下村胡人の「次郎物語」と阿部次郎の「三太郎日記」倉田百三の「愛と認識の出発」等の大正デモクラシーと教養主義に導かれて中学、高校時代を過ごした私にとって大学は、まさに「真理追及」の場としか考えられなかった。その大学時代は、卒業後の世界のあることを全く考えず、アルバイトの時間を除けば、サークルと学生運動、討論三昧、読書三昧の生活で、この時代は、殆ど人生の半分に値すると思い悔いの無いように生きようと思っていた。その時、卒業後は忍従の生活がまっているだけだと覚悟していた。
しかし70歳を機に、本格的な年金生活を始めてみて、これは、奨学金を先払いした新たな大学生活のようなもので、再び青春が蘇ってきた思いがしてきた。まさに貝原益軒がいったように「老年の一刻値千金」を実感するようになった。なにより、生活にあまり金がかからなくなった。その理由は、欲望が減退し、自分を制御しやすくなったことと関係し、飲む機会と量が減がったことであり、趣味が金のかからぬ読書や謡、描画と座禅であり、着る物に無頓着で、美食は健康に良くないと外食にも興味が少なく、在職中に、職務で米国を三週間、ヨーロッパを二週間旅行し、国外旅行への渇望もそれ程強くなく、ウオーキングという自分の体との対話を日常の友としているためである。無論、年数回のスケッチ旅行や年10回ばかりの筏釣には、それなりに費用はかかるが、スナックへ行く費用と比べれば安いものである。
読書の焦点は、大学時代未消化に終わり、その後五十年間あまり勉強できなかった物理学を中心とする現代科学の過去五十年間の成果とこれからの展望を知ることであり、もう一つは、大学時代に学び考えた哲学や思想をその後の歴史を振り返り再評価し、あらためて、自分の生きた時代と未来を考えることであった。
時代の最先端の知識は、本屋へ行けば、おびただしい新刊書が出ているので、容易に手に入る。もう一つは、古本屋めぐりで、特に古本屋の組合が開催している古書展には、掘り出しものが多い。今の書店は、殆ど新刊書で占められているので、ここは、書店にない貴重本の宝庫にも思える。この五十年間にアナログからディジダルの時代になり、多くの書籍が、ゴミとして打ち捨てられゆきつつある。そしてこの古書の多くは、戦後から二〇〇〇年までの出版物である。
五十年前は、マルクス主義の全盛時代であり、書店は、これ等の本であふれ返っていた。大学生であった私もそうしたその時代の先端を扱った本しか目にしなかった。しかし、五十年経ってその時代の古書群を眺めてみると当時の自分では、気付くことの出来なかった思いがけない名著が、数多くあることに驚かされる。それらは、ただ古いというだけで、三冊百円や一冊百円のコーナーでただ同然の値段で投げ出されている。これらは、多分もはや絶版になっていて容易には、手に入らないものである。無論古書の中でも店主により、それなりに評価されているものもあるが、それらも新刊に比べれば極めて安い。
ソ連邦の崩壊とともに訪れたアナログからディジダルの時代の変化は、五十年前の思想や価値観を洗い流し、現在私の前には、砂金のようにキラキラ輝くものだけが語りかけてくるように思える。
五十年前の視点から現代をみるのは、一つの驚きあるが、現代の視点から五周年前の時代を眺めることにも多くの驚きと発見があり、これにはハイラインの名作「夏への扉」の時間旅行者しか味わえない感覚と感動がある。
七十年も生きていると以前には見えなかったことも見えてくる。この発見をこれからの人に伝えれば、何かの役に立つかもしれないとブログを始めることにした。
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