はじめに
一つの言葉が、様々な風景と出来事を結び付け、思いがけない世界へ導くことがある。スケッチ旅行で、度々訪れた明日香の地で出会った石舞台遺跡の横の丘から見た吉野の山々を背景にした明日香村の一筋の道、甘樫の丘から眺めた大和三山、それらの風景が、一冊の本の世界と結び付いたとき全く別の風景が見えて来た。
明日香村と石舞台
15年程前からスケッチ旅行に誘われ、いろんな場所で、風景を描いてきた。その一つに奈良県の明日香村がある。その入り口近くの丘には、蘇我馬子の墓跡と云われる石舞台がある。
そこに辿り着くためには、奈良駅の少し東側を走る169号線をひたすら25Kmばかり南下し、突き当りを右折して1km西に向かい、ここで再び南方に向きを変え、大和三山を右にみて、曲がりくねった丘陵地を8Kmばかり辿る必要がある。
石舞台の横を走る道路は、ここからさらに南下し、前面の山を越して、はるか吉野まで続いている。
この明日香村は、東に音羽山から竜門岳に連なる山々があり、西には葛城山と金剛山を擁する金剛山地があり、南側には高取山から竜門岳に連なる吉野の山地が横たわっている。
つまり、三方を山に囲まれた幅12Kmの狭い地域の東南の飛鳥と云う地域の一角に明日香村はある。唯一開けているのはこの北側であり、その先は奈良盆地であり、さらにその北には、京都がある。
甘樫の丘とそこからの風景
石舞台から北西に2.5Km程先に長さ400m幅50m、高さ70mばかり(標高147m)の小山
の甘樫の丘がある。この丘の麓には、かつて蘇我馬子の邸宅があったところだ。この東南の角にある駐車場から丘の上に上る道があの、10数分かけて、丘の上に出る。その稜線に沿って北へ300mばかり、10数分かけてたどり。北端の角の見晴らし台に着く。そこからは、この地域の全貌が見渡せる。
まず、東側には、標高851mの音羽山とこれに連なる山々があり、その山々の麓と丘の間に幅2kmばかりの平地が南北に広がっている。丘の数百mの位置に日本最古の仏像を安置する飛鳥寺が見える。
丘の東側に沿って飛鳥川が流れており丘の北半分を包み込むように蛇行し、再び北に向かって流れ奈良法隆寺近くで大和川に合流し、大阪湾にそそぐ。
丘の北側、飛鳥川の左手、丘から2kmばかりのところに、大和三山の一つ標高198mの畝傍山があり、川を挟んだ右手には、標高152m天の香具山が横たわっている。この二つ山の間、さらに2km程奥、川の右手に標高132m耳成山が平原海原に浮かぶ島々のように浮かんでいて、その先は遥か奈良盆地まで幅20kmばかりの平野が広がっている。
丘の西側1.5kmばかりの場所に標高210mばかりの貝吹山を頂点とする丘が横たわっているが、その西の麓には、蘇我川が北に流れており、これは、東西に流れる大和側の手前で
神武天皇と飛鳥
神武天皇が高千穂で即位し、東征を開始し、大和の地、畝傍山の麓の樫原宮で即位したのは、紀元前660年であり、平城京に遷都する710年の1370年間この地は、日本の政治の中心であった。
政治の中心が奈良、京都に移り、首都が東京に移るのは1869年であるので、奈良・京都の時代は合計でも1159年にしかすぎない。飛鳥(明日香)の地は、それほど長い歴史を集積している地域なのである。
この地は、1370年の歴史的遺産を集積した地域ではあるが、現風景からは、その歴史は見えない。各種に遺跡群があるが、それらは、時間的に識別された形で現れているわけでなく、各年代のものが、ランダムに無秩序に顔を出している。1370年の時間と空間を直接知覚することは、不可能なのだ。
さらに、神武が橿原の宮で即位するまでの日本史の源流までの時空を辿ることは、創像力の力を借りるしかない。
九州高千穂峡
数年前、友人達と九州を旅して神武天皇の東征の出発点となった高千穂を訪れたことがあった。九州のほぼ中央にある高千穂は、山々に囲まれた数キロ四方の狭い丘陵地でしかない。
この中に高千穂神社、岩戸神社、高天原遥拝所等の施設があり、その周囲をコの字型に岩戸川、五ヶ瀬川が囲んでおり、その一部が高千穂峡と云う景勝地をとなっている。
全体としての高千穂町は、狭い地域ではあるが、人間が徒歩で歩き、知覚で空間認識が出来る一つの宇宙的構造を持つ世界を形作っている。
神々の降臨の地とされる高千穂の峯は、この高千穂町から南に100km離れた霧島連山の
一角にあるので、神の降臨と高千穂町の繋がりは、想像上の話であろう。
神武の旅
とにかく2021年から2688年前の紀元前667年、神日本磐余彦天皇(後の神武天皇)は、この地に住む一族と話し合ってこの狭い世界から、より広い地を目指そうと東を目指して移住旅行を始める。これが神武天皇の東征である。
一行は、九州の海岸を北上し、瀬戸内海を経由して東に進み、大阪から生駒山を超えて奈良盆地に進もうとするが、既存勢力の長スネ彦に阻まれ、紀伊半島に回り込み、新宮付近に上陸し、北上して再度奈良盆地を目指す。
そして約1年かけて、奈良盆地に侵入し、またも長スネ彦に阻まれるが、彼は仕える饒速日命によって殺害され、饒速日命が降伏して、無事大和入りを果し、橿原宮で即位し、大和朝廷を発足させる。彼が東征開始してから7年後の紀元前660年のことである。
神武と共に高千穂から東征に参加したのは、せいぜい十数名から数十名の集団であったに相違ない、その集団が、その移動の過程で、勢力を増し、最終的には、近畿の中央部に
進出し、そこに一大勢力を築くことになる。放浪の果てに新天地に到達する構造は、旧約聖書の出エジプト記を連想させる。
シナイ半島を彷徨する苦難の行軍とでも云える旅の支えが、エホバの神の選民としての意識と信仰であったとすれば、神武一行の苦難の行軍を支えたものも天孫というある種の選民意識であったと云うよう。
古代のスケールと時間
ここで、問題となるのは、彼等が住んでいる世界のスケール感覚である。飛鳥の地は、現在の我々の目から見れば、せいぜい10km四方の狭い領域でしかないが、あの高千穂町の3km四方の領域から見れば、10倍以上の広い世界と云うことになる。こうして新天地大和での歴史が始まる。これが日本書記が語る日本の建国史である。
こうして飛鳥時代と云う1370年間にも及ぶ日本の古代が始まる。この1370年間に、何があったのだろうか。
日本書紀の古代史
日本書紀を大雑把に眺めると、神武天皇の即位の紀元前660年から紀元71年の景行天皇までの約731年間は、主に近畿地方を中心とする部族政権定着の時代であり、この間中国では、春秋、戦国時代から秦による国家統一を経て、後漢の時代に突入している。
この後201年の神功天皇までの130年間は、畿内から東北、九州まで勢力を拡張した時代である。
さらに、それに続く、神攻、応神、仁徳、雄略から欽明に至る約340年間は、その勢力が朝鮮半島に及ぶ時代で、勢力範囲拡大に伴う外交・内政の問題に直面する時代である。中国では、三国時代から晋を経て南北朝に至る時代で、朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅の三国時代でもある。
欽明帝の即位した540年から690年の持統天皇即位までの150年間は、勢力を拡大した大和政権の国家理念や体制構築の模索の時代である。それは545年の仏像と仏教伝来をめぐる思想・宗教と国家像の確立の時期であり、仏教擁護派の蘇我氏が歴史の舞台に現れ、仏教を信奉する聖徳太子が、建国理念を明確にした時代である。
中国に、隋、唐と云う巨大国家が誕生し、それへの対応からも、国家としての形の明確化が迫られた時代であった。
つまり、この1370年の間に、飛鳥と云う狭い空間に本拠地を置きながら、その政権の宇宙は朝鮮半島から中国に至る東アジア全体にまで拡大していたのである。
吉野に至る一本の道
明日香でのスケッチ旅行では、いつも石舞台横の丘の上から、吉野の山々を背景としてその麓に広がる明日香村とその中を突き切る一本の道を描くのが常であった。しかしその一本の道が何を意味するのか、その先の見えない焦燥感が絶えず付きまとっていた。
その明日香のスケッチを午前中で終えて、次に向かうのが甘樫の丘であった。甘樫の丘では、その丘北端に立って、大和三山を描いたが、実のところここから見る風景はどこでも素晴らしかった。ただ、どこを対象に、何を描いたらよいのか。迷いながらついつい名前を知る大和三山を描く事になった。今思えば、その迷いの原因は、この地の時間の集積とそこから各所に顔を出す、時間もバラバラに感雑に顔を出す遺跡群の圧倒的な印象であり、この印象をどう整理したらよいのか全く見当がつかないせいであった。
黒須紀一郎の伝奇小説の語る古代史の秘密
しかし、そんな時出会った一冊の本が、文庫版の黒須紀一郎の伝奇小説 外伝 役子角(作品社2002年2月15日初版発行)であった。面白かった。これが、私に明日香の印象を整理するきっかけを与えてくれた。
黒須紀一郎(1932年生まれ)は、早稲田大学文学部を出て、日活の映画、テレビ部門の企画畑を経てフリープロデューサーも務める作家で、それまで私の全く知らなかった作家である。
Wikipediaによれば、彼のもっとも古い作品は、元禄蘇民伝 犬公方異聞 河出書房新社 1993.11であるので、本格的に作品を書き始めたのは、60歳頃からと推察できる。
私の手にした作品は、その前に外伝役小角 夜叉と行者 作品社 1997.10として出版されているので、この作品は、著者65歳頃の作品である・
この作品について、文芸評論家の寺田博氏は、その感想を簡潔に次のようにまとめて文庫本の裏に掲載している。「著者は、史書にある持統帝の頻繁な吉野行幸の記載を見逃さず、そこから想像力を働かせて、大胆で繊細な外伝を創出した。即ち吉野金峰山の行者役子角から仙道を習得しようとする持統帝は、内奥に巣くう蘇我一族の怨霊を子角の験力で導き出され、壬申の乱、大津王子謀殺、藤原京造営と云った古代史の結節点を逆照射される。この壮大な物語の構築力、描写力に目を瞠る思いがした」まことに適切にまとめられた評である。
この物語2/3程のところに、持統帝が、孫の軽皇子と嫁の阿閉側近の三千代岳だけを伴って甘樫の丘に立って、大和三山を眺めながら蘇我一族の血脈について語る場面があった。
この時、物語の世界と実在の風景が一つに繋がり、古代史の全貌が垣間見えたように思えた。
持統帝は、人生の後半を藤原京の造成にささげた。神武天皇が紀元前660年に即位してからから持統帝が694年藤原京に遷都するまでの1356年間、40代にわたる政権の間、王宮はあっても都はなかった。
国家を現出させた持統天皇
690年鵜野大后が即位し、国名を倭国から日本と改め、自ら天皇と号した。持統天皇の誕生である。持統天皇は、国名を改め、大王を天皇と呼び変えただけではない。
神武天皇から天武天皇までの王朝には、王宮はあっても都はなかった。国はあったが、それは文字の上の抽象的な存在でしかなかった。持統天皇は、それを藤原京として現実世界に創出してみせた。
藤原京の全貌
その場所は、南は甘樫の丘から北に向かって耳成山を越えたところ、西は、畝傍山の西側から東に向かって桜井までの大和三山を取り込んでしまう程の飛鳥の北側の広大な領域である。
その大きさは、東西8防(11.1km)、南北12条(3.2km)この領域が碁盤の目のように区画され、そこには、南北に下ツ道と中ツ道、東西に横大路が走っている。
宮城は、この北半分の中央を占め宮城内には、天皇の住む内裏と政務を行う大極殿、それと12堂からなる朝堂院が設けられる。この巨大な都の出現は、当時の人々を驚愕させたに違いない。つまり持統天皇は、日本の国家と云うものを都と云う形で世界に出現させ、可視化させたと云うことが出来る。
そして、その全貌を甘樫の丘からみることが出来る。つまり、この丘に立てば、神武以来の1356年間の歴史の結果として生み出された藤原京の姿を一望のもとに幻視することが出来る。
持統天皇の吉野行幸の謎
その持統帝が晩年頻繁に行った吉野宮行幸の道、それが石舞台横の丘から明日香村を眺めた時、見える一筋の道であり、それは栢森から標高500mの芋が峠を越え、吉野川沿ったところあり、甘樫の丘からは、全長15kmの一部をなすものであった。その位置は、現在の宮滝遺跡がその位置であると云われている。
持統天皇の吉野宮への頻繁な行幸の理由は、謎が多い。その理由を小説の中で役行者との接触にしたのは、この当時に吉野を中心に修験道が役子角によって始められたこと。しかも、持統天皇が、軽皇子に譲位した2年後の699年に、役子角は伊豆に配流となっており、それを見届けるように702年崩御している偶然を必然とする作者の創造の力であった。
あの明日香村の一本の道は、持統天皇の吉野行幸の謎と共に、修験道の山岳信仰と云う
別の世界に繋がり、大峰早駆道を通じて熊野三山信仰にも広がっている。そして修験道
の源流には、中国四世紀の道教の源流となった仙術とその奥義をまとめた晋の葛洪の著書抱朴子の世界が広がっている。
さらに持統帝崩御から117年後の819年、空海が吉野の西の高野山に金剛峯寺を設立して密教の聖地としている。
この結果、西に、吉野、高野山、熊野、東に吉野、伊勢、熊野の聖地を結ぶ、二つの三角形が出現し、その共通軸が、熊野から吉野と云う、神武天皇の辿ったルートと重なることになる。
明日香村でみた一筋の道は、日本の歴史と信仰の世界に繋がっていたのである。
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