古書展で、出会った貴重な本の一つが犬養道子の「新約聖書物語上下巻(新潮社昭和55年発行)」であった。
当時私は、木田元の「ハイデガー「存在と時間」の構築」(岩波現代文庫2001年第5刷)を読み上げて数ケ月たっていたが、その中で、キェルケゴールド、ニーチェ、ハイデガーが必死に格闘していたのが、キリスト教的な枠組みからの脱出で、ことほど左様に、西欧思想の基盤には、ユダヤ・キリスト教が強固に深く根を下ろしていることを感じた。その根深さは、数年前名古屋で行われた生態系に関する国際会議で、「生態系サービス」といった生態系を人間の利用対象としか見ない概念で世界を捉える現代ヨーロッパ思想に覚えた違和感と通じるものであった。
西欧思想の根本を知るには、キリスト教そのものをもっと知る必要がある。そのように無意識に感じていた時にこの本に出会った。
上下巻で1100頁にも及ぶこの本は、現地調査と聖書に基づいたイエスキリストとその弟子達の物語で、17年かかって書かれたこの本は、1975年彼女54歳の時に単行本として出版され、私が出会ったのは、1980年発行の文庫本である。イエスの布教の行程を地図上で丹念に追いながらまるで映画を見るように語られるのに引き込まれ一気に最後まで読み進むことが出来た。その中で、聖書をみる目が少し変わってきた。
イエスキリストが実際に布教活動を行ったのは、西暦28年から30年のたかだか3年間である。ペテロ、パウロが殉教するのが、西暦67年であるので、イエスキリストが、磔になって以後、その出来事を弟子達がどのように受け止めていったのかの記録が聖書であり、それらは、使徒行伝や使徒達の書簡、ヨハネ黙示録等のイエスキリストの直弟子達の思想や行動と共に見てゆく必要があるということである。
イエスキリストの活動は、極めて短期間の出来事であるが、その思想は強烈で、衝撃的であり、弟子達がそのことの意味を考え、整理するのに数十年かかり、その衝撃波が、現代まで続いているということなのだろう。科学がこれほど進み、キリスト教的世界観がどんどん薄らいでゆく中でも、まだその影響が大きいその理由は、その核心が、世界観ではなく救済論にあると私には思えた。マルクス主義は、宗教無批判をフォイエルバッハに依存し、救済論に真摯に向き合ってこなかったように思える。
そして救済論という視点からならば、インド的又は仏教的思想との統一的理解が出来るかもしれないと思うようになった。キリスト教を考える手がかりを得たと感じさせられた本であった。
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