であった私は、理事長から、震災を踏まえた最初の基調講演を引き受けて欲しいと云われ、

大震災に思う危機の本質とコミショニングの役割―設計基準と安全性の概念を点検するー」と云う演題で基調講演を行ったが、この中で。震災の概要、それの技術の在り方に与えた衝撃と技術に突き付けられた課題に言及した。あれだけの震災の後でシンポジウムを開催するには、これに触れないわけにはゆかなかったためである。

この草稿を練る過程で、技術者からの意見表明ということを意識した。しかし残念ながら科学界、思想界からのこうした体験をその分野の課題としてどう受け止めるべきかの意見表明は極めて少なかった。その時、現代と云う時代の危機に対する哲学や宗教、思想といった人文科学系の鈍感を痛感した。しかし、この現象は、科学界・技術界や政界でも同様であった。残念ながらこの時、私が提起した科学や技術の在り方に関する課題や問題意識は、その後深められることはなかった。
 

しかし、今回2021820日発行岩波新書の末木文美士編「死者と霊性―近代を問い直す」は震災とコロナと云う近年日本が被った重大危機に対する思想界からの初めての意見表明とも云える書物で、長年私が期待していたものであるので、以下にその概要と感想をまとめてみた。

2.本書の構成と概要

 本の内容は、末木氏の提言「現代という宴の後で」という近代と近代の終焉に関する総括的報告を受けて彼を含めた5人の研究者が、一日かけて各々の専門領域からの補足や新たな問題提起を議論する三部から構成される座談会の内容が主である。これに、この座談会の前後に書かれた。死者と霊性に関連する各著者の死者のビオスー中島岳志、

死者と霊性の哲学-西田幾多郎における得て知的源流―若松英輔、地上的普遍性-鈴木大拙、

近角常観、宮沢賢治―中島隆博、「霊性」の革命-安藤礼二 の4編のエッセイから構成されている。

コロナ下で、丸一日かけて行われた座談会の内容は、次のようなものである。

1

はじめにーコロナ禍のなかで

死者とのつながり方

転換期としての2000

二つの震災をめぐって

100年単位と1000年単位

2

「現代」の捉え方

19世紀のグローバル化と神智学

インドの近代化と霊性

中国の近代化と霊性

日本の近代化と霊性

言語の余白について

3

 死者達の民主主義

「政教分離」とメタ宗教

「宗教」と「国家」の再定義へ

「メタ宗教」の条件

 天皇と国体をめぐって

 哲学と宗教の再興に向けて

座談会では、様々な思想家、宗教家、哲学者等を取り上げられ、話も広範囲に及ぶが、各部座談会の最後に詳細な注がついているので、理解しやすい。良く出来た本だと思う

3.著者達の特徴

巻末の著者達の経歴を見て気が付いたことを列挙してみた。

・末木氏を除けば、40代後半から50代の働き盛りの世代

2010年から2021年までの直近の著書多数で、活躍中の思想家達

・文学部系で、アジア・日本宗教・思想史の専門家

・ほとんどが安保闘争以後の生まれ、ソ連邦崩壊前後に大学生活を送る

・戦後のリベラリズムの影響は希薄。

著書一覧を見ながら、自分が著者名をほとんど知らず、これ等の本を一冊も読んでいないことに戸惑ったが、その理由は、彼等が私よりかなり年下で、その著書のほとんど2010年以降のものであるためと気づいて合点がいった

3.本書の視点

・霊性とは

 ここで云う霊性とは「生者の中でありありとはたらくものであって、幽霊と云うときの霊とは関係がない。霊性における霊とは、超越的実在を意味する。霊性とは、万人の中にあって「意識的自己を超えた」超越者を求めずにはいられない本能を指す。」(p205)

・近代と近代の終焉

近代の定義「人間は合理的思考によって進歩し、それにより万人の幸福度が増加する方向へ向かうと云う楽観論が共通の前提となっていた時代と云うことであろう。」(p2)

「合理的思考と云うのは、一つは科学・技術による環境(人体を含めて)の制御である、それによって生産性を向上させ物質的な豊かさと安楽度を増すことができる。もう一つは人間社会の合理化である。それは民主主義の徹底により、人々の間の差別や不平等を取り除き、万人の幸福度をますことが出来ると考える。このような歴史の進歩と云う観念は進歩派と云われるひとたちだけでなく保守派の人たちにも共有されてきた。」(p2)こうした近代は、1980年代で終わる。その画期的な出来事がマルクス主義国家の失敗と崩壊である。

こうした近代的世界観の問題は、合理性によって把握できないものが抹殺してゆくことであり。「公的な場から見えざるものたちが消されていく、消された見えざるものたちの代表が死者達だ」(p16)震災とパンデェミックは、我々に死と云うものと向かい合うことを要求してきた。

近代と死生観

合理的思考は、生と死を分かち、死を遠ざける役割を果たした。しかし、我々は、たえざる死者との対話の中で生きている。思い出や記憶として、または書物を通して。生と死は、分かちがたく結びついており、むしろ死の世界の中に生の世界がある

この視点が思想や宗教の再生と創造をもたらす。

 世界を「解説ではなく新しい世界の見方を作らなければならない」(p128)

この見方は、国家と憲法と宗教、皇室問題、国家と文化等の広範な領域に及ぶ。

4.2000年代の思想と感想

2000年に入り1990年のソ連邦崩壊を受け戦後イデオロギーの桎梏か解き放され、それまで暗黙の裡にタブーとされてきた大川周明等アジア主義や平田神学等の功罪を自由な視点で見直すことが可能になった。従来カルト的とされ、あまり手の付けられなかった神智学等も正式に研究の対象となってきた。

近代終焉後を見据えた新な思想形成の時代がやってきた。震災、放射能、コロナ、気候変動。目に見えないものにおびえる日々が続いている。見えないものへの視点が必要な時代がやってきた。

この見えないものへの視点は、南方熊楠、西田幾太郎。折口信夫、柳田国男、柳宗悦、井筒俊彦、鈴木大拙、宮沢賢治等とその周辺日本文化や日本思想史の土台を形成してきた人達の思想を科学技術万能の現代に新たな生命を持って蘇らせることになるのかもしれない。

当初少し重いかなと思って読み始めたが、読む程に面白くなった。70代以前の人達の多くは、まだ戦後イデオロギーの桎梏の中にいるし、60代の多くは、近代化思想崩壊後の混沌の中にある。この中で、私の知らないところで50代以降の世代の

若き研究者達が育ってきていることに日本文化の希望を感じさせられる一冊であった。

                                  以上


2021年9月14日火曜日

コロナ後の世界と文学の可能性 ー今年の芥川賞受賞作品等を読んで― 

 今回のパンデミックの発生から2年近くになろうとしている。時間差を置いて各国で繰り返す感染者数の増減が、津波のように繰り返されることは、当初からある程度予想していた。しかし、予想外であったのは、こうした事態に対する人間と社会の反応である。感染症と云う医学の一分野の問題に生死の問題と社会の反応が関係し、その解釈をめぐり、意見の噴出と対立が、メデアの報道の在り方や政府の対応や社会システムにまで及んで混沌状態を生み出した。

ドフトエフスキーの「罪と罰」の中で主人公は、パッデミックで世界が滅ぶ夢をみる。そこでは、様々な意見が出るが、解決策を見出せず、やがていたるところで人々が互いに殺し合いをはじめ、世界が崩壊してゆく。

そこまでは行かないにしても、この閉塞的環境で、若い人達は、何を考え、コロナ後の世界をどのようにイメージしているのだろ
うか。ふと、こんな疑問に取りつかれ、書店で思わず手にしたのが「ポストコロナのSF―日本SF作家クラブ編―:20214月25日1発行:早川文庫JAで、ここには31歳から61歳までの19人の現役作家の作品が、網羅されている。この本の横で見つけたのが早川文庫SFの「折りたたみ北京―現代中国SFアンソロジー:ケン・リユウ編:20191010日発行:早川文庫である。この本は、パンデミック前の作品群であるが、ここには、7人の作家13作品と中国SFに関するエッセイ3篇が掲載されている。この他編者のケン・リユウが序文を書いており、翻訳者の一立原透那氏が解説を書いている。編者のケン・リュウは、45歳の著名なSF作家で、中国生まれの米国在住者。取り上げられているのは、53歳の一人を除けば37歳から41歳の40前後の作家達である。

監視社会へと急速に進みつつある中国の現役作家達は、どんな感性で世界を見ているのか。このことに興味を持って読んでみることにした。

それまでSFトム云えば欧米作家のものと日本では、小松左京等我々同じ年代の作家群の作品しか知らなかった私にとってこの二冊の本は、全く新しい出逢いであった。科学技術が急速に発展し、空想が現実に追い抜かれる時代に、SF作家達は、どう立ち向かっているのだろうか。これも興味あるテーマであった。

結論から言えば、量子重力理論や量子もつれ、量子コンピユータと云った先端科学の描く壮大な宇宙観からみれば、現代SFは、これ等の成果を十分取り入れているとは言えない。1970年代のスタートレックが描いたタブレットは、ipadやスマホで既に実現してしまったし、ハイラインの「夏の扉」で描かれた掃除ロボットや設計CADも既に実現してしまった。あの頃のSFは、確実に4050年以上先を見通していた。AIにおけるディープのラニングや遺伝子工学におけるキャスパー9等知のブケイクスルーが達成された現代科学の先へ想像の翼を広げた作品群への期待はかなえられなかった。

 こんなことを考えて書店を散策しているとき、文藝春秋9月号に、芥川賞発表受賞二作全文発表のタイトルを見つけ、ふと文学をやる若い作家達は、現代社会や今回のパンデミックをどのように捉えているのだろうかと気になったので、買い求めることにした。その文藝春秋の横に、オール讀物の9月・10月合併号がおいてあり、そのタイトルに直木賞発表の文字が見えた。そう云えば随分永い間、現代作家の作品を読んだことがない。これも次いでに買い求めて読んでみることにした。

あまり、期待せずに芥川賞受賞作「貝に続く場所にて」を読む。作者は、石沢麻衣。41歳の女性。舞台は、コロナ下のドイツのゲッチンゲン、主人公は、2011年の震災を経験した東北出身でゲッチンゲン大学の美術史の博士課程に通う女学生。その日常と交友関係を描いた作品。大した事件や物語があるわけではないが、日常の出来事一つ一つの感じ方捉え方に奥行きがある。そうした感性とどこかで出会ったことがあった。森有正の「経験」ゃ「ノートルダムの畔」や加藤周一の「羊の歌」を読んだときの感覚に似ている。異文化の中で、言語が研ぎ澄まされ、現実が記憶と時間の集積と重なり見えてくる。意識を単に外界の反映としてとらえるのではなく、外部の刺激と内部の記憶や欲望等の感覚の総合しとして捉え、そこから言葉を紡いでゆく。こうした視点は、SF作品にはない。感心した。

 もう一つの受賞作品「彼岸花が咲く島」は、台湾出身の31歳の女性の作品であるが。これは、ある意味の異言語交流を交えた現代版ユ―トピア小説であるが、それほど面白くはなかった。

この勢いで、直木賞の二作品を読む。佐藤究の「テスカトリポカ」澤田瞳子の「星落ちてなお」佐藤究は、既に江戸川乱歩賞等数々の賞を持つ44歳のベテラン作家、テスカトリポカは、アステカ神話の神の名、メキシコの少女が裏社会を渡り歩き日本の裏社会で生活する物語。澤田瞳子も44歳で数々の受賞歴を持つベテラン作家。「星落ちてなお」は、天才画家河鍋暁斎の娘を描いた作品。共に長編であり、雑誌には、その一部しか掲載されていない。文字通り、小説であり、物語性に力点が置かれている。澤田瞳子は、澤田ふじ子の娘とは、読み終わってから知った。

中学時代、人間社会とはいかなるものかを知る意味で小説は面白かった。しかし。世の中を色々見て来た現在に至ると物語性だけでは、物足りない。しかし、自分が小説を書く身になれば、これ等の作品に興味が湧くかもしれない。だが、コロナ後の世界を垣間見たいという要求には、あまり答えてもらえなかった。パンデミックとこれに立ち向かう人類との格闘の現場が、小説の舞台に上ってくるには、まだ、まだ先のことかもしれない。

但し、石沢麻衣の「貝に続く場所にて」は、2011311日の東日本大震災と新型コロナと云うパンダミックという二つの出来事をどう受け止めるのかと云う日本人の感性と思想に初めて取り組んだ作品であり、そこにコロナ後の世界への一筋の光をみたように思った。科学技術万能の現在、文学も満更すてたものではないと思うことが出来た。    完


2021年8月12日木曜日

花詩集とあざみの花―日常の隙間よりー

 

古本市で、偶然手にした本であった。詩集が古本市に出てくることは少ない。思わず手に取ってパラパラとページをめくっていて、気になる出だしの詩句に出会った。


  とつぜんの出逢いであった

  通りすがりにお前をみたのは

  こんな都会の塀のきわに

どくだみがひっそりと

咲いているなんて

余りにも思いがけない出逢いに

私は立ち止まり

感動してじっと見つめる

・・・・・・

十薬(どくだみ)云うタイトルの一節である。

(十薬とは、十の薬効があることからつけられたドクダミ

の別名である。)

この一連のフレーズに何か心魅かれて、購入して帰る。

作者は、名古屋市在住の太田もと子(大正12(1923))とある。御存命ならば御年98歳。 詩集は著者69歳の時、1992年近代付箋芸社より第1刷発行となっている。

十薬(どくだみ)の詩は続く

 お前も私に何かを語りかけているようだが

 お前の心を受け止めかねて

 私の心はうろたえる

 本来ならお前は

  郊外の林の下陰とか

  湿地などに群生するはずなのに

  こんな都会の塀のきわに生えて

可憐な花を咲かすいじらしさ

 

都会にいても

めぐる季節を忘れずに咲く

律義などくだみよ

清純なまでに白い小さな花びら

杳く 平安時代のへいし帽のように

天を向いて 毅然として咲く見事さ

六月の雨に濡れて咲くお前は

詩にもなりそうだ

この詩に出会ってから、少し草花に対する見方が変わり、家の片隅に咲くドクダミの花に気づいて、スケッチしてみた。我が家へは知らぬ内に侵入し、夏蜜柑の樹の下、冥加の群落の傍に遠慮勝ちに小さな群落をつくっていた。


6月のことである。コロナ下で伐採した四季桜の残った株の横に、その木を弔うかの如く雑草が根づいているのに気付いた。抜こうと思ってよく見るとそれは、あざみであった。

この時、花詩集の詩一フレーズが思い出され、手折るのを止め、そっと見守ることにした。

花詩集の詩句に歌われたどくだみでぱないが、どこからか飛んできて庭の小さな片隅にしっかりと根を張ろうとしているあざみが、ふといとおしくなったためである。

そのあざみは、伐採された桜に残されたすべての命を吸い取るように力強く数本の大きな幹に枝分かれし、次々と蕾を膨らまし、やがて数十もの花を次々に開花させ、数知れぬ種を実らせた。7月の半ば、さすがに鬱陶しくなり、一本を残して、取り除いた。


その頃までには、既に花達は、多くの実を結んで、その一部は、遠くに旅立っていったようであった。

 最後の一本が倒れこんだのは、8月オリンピックが閉会式を迎えた日であった。一度は

立ち直った。しかし、翌日の強風で、再び倒れたのであろう。数日後、その茎は、真ん中から切り取られていた。洗濯に出た妻が、取り除いた後のように見えた。

 私は、そこに手折り投げ捨てられたあざみの花を知り除き、残った茎を根から掘り起こして、きれいに取り除いた。多くの実をつけて生を全うした花に未練はなかった。

 ただ、以前思い立ち描いたどくだみの花のスケッチの次のページにあざみの花のスケッチを付け加えた。

 花詩集の作者は、あざみについて次のように語っている

 五分咲きのあざみよ

 このままお前は

大人になることを拒否して

そんなに 全身に刺をつけたのですか

僕の庭に咲いたあざみは、多くの花を咲かせ、その花ごとに無数の実を結んで、そしてお盆の訪れとともに刈り取られた。


四季桜の命は、あざみの花の実となり、8月の雲の下世界一杯に広がっていった。

 

2021811()


2021年7月5日月曜日

中国革命と三姉妹

 


古本屋の100円コーナーで角川文庫の「宋姉妹」:伊藤純、伊藤真を見つけた。中国を支配した華麗なる一族と云うサブタイトルに魅かれたせいもあるが、その半年前に、現代中国論

というA4で160頁ばかりのリポートをまとめたばかりであり、そこでは、中国革命の源流へは簡単にしか触れることが出来なかったので、その辺の情報に興味があったためである。

 この本は、19947月放送のNHKスペシャル番組国際共同制作「宋姉妹」の製作にタッチした史著者がその番組内容にその後明らかになった事実を盛り込みながら1995年に書き下ろしたもので、私が手に取ったのは、1998年にそれを角川書店が文庫本化した小冊子である。

 物語は、1863年海南島の商家に生まれた三姉妹の父宋耀如が9歳で、叔父に連れられ渡米するところから始まる。彼は、そこでキリスト教と出会い大学の神学部にも在籍するが、23歳の時中国に帰国し上海に落ち着き、メソジスト教の牧師として働き、同じ信徒の倪桂珍と結婚。三女三男が生まれる。すなわ、藹齢、慶齢、美齢の三姉妹と子文、子良、子安の三兄弟である。

 子供の誕生と共に耀如の関心は、伝道より企業経営に移り、聖書の出版・印刷等で財を成してゆく。この時、幼い姉妹の前に現れて、中国の現状を憂い改革の必要性を熱心に語る男、それが孫文であり、父耀如は、その孫文と意気投合し、ここに孫文と荘家とのつながりが始まる。

 荘家の三姉妹は、父の勧めで三人共米国へ留学して中国に戻ってくるが、それからの三姉妹の道は、次第に離れてゆく、長女藹齢は、財閥の孔家に嫁ぎ、次女慶齢は、親族の反対を押し切って歳の差のある孫文と結婚し、三女美齢は蒋介石と結婚する。次女慶齢は、孫文亡き後、共産党と行動を共にし、三女美齢は、夫蒋介石に従って国民党と行動を共にする。長女藹齢は、財閥の中に身を置く。三姉妹の生涯は、そのまま1911年の辛亥革命から1949年の中華人民共和国の誕生に至る中国近代史と重なる。中国共産党は、孫文の思想を受け継ぐ正当な後継者であるあかしと統一戦線の象徴として慶齢を国家副主席として遇するが、実体は形だけのものであった。

 しかし、抗日戦争における三姉妹の働きは大きかった。すなわち米国留学体験をベースとした三姉妹の対外情報発信とプロパガンダは、欧米からの政治的支援をもたらし、多くの軍事援助の獲得と米国政治への影響は、やがて日本を太平洋戦争とその敗北に導くことになる。藹齢は、197310月ニューヨークにて84歳で亡くなり、慶齢は、1981年中国上海にて88歳で亡くなり、200310月三姉妹最後の一人宋美齢は、ニューヨークにて105歳で亡くなる。

 1911年の孫文の辛亥革命から今年で110年経つ。今年は、中国共産党創立100年でもある。しかし、この間中国社会は、どれ程文明化したであろうか。再び1911年前後の動乱の時代に入るかの予感がするのは、私だけであろうか。

2021年3月21日日曜日

ムーン・パレス(ポール・スター作)を読んで

 

書店で、全く偶然に手にした本がこの本だった。しかし今から思えば全くの偶然とは云えないかもしれない。趣味にしていた古書展がコロナのせいで中止に追い込まれて以来、私の本の探索場所は、もっぱら栄のジャンク堂になり、月に数回訪れるようになった。

そんなとき、東洋関係の本に飽きてきた私は、洋書のコーナーに目を向けるようになっていた。そこで、SFとも怪奇小説とも見分けのつかない黒表紙の本に出合った。それがラグクラフト全集であった。この一冊を試しに目を通してみて、アメリカ文学もまんざら悪くないと思いだした。

そのコーナーで偶然見つけたのが、ポール・オースターという見慣れぬ作家のムーン・パレスと云う作品だった。裏表紙の最初の行に「人類が初めて月を歩いた夏だった」とあった。こけがこの小説の書き出しだった。作者は、1947年生まれ、自分とさして年齢が違わない。日本のあの安保闘争以後の混沌とした時代、アメリカの大学に通っていた青年の物語であり、同じ時代の空気に魅かれて思わず買い求めた。


中学生の時、アラン・フルニエの「モーヌの大将」を読んだが、あれはフランスの田舎町を舞台とする青春小説だった。このムーン・プレスは、ニューョーク州のコロンビア大学周辺の街を舞台とする青春小説である。

「モーヌの大将」が10代前半の思春期の少年を主人公とするものであるのに対して、これは大学時代という青春の真っただ中の物語であり、混迷の時代から目覚め立ち上がってゆく一人の青年を主人公としている。自分の青春期の思い出とも重なるので、思わず読んでしまった。

これは、ある意味での自分探しの物語であるが、その背景にアメリカの画家ブレイク・ロックの「月光」をテーマとした世界がある。ブレイク・ロックの世界は、私の好きなドイツロマン派の画家ガスパー・デイビッド・フレディドリッヒの世界と似ている。

 この絵を手掛かりにあのエドガー・アラン・ポーに源流を持つアメリカロマン主義の流れ

をたどることが出来るのではないか。あらたな出会いを予感させてくれる本であった。

 

2021年3月12日金曜日

ジョージ・オーウェル「1984年」をめぐって       ―偶然出会った四冊の本が導くジョージ・オーウェルの心と世界―  

 

ジョージ・オーウェルの名前が僕の記憶から蘇ってきたのは、数年前古書店で一冊の本を見つけたことがきっかけだった。「カタロニア賛歌」という題字に魅かれてふと取り上げた本は、装丁がしっかりしていて、箱に収められていた古びた本であった。

その著者の名前が、ジョージ・オーウェルであり、その名前には、記憶があった。SFファンであった私は、未来小説として1984年」と云う彼の作品を一度読んだことがあった。

それは、独裁政権下を描いたデストピア小説で、SFとしてあまり気持のよい作品ではなかった。そのジョージ・オーウェルとカタロニアとの出会いは、私の違和感をもたらしたが、それがざっとみてスペイン戦争との関連の本であることがわかると200円ばかりのその本を躊躇なく購入した。


 新型コロナの流行をきっかけに中国社会で進む監視技術が話題になる中で、その延長上でジョージ・オーウェルの作品「1984」の名前がメディアに上るようになってきて、今一度

この小説を読んでみようと思い、蔵書をひっくり返したが、見当たらなかった。そうなると

おかしなもので、ますます読みたくなる。とうとう探すのをあきらめ新本を買い求めることに栄のジュンク堂にでかけた。そのとき、全く偶然に岩波新書の新刊本の中に川端康雄

ジョージ・オーウェル―人間らしさへの賛歌」を見つけた。その本を手にしたとき、そうだ僕が潜在的に求めていたのは、オーウェルが何者であったのかを知りたかったのだと直感的に思った。


 その日、早川書房「1984年」(20206月43刷)第とこの岩波新書の「ジョージ・オーウェル」(20207月発行)の二冊を買い求めて帰った。


僕は、数十年前に「1984年」を一度読んでいたが、その時は、著者に全く関心がなかった。

しかし、このとき何故か、この人物に猛烈に興味が湧いてきた。このため、まず手にしたのは、岩波新書の方で、これを一気に読んだ。そして彼が、英国のエリート校出でありながら

若き日スペイン戦争に義勇兵の一員として、参加した民主的社会主義者であったことを知った。

 ジョージ・オーウェルは、1903年大英帝国の下級貴族の家に生まれる。奨学金を得て、エリート高校に進学した彼は、卒業後軍人となり、当時英国の植民地であったビルマ(現在のミャンマー)に警察官僚として赴任する。そこでみた、植民地の現状に違和感を覚えた彼は、5年後の192724歳の時、安定した職を投げ打って作家の道を進み、193734歳の時、新婚の妻とともに国際義勇兵の一員としてスペイン戦線で戦い、大怪我を負いながら一命をとりとめる。ここで見た革命の夢と現実、この時の体験をまとめたものが1938年発行の「カタロニア賛歌」であり、その体験をもとにして書かれたのが1944年脱稿の「動物農場」であり、1948年脱稿の「1984年」である。この2年後1950年結核のためロンドンで死亡。47歳であった。

 

 スペイン戦争については、1985326日の朝日新聞に掲載された法政大学教授 川成 洋氏の「スペインで戦死した無名の日本人ジャック白井の足跡たどって」と称する一文を読みひどく感動したことがあった。この文は、サンフランシスコの隣の町オークランドで開催されたスペイン戦争に参加した米国の国際旅団「リンカーン大隊」の生き残りの集まり

を記事にしたものであるが、その隊長だったミルトン・ウルフの「われわれは、未熟な反ファシストだった。今でも同じだ」の言葉に象徴される思想の継続性に当時中間管理職として仕事に追われていた身に、新鮮な驚きを覚えたためであった。

 ジョージ・オーウェルの思想は、このスペイン戦争の体験が中核となっていた。彼は

この反フランコの人民戦線の戦いの中で、当時人民戦線を支援していたソビエト共産党の

スターリニズムのトロッキーの影響を受けた人々に対する云われのない迫害や裏切りを目の当たりにするのである。「カタロニア賛歌」こま時のオーウェルの体験を綴ったものであり、この体験をベースとして彼は、社会主義の衣を纏うスターリンの独裁体制への批判を強めてゆき、その延長戦上に書かれた小説が1944年に完成した「動物農場」であり、1949年に発表それた「1984年」である。この小説が出版された翌年の1950年オーウェルは亡くなる。岩波新書の「ジョージ・オーウェル」と早川書房の「1984」を読み終えてから同じく早川書房の「動物農場」も買い求め、これも一気に読んだ。


 オーウェルのこの二冊の小説の出版には、当時大きな困難が伴うが、それが反ファッシズムで戦った仲間としてのスターリンの社会主義国家ソビエト連邦に対する西欧左翼世論の暗黙の圧力があったためであった。しかし、まもなく、冷戦の時代の到来とともに、この本は反共プロパガンダの書物として取り上げられたこともあって、その後ジョージ・オーウェルの名前は、左翼メディアからも正当な評価がないままに、放置されてきた。そしてようやくこの本が見直されるのは、1991年のソ連邦崩壊後のことである。

 今回あらためて、この二冊の本を読み返してみて、彼の社会主義独裁体制への痛烈な批判が、スターリンという個人的な枠組みを乗り越えた普遍的な視点からなされたものであることがよくわかる。

 ここで描かれた世界は、中国の文化大革命や韓国の文在寅左翼独裁政権で、今行われている歴史の偽造や、無知な若年者や民衆をプロパガンダで洗脳し、まともな思想や知性の言論を圧殺する風景そのままであり、まさしく当時オーウェルが感じていたことであり、当時彼が遥か先の未来まで見通していたことを示している。

 2020年の新型コロナのパンデミックや米国の大統領選挙は、民衆と云うものが如何にメディアや政権のプロパガンダで洗脳・誘導され易いかを事実を冷静な目でみることが如何に難しいか如実に示した。オーウェルの「動物農場」「1984年」は、極めて、今日的な問題を扱っている。その意味で今こそ多くの国民が読むべき本である。

2021年2月6日土曜日

空海が見えてきた―「空海の生涯」由良弥生 2019年2月20日王様文庫 三笠書房を手にして

 

空海について興味を抱くようになってもう何年経つだろう。20年近くにはなる。

 空海に魅かれたのは、密教なるものが、理解しがたかったためであった。それは、とりもなおさず、原始仏教から大乗仏教までの流れに比べ、大乗仏教から密教への流れが理解し難たかったということと関連している。

原始仏教に呪術的な影は感じられない、それが、その普及と共に呪術的要素を加えてゆく、大乗仏教の代表的な教えは、法華経であるが、この法華経には、その観音経の中に既に呪術的要素が含まれている。それは、仏教がその時代の社会的要請に応えるための思想的変貌でもあった。

個人的な哲学思想から社会的思想への変貌は、その基礎を釈迦という歴史的実在をより普遍的価値の中に位置づけ、世界観・宇宙観として発展させることを意味していた。その普遍的価値として誕生したのが宇宙的秩序の中心としての毘盧遮那仏つまり大日如来信仰である。下記は、真言密教誕生前後の日本の時代区分である。

 仏教伝来 538

 飛鳥時代 592年(崇峻天皇5年)-710年(和銅3年)

 奈良時代710年(和銅3年)-794年(延暦13年)

  平安時代 794(延暦13年)1185(文治元年)

空海は、774年(宝亀5年) -835 (承和2)

密教の源流には、大日経と金剛頂教の二つの教がある。この内大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)は、600年代、インドで成立し、東インド生まれの善無畏(637735)が中国にもたらし724漢語に翻訳され、金剛頂教『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経(大教王経)』は、600年代の半ばから後半南インドのアマラバティで成立し、西インド生まれの金剛智(671741)とその弟子不空(705774)が漢語に翻訳し、中国に伝えた。

この二つの経は、唐の玄宗皇帝(685762)の治世下の中国で広まる。空海は玄宗皇帝の亡くなった12年後に生まれている。

 大日経は、大毘盧遮那如来(大日如来)が自由自在に活動し説法する様を描いた経典。教理は第1章で,他は実践行の象徴的説明である。この中で、護摩(ごま),曼荼羅(まんだら),印相(いんぞう)などの秘密の実践が詳述されている。

金剛頂教は、大日如来が釈迦に対して、自らの悟りの内容を明らかにし、その実践法を説いている。悟りの内容が金剛界曼荼羅であり、実践法としては五相成身観(ごそうじょうしんかん)という瞑想法が説かれている。『金剛頂経』は単数の経典ではなく、新古いくつかの同系統の経典の総称である。このうち初期の成立で、かつ内容的にも後の『金剛頂経』の方向を決定した、初会(しょえ)の『金剛頂経』が、アマラバティの成立と考えられている。理趣経は、この一部である。

真言密教では、この世界宇宙を救済論的に慈悲の働いている側面(胎藏界)と哲学的認識論的に智慧の働いている側面(金剛界)の二面からとらえる。その胎蔵界について大日経が、金剛界については金剛頂経がその生々とした実相を詳しく説いている。胎蔵界および金剛界の両界の曼荼羅はこれら両経の説くところを視覚的に絵画表現したものである。

空海は、当時部分的にしか伝わってきていなかった密教を日本に本格的にもたらしただけでなく、大日経的世界と金剛頂経的世界を統合して真言密教として完成させた。

ところで、密教とは何か、一つには、大日如来という宇宙生命体の創造による仏教的世界観の完成であり、今一つは、それとの一体化への具体的手法・修法の確立であり、その結果として得られる心の平安と現実世界での利益と云うことである。

心の平安と現実世界での利益は、呪術と限りなく繋がっている。仏教の社会的広がりは、それによる現世的利益への期待を膨らませ、そこに焦点と社会的関心が集まっていったのは、当時の科学的知識や民衆の知的水準を考えれば必然のことであった。

ところで、空海は、呪術的効果を本当に信じていたのだろうか。空海には、もっと冷静な視点があったに違いない。修法は、何よりも人々を安定させまとめ上げ団結させる手法であり、この点に関して国家維持や統一の思想としての役割もあった。人々を対象とすることは、救済論仏教としての性格も合わせ持つ。

空海は、死の2年半程前、高野山金剛峰寺の金堂と諸仏の完成した翌年832年そこで初めて「万燈万華の法会」営むが、その願文は次の言葉で始められている。「黒暗は、生死の源、遍明は、円寂の本なり」とまた秘蔵宝艦には、「生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで生の終わりに昏し」とある。「暗い」は周りに何があるのか見えなくなるほどに物理的にくらい状態を指し、「昏い」は光が弱くなるものの、何も見えなくなるほどくらくはない。

我々は、全くの無から生じるが、生命と知恵の力で光明の下で生き、やがて生命の火が消えるように死を迎える。

「万燈万華の法会」では、暗闇に一万もの灯明と一万もの華()を供えて法会が行われたと云われる。空海は、原生林に囲まれた漆黒の闇の中に浮かび上がる一万もの灯明とそれに映える華花という具体的な映像を通して、仏法の役割を示したかったに違いない。

「空海の生涯」由良弥生 2019220日王様文庫 三笠書房を手にして、思わず引き込まれてしまった。ポイントは、空海が虚空蔵菩薩求聞持法を教えられた沙門に作者が善道尼という尼僧をあて、この尼僧との関係を一筋の糸として人間空海の生涯をまとめ上げた点である。女性の出現により、人間空海がよりリアリテイをもって描かれることになった。

 以前空海の世界に迫ろうと「空海の詩」安部竜樹2002630日(株)春秋社を手にしたが、あまりに難解で、その世界に触れる感覚がなかったが、今回、密教の世界を少しまとめることで、もっと触れることが出来そうな気がした。

 それにしても、密教の影響は大きい。臨済宗のお寺で頂いた経本の中に消災呪と大悲円満無礙神呪と云う大日経系統の陀羅尼(真言)が含まれているのに気ずいた。陀羅尼(真言)を祈りの言葉とすれば、呪術と祈りは、表裏一体のものであるのかも知れない。空海にとって願文は、祈りよりももっと力強い宣言文又は決意表明文と云うべきものであったような気がする。

 いずれにせよ、これからは空海を楽しみたい。      完