2021年11月4日木曜日

 日常の隙間よりー弥勒菩薩の微笑みの秘密を求めてー

 

もう20年近きく前のことだ、日経新聞の文化欄「美の美」で、弥勒菩薩の特集があり、その中で、思わず目に入ってきたのが、そのタイトルの「微笑みに始まる」と「弥勒菩薩の内なるまなざし、人は深い安らぎを覚える」のことばであり、その記事の横にあったのが広隆寺の弥勒菩薩のクローズアップされた顔の写真であった。

この時の記事によれば、広隆寺は、推古天皇と聖徳太子が建てたと云われる斑鳩七つの寺の一つであり、この仏像は、聖徳太子から秦氏に下されたとされている。一本の丸太から彫られたと云うこの仏像は、赤松出来ており、一部に楠が使われていることから朝鮮半島から帰化した工人の作ではないかとも云われている。

しかし、こうした仏像の由来より、私を深くひきつけたのは、その仏像の微笑みであった。その仏像のなんともいえぬ微笑みが私の心を捉えて離さなかった。これは定年近くになって絵を始めたばかりの私の中にあの微笑みを描いてみようとの強烈な意志が芽生えた。

そのことを絵の仲間の一人に話したとき、それは無理な話と即座に反応があった。しかし、その言葉に納得できず、微笑みを描こうとする私の挑戦が始まった。様々な人物画を描き始めて以来、そのことが絶えず頭にあった。当初は、弥勒菩薩の微笑みのデッサンを何度も繰り返したがなかなか思う微笑みにはならない。


そんな時、テレビの番組で砺波の仏師の番組があり、その時、弟子が何年もかかって製作した仏像を師匠がみて、最後に一鑿入れるだけで表情ががらりと変わると語る場面があった。その話を聞いて、はっとさせられた。人間の表情は、1mmの何分の一かの口角の変化によってコロッと変化することつまり、美は細部に宿ると云うことを改めて教えられた。

それ以来、何分の1mm単位での修正によって自分の思い描く微笑みに、次第に近づいてきたように思えてきた。しかし、微笑みを描くことには、さらに奥深い課題があった。

人は、微笑みによって何故安らぎを覚えるのかの謎である。人は、微笑みの先に自分が暗黙の内に求める世界を見ようとしているのではないか。だとすれば、仏像や絵画の微笑みは、その世界へいざなう入り口のようなものかもしれない。そしてその世界とは、目に見えない世界である。かくして、絵画や彫刻は見えるものでも見えない世界を描くものではないか。 

「死者と霊性」と云う本の中では、近代の合理主義が、見えないものを駆逐したとし、その代表として死者を挙げていたが、絵画や造形においても見えないものを意識した表現が求められているのではないか。弥勒菩薩の微笑みは、1300年の時空を超えて現代人が失いかけている人間にとって大切な世界へいざなっているように思われる。弥勒の微笑みのいざなう世界とは、何か 微笑みの秘密を探る私の旅はなかなか終わりそうにはない   了

 

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