2021年10月24日日曜日

 震災とコロナ禍を体験した日本人への思想家達の提言 ―死者と霊をめぐってー

 

1.背景と意義

2011311日の東日本大震災は、私にとって衝撃的な出来事であった。3月に予定されていた国際シンポジウムは、急遽5月に延期されることになった。当時NPOの理事であった私は、理事長から、震災を踏まえた最初の基調講演を引き受けて欲しいと云われ、

大震災に思う危機の本質とコミショニングの役割―設計基準と安全性の概念を点検するー」と云う演題で基調講演を行ったが、この中で。震災の概要、それの技術の在り方に与えた衝撃と技術に突き付けられた課題に言及した。あれだけの震災の後でシンポジウムを開催するには、これに触れないわけにはゆかなかったためである。

この草稿を練る過程で、技術者からの意見表明ということを意識した。しかし残念ながら科学界、思想界からのこうした体験をその分野の課題としてどう受け止めるべきかの意見表明は極めて少なかった。その時、現代と云う時代の危機に対する哲学や宗教、思想といった人文科学系の鈍感を痛感した。しかし、この現象は、科学界・技術界や政界でも同様であった。残念ながらこの時、私が提起した科学や技術の在り方に関する課題や問題意識は、その後深められることはなかった。
 

しかし、今回2021820日発行岩波新書の末木文美士編「死者と霊性―近代を問い直す」は震災とコロナと云う近年日本が被った重大危機に対する思想界からの初めての意見表明とも云える書物で、長年私が期待していたものであるので、以下にその概要と感想をまとめてみた。

2.本書の構成と概要

 本の内容は、末木氏の提言「現代という宴の後で」という近代と近代の終焉に関する総括的報告を受けて彼を含めた5人の研究者が、一日かけて各々の専門領域からの補足や新たな問題提起を議論する三部から構成される座談会の内容が主である。これに、この座談会の前後に書かれた。死者と霊性に関連する各著者の死者のビオスー中島岳志、

死者と霊性の哲学-西田幾多郎における得て知的源流―若松英輔、地上的普遍性-鈴木大拙、

近角常観、宮沢賢治―中島隆博、「霊性」の革命-安藤礼二 の4編のエッセイから構成されている。

コロナ下で、丸一日かけて行われた座談会の内容は、次のようなものである。

1

はじめにーコロナ禍のなかで

死者とのつながり方

転換期としての2000

二つの震災をめぐって

100年単位と1000年単位

2

「現代」の捉え方

19世紀のグローバル化と神智学

インドの近代化と霊性

中国の近代化と霊性

日本の近代化と霊性

言語の余白について

3

 死者達の民主主義

「政教分離」とメタ宗教

「宗教」と「国家」の再定義へ

「メタ宗教」の条件

 天皇と国体をめぐって

 哲学と宗教の再興に向けて

座談会では、様々な思想家、宗教家、哲学者等を取り上げられ、話も広範囲に及ぶが、各部座談会の最後に詳細な注がついているので、理解しやすい。良く出来た本だと思う

3.著者達の特徴

巻末の著者達の経歴を見て気が付いたことを列挙してみた。

・末木氏を除けば、40代後半から50代の働き盛りの世代

2010年から2021年までの直近の著書多数で、活躍中の思想家達

・文学部系で、アジア・日本宗教・思想史の専門家

・ほとんどが安保闘争以後の生まれ、ソ連邦崩壊前後に大学生活を送る

・戦後のリベラリズムの影響は希薄。

著書一覧を見ながら、自分が著者名をほとんど知らず、これ等の本を一冊も読んでいないことに戸惑ったが、その理由は、彼等が私よりかなり年下で、その著書のほとんど2010年以降のものであるためと気づいて合点がいった

3.本書の視点

・霊性とは

 ここで云う霊性とは「生者の中でありありとはたらくものであって、幽霊と云うときの霊とは関係がない。霊性における霊とは、超越的実在を意味する。霊性とは、万人の中にあって「意識的自己を超えた」超越者を求めずにはいられない本能を指す。」(p205)

・近代と近代の終焉

近代の定義「人間は合理的思考によって進歩し、それにより万人の幸福度が増加する方向へ向かうと云う楽観論が共通の前提となっていた時代と云うことであろう。」(p2)

「合理的思考と云うのは、一つは科学・技術による環境(人体を含めて)の制御である、それによって生産性を向上させ物質的な豊かさと安楽度を増すことができる。もう一つは人間社会の合理化である。それは民主主義の徹底により、人々の間の差別や不平等を取り除き、万人の幸福度をますことが出来ると考える。このような歴史の進歩と云う観念は進歩派と云われるひとたちだけでなく保守派の人たちにも共有されてきた。」(p2)こうした近代は、1980年代で終わる。その画期的な出来事がマルクス主義国家の失敗と崩壊である。

こうした近代的世界観の問題は、合理性によって把握できないものが抹殺してゆくことであり。「公的な場から見えざるものたちが消されていく、消された見えざるものたちの代表が死者達だ」(p16)震災とパンデェミックは、我々に死と云うものと向かい合うことを要求してきた。

近代と死生観

合理的思考は、生と死を分かち、死を遠ざける役割を果たした。しかし、我々は、たえざる死者との対話の中で生きている。思い出や記憶として、または書物を通して。生と死は、分かちがたく結びついており、むしろ死の世界の中に生の世界がある

この視点が思想や宗教の再生と創造をもたらす。

 世界を「解説ではなく新しい世界の見方を作らなければならない」(p128)

この見方は、国家と憲法と宗教、皇室問題、国家と文化等の広範な領域に及ぶ。

4.2000年代の思想と感想

2000年に入り1990年のソ連邦崩壊を受け戦後イデオロギーの桎梏か解き放され、それまで暗黙の裡にタブーとされてきた大川周明等アジア主義や平田神学等の功罪を自由な視点で見直すことが可能になった。従来カルト的とされ、あまり手の付けられなかった神智学等も正式に研究の対象となってきた。

近代終焉後を見据えた新な思想形成の時代がやってきた。震災、放射能、コロナ、気候変動。目に見えないものにおびえる日々が続いている。見えないものへの視点が必要な時代がやってきた。

この見えないものへの視点は、南方熊楠、西田幾太郎。折口信夫、柳田国男、柳宗悦、井筒俊彦、鈴木大拙、宮沢賢治等とその周辺日本文化や日本思想史の土台を形成してきた人達の思想を科学技術万能の現代に新たな生命を持って蘇らせることになるのかもしれない。

当初少し重いかなと思って読み始めたが、読む程に面白くなった。70代以前の人達の多くは、まだ戦後イデオロギーの桎梏の中にいるし、60代の多くは、近代化思想崩壊後の混沌の中にある。この中で、私の知らないところで50代以降の世代の

若き研究者達が育ってきていることに日本文化の希望を感じさせられる一冊であった。

                                  以上


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