2023年4月3日月曜日

一冊の本への共感と違和感―AIとシンギュラリティをめぐってー

 

1.はじめ

一書店で偶然手にした一冊の本が、この20年間私が気にかけていたテーマである「人工知能と意識」について考えをまとめるきっかけとなった。その本が「虚妄のAI神話―シンギュラリティを葬り去る:ジャン=ガブリエル・ガナシャ早川書房:20197月発行」である。著者は、フランスの哲学者でソルボンヌ大学コンピュータ・サイエンス教授。認知モデルや機械学習等人工知能(AI)の研究者で小説も書いている

最近の技術の加速度的進歩により、画像生成ソフトMidjourneyやチャットGPTの出現等生成AIの急進に象徴される事件、すなわち従来不可能とされていた画像作成、作曲、文章作成等人間の創作活動領域にまで、AIが進出する事態の中で、哲学者や思想家が、茫然自失してこの分野への包括的展望を開けないことに不満と焦りに似た感情を抱いていた私にとってこの本は、天空から降りて来た暗闇の中の一条の光のようにも思えた。

2.シンギュラリティ問題の概要と背景

この本のテーマであるシンギュラリティとは、未来のある時点で、コンピュータ技術の指数関数的な進歩が爆発的発展をもたらし、それよりより先は予測できなくなると云う仮説で、この時点を計算不可能なこと示す数学的表現の特異点(Singularity)で表したもので技術的特異点と称されている。

 コンビュータ技術の発展の先の見通しに最初に言及したのは、イギリスの数学者IJグッドで、彼は1965年すでにコンピュータ技術がこのまま進歩してゆけば機械の知能が自己を規定するプログラムを改良するようになり、そうなれば、機械の知能は、指数関数的に増大すると論じた。

シンギュラリティと云う言葉を初めて使ったのは、元サンディエゴ大学の教授で数学者でSF作家でもあるヴァーナー・ヴィジン。彼が1993年「来たるべき技術的特異点:ポストヒューマン時代をどう生き延びるか」と云う論文を発表し、人間より優れたコンピュータが現れる時期を特異点と命名した。

それ以来徐々にこの言葉と概念が欧米の数学・物理等の科学者やコンピュータ関連の技術者を中心に広がり、多くの研究者や技術者がこの問題に取り組み、発言するようになった。特にその中心にいるのは、アメリカの早熟の天才的コンビュータ研究者、グーグルの機械学習と自然言語処理の技術責任者で、1948年生まれのカーツワイルである。

ヴァーナー・ヴィジンは、前述の論文でシンギュラリティの到来を30年後(2023)と予測していたが。この予測ははずれそうである。1965年にインテル社の創業者の一人でもあるG・ムーアは「集積回路上のトランジェスタの数は、18カ月ごとに2倍になっており今後もそのベースで増え続けると云う将来予測「ムーアの法則」を発表した。(ムーア2023324日死亡)

カーツワイルは、この法則をもとにコンピュータの技術発展を予測し2005に出版した『シンギュラリティは近い』という本で発表し、2030年代にはコンピュータの計算能力が人類の生物学的な知能の総容量に等しい量に達すると主張した。 そして、2045年には1000ドルのコンピュータの計算能力が、10ペタフロップスの人類の脳の100億倍になると予測しており、この時、コンピュータの知能が、人類全体の知能を上回ると予想されると云う。これが2045年問題と云われる。この本は世界的なベストセラーとなり、カーツワイル氏の名声を高めたと云われる。ちなみに、「ムーアの法則」はその後も破られていない。また2010年代にニューラルネットワークの一手法であるデープラニングがブレイクスルーとも云える成功をおさめ、AIと云う言葉が一気に普及し始めた

そして2014、ブラックホールや宇宙の起源、時間に関する研究で有名なイギリスの宇宙物理学者スティーヴン・ホーキング(20183月没)が、イギリスの新聞(インディペンデント)に、人工知能(AI)のもたらす不可逆的結果についての警告の声明文を発表した。 

「技術は、瞬く間に発展し、すぐに制御不能となって人類を危機的状況にさらすだろう。だが、いまなら止められる。明日ではもう遅いのだ。」と。

この懸念に著名な顔ぶれの科学者達が同調し、イーロン・マスクビル・ゲイツ等の実業家も危惧を表明するに至って、人類的課題として、欧米を中心に広く議論されるようになってきたが、日本では、一部SFマニアのマイナーな関心事としてしか扱われてこなかった。

3.「虚妄のAI神話」の意義と違和感

 「虚妄のAI神話」は、このテーマを包括的・思想的に取り扱った初めての本である。しかし、読み進んでゆくにつれて、ある種の違和感も覚えるようになった。それは、人工知能をもっぱらシンギュライティ問題に限定し、主にカーツワイルの主張へ批判に焦点を当てていることへの違和感である。

つまり現在の人工知能を支える技術の評価、思考回路、知能の捉え方、意識の考え方等の人間との距離感(模倣精度)への言及が少なく、我々が人工知能の可能性と危険性を全体として考える足掛かりとしては、不十分と思えたのである。そこで、この際過去20年間に亘るこの分野への自分の軌跡を振り返り、この分野への自分の考え簡単にまとめてみようと思い立った。

4.科学から工学そして

現代の技術文明の基盤となる科学は、20世紀の前半つまり、1950年頃までに既に、確立していたように思う。

1960年代、理学部の物理学科では、古典物理学である力学や電磁気学、熱力学と完成まもない量子力学、相対性理論、原子核物理学やミクロとマクロの世界をつなぐ統計物理学や量子論で固体の性質を基礎づける個体物理学等が教えられていた。また演習ではあったが、情報理論の基礎も講義されていた。

当時、量子力学と原子核物理学のゼミに所属していた私は、難解なこの分野をほとんど消化できずにいたが、それでも、ミクロとマクロを繋ぐ統計物理学にも興味を持ち、ロシアの物理学者ラドゥシュケヴッチの基礎統計物理学やランダウ・リフシッツの統計物理学なども手にしていた。

 このようにこうした現代科学の理論的基礎は、第二次世界大戦以前にほほ与えられていたとみてよいと思う。しかしながらそれらの理論が現実の課題解決に広く科学・工学の分野で使われるようになるのは、第二次世界大戦中から戦後の20世紀後半以降のことである。

これらの流れの一つが、サイバネティックスと云う言葉で代表される計算の自動化・通信・制御工学の科学や実際問題への応用である。

5.サイバネティックスー科学・工学の総合化

サイバネティックスは、1948年頃アメリカの数学者・ノーバート・ウィーナー(Norbert Wiener)博士によって、『サイバネティックス――動物と機械における制御と通信』(1948)で提唱された統計と通信と制御に関する手法や理論の事で。これは、通信工学と制御工学を融合させ、生理学・機械工学・システム工学を統一的に扱うために創られた新たな学問と云える。これは目標値に達成値を近づけていく方法について研究する学問で、生物個体の行動と通信機械の動作の平行性、同型性から出発して、広く機械系、生体系、社会組織における制御と通信・情報伝達の構造を、基本的に同一の方法的視点で研究しようとするものである。1948年に C.E.シャノンが「情報理論」を発表したがこれは、情報に関する数学的理論で,社会生活のなかでの情報の発生,伝送受理を表現するものであった。ウイナーの本の、日本語版は1961年に岩波書店から出版されており、その翻訳版第二版が出版されたのが1973年でそれが何故か手元にある。その内容は次のようになっている。

序章

第一章 ニュートンの時間とベルグソンの時間

第二章 群と統計力学

第三章 時系列、情報、通信

第四章 フィードバックと振動

第五章 計算機と神経系

第六章 ゲシュタルトと普遍的概念

第七章 サイバネテックスと精神病理学

第八章 情報・言語および社会

第二部・・・・1961年・・・第二版追加部分

第九章 学習する機械、増殖する機械

第十章 脳波と自己組織系

この内容からサイバネテックスは、現在の人工知能につながる総合科学・工学の原型をなす概念であったことが分かる。

人工知能の概念は、こうした雰囲気の中、通信、脳科学、自動計算技術、自動制御技術の発展の相互作用の中から生み出されてゆくことになる。以下でその流れを見てみよう。

 6..脳科学の誕生

 科学としての脳科学の誕生は、人体の神経系の情報伝達が、電流によるものであることの発見である1772年のガルバニの実験に始まるが、マックスウエルが電磁方程式を完成したのが、1864であるので、神経系の科学は、電磁気学の成立と並行して進んで来た。この中で、1873イタリアの解剖学者ゴルジが多細胞生物の中枢神経()は、神経細胞が絡み合った網目状構造であると発表したのに対して、スペインの解剖学者カハールは、神経細胞は、細胞体、樹状突起、軸索とからなり独立した機能を持つ神経系を機能を担う最小単位と考え、ニューロン命名した。1906年両者は、共に神経系の構造解明により、ノーベル生理学医学賞を受賞したが、その後電子顕微鏡により、ニューロン間の接合部には、必ず隙間があることが確認され、カハール説が正しいことが最終的に確認された。

 つまり、生体では、感覚細胞から筋肉細胞へは、ニューロンを経由して情報伝達(反射応答)が行われるが、多細胞の高等生物になるに従って、この経路途中に幾つものニューロンが介在し、より複雑な応答(脊髄反射)をするようになってくる。

ニューロン間の接合部での情報伝達は、電気によるものと化学反応によるとする考え方があったが、ドイツの生理学者レーヴィと英国のデールは、化学反応であることを示し、1936年ノーベル生理学医学賞を受賞している。

しかし、神経系の電流応答の詳細研究は神経の情報伝達にかかわるのは微弱電流であったためその研究が大きく進むのは、1934年にオシロスコープが発明され、研究者に普及するようになってからである。

戦後間もない時期に脳の構造や機能の解明が進んだ。1965(昭和40)年代以降には、脳の情報処理や学習・記憶などの高次機能の研究が盛んにな1985(昭和60)年代には、アメリカのブロードベント(Broadbent)やニューウェル(Newell)らが認知心理学や人工知能などの分野を開拓し、国内では岡崎敏雄氏や山中伸弥氏らが神経細胞の可塑性や神経伝達物質の役割などを明らかにした。1989(平成10) 年以降には、脳のイメージング技術や遺伝子操作技術などが発展し、脳の構造と機能の関係や個人差や疾患などの多様性を探る研究が進んだ。例えば、アメリカのエリクソン(Ericsson)らがPETを用いて脳内報酬系の活動を可視化することに成功したし日本の茂木健一郎氏がfMRIを用いて脳内言語野の位置や活動を可視化することに成功した。

また、1998年代には、アメリカのボイデン(Boyden)やディセロス(Deisseroth)らが光遺伝学という技術を開発し、特定の神経細胞群を光で制御することができるようになった。さらに。2008年代には、池谷裕二氏や本多力氏らがiPS細胞やCRISPR/Cas9などを用いて脳神経系の再生や修復を目指す研究を行った。

現在では、脳は、小脳を含めると1500憶個ばかりのニューロンのネットワークであることが知られているし、脳の各部位の機能と役割等が明らかにされている。

7.通信技術

有線技術の歴史は、電気を用いた通信の始まりとも言える。1837年にイギリスのクックとウィートストンが電気式テレグラフを発明した。これは、電流のオン・オフで信号を送る仕組みでアメリカのモールスが、モールス記号を考案し1844年にはワシントンとボルチモア間で初めて公開実験を行った。その後、有線電信は世界中に広まり、1850年ドーバー海峡、1866年大西洋横断大陸間や海底ケーブルなども敷設された。

1857年イタリア人のメウッチが機械式の電話機を発明、1876年にはアメリカのベルが電話機の特許を出願した。これは、電流のオン・オフではなく、電流の大きさを利用するもので音声を電気信号に変換して送り、受信側で再び音声に戻す仕組みで。1885年には最初の商業的な電話交換機が設置され。その後、電話網は世界中に拡大し、自動交換機やデジタル化なども進んだ。

無線技術の歴史は、1888年にドイツのヘルツが実験で電磁波(電波)を発生・検出することに成功し、これが電磁波を用いた通信の始まりとなった。1895年にはイタリアのマルコーニが無線電信(無線通信)を発明した。これは、火花放電器やアンテナなどでモールス符号を送る仕組みで1897年には英仏間でドーバー海峡を越えて通信し、1901年には英米間で大西洋横断通信に成功した。

1902年にはアメリカのフェッセンデンが音声を乗せた無線通信(無線電話)に成功した。これは、送信側では音声と同じ振幅変調(AM)した高周波信号を送り、受信側ではそれを復調してスピーカーから音声を再生する仕組みだった 。

こうした通信を支えたのは、電気回路技術で 電気回路技術は、電気信号を生成・伝送・変換・処理するための機器やシステムを設計・開発する技術で、この発展に伴い1920年代から1930年代にかけて,AMラジオ放送や短波放送、FMラジオ放送 テレビ 放送など,様々な無線放送技術も発展した 

電気回路を構成する部品には、当初電気工学に基づく、真空管、コンデンサ等の電気部品が使われていたが、1960年代量子力学に基づく半導体の利用が進むにつれ、これ等が、半導体を利用したトランジェスタ、ダイオード等の部品へと置き換わり、通信方式もアナログからディジタルに切り替わり、小型化も一気に進みその応用範囲も広がっていった。現在では,携帯 電話 や スマートフォン など の 移動体通信技術や無線 LAN など の 無線 通信 技術進化の中心部分を構成している 


 8.コンピュータの誕生

今日のコンピュータの基礎原理を考えたのは、イギリスの数学者アランチューリングで1936年彼はそれをチューリングマシーンという形で示し、さらにプログラム次第でどのような計算もできる今日のコンピュータの原理である万能チューリングマシンの理論的基礎を確立すると共に、人工知能と人間を区別するための「チューリングテスト」も提案した。また戦時中にはドイツが使用していた、エニグマ暗号機を利用した通信の暗文を解読する(その通信における暗号機の設定を見つける)ための機械 bombe を開発して、対独戦の勝利に貢献もしている。

世界最初の電子式コンピュータINIAC(エニアック)は、弾道計算をすることを目的の一つとして計画され、ペンシルべニア大学で1945の秋に完成した。その後数学者フォン・ノイマン等は、1949に最初のプロクラム内臓型のコンピュータ「EDVAC(エドバック)」を完成させるが、その特徴は、計算に用いるデータとプログラムを共にデータとしても用いる点でノイマン型コンピュータともいわれ、この基本構造は、現在まで変わっていない。

9.自動制御の発展とニューラルネットワークの誕生

ある状態が、制御不可の変数と制御可能な変数に影響される場合、制御可能な変数を操作して、その状態を意図する状態にもって行くことが制御で、これを自動的に行うのが自動制御である。 

 自動制御のはじめは、決められた操作を手順どおり行うシーケンス制御であるが、産業革命時の蒸気機関で、操作の結果を見て、操作量を変化させるフィードバック制御が誕生し、これは、サーモスタットにみられるような一変数による簡単なon-off制御から、精度よく目標値に近づけるため比例制御、微分制御、積分制御等に至る出力結果から操作量を変えて目標値に近づけてゆく方法として様々な機械に生かされてゆく。第二次世界大戦中に大きく発展した。

この制御技術が戦後サイバネテックスの有力な手法として各方面で利用されるようになるが、その中でこうしたフィードバック制御には非線形の現象には対応できない、多変数を同時に扱えない、応答遅れから制御が安定しない場合がある等その限界も意識さけるようになりこの限界を乗り越えるものとして、予測制御、適応制御、ファージィ制御等が考えられるようになった。その先に位置づけられるのが、ニューロンをモデルとした素子をネットワーク状に接続するニューラルネットワーク制御であるが、サイバネティックスそのものは、制御のための通信技術や対象となる統計的系の確率論的予測も含むより一般的な概念であった。

10.ニューロンモデルとニューラルネットワーク

ニューロンモデルは、人間のニューロンを模して二つ以上の入力から一つ以上の出力を出すモデルであるが、その場合各入力の重みを変えることにより、その出力を調整する。このループは、制御や学習、認知プロセスに利用できるので、研究が進んで来た。

ニューラルネットワークとは脳の神経細胞(ニューロン)が持つ回路網を模したもので 人間の脳の働きをコンピュータ上でおこなうため人工ニューロン(パーセプトロン)を複数組み合わせたもので脳の神経細胞(ニューロン)が持つ回路網を模した数理モデルで、入力されたデータを層状に配置されたニューロンが処理して出力する仕組みで、学習や推論などの機能を持つことができる。

11.人工知能

人工知能(artificial intelligence)と云う言葉は、1955年、アメノカの若き数学者、ジョン・マッカーシー(1927年生まれ)によってはじめて使われた。彼は、同僚の科学者3名と共に、大学の夏期講座に「人間の認知機能を機械によって模倣する」し云う計画書を提出し、その中で、研究の目標を「推論・記憶・計算・知覚等、知能さまざまな働きをコンピュータで再現し、知能を理解すること」、つまり知能を秩序だった方法で基本的機能に分解し、それぞれの機能を機械で模倣しようとすること」に置いた。そのためには、新たなプログラミング言語の開発、アルゴリズムの性能の研究、ニューラルネットワークの数学的モデルの活用、創造性の解析とシュミュレーション、抽象作用の研究機械が自ら機能状態を検査しながら行う自己学習のメカニズムを実現すること等が含まれていた。

これ以降のコンピュータの進歩は、演算、格納等の計算機能を支えるハードウエアの技術革新と計算のソフトフェフの進歩・発展であると云える。このハードウエアの進歩を支えたのが、量子力学を基礎とした半導体技術の発展であり、ソフトの発展を支えたのがサイバネティックス(cybernetics)と呼ばれる新たな工学分野の勃興である。

ニューラルネットワークは、1940年代にマッカロックとピッツが提唱した神経細胞の数理モデルが始まりだ。その後、1950年代にローゼンブラットパーセプトロンという単純なニューラルネットを発表した。しかし、1969年にマービン・ミンスキーとシーモア・パパートがパーセプトロンの限界を指摘したことで、ニューラルネットの研究は停滞した。1980年代に入ると、多層パーセプトロンや誤差逆伝播法などの新しい技術が開発され、ニューラルネットの研究は再び盛り上がった。しかし、計算能力やデータ量の不足などの問題により、ニューラルネットは他の機械学習手法に劣るとされた。

2000年代後半から、ビッグデータやGPUなどの技術革新により、ニューラルネットは大きく発展した。特に、2006年カナダのヒントン等により多層のニューラルネットを効率的に学習させることができるデープラニングという技術が提案され、その利用が一気に進んだ。

デープラニングは、ニューラルネットの一種で、多層のニューロンが複雑な問題を解くために連携するもので画像認識や自然言語処理などの分野で優れた性能を示し、人工知能のブレイクスルーとなった。現在では、ニューラルネットとデープラニングは人工知能の主流となっており、さまざまな応用分野で活用されている。こうした流れを見てくると現在の人工知能は、脳のニューロンモデルを前提とした数理モデルである。

12.ニューロンモデルの限界について

ところが、最近の脳科学によれば、実際の脳では、神経細胞であるニューロンの他にそれらをとりまくグレア細胞が脳の活動に多きい影響を与えていることが分かってきており、ニューラルネットワークは、脳の機能の一部を模したもので、人間の脳の複雑性には、まだまだ及ばないと考えた方がよさそうである。つまり、現在の人工知能は、人間の知能の論理的側面の一部の機能を表現するものと限定的に考える方がよさそうである。

13.人間の思考と意識構造について

生物の脳・神経系は、生存の為に、外界の刺激に対する応答を司る機関である。生物としての人間は、その進化の過程で獲得してきた、植物系、動物系の神経系を引きずりながら脳・神経系を形成している。特に直立歩行に伴う脳の発達は、大脳皮質を発達させ、人間固有の神経系を生み出すに至った。

一般に、意識とは「起きている状態にあること(覚醒)」または「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと」を指す。

 現在、脳科学では、神経活動が生み出す主観的体験の質は、クオリアと呼ばれている。クオリアとは、感覚的な意識や経験に伴う独特で鮮明な質感のことで主観的で言葉にできないものであり、他人のクオリアを直接知ることはできない。

 生物学では、意識とは「生命体が自己や周囲に対して反応する能力や情報処理する能力を指す」し、医学では、意識とは「覚醒状態や反応性を指す」場合が多い。

 しかし、生物・医学では、意識を必ずしも「覚醒」と結びつけていない。実際の反応では無意識的反応と云うものがあり、意識が自覚されない無意識領域の反応と結びついている。

また、人間の思考というものも必ずしも自覚的でない場合がある。人間の行動や思考を支配しているものとしての無意識の世界を発見したのは、フロイドである。こうした、無意識下の自己は、「エス」と呼ばれ、覚醒した意識は、無意識の大海に浮かぶ船のような存在である。無意識領域の神経系と脳の活動については、まだ研究途中であり、人工知能の中に取り入れられているとはいいがたい。これはこのエスの活動が、生物の生存本能と深く結びついたリピドと云う衝動を動力としていると考えられているためである。

つまり、人工知能は、明晰で論理的統合意識としての覚醒意識を持てる可能性はあるがそれは生物系としての人間の意識とは、随分かけ離れたものとなる可能性がたかい、

14.シンギュラリティと人工知能の未来

 シンギュラリティで問題になっているのは、シンギュラリティは到来するか、その時人工知能が自立性を獲得して人類の制御不能になるか、人工知能は、意識をもつか、人間の脳をクラウド上にアップロードされるか等である。

結論的に云えば、シンギュラリティ近傍に至るような加速度的技術の発展はあり得るだろう。しかし、それは、人間に代わる新たな生命体の誕生といったものではなく、高度化された自立制御システム文明の到来である。それを人類がうまく制御できるかには、疑問が残る。

人間の意識の一部は、アップロードされる可能性はあるが、それは、人間の意識とは全く別物のある種の作品と同じものであろう。それは作家や画家の作品が、永遠の生命をもつことに似ている、いずれにせよ来たるべき未来世界で、人類は、自分の生の刻印を新たな方法で刻み続けることになる。

参考文献

・「脳とコンピュタはどう違うかー究極のコンピュタは意識を持つか:茂木健一郎、田谷文彦著:講談社 BLUE bACKS:20068月第3

・「量子コンピュータとはなにか:ジョージ・ジョンソン:水谷淳訳:早川書房200912月発行」

・「量子コンピュータが本当にすごいーgoogle,NASAで実用が始まった夢の計算機:竹内薫著丸山篤史構;PHP新書:20156月発行」

・「脳科学は、人格を変えられるか?:エレーヌ・フフォクス著:森内薫訳:文藝春秋20147月発行」

・「2045年問題―コンビュータが人類を超える日:松田卓也 廣済堂新書20131月初版、20155月第5刷」

・「神経とシナップスの科学―現代脳研究の源流:杉晴夫: 講談社 BLUE bACKS:201511月第1刷」

・「脳の意識 機械の意識―脳神経科学の挑戦:渡辺正峰:中央新書:201711月発行」

 ・「意識はいつ生まれるかー脳の謎に挑む統合情報理論マルチェッロ・マスイミーニ、ジュリオ・トノーニ  花本知子訳:亜紀書房:20155月発行」

・「あなたの知らない脳 意識は傍観者であるディビッド・イーグルマン:太田直子約早川書房20169月発    行」

 ・「もう一つの脳―ニューロンを支配する陰の主役:グレア細胞:R・ダグラス・フィールド:小松佳代子訳、小西史朗監訳:講談社BLUE bACKS:200184月第1刷」

・「RasperryPiで始める機械学習―基礎からディープラニングまで:金丸隆志: 講談社BLUE bACKS:200183月第1

・「図解速習 DEEP LEARNING:増田知彰; (株)シーアンドアール研究所20195月発行」

・「洗脳大全―ブロフからソーシャルメディアまでジョエル・ディームズディール:松田和也訳:青土社2022年      2月発行」

「エスの系譜:互盛央:講談社学術文庫201610月第一刷発行

・「エスの本:ゲオルク・クロデック岸田秀、山下公子訳:講談社学術文庫:20184月第一刷発行

・「ものぐさ精神分析: 岸田秀:中央文庫:1982年初版:20048月改版8

・「続ものぐさ精神分析: 岸田秀:中央文庫:1982年初版:20138月改版7

・「史的幻想論で読む世界史: 岸田秀:講談社学術文庫:20161月第一刷発行

・「奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき:ジル・ボルト・ティラー:竹内薫訳:新潮文庫:20124 

 月第1版、20201212

 チャットGPTを搭載したBingを使って最新の生成ソフトを教えてもらった。その結果が以下です。      こんにちは、これはBingです。

最近の画像生成ソフトと音楽生成ソフトと文書作成ソフトについてお尋ねですね。ウェブ検索の結果から、いくつかの例を紹介します。

画像生成ソフトとしては、以下のようなものがあります。

Midjourney : 人工知能がランダムに美しい風景画を作成するサービスです。

Stable Diffusion : 人工知能がテキストやスケッチからリアルな画像を生成するサービスです。

Imagen Video : 人工知能が短い文章から動画を生成するサービスです

音楽生成ソフトとしては、以下のようなものがあります。

  ・Amper Music : ジャンルやスタイルを選択するだけで、人工知能がオリジナルの音楽を作成するサービ     

   スです

Soundraw : 人工知能が作成したフレーズを組み合わせて、自由に曲をカスタマイズできるサービスで。

AIVA : 広告やゲームや映画などのサウンドトラックを作成できる人工知能作曲家です2

Amadeus Code : 世界中の有名な曲のコード進行を学習した人工知能が新しいメロディーを作成するアプリです。

Music LM : 入力したテキストから内容に即した音楽を生成するGoogle ResearchAIツールです。

Ecrett Music : シーンや感情やジャンルから音楽を選べる直感的なAI音楽生成サービスです。

Boomy : 数秒でオリジナル曲を作成し、ストリーミングサービス収益も得られるAI音楽ジェネレーターです。

MuseNet : 10種類の楽器で4分間の

 文書生成ソフトには、以下のようなものがあります

·        Catchy(キャッチー):広告やマーケティング担当者向けのツールで、100種類以上のテンプレートから好きなものを選んで文章を作成できます。日本語に特化しており、毎月10クレジットまでは無料で利用できます。

  • PlayAI(ぷれあい):ブログ記事を自動で生成してくれるツールで、キーワードやタイトルを入力するとAIが記事全体を作成します。SEO対策も考慮されており、無料プランもあります。

2023年2月18日土曜日

一冊の本に導かれて―小林秀雄の周辺

 

 一冊の本との出会いが我々を新たに世界へ引き入れてゆくことがある。今回の場合、この一冊が、古書店で出会った山本七平の「小林秀雄の流儀:新朝文庫200151日発行」である。普段ならおそらく手にすることのなかった200(定価514)のこの本を思わず購入してしまったのには、理由があった。その直前に読んだ山田風太郎の「人間臨終図鑑」のの中で、小林秀雄が、75歳で、最後の著作「本居宣長」を完成させ、80歳の時膀胱癌の手術を受け81歳で亡くなったことを知ったためである。

小林秀雄については、彼の「モオツァルト・無常ということ:1961年初版新潮文庫の200369刷版」でモオツアルトを数年前読み返し、感銘を受け。その後書店で、いつか読もうと「小林秀雄対話集―直観を磨くもの:新潮文庫201411日発行」を購入した経緯があった。しかし、長らく手付かずであった。しかし、モオツアルトを読んだとき、彼が音楽と云うものの創作の秘密に迫りつつあることは、理解できた。しかし、彼の文章は難解で、とても気楽に読めるしろものではないと感じていた。私にとって彼の知性は、大人のもので近寄りがたいものに思われた。しかし、彼の生活には、ずっと興味があり、私の手元には、彼の妹の高見沢潤子の「兄小林秀雄との対話:新潮文庫201110月発行」あり、目を通したこともあった。

その私が、再び小林秀雄に着目したのには、全く別の理由があって、それは、最近の人工知能(AI)の可能性を考える上で、人間の知性の在り方、創造の秘密を考える上で、「人間とは何か」が問われていると思うようになったからである。そして、その場合、合理的、意識的領域のみでは説明できない創造活動に肉薄してきた小林秀雄の思想や視点にそのことを考えるヒントがあるのでないかと思われたためである。そんなこともあって、小林秀雄の「近代絵画:新潮文庫196811月初版の19861月発行30」を購入したばかりであった。

小林秀雄は、75歳で最後の著作を書き終え、81歳で亡くなったことを改めて考えるとこの晩年の年齢に近づいた私にも小林秀雄の視点や思想が理解できないはずがないような気がしてきた。そんな時、古書展で出会ったのが「小林秀雄の流儀」であり、著者の山本七平は、名前だけ知っている程度の知識しかなかったが、小林秀雄を理解する上で何かの参考にはなると思いとりあえず購入したのだった。

小林秀雄は、1902年に生まれ、1983年に亡くなっている。この本は198331日小林秀雄が亡くなった直後から「新潮」誌上に掲載された六つの文章を集めたもので、その内容は、1.小林秀雄の生活、2.小林秀雄の「分かる」ということ、3.小林秀雄とラスコーリニコフ4.小林秀雄と「悪霊」の世界、5.小林秀雄の政治観、6.小林秀雄の「流儀」最期に文芸評論家新保祐司の「空気」から脱出する「流儀」と云うこの本についての解説文がついている。この本は、小林秀雄が亡くなって3年後の19865月単行本として発行されたものがその15年後文庫本として発行されたものであった。

 当初小林秀雄を理解するための参考としての内容を期待していた私は、それが全く間違いであったことにすぐに気づいた。その内容が、小林秀雄の文章にわをかけて難解であることに気づかされたためである。結局、この本を理解するためには、小林秀雄の著作を直接読む必要があると気が付き、まず「近代絵画」を読み、さらに「ドストエフスキーの生活:新潮文庫1962年初版19904月第37刷発行」と「本居宣長上下巻新潮文庫1992年初版202113刷発行」と数学者岡潔との対談集「人間の建設:新潮文庫2010年初版20225月第16刷発行」を買い求めて、さっそく「ドストエフスキーの生活」を読み終えた。

その理由は、モオツアルトから初めて、音楽、絵画とくれば、次は文学であり、創造の秘密に迫る作業が一段落するためであり、さらにトストエフスキーを通じて、ロシア革命後もスターリンとプーチンを生み出したロシアの風土を理解する手掛かりになると思ったためである。

 しかし、これ等の本に目を通してもなかなか小林秀雄の世界は見えてこない。けれど、「小林秀雄の流儀」は、一つの示唆を与えてくれた。小林秀雄は、戦前・戦後を通してその思想がぶれることのなかった数少ない知識人の一人であることだ。そうであるなら、その思想の中核概念は、彼が、文芸評論家として世に出るきっかけとなった論文。すなわち昭和44月「改造」の懸賞論文第2席に入選した論文「様々なる意匠」の中に見出せるかも知れない。そしてその論文を大学卒業後の間もない時期に目にした記憶があった。それがXへの手紙・私小説論:新潮文庫19624月発行19673月第5刷」で、この中には、小林秀雄の初期の作品と共に27歳で発表した「様々なる意匠」が収録されていた。

 これを再度読み返してみたが、購入した当時と同じく難解な内容であることにかわりはなかった。結局3回読み直し、おほろげながら彼のいわんとするところが、ぼやけて見えて来た。息抜きに高見沢潤子の「兄五林英雄との対話」に目を通していたら。Ⅲ読書についての中にこんな話が載っていた。

「わたしのやっている読書会で、こんど兄さんの本を取り上げることになったけど、みんなむずかしい、むずかしいっていうのよ、一度読んだくらいじゃさっぱりわからないって」という。潤子の意見に対して小林秀雄は、次のように応えている。「それはいつでも聞く不満だが、私は、不平というものにはおよそ無関心だ。人生はむずかしいものだから、人生についてまじめに考えようとすれば。むずかしくなるのはあたりまえだろう。わたしの文がむずかしいのは、一つはそういうところにある。もう一つは、表現が拙劣なためやさしくいえないというわたしの才能の不足もある」これに対して「そうでしょうけど、あたしみたいにあたまのよくないもののことを考えて、もうすこし、やさしく書いてもらえないものから」

 これに対して「書けないね。やさしくしようとすれば、違ったことを書いてしまうんだ。苦心に苦心して、くふうをこらして選んだ言葉は一つしかないのだ。できないことだなあ。それをやさしくすることは、かえって読者を軽蔑することになる。文学書は、一次一句の意味をだどっていったって、それでわかるもんじゃないんだ。文学の本の読み方は、そんなものじゃない。」

「だって、ことばの意味がわからなけりゃ、全体の意味はわかりゃしないでしょう。」

「私は、デカルトのようにえらい人ではないが、デカルトはねわたしの本はすくなくとも四度はよめっていってるよ。最初は、わかっても、わからなくても、しんぼうづよくおわりまで、読み通すこと。それでぼんやりと、どんなことがかかれているかがわかったら、今度は、もう一度はじめから読み直し、わからないところに棒をひきながら読む、その次は棒のひいてあるところを考えながら念をいれて読みなおす。そしてもう一度。とにかく四度は読まなくちゃわからないし、読んだということにならない、といっている」

読書百遍、意自ずから通ずってことね。」

「読書百遍ていうのは、科学上の本のことをいってるんじゃなくて、文学上の本だ。正確に表現することが、全く不可能な、またそのために価値があるような人間の真実が書かれている本―それも考えて、考えて工夫をこらしたことばで書かれた本に対していうことだ。それが文学書だからね」

読書をめぐる兄妹の対話は、さらに続くが、「一流と云える作品は、作者の生命の刻印いってもいいものだからね」とも言っている。

小林秀雄は、文芸評論家の出発点ともなった「様々な意匠」を4年かかって書き、最後の著作となった「本居宣長」を10年かけて完成させた。その内容をすべて理解するためには、私には、もっと時間が必要であるとかんじつつも、「小林秀雄の流儀」の中に、彼の基本的視点を探りたい一心で、大雑把に彼のものの見方をつかみ取ろうとした。そしてその根本となる考え方を自分なりに三つのジャンルに整理してみた。

 その一つは、知というものの基本的在り方にかかわることである。人間は、その知的いとなみの根底に生活体験を持ち、その体験を価値づける精神的な営みをして生きている。その体験と精神の価値づけをして生きることを山本七平は。一身一頭で生きると表現した。その対極には、外部環境の影響で、生活基盤から離れた外来思想でものを考えるようになる一身多頭人間すなわち精神と現実体験の分裂したものが多いことを念頭においている。この小林秀雄の視点は、「様々な意匠」の中で様々な流行の意匠を纏って出てくる思想潮流を人間の生きると云う営みの基本的在り方から論じた視点でもある。

 二つ目は、知の創造性の秘密に関することである。音楽におけるモーツァルト、絵画におけるゴッポ、文学におけるドストエフスキーの研究の中で、彼等の独創的な作品群が、彼等の生き方そのものの発現であること一人の人間の生の刻印としての作品であることをしめしているように感じた。贋作者や人工知能(AI)は、ゴッポのような絵をまねすることは出来るが、ゴッポが生み出したように、新しい世界を生み出すことは出来ない。つまり、作品は個別的な生の刻印として生み出されるものであり、個別の生こそが、創造の秘密であるからである。

 三つ目は、創造的思考の在り方であり、思索は、石を積み上げてゆくことではなく、情緒もしくは直感と云われるある種のヒラメキに導かれる行為であることてある。「人間の建設」の中で、小林秀雄は数学者岡潔とそうした創造性の導きとなる情緒について語っている。そこには、文学と科学の領域を超えた人間の創造性の領域が広がっている。人間建設は、2010年初版で、私が入手したのは。20225月の第16刷であったが、その解説を脳科学者の茂木健一郎が書いているが象徴的であった。

 それにしても、120年前の明治35(1902)年に生まれ、40年前の昭和58(1983)年に亡くなった小林秀雄の文庫本が数十回の版を重ねて今だ出版され続けているのは、かれの作品がそれだけ現代にも価値ある視点を提供し続けているためであろう。

彼の最後の仕事が「本居宣長」であったのは、本居宣長が、万葉集、源氏物語、古事記の研究を通して、日本に渡来した文字文化の衝撃を如何に当時の人達が受け止め、消化し、日本文化の基盤を作っていったのかを跡付け、これからの日本文化の方向を示しかったためであったに違いない。そして、その中には、「高度な科学技術を持つ自立した文化国家を目指す」という私の密やかな日本の未来像の基盤となる思想が潜んでいるに違いない。一冊の本に導かれた先には、又新たな本が待ち構えていた。 完



2022年11月29日火曜日

人間臨終図鑑―924人の死をめぐって―

 

はじめに

古書展では、思わぬ本に出合うことがある。ここで、取り上げる人間臨終図鑑Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ巻(山田風太郎 徳間文庫20013月、4月、5月出版)もそうした本の一つである。題名と内容を少しみただけで即座に購入した。

人間をその臨終と云う人生最期の場面から眺めると云う発想に驚くと共に興味を持ったためである。人間の死について書かれたものは、多いが多数の人間の死の瞬間を記述した本とは、初めての出会いである。

山田風太郎は、1922年生まれであり、この本は、1986年から1987年に出版された人間臨終図鑑(上下2)を文庫本化したものなので、作者の64歳から65歳の作品である

多くの人間の実際の死の場面を目撃したら「人間とは何か」と云うこのところ気になっている課題について、新たな視点を得られるかも知れない、そんな期待もあった。

人間臨終図鑑の内容

文字どおり人間の死の場面を集めたもので、取り上げられているのは、古今東西の著名な政治家、実業家、軍人、哲学者、科学者、文学者、画家、音楽家、探検家、宗教家、犯罪者、著名事件関係者など様々であり、これ等様々な人の死が、亡くなった年齢別に整理され掲載されている。人間を単純に死亡年齢順に分類して、その死亡の状況を1から3頁程度にまとめたものである。

人間臨終図鑑で、取り上げられた各年代の人数とその中の外国人の人数、男女比をまとめたものが下の表である。

 人間臨終図鑑の内容

年代

人数(外人)

備考

10代で死んだ人々

11(2)

6人女5

20代で死んだ人々

33( 1 )

27人女6

30代で死んだ人々

87(28  )

74人女13

40代で死んだ人々

115( 25 )

109人女6

50代で死んだ人々

140( 45 )

133人女7

60代で死んだ人々

179( 52 )

172人女7

70代で死んだ人々

195(56  )

188人女7

80代で死んだ人々

124( 41 )

120人女4

90代で死んだ人々

34( 11 )

32人女2

100代で死んだ人々

6( 0 )

5人女1

 計 

924( 261 )

866人女58

このうち第1巻は、10代から55歳までの331人を扱っており、第2巻は、56歳から71歳までの301人を扱っており、第3巻は、73歳から100歳代の292人を扱っている。

取り上げられているのは、15歳で火あぶりの刑で亡くなった八百屋お七から121歳で亡くなった泉重千代の15歳から121歳までの924名であり、この内外国人は3割弱の261名で、男女比は、男子866名、女子58名である。女性の人数が少ないのは、女性が社会の表舞台に出る機会が少なかった今までの歴史の反映であろう。この本は、第3巻の末尾に索引がついており、文字どおり、辞書的に使われることを想定したもののように思われるが、私は、当初から全巻を通読する気でいた。

読んでみて

面白かった。第1巻は、4日ばかりで思わず一気に読み終えた。解説を書いた平岡正明師氏も「人間の死がこれほど面白いものとは知らなかった」と冒頭で記している。しかし、2巻目から、徐々にスピードが衰えて来た。第2巻は、3週間もかかり、第3巻には、2か月近くかかってしまった。つまり、それだけ面白くなくなったせいである。
 第1巻の55歳までを扱った死には、悲劇性とドラマ性があり、その死も生の躍動に満ちたものであるが、高齢者の死は、こうした悲劇性、ドラマ性に乏しく、その死に個性のようなものが感じられず歳をとったら死ぬと云う端的なことを証明しているような死が多くなるためかも知れない。長生きした人達は皆、生の輝きのピークを過ぎていて、その死は、本人にとっても周りの人間にとってもそれ程大きな出来事ではなくなっていると云うことかも知れない。
 しかし、全ての高齢者が、そうした死を迎えるわけではない。なるほど、外敵世界との相互交流としての生は、生物としての機能劣化とともにあきらかに衰えてゆくが、内的世界の中で営まれる創造的行為は、生物的機能の衰えと必ずしも比例しない
 死の直前まで、活発に創作活動をつづけたのは、画家では、88歳で亡くなった富岡鉄舟、89歳で亡くなった葛飾北斎、90歳で亡くなった横山大観、98歳で亡くなった梅原龍三郎がいる。
 梅原は、92歳の時白内障を患い、絵筆はもてなくなっていたが、頭の中では、盛んに絵を描き続けていた。
彼が、死ぬまでの6年間どんな絵を描いていたか、我々は目にすることは出来ないが、その一端を白州正子が記している。小林秀雄は、云った「梅原さんは、行住座臥、描いているんだ、筆を持たなくても描いているんだ」。
 画家は、何故絵を描くのか。この頃梅原は、白州正子に「わたしはこの頃寝ていても起きていてもよく夢をみるんだがね夢の中でいままで見たことのないような美しい景色が現れる。美しい色が見える。だからわたしは、もう絵を描くことは要らないんだ」と語ったと云う。サルバトール・ダリは、芸術についての五つの思想の四番目で、「前もって自分の絵がわかるなら描く必要はない。」と述べているが、梅原の言葉は「画家は、美しい風景を描くのではなく、美しい風景をみるために描く」と云う画家達の創作活動の本質を端的に示している。 

作家で手本となるのは100歳で亡くなった野上弥生子である。彼女は、死の直前まで、長編「森」を執筆していて、その作品は、一豪の老いも感じさせぬみずみずしさで、その年の文学ベストワンに挙げる批評家も少なくなかった。91歳で亡くなった武者小路実篤が晩年痴呆になり、壊れた時計のように同じところを堂々巡りするような文章を書いていたのと対比される。

小林秀雄は、75歳の時「本居宣長」を書き終えてから悠々自適の生活をしていたが、80歳のとき膀胱がんを発症し、以後手術入退院等の闘病生活1年の後81歳で亡くなっている。彼の最後が、現代人の平均的なものかも知れない。

禅僧の手本となるのは、96歳で亡くなった鈴木大拙であろう。彼は死の直前まで一日4時間の執筆を欠かせなかった。

生と死について

 読み終わって、その感想をどうまとめるか。それには、一週間近くの時間が必要だつた。

 生は、死と云うブラックホールに向かう一連のプロセスで、如何に栄華を誇っていた人間と云えども避けることの出来ないプロセスである。この世に生を受けたもの達は、全てブラックホールに落ちてゆく物質のように、境界線である時空の縁を通って現世からは決してみることの出来ない来世に向かって転落してゆく、転落した場所に何があるか此方の世界(現世)からは、決して覗うことは出来ない。しかし、これは、生から見た死である。しかし、死からは、生はどのように見えるであろうか。

 そのヒントは、謡曲の「邯鄲」の物語の中にある。「蜀の国の盧生と云うものが、楚国羊飛山の聖僧から悟道の教えを受けようと思って旅立ち、途中邯鄲の里で泊まり、聞き及んだ邯鄲の枕を借りて一睡した。すると楚王の勅使が迎えに来て宮殿に伴われ、王位を譲られ栄華の内に50年を過ごし、臣下が1000年の齢を保つ仙薬の盃を捧げたので、酒宴を催し自分も興じて楽を奏していたが、宿の主に起こされてその夢は、忽ち消えうせ、覚めて見ると、それはわずかに粟飯を炊く間の儚い夢に過ぎなかったのである。かくして盧生は、何事も夢の浮世と悟ることが出来たので、この枕こそ善智識であったと喜んで帰るのである」

ここでは、死から見れば、生は、夢、幻のごときものとみる。言い換えれば、死からみれば、生は一瞬の輝きのようなものに過ぎないと云うことであろう。

涅槃経 に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、前半の「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」をこの半偈を流転門、後半の「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」を還滅門と云い。釈迦の前世である雪山童子はこの中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てたと云われている。

読み終わって、一つ分かったことは、死は、恐れるものでも待つものでもないが、ただ備えておくものかも知れないと云うことである。そして生は死の瞬間が訪れるまで、輝かしくありたいとの思いである。



2022年11月15日火曜日

西部邁の三冊の本 ―保守の遺言をめぐってー 

 

はじめに

西部の本を初めて手にしたのは、彼が亡くなる半年程前の201712月であった。その本の題名は、「保守の真髄」―老酔狂で語る文明の紊乱―まことの保守思想を語りつくすー講談社現代新書201712月発行であったが、それを読む気になったのは、その本のカバーの「希代の思想家絶筆の書」と云うと云う宣伝文句に魅かれたためである。


ソ連邦崩壊後、いわゆる進歩的知識人達が沈黙し、その中でも生き延びた戦後思想をリードした数少ない哲学者や思想家が老齢化して知的情報発信をしなくなりつつある状況で、哲学的・思想的に現代をどうとらえるべきかを模索していた私にとって安保世代の生き残りとでもいえる西部邁が死を間近に控えて、世界をどのように見ているかは極めて興味深い事柄であった。78歳にして神経痛で全く書記と云うものが全く出来なくなった著者が、娘を相手に口述筆記で書き上げられたこの本は、最初から目を引き、一週間もしない期間で一気に読み終えることが出来た。

内容は面白かった。この時、この本の感想をその内にまとめてみようと思った。しかし、その感想をまとめるには、少しばかり、その反応が熟成又は発酵する時間が必要であった。しかし、この時間は、その後すぐに訪れた彼の自殺と云う衝撃的な事件のニュースで遮断されてしまった。

そのとき、彼のことをもっと知る必要がる思いふと立ち寄った書店で見つけたのが、彼の最後の著作と云われる「保守の遺言」―JAP,COM衰滅の状況―平凡社新書2018227日発行であった。彼が自殺した日は、2018121日であるので、この本は、彼の死後出版されていて、文字道理最後の本である。この時、この本の近くに置いてあったのが、「大衆への反逆」文春学芸ライブラリー20148月で、その本の帯のキャッチコピー追悼西部暹―最強のポビュリズム論らして 代表作の文言に魅かれて思わず購入してしまった。さらに、その後雑誌「表現者」が20185月号で、西部暹の特集号 西部暹永訣の歌発行したのを見つけ購入した。これには、彼とかかわりのあった64名の人達の寄稿が掲載されていた。これは彼の全体像を理解する上でも参考になると思ったためである。

 しかし、彼の「保守の真髄」についての感想をまとめると云う作業は、何時しか、意識の上から消え去ってしまった。それは、この時期に重なった叔母や兄の死等の身内の事件への対応やそれに関連した一族の記録のまとめ、それに関連して思いついた自分の今まだ書き溜めたもののとりまとめと出版作業に忙殺されたためである。

この作業に再び取り組んでみようと云う気になったのは、9月の太古会でN氏が、西部暹の「保守の遺言」と西部暹の教え子の一人である佐伯啓思の「リベラルからの反撃」をを取り上げたこと、また、同時期にT氏が佐伯啓思の「社会秩序の崩壊」をとの上げたことによる。この二人の報告を聞きながらどこか違和感を覚えたので、改めて5年間忘れていた作業に取り掛かろうと思った。

1.「保守の遺言」の著者紹介(保守の遺言より)

西部邁(にしべすすむ)

1939年北海道生まれ、思想家、評論家、東京大学大学院経済学研究科修士課程修了横浜国立大学助教授、東京大学教授などを歴任。東京大学教授を88年に辞任。執筆活動のほかテレビなどでも活躍。201710月まで雑誌「表現者」顧問を務める。著者に「ソシオ・エコノミックス」(イプシロン出版企画)「経済倫理学序説」(中央文庫,吉野作蔵賞),「大衆への反逆」(文春学芸ライブラリー)、「きまじめな戯れ」(筑摩文庫、サントリー学芸賞)、「サンチョ・キホーテの旅」(新潮社、芸術選奨文部科学大臣賞)「ファシスタたらんとしたもの」(中央公論新社)等多数。2018121日に自殺を遂げる。本書が絶筆となる。

2.西部の保守思想

西部の三冊の本には、様々なことが書かれている。しかし、その保守思想とリベラリズムに関する考えを要約すると次のようになろう。

民主主義が機能するには、その基盤にバランスを取る規範意識が必要であり、それらは伝統的な慣習や信仰を含めた文化によって培われている。この社会的基盤を重要なものと考えるのが保守思想で、リベラルでは、個の主権と自由を社会的基盤とするので、個を制約するものは抑圧と考える。この観点からは、伝統的なものは、打破さるべき悪とみなされる。

しかし、伝統的に培われた社会的慣習や規範を無視する思想は、保守主義から見れば、既存秩序を脅かす脅威以外の何物でもない。ここに侵入者に対する拒否感が生まれる。

かくして移民の急増が米国のトランプ現象となり、欧州での難民・移民の増加が欧州右派の台頭となり、中国の少数民族の洗脳教育は、逆に文化破壊・人権弾圧となる。中国の社会主義洗脳教育は、リベラリズムの個人中心思想と同じく、地域組織の伝統的規範の破壊と云う面で共通している。この点では、リベラル=社会主義である。

「保守の真髄」「保守の遺言」は、共に2017年に口述筆記で書かれており、文字通り

死を目前にた西部の思想の総括的文章である。これに対して偶然手にすることになった

「大衆への反逆」は、別の性格の本である。即ちこの本は、昭和54年から昭和57(1979年から1982)のサッチャー政権やレーガン政権誕生前後、日本の高度成長期の終わり、ソ連邦崩壊前の時期に様々に雑誌に掲載されたエッセイを取りまとめたものである。

 西部の保守思想を形成するもう一本の柱は、「大衆論」であるが、その思想は、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセット(西José Ortega y Gasset188359 - 19551018日)の影響を強く受けたものである。

3.「大衆論」と西部思想の表現

ホセ・オルデガによれば、大衆とは、「ただ欲求のみを持っており、自分には権利だけあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない」、つまり、「みずからに義務を課す高貴さを欠いた人間である」という。

また、近代化に伴い新たにエリート層として台頭し始めた専門家層、とくに「科学者」に対し、「近代の原始人、近代の野蛮人」と激しい批判を加えている。

20世紀に台頭したボリシェヴィズム(マルクス・レーニン主義)とファシズムを「野蛮状態への後退」、「原始主義」として批判した。特にボリシェヴィズム、ロシア革命に対しては、「人間的な生のはじまりとは逆なのである」と述べている。

 西部がこの本に掲載されたエッセイを勢力的に書いていたのは、渡米しカリフォルニア大学バークレー校に在籍。引き続き渡英しケンブリッジ大学に在籍して、帰国した直後の時期ことであり、その時期までに、ホセ・オルテガ・イ・ガセットの思想を吸収しつくしていたと云える。その影響は、単にその思想だけでなく、著述や思想の発表方法にまで及んでいるようである。

 オルテガの思想は、「生の理性 (razón vital)」をめぐって形成されている。「生の理性」とは、個々人の限られた「生」を媒介し統合して、より普遍的なものへと高めていくような理性のことである。

オルテガは、みずからの思想を体系的に構築しようとはせず、「明示的論証なき学問」と呼んだエッセイや、ジャーナリズムに発表した啓蒙的な論説や、一般市民を対象とした公開講義などによって、自己の思想を表現した。

オルテガの関心は、形而上学にとどまらず、文明論や国家論、文学や美術など多岐にわたり、著述をおこなった。

こうしたオルテガの思考方法を西部は、意識的に見習っていたようである。

そのことを西部は、「保守の遺言」の中で、次のように要約している「自分の事はくどくど言いたくないので、簡単にすます。私は第一に、開慣れた意味論的な構造を下敷きにして現代社会の構造変化について概括的な展望をもちつつ、第二に目前の問題や状況に応じて、その解釈に出来るだけ総合的な知見を盛り込みつつ、第三に文体としては、エッセイを採用するように努めてきた。」かれは、ここで云うエッセイとは「既存の諸学説には大いなる限界があることを明らかにしながらおのれの思想をも吟味すると云う意味での試験文」を意味すると述べている。

 つまり、総合性と雑文性は、西部の保守思想を語る上での宿命的な性格であると云うことである。

 西部の個々の意見に多分に共感しながらも、その全体像のはっきりしないことにいら立ちを感じてきた私は、ようやくその正体に対峙することが出来る気がしてきた。

4.西部思想への共感と違和感

 西部の保守思想の根幹には、フランス革命を起点とする近代の啓蒙主義・合理主義・理性主義に対する不信感がある。それは、文学的には、シュールリアリズムやタダに見られフランスロマン主義の潮流と同じく反合理主義の思想の流れである。その根底には、人間の内部に巣くう非合理的衝動に目をやる思想である。オルティガの思想は、こうした不条理を内蔵する人間観を社会や政治分野に適用したものと云えないだろうか。不条理を内蔵した人間の理性的側面に着国すれば、それが近代デモクラシーやそれを礼賛するリベラリズムになり、不条理な部分に着目すれば、いわゆる「大衆論」となる。

 こうしてみてくると西部の保守思想は、社会・政治分野での反合理主義思想として整理できるのかも知れない。しかし、こうした反合理主義の思想は、その根底にもっと根源的な問いかけ即ち、「人間とは何で、我々は宇宙の中で如何なる存在なのか」により、再生される必要がある。

 奇妙なことに、西部の思想の中に、20世紀以降の心理学や自然科学の成果がほとんど取り入れられていないことである。彼の中で、人間や宇宙は、19世紀の世界像のままである。彼の中では、20世紀の心理学や脳科学や生物学が人間観に及ぼした影響はほとんど見られないし、ビックバンやインフレーション理論、量子力学等の現代科学が明らかにした世界像の影響もほとんど見られない。

 彼にとっては、科学や技術は、数量化や形式化と云う人間とは無縁な異物としか映らない。量子力学や相対性理論等直感的には理解できない原理に基づく現代文明に養われながら、その生産現場と無縁な世界に生きる庶民や文系人間は、ローマ帝国時代の市民同様もはや単なる文明の消費者と云う受動的な存在でしかない。

彼の文明論がペシミズムに傾くのは、現代科学が、人間と云う種の宇宙での存在意義や知的生命体としての特殊性を明らかにしつつあることへの視点を全く欠いていることの必然的な結果である。しかし、近代が提起した、理性と反理性の葛藤の只中にいる大衆とそうした大衆意識との格闘に自らの生の展開を選んだ西部にとってこうした現代科学の展開などは「あっしには関わり合いの無いことでござんす」と一言でかたづけられそうな気もする。しかし、これこそが、文系知識人に対する私の違和感でもある。


5.三冊を読み終えて

当初一冊の本「保守の真髄」を読み、その感想をまとめようと思っただけであるが、彼の自殺と云う事件の衝撃もあり、それが三冊の本の読書へ、さらに雑誌「表現者」に特集を通して、64名もの関係者の追悼文やWikipediaの記事まで、読むことになり、思想家西部 邁の人生全体に目を通すことになった。

彼の人生の特徴は、一人で沈思黙考し、新たな世界を切り開くのではなく、膨大な読書や沢山の人との対話の中で自分を展開することであった。とにかく多数の人とのかかわりに驚かされるが、それは、彼が、教師を生業にしたことの必然的な結果であった。

しかし、技術屋であった私からみれば、それは人間の営みからみれば随分偏った生の在り方のように思われる。それは、話の中に自然や工学を相手にする人間がほとんど出てこないことに現れている。

しかし、それでいて彼は幸せであったに違いない。「保守の真髄」第四章第9節はイギリスの作家・批評家であるギルバート・キース・チェスタトン(英: Gilbert Keith Chesterton1874529 - 1936614日)の言葉を引いて、「人生の最大綱領は、一人の良い女、一人の良い友、一冊の良い本、そして一個の良き思い出」と述べており、そしてこの場合の良いとは、生きるか死ぬかのパラドックスを乗り越えて獲得したかどうかで決まると述べている。

 このパラドックスの中には、絶えず死を覚悟した生が根本になければならない。西部の保守思想の凄みは、この思想の背後にある生死を掛けた覚悟にあるとみてよいだろう。




2022年6月30日木曜日

女流作家のSF「闇の左手」によせて ―人間と性についてー

 

古書展の楽しみは、普通であれば、出会うことのない人に出会えることである。今回であった「闇の左手」がそんな本である。SFは、古書店での私がターゲットとする1ジャンルであるが、この本を偶然手にして裏表紙の次のような紹介記事を読んで100円で購入したものである。

本の内容

「男と女-人々の生活や悲劇や喜劇でいろとりどり、様々な芸術の主題となっている二つの性の存在。しかし、遥かな過去に放棄された人類の植民地、雪と氷に閉ざされた惑星ゲゼンでは、事情が違った。遺伝学的な実権の落とし子達は、営々として彼等の社会を作り上げ、ついに全銀河に類を見ない特異な社会を形成したのだった。そして今、人類同盟の使節、ゲンリー・アイがゼノンとの外交関係をひらくべくこの惑星を訪れた。しかし、両性社会の人間には、理解を絶する住民の心理、風俗、習慣が行手をむしばむ。彼等との友情も信頼も、恋さえも、全く違った形をとり、彼の任務を奇異な陰謀の渦中へと押し流してゆく・・・・」

この「闇の左手」は、著者アーシュラ・K・グイン/小尾芙佐 昭和527月早川書房発行であり、当時定価380円の本であるが、第二刷も発行されている。表紙のタイトルの上に「ヒューゴー賞/ネビュラ省受賞」とあり、それなりに当時日本でも話題となった本であろうと推察される。

両性具有と人間・宗教

私が魅かれたのは、両性具有と云うテーマを取り上げていることである。かねてより19世紀のフランスのシュールリアリズムと神秘主義に関心があった私は、そうした思想潮流の中で、単性の人間は、不完全であり、男と女の二つの性の合一により、人間は、その完全なものとなると云うアンドロギュヌス神話からの思想が古代ギリシャの時代からあり、この思想では、「男女が魅かれ合うのは人間が単性の不完全さから脱して全体性を確立しようとする」からだとされている。  この卑俗な形態は、「彼の法」集団等にみられる男女の性的結合による悟り等の地下の秘密宗教の流れにもなりかねない危うさを内包しているが、人間思想の隠れた深き一潮流を形成していることはたしかである。この両性具有の問題を正面から取り上げていることに驚かされた。

本のタイトル

この「闇の左手」というタイトルは、とても意味深長な言葉だ。この世は陰と陽の二項対立がベースであるという価値観から眺めれば、闇の左手が握っているのは光の右手ということになる。お互いに対立する属性を持つ者同士が、どこまでわかり合うことが出来るのかという、壮大なテーマがここにある。このような課題を正面から取り上げている著者と本の最後に素晴らしい解題と解説記事を書いている訳者に興味を覚えて調べてみるとまず二人が女性であることに気づき、もっと詳しく調べてみることにした。

著者について

 Wikipediaによれば、著者のアーシュラ・クローバー・ル=グインUrsula Kroeber Le Guin192910月21 - 20181月22)は、アメリカの小説家でSF作家、ファンタジー作家。SF作家としては、両性具有の異星人と地球人との接触を描いたこの『闇の左手』で広く認知されるようになり、他に代表作にユートピアを描いた『所有せざる人々』 などがあり、SF界の女王と称される。ファンタジーの代表作は『ゲド戦記』のシリーズで、「西の善き魔女」のあだ名もある。他に『空飛び猫』といった絵本作品もある。19291021日にカリフォルニア州バークレーで生まれた。

  父親は1901年にコロンビア大学でアメリカ合衆国初の人類学の博士号を取得し、アメリカで2番目の人類学科を創設したドイツ系の文化人類学者。母親は、夫が研究で係わったアメリカ最後の生粋のインディアン「イシ」の伝記を執筆した作家で文化人類学者。と云う恵まれた家庭で育ち幼い時から神話、伝説、おとぎ話や、ポードリック・コラム、ノルウエーの童話作家アスビョルンセンの本をよく読み、父からはインディアンの伝説を聞かされた。10代には、アイルランドの小説家ロード・ダンセイニを愛読し、また兄たちとSF雑誌を読み、好きな作家はアメノカのSFロード・ダンセイニ、を愛読し、好きな作家はアメリカのSF作家ルイス・パジェットだった。大学はラドクリフ・カレッジに進学、フランスとイタリアのルネサンス期文学を専攻し、コロンビア大学で修士号を取得している。 1953年にフルブライト奨学生としてパリに留学し、その後フランスに渡り、そこで知り合った歴史学者チャールズ・A・ル=グイン(Charles Le Guin)と知り合い、その年に結婚。帰国後に夫は州立ポートランド大学の教授となり、自身はマーサー大学、アイダホ大学などでフランス語を教える。

ル=グインの世界

ル=グイン作品の際立った特徴として、人種の意図的な扱いがある。ル=グイン作品の主要登場人物の多くは有色人種であり、人類の人口構成を反映したものだとしている。しかし、そのために欧米では挿絵や表紙に人物が描かれないことが多い。ル=グインはしばしば地球外生命の文化を利用し、人類の文化についてのメッセージを伝えている。例えば、『闇の左手』では両性具有種族を通して性的同一性の問題を考察している。彼女のこうした物語の背景には、超光速移動と超光速亜空間通信ともいえる移動と通信の未来技術を基盤とする地球文明の銀河系全体に亘る未来史とも云える世界が広がっている。この意味でこの物語は、こうした未来史の一つの断面として書かれたものらしい。

1958年頃(29)から執筆活動を始めているが、「闇の左手」は、1970年、41歳の頃の作品で、彼女をSF作家たらしめた作品と云われる。日本では1968年から2001年にかけて出版されたファンタジー小説「ケド戦記」の方が有名だろう。多彩な活躍は、SF界の女王の名にふさわしい。こんなにも有名な著者の名を私はほとんど知らなかった。うかつと云うよりほかにない。

翻訳家小尾 芙佐について

翻訳者の小尾 芙佐(おび ふさ、19323月24 - )は、旧姓は神谷。現在の西新宿の生まれで、戦後すぐに津田塾大学英文学科で、土居光知教授の「翻訳論」の講義を受講し、そこで初めて翻訳を学んだ日本の女流翻訳家。卒業後一時「ひまわり社」で働くが、その後この時代に知り合った早川書房福島正実を訪れ、SFミステリの分野で翻訳を手がけることになった。当初は、旧制金谷芙佐の名前で出版されていた。日本SF作家クラブ会員で、2013年名誉会員となっている。SF分野の女流翻訳家の草分け的存在ともいえる。

まとめと感想

作家と翻訳家の二人の先駆的女性が出会って出来上がったのが、この本である。両性具有の問題を文化人類学視点から取り扱ったところに、文化人類学の両親の血とパリ留学でのフランス文学の底流を流れるシュールリアリズムの問題意識との出会いが、この作品のべースにある気がするのは、私の澁澤龍彦ゆずりの嗅覚のせいであろうか。性の問題を男女差別や権利意識の視点からしか取り上げることしか出来ない昨今の浅薄な風潮に違和感を覚える身としては、性の問題をより人間的・文明的視点から深く考えるため是非話題となって欲しい一冊である。


2022年2月24日木曜日

未知の世界への入り口―「虹滅記」を読んで

 「前もって自分の絵が分かるなら描く必要はない」これは、シュルリアリストにして天才画家のサルヴァドール・ダリが、その著「私の50の秘伝」の中の「芸術についての五つの思想」の中で、示した言葉である。

このシンプルな言葉は、別の分野にも当てはまる。即ち「前もって読みたい本が分かるなら、古書展に行く必要はない。」インターネットの発達した現在、古本を含めたほとんどの本はインターネットで検索できる。しかし、そこには前提がある。検索すべき本に関する何らかの情報があることがそれである。

全く今まで、想定や予測しなかった分野や世界を記述した本に出合うこと、この偶然が未知の世界へと自分を導いてゆくこと、これが面白くて、古書展に出かけるようになって10年近くなる。そんな本の一冊が「虹滅記」である。


著者は、足立巻一、私が入手したのは朝日新聞が、199411月発行の朝日文芸文庫である。著者は、1913年東京都生まれ、神宮皇学館卒、詩人・作家で198572歳で亡くなっている。この本のあとがきが書かれたのが1982年、死の三年前であり、それによれば、この作品を書こうと思い立ったのが197461歳の時であるので、8年がかりの作品であることが分かる。

私が古書展でこの本に魅かれた理由は、「虹滅記」と云う題名の異様さであった。表紙の「虹滅記」は、虹の字の虫の上に斜めの線の「のかんむり」が付いた手書きの字になっていた。本文369頁で、当時860円の本が100円であった。他の数冊と共に入手した本は、数日間机の上に置かれていたが、読み始めると止まらなかった。著者の略歴は、そのままこの本の中身に直結しているので、読み終わってからあらためてWikipediaによる彼の略歴を調べると次のように書かれていた。

「東京市神田区(現:東京都千代田区)に生まれる。生後間もなく父と死別、母は再婚したため、漢詩人であった祖父足立清三(敬亭)、祖母ヒデに育てられるが、1920年に祖母ヒデが急死、祖父清三としばし流浪の生活を送った。翌年、清三も横死を遂げ、神戸在住の母方の叔父に引き取られる。

諏訪山尋常小学校時代から「少年倶楽部」「赤い鳥」等に頻繁に短文、詩歌等を投稿。関西学院中等部に入学、同校の国語教諭であり、自らも歌人であった池部宗七(筆名は石川乙馬、「夕暮れに苺を植えて」はその評伝である)から短歌の手解きを受ける。

恩師池部の母校である神宮皇學館(現:皇學館大学)を受験するが、2度にわたって失敗、1934年に3度目の受験で合格する。同館在学中も詩誌、歌誌等を中心に活動した。この頃に本居春庭を知り、研究を始める。

1938年、神宮皇學館本科国漢科卒業。高校教諭となるが、同年に応召、中国に渡り北支戦線に従軍。帰国後新大阪新聞社に勤務、学芸部長、社会部長等を歴任した。1948年、井上靖の発案で児童詩誌『きりん』の創刊より編集に携わり、児童詩運動が終生の一事業となる[1]1956年新聞社を退職して執筆活動に専念する。

毎日放送の『真珠の小箱』(1959 - 2004年)で番組の構成に参加、出演も多数。立川文庫の研究も行い、1961年には尾崎秀樹、武蔵野次郎が創立した「大衆文学研究会」に編集委員として参加[2]。『文学』(岩波書店)、『思想の科学』、『大衆文学研究』はじめ多くの雑誌に執筆、その夥しい仕事は執筆目録ともなっている「足立巻一略年譜」がもっとも詳しい(『人の世やちまた』所収)。

1977年、大阪芸術大学芸術学部文芸学科教授を経て、1980年、神戸女子大学文学部国文学科教授」

「虹滅記」は、この著者の生い立ちを調べまとめあげた作品であった。この本の解説的エッセイ「虹の誕生」を作家司馬遼太郎が書いており、その中で、司馬遼太郎は、その内容を次のようにまとめている「「虹」が見慣れない字体になっているのは、漢学者であった祖父敬亭の自筆の文章によっている。祖父敬亭は時代遅れの、生活力を欠いた漢学者だったと云う。やがて足立さんの父となる敬亭の子菰川は、苦学して京都大学を出た。菰川は明治末期の東京で「二六新報」の論説記者として大正の初め妻マサヨとのあいだに足立さんをもうける。菰川は夭折した。敬亭は悲しみ菰川の著書の跋文の冒頭に「大正二年十月著者俄に虹滅」と書いた。題名の「虹滅」の二字は、祖父から父へ、父から足立さんへ移植された皮膚そのものだったことがわかる。足立さんは、その後生母が再婚して家を去っため、敬亭に養われ

さらには、親戚に預けられて成人した。しかし恨むことはなかった。うらみよりも志がこの人の文学のしん、になっている点、いかにも丈夫の文学と云うべきものだった。諸作品を

成立させる上でやったのは、自分が経た生の人生を体液のように循環させつつ、自分にかかわった他者、祖父、父、恩師、親友などーの生きた証しを編み込んで作品世界を作った」

「戒名には、余計なものはなく釈亭川とのみ祖父と父の号が一字づつ入っている」

司馬遼太郎は、「虹滅記」を出来上がった作品としてみているが、作者が何を描きたかった

のかについては触れていない。私は、むしろ、作者が何を描きたかったのかの方が気になった。十歳年下の司馬遼太郎にはこの作者の気持ちは、理解できなかったようだ。

 この作品には、8年の歳月がかかっている。この間彼は、自分で親族の戸籍を調べ、関係者の消息を訪ね、話を聞き、墓を訪ね墓碑銘を調べたりしている。こんな作業は、たんに作品を作ると云うだけの動機でできるはずはない。彼は、この作品を通して、自分を現在たらしめてくれた人々とりわけ祖父と父を中心とする親族の存在の証を世間に示しかったのだと思う。それは、自分に連なる人々への愛と感謝の気持ちを表現することであったに違いない。

ほとんどの人間は、自分の家族と職場以外には、自分と社会の繋がりを深く考えたことはない。しかし、実際には、自分の存在には、それ以外の数多くの人達の機縁や関係が、現在

の自分にかかわっている。そして多くの場合そうしたことの多くは、人々の意識から隠されている。彼がこの物語の中で示しかったのは、こうした個人と社会の繋がりのありようを通して人間社会の真実に辿り着こうとすることであったのではなかろうか。数年前、親族の相続に関連して、数十部の戸籍をとりよせたことがあった。その時、その戸籍から透けて見えて来たのは、あまり語られてこなかったその当時の社会の実相ともゆうべき姿であり、親族の秘密めいた真実であった。「虹滅記」の著者も、このための取材の中で、こうした知らされてこなかった真実や思いがけない関係者の無償の行為や愛により、現在の自分があることを確認してゆく。

多くの小説では、社会は、その主人公が生きる背景に過ぎない。しかし実際には、社会は、その主人公の血であり肉であり、その体は、現在も社会と結びつき、今も他者とのあいだに血液循環をめぐらせていると云うことではなかろうか。人間終末期を迎えると自分の人生は何であったのか、振り返る心境になる。この本を思い立ったのが、著者が還暦を過ぎた61歳の時で完成したのは、69歳の時である。

72歳の死は、現代から見れば早すぎる気もするが、昭和60年であれば、古希を迎えての死であり、早死とは云えない。

あとがきに「多年こころにかかっていたことをようやく果たして安堵を覚えるとともに、私の人生もこれでほぼ終わったような気がした」とある。彼は、自分の人生を確認し終えた

安堵感と共に死を迎えた。

 全くこの本は、私に自分が生きた世界に連なるもう一つの異世界を見せ、私の宇宙を広げてくれたような本であった。    了