2018年6月21日木曜日

西部邁の「保守の遺言」を読んて


西部邁の著作を読むことになったのは、彼の自殺(自裁死)のニュースを聞いてからでした。
今年2018年121日の思想家西部邁の死は、一行の死亡記事で報じられただけでした。半年ばかり前のTBSの番組で石原新太郎と対談で、その名前を知り、一度彼の作品を読んでもたいと感じていました。
 その彼が何故自殺したのか、そんな時、書店で「保守の真髄」(講談社現代新書;20171220日発行)という彼の最期の出版物をみつけ、同時に第二刷として刊行された「大衆への反逆」(文春学術ライブラリー201712月第一刷発行)を購入して読んでみました。そこには、彼の死の動機が明確に書かれていました。あの安保闘争の時代、全学連委員長の唐牛健太郎の盟友であった彼のその後の人生と自殺に、深い感慨を覚えざるを得ませんでした。

 「保守の真髄」を読み終わって間もなく、書店で、それよりも後に出版された平凡社から出版された「保守の遺言」(平凡社新書:2018227日第一刷発行)という文字通り彼の最後の著作を手にし、次いで雑誌表現者の特集号西部邁永訣の歌(201851)を買い求めた。
 この内「保守の遺言」を一気に読み終えた。そして彼の思想と彼の孤独を理解したと思った。政治・経済・社会をめぐる彼の思考と思索は、ことごとく日頃感じていた自分の考えを整理し、体系的に裏づけてくれたものに思えた。

 今の世界をリアルの見つめる視点は、彼が、我々の論理のもとになっている言葉の意味を根本から考えるというハイディガーとも共通する思考と思想を身につけていることによるとつくづく感じた。本当に西洋の知を原点から学び、日本の政治・経済・社会について、的確に理解している彼に匹敵する人物は他にいないような気がする。

 このリアリストに海外で対応するのが、フランスの歴史人口学者エマニエル・トッドであろう。彼もまた、フランスを中心とするヨーロッパの政治・経済・社会をめぐる思考と思索は、長年「世界大戦と現代史の構造」について考えてきた自分の考えを整理し、体系化する上での大きな刺激となった。そのきっかけは、書店で「シャルルとは何か?(文春新書:2016120日第一刷発行)に出会ったためであった。
 そして201869日発売の「文藝春秋7月号の「日本は核を持つべきだ」とのドッドの論文を読み、彼の世界理解が、西部邁の考えと殆どかわらないのに驚いた。彼の観点は、英国のEUからの離脱、EU内部でのナショナリズムの勃興と内部亀裂の拡大、米国におけるトランプ政権の誕生、朝鮮半島の動向、ロシアと中国の覇権主義的な動き等を的確に分析し、捉えている。

 世界と日本の政治・経済・社会は、エマニエル・トッドと西部邁を読めば、その大枠と方向性がわかると言わざるを得ない。これからは、国内については、まず西部邁を読んでから議論しょう。世界についてはエマニエル・トッドを読んでから話をしようということにした。政治・経済・社会問題を議論しようとするとき、殆どの場合議論にならないことが多い。それは、民主主義や国家や民族等といった基本用語を含める議論の前提があまりに自覚されていないためであるが、西部の思考は、その理由を極めて明快に浮かび上がらせてくれている。
 
ただ、彼は、基本的に経済学者であり、その点で自分の問題意識に対して、答えてはくれていないのも感じた。
 その一つは、宇宙論的な視点であり、138億年ビックバンで誕生したこの世界とその中での知的生命体としての人間をどうとらえるかの問題である。
 そしてもう一つは、人間の心の中あるいは、救済論的な問題である。彼はこれを宗教問題としか捉えていないが、人間の脳の細胞が宇宙の星の数に匹敵し、人間の心が宇宙的な広がりをもつことに対する基本的な視点についてである。

 彼は、ソシール等の言語学の本も読んでいるので思考における言葉の限界を理解しているが、その先を求める禅の世界については、殆ど無理解であったように感じられる。

 従って、彼は空海が秘蔵宝鑰の序詩の中で述べている「生まれ生まれ生まれ生まれて
生の始めに暗く、死に死に死に死に死の終わりに冥し」の世界で一生を終えたのかも知れない。歴史概念という実時間の西洋的世界の中で思考した彼には、その時間と直交する虚時間を問題とする東洋的且つ救済論的な世界とは無縁であったのかも知れない。その意味では、彼は西欧的思想のしがらみからは抜け出せないままであったような気がする。

2018年5月22日火曜日

禅と西欧哲学をめぐってー上田閑照についてー


  書店では、思いがけない出会いがある。12月の古書展の3冊100円コーナーで見つけた上田閑照の哲学コレクションV 道程―思索の風景―(2008年6月:岩波現代文庫:岩波書店)がこれである。
それまでに上田閑照の数冊の本を手に取ったことはあったが、それほど魅かれたわけでパなかった。しかし、この本は、その目次から西田幾太郎、禅、エックハルト、神秘主義という現在の私の問題群にヒットしたいたため、とりあえず目を通しておこうという軽い気持ちで購入することにした。
手に取ってみて、思わず引き込まれ、気が付けば最後まで読み続けていた。なにより、興味深かったのは、哲学者なる人達の生い立ちや出会い、生活と共に思索のプロセスが語られていることであった。こうした書物に今まだであったことはなかった。多くの哲学書は、ユークリッド幾何学のように理路整然たる体系の中で語られるのが普通であり、その理論が生まれてきた背景について語られることは殆どない。
しかしこの本は、違っていた。それは、この本が彼の哲学コレクションの最期を飾る本であったことと関係している。
ヒトは、人生の終末期には、自分の航跡を振り返りたくなる。このことと関係しているのかもしれない。上田閑照は、1,926年生れであるので。この本が出版された2008年は、82歳であり、まだ亡くなったという報道はないので、今年で92歳になる。
戦後まもない1949年に京都大学文学部哲学科を卒業して以来一貫して大学に関係し、西田幾太郎、鈴木大拙、エックハルト、ハイディガーの周りで座禅体験をベースとしつつ思索し続けた人である。ドイツ留学しエックハルトを研究すると共に禅に親しんだことから西洋と東洋の思想を統一的に眺められた人である。西田幾太郎門下の京都学派の本流を歩んだひとである。東洋思想と西洋哲学と神秘主義と禅この関連性を包括的に取り扱える人は数すくない。その彼が、70歳を過ぎてから何を感じ、何を考えたのか、興味はつきない。
その彼も今や92歳。禅の実践者としてどんな終末を迎えられるのか。
真の哲学者の一人がまた、我々の前から去ろうとしている。

2017年6月21日水曜日

濃尾参州記―司馬遼太郎 街道をゆく43― を読んで

古書市では、思いがけない本に出会う。この司馬遼太郎の「濃尾参州記:朝日文芸文庫1998発行」もその一つだ。最近は、作家や知識人が、その人生の最期に何を考え、どう生きたかに関心が移ってきた。そのためか、あまり意識しなくても、偶然こうした本に巡り合うことが多い。
何かに関心を持っているとそのことに関係のある情報が引力に引かれるように訪れる。この本との出会いもそり一例である。
 

司馬遼太郎の作品は、二三読んでいるが、それ程熱心にファンでもない。にもかかわらず、古書市で思わず手にしてしまったのは、それが、この尾張と三河をテーマとしていることと、25年にわたるシリーズの未完の最終巻とのキャッチフレーズに魅かれたためである。

 織田信長の桶狭間の合戦を中心としたこの本は、岐阜城から岡崎城までの岐阜から愛知三河までのいわば、美濃、尾張、三河三州の歴史風土記として企画されたが、家康が三方が原で、信玄に敗北するところで突如中断する。

   1991年に構想された名古屋を中心とするこの企画の取材が始まったのは、1995年の10月であり、司馬遼太郎が亡くなるのは、その4ケ月後の1996年2月12日である。
2回目の取材が行われたのは、1月2日から9日であり、編集者が最後の原稿を空け撮ったのは、1月31日である。12日に亡くなった時、机のまわりの本棚はすべて名古屋に関する資料で占められていたとのことである。

 執筆が途中で文字通り中断してしまったので、本来は、本にならない本であったと思われるが、編集者の執念であろう。2年後の1998年3月に未完の43巻として出版された。
このため、この本は、取材に同行した画家の安野光雅のスケッチ(この幾枚かは、本の挿絵となるはずであった)と取材風景の写真、さらに 濃尾参州記余話として「司馬千一夜」という安野光雅の一文と「名古屋取材ノートから」という編集部の村井重俊氏一文でようやく140ページの小冊子が出来上がった。司馬の文章はこの内の80頁にしかならなかった。

司馬は、1923年生れであるので、亡くなったときは、73歳今の私の年齢である。
取材を終わったとき司馬遼太郎はいったという「もう取材は、十分です。あくまで尾張が中心で三河や美濃はスパイスです。でも三河はおもしろいね」。


この作品は未完に終わったが、それでもそこには、名古屋と医学の歴史等司馬ならでの生きた人々の生活が浮かび上がってくるような記述がある。司馬遼太郎が執筆しようとして机の周りに集めた名古屋関係の資料は、どうなったであろうか。あの作品が完成していたら、尾張に住む我々は、もっと身近に歴史を感ずることが出来る本に出会えたに違いない。

2017年6月12日月曜日

「漱石、ジャムを舐める」は食の文化史だ

数年前のことである。電話口に出た娘が、当時小学6年の孫が、漱石の「吾輩は猫である」を読んで、そこに出てくる苦沙弥先生がおじいちゃんに似ていると云っていると話してくれた。それは、多分、本を枕元に置いて読まない内に寝てしまうこと、絵を描くこと、謡をしていることなどであろうと瞬時に思った。しかし、「吾輩は猫である」の記憶が曖昧であるのに気づき、孫がやってくるまでに、もう一度読んでみようと思い立ち、60年ぶりに新たに新潮の文庫本を買い求めて読んでみた。

そして驚いた。当時の文化世相を反映した内容は、面白いが結構難しく、こんな本を小学生が面白く読んでいるとは、到底信じられなかった。そこで、再び電話で、孫娘の読んだ本は、内容を抜粋した簡易本ではないかと問うてみたが、いやそうではないという。そこで、電話を代わってもらい本当に最後まで読んだか確認するため、猫は、最期どうなったと質問したら、川に落ち流されて死ぬと答えた。その答えを聞いて、どうやら孫娘は、本当に「吾輩は猫である」を読んだのだと納得した。

 たまたま、その時、「漱石の妻」というタイトルで漱石の生活がテレビドラマ化されていたこともあって古書展で漱石の講演録など漱石関連の本を見つけて、ようやく漱石の人物像と生きた時代をはっきりとさせることが、出来た。
 漱石が生きたのは、幕末の慶応3(1867)から大正5(1916,)で、岡倉天心の文久2(1860,)から大正2(1913)と重なるこの時代は、明治維新を成し遂げた日本が、西欧文化と伝統文化の衝突と統合の苦悩の上にようやく近代国家としての姿を確立してゆく時代であり、近代日本の基本構造が定まった時期でもある。

こんな漱石の話を釣り仲間のTさんにしたら、それならば、長年漱石の研究をしている大学時代の友人が、最近送ってきた本があるから提供しようといって手渡されたのが、「漱石、ジャムを舐める 河内一郎:創元社:20067月発行」であった。しかし、当時漱石の思想に関心のあった私は、なかなかそれを手に取ることが出来なかった。しかし、最近になって、とにかく一通り目を通してみようと思い立ち、読み始めて感心した。それは、漱石の作品を一つの手掛かりとした食文化の歴史書であった。

20年近く技術士会の食問題研究会で、月一回の勉強会を続けてきた。この会は当初食品の品質管理を中心としていたが、最近食文化や食品と生物工学の関係に重点を置くようになって、その中で、食の歴史もよく取り上げられるようになった。
その私からみて、日本の食品の歴史が、簡潔によくまとめられているのに舌をまいた。その食の歴史の範囲は、パン、西洋料理、ビールなどの飲み物、食材、日本料理、お菓子、飲食店と食に関する殆どの領域に亘っている。しかもその調査は、文献だけでなく、実地調査も加わっているし、当時の物価や収入の資料まで、まとめられている。特に印象に残ったのは、横山大観の白牡丹絵漱石が俳句を書き入れた掛け軸である。この話は、酒(正宗),と白牡丹の中に出てくるが、著者もよほど感銘したとみえ、その掛け軸が本の表紙の口絵になっていた。

 食と生活の歴史書といってよいこの本は、あまり、注目されないかも知れないが、私には、極めて貴重な本と感じられた。文系の人の書き物は、自分の感情や思いを記したものと思っていたが、この本は確かな調査と事実に基づき、技術文書にも似た簡潔な文章で思わず引き込まれてしまった。著者が食品関係の会社で、長年培った実務経験(おそらく生産現場もよく理解されている)が凝縮されており、ライフワークとして取り組まれただけの
ことはあると思わずにはいられなかった。題名に囚われず、食と食文化に興味がある人、

人間の歴史を食や生活の視点から見てみたい人に是非読んでもらいたい本である。完

2017年6月7日水曜日

光を掲げる者 ―「天才の栄光と挫折」― 藤原正彦 を読んで

最近の或る学習会でのことである。会が始まる前の雑談で定年後の生活などを扱った本は、すべて捨てた。そのかわり人間が人生の最後に何を思い、何を考えたに関心が移った。例えばあの山田風太郎の「あと千日の晩飯」や」渋澤龍彦の「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」等の本のように。などと話したたらその会のメンバーの一人の女性から我意を得たりとばかり、手渡された一冊の本があった。それが、あの社会学者で思想家の鶴見俊輔の「もうろく帖 後編:2017.2.25出版」でありであった。それは、2015年に亡くなった彼のノートに書かれていた78歳から93歳までの日記的なメモをまとめたものであった。それは、彼の読書の中で気になった数行の言葉又は詩句を記した文字通りのメモで、最晩年の彼が何に興味を持ったかを示すものであった。
 その中でただ一つなるほどと思ったことばがあった。それは、200458日の「本は古本になると真価だけで生きてゆくのである。」司馬遼太郎の街道をゆく・神田界隈と云うメモだった。この本は、ざっと目を通したが、それ以上の価値はなかった。彼女が一読して僕にくれた理由が分かった。


 古書店には、その真価だけで生きているような本に偶然出会うことがある。その中の一冊が三冊100円コーナーで見つけた「天才の栄光と挫折― 藤原正彦:20089月文春文庫であった。これは、数学者列伝と表紙に印刷それているように9人の天才数学者の栄光と挫折を扱った本であるが、その数学という言葉が包装紙の役割を果たしたためか全く読まれた形跡もない新品のまま、古書の山の中に埋もれていた。10年程前「フェルマーの最終定理」という本にいたく感動したことのある僕は、躊躇することなく買い入れた。それは数日間机の上に放置されていたが、読み始めたエバリスト・ガロワが面白かったので、一気に読み進めた。面白い本であった。その中には、映画「エニグマ」に出てくるチューリングや「フェルマーの最終定理」に出てくるアンドリュー・ワイルズも取り上げられていた。この本の解説を作家の小川洋子さんが書いていたが、これは物足りなかった。やはり「文系の人には理解できていない」そう思った。

「フェルマーの最終定理」を読んで以来、数学というものが何をあつかうのかおぼろげながら見えてきた。数字は、一つの言語であり、言語は、混沌たる世界に秩序をもたらす光である。この点で、言葉も数字も同じである。ただ、数学の諸概念は、一般の言語に比べてはるかに、ち密で、厳格な定義と論理で成り立っているので、我々を取り巻く混沌たる世界をより深く体系的に表現出来る。哲学や思想は、難しいといってもその殆どが日常的に使われる言葉や概念で構成されているため、先端分野の議論でもその内容は理解されやすい。しかし、数学の概念は、初等数学を除けば、その先端分野の議論は、殆ど一般の人にも理解出来ないし話題にもならない。
哲学者、思想家、文学者、作家といった人々はその内容が如何に独創的であったとしても、共感してくれる数多くの仲間を比較的容易に見つけることが出来る。
しかし、数学の先端の世界では、その見解を評価してくれるのはその先端近くにいる極めて限られた少数の人しかいない。その意味で、優秀な数学者ほど絶対的といっていいほど孤独である。この孤独を指標とすれば、文系と数学の間に物理等の理系や工学がある。学会の学術講演会などでも先端の研究程その内容を評価できる人間は少なくその周辺の研究者に限定されてしまう。自分の研究の努力が、理解されない孤独感は、研究者や開発者共通の宿命かも知れない。
一般の人達は、知の前線で、孤独に戦う人達を天才という言葉で、祭り上げるが、それは、ある種の思考停止のように思える。

人生は、一篇のボールドレールの詩にも値しないとは誰かのことばであったが、知の前線で孤独な戦いを続ける彼等に比べれば、鶴見俊輔も大江健三郎も大衆に迎合し数か月で忘れ去られる政治家や芸能人に近く、彼等の夥しい著作も一行のフェルマーの最終定理や美しいディラック方程式アインシュタインの宇宙方程式などの足元にも及ばない。
「一隅を照らす」とい言葉があるが、彼等は、知の前線で、混沌たる暗黒世界に光を掲げている人達である。

天才数学者の生きた時空は、あの天才宗教家空海の生きた時空に連なっている。その空海は、「秘蔵宝鑰」の序詩で「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」と詩っている。彼は、知の前線で戦うものの絶対的な孤独感を理解していたと思う。                    完

2017年5月24日水曜日

日本人の戦争

 ソ連邦崩壊の1989年までの日本の近代史の多くは、マルクス主義的な観点から
書かれたたものが、殆どであり、それ以外は、一般には、右翼的な本として左翼陣営
からはタブー視されてきた。夥しい数の左翼的歴史書は、ソ連邦崩壊と共にこの世から
消失したかに見える。これは、それまで戦後左翼の思想を陰で支えてきた社会主義を正義とする論理構成が出来なくなったためである。
 第二次世界大戦をソ連邦の崩壊という事実を正面から受け止めた上で、今日改めて
捉えなおすととどうなるであろうか。これは、安保闘争世代にとっての深刻な課題であるが、もはやこの世代は、老いさらばえてその課題に立ち向かう真摯な心も気力も無くし、
憲法9条だけを思想の支えとして、1960年代の戦後思想を反芻しているだけのように思える。
 その中で、ソ連邦の崩壊という事実を見据えた上で、日本にとっての第二次世界対戦
(大東亜戦争又は太平洋戦争)を考えようとした数少ない本に出会った。
河原宏の「日本人の戦争」:講談社学術文庫:2012年10月10日発行 である。
 残念ながら、河原氏は、2012年2月この出版を待たずに逝去されていた。
この本の初版本は1995年3月に発表されており、この新装版も2008年7月に発表
されていたが、仕事に追われていたその頃の私の目にに入らなかった。
 今回あらためて読んで、氏の古典の造詣の深さを裏打ちされた感性と思想性に関心した。1928年生れであるから、この作品を書かれた年齢は、67歳であり、84歳で亡くなられたことになるが、西欧のイデオロギー(氏は、抽象化という)に毒されることのない眼差しに好感を覚えた。残念な人を無くしたものである。
 この本は、平和と憲法9条しか知らない安保世代の老齢化した保守的旧左翼の人々にらも
是非読ませたい本である。


2017年2月15日水曜日

 私の読書ノート 「怪僧ラスプーチン」

201612月の古書展で「怪僧 ラスプーチン」という名の文庫本を見つけた。
458頁もの装丁のしっかりした本を3100円にコーナーで見つけて購入した。この本は
マッシモ・グリッランディ 米川良夫訳 中公文庫198912月発行となっている。
ラスプーチンは、ロシア革命の直前のロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世とその王妃アレクサンドラに気に入られ、暗殺された日本の道鏡にも似た怪僧である。この本は、その生涯を描いた伝記的物語である。
 作者は、イタリア生まれ(19311987)の詩人・作家マッシモ・グリランディ、日本で出版された本に「マタハリ」がある。私の関心は、二つである。その一つは、この作品がロシア革命前の状況を体制側から描いていることと、キリスト教の僧侶を扱っていることである。その物語は、ラスプーチンが毒殺される直前の状況からはじまり、そこから遡りそこに至る経緯をおって物語が展開される。何故僧侶が政治に関係していったか、その怪僧を生み出した背景には、何があったのかその興味に魅かれて一気に読み進んだ。
そして徐々に明らかにされたのが、彼が霊的キリスト教の一派である鞭身派の僧侶となったことと関係しているということであった。霊的キリスト教は、17世紀のロシア中央部の諸県で、組織的ではない神秘主義的かつ終末論的な大衆性を持つ運動を基盤として誕生した。
鞭身派は、この流れから生まれた一派で、この流れから生まれた別の分派には、ツァーによって弾圧され、カナダへの移住を余儀なくなれたドゥホボール派がある。このドゥホボール派をトルストイが援助したことを初めて聞いたのは、数年前カナダのネルソンの街に住む女性の知人からで、ネルソンの街には、このドゥホボール派とトルストイの関係を調べている研究者がいるとのことであった。残念ながら当時の私は、霊的キリスト教に関する知識が全くなかったため、それ以上の興味に繋がらなかった。
物語の中で、鞭身派の教義や活動をしるに及んで、この考え方が、生を肯定する理趣経の教義とそこから生まれた立川流の教えと極めて類似しているように思えた。理趣経は、密教の生の肯定の思想を男女の性の肯定まで広げたもので、煩悩即菩提、淫欲即是道の思想である。日本における立川流は、12世紀後三条天皇の時代に仁観がその100年後の南北朝の後醍醐天皇の時代に文観という立川流の僧侶が政界に影響を与えた記録がある。
このことを知ったのは、やはり古書展で、「悟りの秘密 理趣経 金岡秀友」筑摩書房
現代の仏教9昭和408月出版を見つけてその中に立川流に関する記述を見つけたことによる。
  従来ラスプーチンは、怪物のように見なされてきたが、彼が性の宗教を奉じていたとするならば、文盲の農民が圧倒的多数を占める18世紀のロシアの思想状況を考えるならばその行動や伝説も合理的に理解できるように思われる。それにしても、正月に訪れた高1の孫娘が、ラスプーチンのことを知っており、彼が致死量の何倍もの毒を飲みながらなかなか死ななかったというエピソードを知っていたのは驚きである。彼女は、どこでその話をしったのであろうか。このことの方が気にかかる。