概要
新型コロナによるパンディミック、地球温暖化、米中対立、閉塞感漂う時代を生きるには、
先人達の言葉が導きとなる。「我らを取り巻く空気は重い。世界は窒息して死にかかっている。もう一度窓をひらけよう。広い大気を流れ込ませよう。英雄達の息吹を聞こうではないか。(ロマンロラン:ベートーベンの生涯より)
2001年「宇宙への旅」で一躍一般の人にも知られるようになった20世紀のイギリス生まれのSF界の巨匠アーサー・C・クラーク。月の探査や基地計画、火星の探査や移住計画が現実のものになりつつある現在、彼はこうした人類の宇宙への進出をどのように考えていたのだろうか。
第二次世界大戦後の廃墟の中で、若きクラークが夢見たこと。その原点とも云える初期長編小説2作「宇宙への序曲」と「火星の砂「を手掛かりに、作家誕生の原点と若き日に構想した、人類の月旅行と火星移住計画の思想とその現代的意義について考えてみる。
SFとの出会いと火星旅行
私が、SFなる分野に興味を持ったのは、中学時代、ウェルズ原作の「来たるべき世界の物語」の映画を見て以来である。東西冷戦真っただ中、核戦争の恐怖が世界を覆っていた時期、この映画は、未来への希望を示す一筋の光を与えてくれた。その後、大学時代の初めに、アーサー・C・クラークの初期の作品「太陽系最後の日」に出会い、クラークの宇宙的世界観にすっかり魅せられてしまい。本格的にSFを読むようになった。
それ以来SFは、私の精神世界の一分野としてすっかり定着してしまった。古書展でも、SFは、私のターゲットの一ジャンルとなった。そんな中、コロナ以後の初めての古書展で、久々にまだ読んだことのないアーサー・C・クラークの作品平井イサク訳「火星の砂」(昭和53年(1978年)7月31日発行:早川書店)を見つけた。
火星については、「宇宙戦争」や「火星のカーター」等のSFでも空想科学の空想に力点が置かれた作品が多かったが、近年映画「火星の人」等で、最近の惑星科学をバックに、より実的な科学に力点を置く作品も現れるようになってきた。
さらに、2016年、米国のベンチャースペースXの創業者、イーロン・マスクが、宇宙旅行の商用ビジネスや火星への移住計画を発表する等、月や火星を目指す商用事業構想が現実的に議論される時代になり、1970年代以降停滞していた人類の宇宙を目指す動きが、再び活発化しようとしている。
こんなこともあって、クラークと火星の取り合わせに興味を覚えて、「火星の砂」を読み始めたが、それが図らずも作家クラークの誕生と彼の思想の源流とその思想の現代的意義を考えるきっかけとなった。
クラークの生涯
1968年の抒情詩的SF映画「2001年宇宙への旅: 原題:2001: A Space Odyssey」で一躍有名になったアーサー・C・クラーク(1917年12月16日~2008年3月14日91歳没)は、20世紀SF界の巨匠であるが、彼の経歴は、あまり知られていない。
Wikipediaによれば、彼はイギリスの南西部サマセット州の生まれで1936年(19歳)にグラマースクールを卒業した後は公務員として働いていたが第二次世界大戦中にはイギリス空軍の将校として電波探知法、着陸誘導管制 (GCA) 用レーダー等の開発に取り組み、教官も務め、1944年復員時(27歳)には、イギリス空軍の大尉となっていた。戦後、ロンドン大学のキングス・カレッジに入学し、物理学と数学を専攻する。一時、大蔵省に勤めるがすぐに退職。とある。
クラークは1937年から1945年まで同人誌にいくつか小説を発表していたが、1946年(29歳)、アメリカのSF雑誌アスタウンディング4月号に掲載された短編「抜け穴」で商業誌デビューする。実際に最初に売れたのは翌5月号に掲載された「太陽系最後の日」である。この作品は評価が高く、日本では1960年『S-Fマガジン』創刊号に翻訳が掲載され、支持を得た。作家活動が本格化してきた1949年に Science Abstracts 誌の編集助手として働くようになったが、1951年以降は専業作家となった。1951年には第一長編『宇宙への序曲』を発表。同時期に第二長編「火星の砂」を発表している。
クラークは1956年から亡くなる2008年までスリランカに住んだ。その理由について、クラークと同じく同性愛者であった電子計算機の原理を築いたアラン・チューリングが1954年に自殺に追い詰められた事件にショックをうけ、性的に寛容なスリランカに移住したと、親しい知人には語っていたという。
クラークは、少年時代から天体観測を趣味としSF小説に熱中していた。1934年に英国惑星間協会へ入会し、1946年には会長も務めている。クラークのその後の活躍はあまりに有名であるが、ここでは省略し、以下では、作家クラークの誕生と初期長編2作の概要から彼の思想の原点を探ってみる。
作家クラークの誕生
クラークの長編第1作は、「宇宙序曲:PRELUDE TO SPACE」であるが、これも以前古書展で見つけて入手してあった。それがハヤカワ・SF・シリーズ3294の山崎昭訳「宇宙への序曲」(昭和47年(1972年) 8月15日発行:早川書店)であった。2作目は「火星の砂:SANDS OF MARS」であるが、これらは共に1951年に発行されている。
「宇宙への序曲」が実際に執筆されたのは1947年7月、クラークが、ロンドン大学のキングス・カレッジ在学中の夏休み中の時で、若干30歳の時であるが、それが実際の出版にこぎつけるのは、4年後の1951年のことでその年は、二番目の長編小説「火星の砂」が発行された年でもある。とすれば、「火星の砂」が実際に書かれたのは、1947年以降の1948年から1949年、31歳から32歳頃のことと思われる。
グラマースクール出て、まもなく20代の前半を第二次世界大戦の戦時下で過ごしたSF好きの青年が、科学や技術の基礎的素養である物理学や数学を学びたいと28歳でカレッジに入学したのは、青春を戦時下で過ごした青年の当然の要求であった。カレッジ卒業の記述がないため、彼が、実際に卒業したかどうかは不明である。
空軍を退役した後の29歳から二つ作品が発行される34歳までの5年間は、彼が、科学や技術又は関連する産業分野の職業人として生きる道を断念し、作家として自立する時期であり、1947年(30歳)発表の「太陽系最後の日」の高評価が彼の作家への道を強く後押ししたことは、間違いない。
初期長編2作品
この長編処女作2編が取り上げたのが月旅行と火星旅行であったのは、彼が単なる作家ではなく、物理や数学、そして産業と密接に関係する工学を知る技術者としての経験を持つことからも理解される。既に1945年(28歳)、人工衛星による通信システムを構想し、提案した論文を発表していることに現れている。
第二次世界大戦が終わる1945年は、広島、長崎に原爆が投下された年であり、この当時核エネルギーについての知識は、ほとんど知られてなかったことを考えると彼の想像力の豊かさに驚かされる。
これに続く「火星の砂」では、さらに火星での基地建設プロジェクトの模様を取り上げているが。そこでは、火星旅行の商用化開始時期に焦点が当てられている。物語は、SF作家がその初めての顧客として、地球の周回軌道上の宇宙ステーションで、惑星間宇宙船に乗り換え、火星の衛星の一つであるダイモス上の基地まで到達し、そこから火星上に建設されつつある都市を旅する物語であり、2021年でもリアリティを持つ未来物語となっている。
この作品は、データをマイクロフィルムで保存するとか、原稿をタイプライターで書くとか、既に現代から見れば、陳腐化したツールが登場しているが、こうした生活レベルでの科学や技術ツールを除けば、宇宙船の動力に核反応を利用する、火星の環境を人類が居住可能なように改変するテラフォーミングに関する技術、さらには、第二の太陽を出現させるノバ技術等今でもSFファンタジーとしての生命力を持ち続けている。これ等の作品が30歳を過ぎたばかりの若者の手によって1950年前に書かれたのは驚くべきことである。
その後の宇宙開発と世界
クラークが、「宇宙への序曲」を書いてから10年後の1957年、ソ連が初めて人工衛星スプートニクを打ち上げ、それを契機に米ソの宇宙開発競争が加速し、その12年後の1969年にアメリカは、人類初の月着陸に成功する。
1959年、高校生であった私は、自然文学の影響もあって山岳部と共に天文部に所属しその天文部で、先輩達の岩波新書の「宇宙と星:畑中武夫」の輪講会等に参加したり、山岳部で知り合った同好の友人T君と学校の屋上にシュラフを敷いて、ペルセウス座星群の観測等をしていた。その頃天文部での話題は、人類は、月着陸を実現するのかであり、何故大人達は、こうした宇宙の神秘に関心がないのかといったことであった。
こうした少年期の宇宙へ興味や関心は、目前に横たわる受験の壁や青春期に突如として襲ってくる恋の熱病や社会的な政治の波により、次第に薄れていったが、広大な宇宙や世界への憧れは、心の奥で生き続けていたように思う。
1970年以降は、宇宙開発は、もっと実用的な宇宙ステーション建設に焦点が当てられてゆく。すなわち、1980年代初期、米大統領のレーガンにより冷戦期における西側諸国の宇宙ステーション「フリーダム計画」が立案される。この計画は、西側の結束力をアピールしてソビエト連邦に対抗する政治的な意図が非常に強いものであった。
一方、ソ連は1970年代、滞在型の宇宙船「サリュート」を打ち上げていたが、1980年代にはこれに続く宇宙ステーション「ミール」を打ち上げ、宇宙滞在を実現していたが、1991年末のソビエト連邦の崩壊による混乱と財政難で、ミールは宇宙空間で劣化していった。
国際宇宙ステーション(International Space Station、略称:ISS)は、1988年9月に締結された日米欧の政府間協定により着手され、1998年にはロシア、スウェーデン、スイスを加えた国際宇宙ステーション協定が署名された。
これによりISS計画の参加国は、アメリカ、ロシア、カナダ、日本、欧州宇宙機関(ESA)加盟国を加え15カ国となって1998年にロシアが製造したザーリャモジュールが打ち上げられてISSの建設が開始され、2011年7月に完成した。
当初の運用期間は2016年までの予定であったが、アメリカ、ロシア、カナダ、日本は少なくとも2024年までは運用を継続する方針を発表している。
中国はISSの参加を打診したことはあるものの、独自の宇宙ステーションである「天宮」を開発中である。インドもISSへの参加を希望するも他の参加国の反対に遭ったため、独自の宇宙ステーションの建設を決定した。
ソ連の経済的後退と1989年のソ連邦崩壊により、宇宙開発は沈静期を迎える。対抗者を無くした米国でも、スペースシャトルの事故以降宇宙開発熱はさめ、それ以後は、各国の協力に基づく宇宙ステーションを中心とする地道な技術蓄積時代が続いてきた。
しかし、2010年以降になって中国が、科学・技術の覇権を握るべく、月探査や火星探査計画を発表し、実行に移し始めるとそれと期を一にして米国における民間のベンチャーによる商業ベースの宇宙事業が立ち上がり、新宇宙開発競争の時代が始まったかに見える。しかし、そうは云うものの、残念ながら、現代の宇宙開発の主体は、米国、ロシア、中国の宇宙空間での軍事的覇権争いの色彩が強い。しかし、これ等が新たな宇宙時代への道に微かな光を照らしているのも事実である。クラークの世界は、この微かな光と繋がっている。
クラークとチューリングの青春と世界
アーサー・C・クラークは、こうした少年期の若々しい知的精神を確実に実らせていった人物であろう。彼は。1953年36歳の時、フロリダで偶然知り合った子持ちの女性と電撃結婚するが、6カ月で別れ離婚している。(正式に離婚が成立するのは、1964年)
後日あの結婚は初めから間違っていたと語っていたがその事件は、彼が遅まきに訪れた青春の熱病に罹かり、初めて自分の本性に目覚めた事件であったようだ。1956年彼はスリランカ(セイロン)に移住し、終生ここを拠点として執筆活動を行う。このスリランカ移住には、その前に起こった天才数学者アラン・マシスン・チューリング(Alan Mathison Turing)の自殺事件があったと云われている。
チューリングは、第二次世界大戦中、ドイツが使用していた暗号機エグニマの解読に寄与すると共にコンピュータの原理等を考えた天才数学者であるが、同性愛者であることが、分かり迫害され、自殺に追い込まれた、彼が政府により、公式に名誉回復をしたのは2009年のことで、映画「エグニマ」は、彼の生涯を扱っている。
クラークは、1953年の結婚の苦い経験から、自分が同性愛者であることを自覚したに相違ない。さらに、チューリングが自殺したのは、1954年41歳の時である。クラークは、チューリングの自殺の影響で、同性愛に厳しいイギリスの地を離れて、スリランカに移住したと云うことだと思う。
クラークもチューリングもその知的世界は、およそ女性の官能的・感情的・性的世界とはかけ離れており、女性との生活は、耐えられないものであったに違いない。
クラークはスリランカの地で、同性のパートナーに寄り添われ、少年の頃の精神を開花させ、膨大に作品群を残して2008年3月19日、91歳で亡くなった。チューリングとクラークの生涯は同性愛問題を理解するヒントとなるかもしれない。
クラークの作品群とその思想
月旅行と火星旅行と云う長編2作品を発表して以降、彼の視点は、太陽系内のその他の惑星へ、さらには銀河系全体へと広がってゆく、彼は、人類はまだ幼年期にあると考え、宇宙全体を舞台とする。膨大な作品群を生み出してゆく。その根底にあるのは、知性とその進歩への限りない信頼と楽観論である。
作家として自立した以降のクラークの活躍には、目を見張るばかりである。膨大な作品群を生み出しながら、宇宙や科学に関する啓発活動にも取り組み、数々の賞を得ており、1989年にCBE(大英帝国勲章)授与され、2000年にナイトの称号を得ている。2005年にはスリランカ政府が文民向けの最高勲章 Sri Lankabhimanya を授与している。
その作品群には、私が、読んだ主な作品だけでも、次のようなものがあり、その他の短編やエッセイを含めると膨大な量になる。
『幼年期の終り』 Childhood's End (1953年) ISBN 4488611028 ISBN 4150103410
『銀河帝国の崩壊』 Against the Fall of Night (1953年) ISBN 448861101X
『地球光』 Earthlight (1955年) ISBN 4150103089
『都市と星』 The City and the Stars (1956年) ISBN 4150102716
『海底牧場』 The Deep Range (1957年) ISBN 4150102252
『渇きの海』 A Fall of Moondust (1961年) ISBN 415010235X
『2001年宇宙の旅』 2001: A Space Odyssey (1968年) ISBN 4150102430 ISBN 415011000X (改訳決定版)
『楽園の泉』 The Fountains of Paradise (1979年) ISBN 4152020318 ISBN 4150107319 - ヒューゴー賞[101]、ネビュラ賞[102]受賞
『遥かなる地球の歌』 The Songs of Distant Earth (1986年) ISBN 4152020598 ISBN 4150111359
『星々の揺籃』 Cradle (1988年、ジェントリー・リーと共著) ISBN 4152020660 ISBN 4150112185
『悠久の銀河帝国』Beyond the Fall of Night (1990年、グレゴリー・ベンフォードと共著) ISBN 4152020741
『2010年宇宙の旅』 2010: Odyssey Two (1982年) ISBN 4152020555 ISBN 4150110522
『2061年宇宙の旅』 2061: Odyssey Three (1987年) ISBN 4152020636 ISBN 4150110964
『3001年終局への旅』 3001: The Final Odyssey (1997年) ISBN 4152080884 ISBN 4150113475
さすがに晩年には、共著が多くなっており、下記に示す2000年以降の長編はすべて共同作品となっている。
『時の眼』(タイム・オデッセイ1)Time's Eye (2003年、スティーヴン・バクスターと共著) ISBN 4152087838
『太陽の盾』(タイム・オデッセイ2)Sun storm (2005年、スティーヴン・バクスターと共著) ISBN 4152089121
『最終定理』The Last Theorem (2008年、フレデリック・ポールと共著) ISBN 9784152091017
『火星の挽歌』(タイム・オデッセイ3)FIRSTBORN (2008年(邦訳は2011年)、スティーヴン・バクスターと共著) ISBN 4152092599
SF的ロマンと発想をめぐって
閉鎖系としての地球温暖化論の政治的プロパガンダの中で、縮小均衡論的思考が支配する現代、月への進出を出発点とする宇宙への進出の意義について、74年前、30歳のクラークは、「宇宙への序曲」の主人公に次のように語らせている。「この道は、どんな種族であろうと、彼等がその小さな天体で衰え死滅しないためには、最後には、必ず通らねばならない道なのだと云うことを彼は今信じたのである。」
iPADで、世界に衝撃を与えたアップルのステーヴ・ジョブズ達が、その製品を思い立ったのは、1979年から始まった米国のSF映画スタートレックに出てくるタブレットをみてからだと云われており、それ以降、SF的発想が新技術や新製品開発に有効であるとの認識が徐々に広がってきた。
すなわち、最初に、新しいツールや製品を使う場面や使われ方を想定し、それを実現するための部品や技術を逆に辿ると云うデザイン思考の製品開発である。これ等は、既に腕時計型の通信端末として市場に現れている。
また、スタートレックの中で頻繁に出てくる。バーチャルリアリティのシミョレーションは、メタバースと云うリアルと仮想空間を結合した商用市場として急速に普及しようとしている。
多数の人間が、直接月旅行や火星旅行は出来ないかもしれないが、メタバースを利用した宇宙旅行は、可能かもしれない。
悲観論者は、フロンティアの消滅による資本主義の終焉、地球温暖化による文明の崩壊や恐怖を語るが、その打開と解決のヴィジョンは語らない。
アーサー・C・クラークに代表されるSF的発想こそが、人類の未来を切り開くものであるかもしれない。
冒頭のロマンロランの言葉は、大学時代の物理学の恩師坂田昌一先生が卒業アルバムに寄せて書いてくれた言葉でもある。
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