2017年6月7日水曜日

光を掲げる者 ―「天才の栄光と挫折」― 藤原正彦 を読んで

最近の或る学習会でのことである。会が始まる前の雑談で定年後の生活などを扱った本は、すべて捨てた。そのかわり人間が人生の最後に何を思い、何を考えたに関心が移った。例えばあの山田風太郎の「あと千日の晩飯」や」渋澤龍彦の「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」等の本のように。などと話したたらその会のメンバーの一人の女性から我意を得たりとばかり、手渡された一冊の本があった。それが、あの社会学者で思想家の鶴見俊輔の「もうろく帖 後編:2017.2.25出版」でありであった。それは、2015年に亡くなった彼のノートに書かれていた78歳から93歳までの日記的なメモをまとめたものであった。それは、彼の読書の中で気になった数行の言葉又は詩句を記した文字通りのメモで、最晩年の彼が何に興味を持ったかを示すものであった。
 その中でただ一つなるほどと思ったことばがあった。それは、200458日の「本は古本になると真価だけで生きてゆくのである。」司馬遼太郎の街道をゆく・神田界隈と云うメモだった。この本は、ざっと目を通したが、それ以上の価値はなかった。彼女が一読して僕にくれた理由が分かった。


 古書店には、その真価だけで生きているような本に偶然出会うことがある。その中の一冊が三冊100円コーナーで見つけた「天才の栄光と挫折― 藤原正彦:20089月文春文庫であった。これは、数学者列伝と表紙に印刷それているように9人の天才数学者の栄光と挫折を扱った本であるが、その数学という言葉が包装紙の役割を果たしたためか全く読まれた形跡もない新品のまま、古書の山の中に埋もれていた。10年程前「フェルマーの最終定理」という本にいたく感動したことのある僕は、躊躇することなく買い入れた。それは数日間机の上に放置されていたが、読み始めたエバリスト・ガロワが面白かったので、一気に読み進めた。面白い本であった。その中には、映画「エニグマ」に出てくるチューリングや「フェルマーの最終定理」に出てくるアンドリュー・ワイルズも取り上げられていた。この本の解説を作家の小川洋子さんが書いていたが、これは物足りなかった。やはり「文系の人には理解できていない」そう思った。

「フェルマーの最終定理」を読んで以来、数学というものが何をあつかうのかおぼろげながら見えてきた。数字は、一つの言語であり、言語は、混沌たる世界に秩序をもたらす光である。この点で、言葉も数字も同じである。ただ、数学の諸概念は、一般の言語に比べてはるかに、ち密で、厳格な定義と論理で成り立っているので、我々を取り巻く混沌たる世界をより深く体系的に表現出来る。哲学や思想は、難しいといってもその殆どが日常的に使われる言葉や概念で構成されているため、先端分野の議論でもその内容は理解されやすい。しかし、数学の概念は、初等数学を除けば、その先端分野の議論は、殆ど一般の人にも理解出来ないし話題にもならない。
哲学者、思想家、文学者、作家といった人々はその内容が如何に独創的であったとしても、共感してくれる数多くの仲間を比較的容易に見つけることが出来る。
しかし、数学の先端の世界では、その見解を評価してくれるのはその先端近くにいる極めて限られた少数の人しかいない。その意味で、優秀な数学者ほど絶対的といっていいほど孤独である。この孤独を指標とすれば、文系と数学の間に物理等の理系や工学がある。学会の学術講演会などでも先端の研究程その内容を評価できる人間は少なくその周辺の研究者に限定されてしまう。自分の研究の努力が、理解されない孤独感は、研究者や開発者共通の宿命かも知れない。
一般の人達は、知の前線で、孤独に戦う人達を天才という言葉で、祭り上げるが、それは、ある種の思考停止のように思える。

人生は、一篇のボールドレールの詩にも値しないとは誰かのことばであったが、知の前線で孤独な戦いを続ける彼等に比べれば、鶴見俊輔も大江健三郎も大衆に迎合し数か月で忘れ去られる政治家や芸能人に近く、彼等の夥しい著作も一行のフェルマーの最終定理や美しいディラック方程式アインシュタインの宇宙方程式などの足元にも及ばない。
「一隅を照らす」とい言葉があるが、彼等は、知の前線で、混沌たる暗黒世界に光を掲げている人達である。

天才数学者の生きた時空は、あの天才宗教家空海の生きた時空に連なっている。その空海は、「秘蔵宝鑰」の序詩で「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」と詩っている。彼は、知の前線で戦うものの絶対的な孤独感を理解していたと思う。                    完

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