はじめに
古書展では、思わぬ本に出合うことがある。ここで、取り上げる人間臨終図鑑Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ巻(山田風太郎 徳間文庫2001年3月、4月、5月出版)もそうした本の一つである。題名と内容を少しみただけで即座に購入した。
人間をその臨終と云う人生最期の場面から眺めると云う発想に驚くと共に興味を持ったためである。人間の死について書かれたものは、多いが多数の人間の死の瞬間を記述した本とは、初めての出会いである。
山田風太郎は、1922年生まれであり、この本は、1986年から1987年に出版された人間臨終図鑑(上下2巻)を文庫本化したものなので、作者の64歳から65歳の作品である。
多くの人間の実際の死の場面を目撃したら「人間とは何か」と云うこのところ気になっている課題について、新たな視点を得られるかも知れない、そんな期待もあった。
人間臨終図鑑の内容
文字どおり人間の死の場面を集めたもので、取り上げられているのは、古今東西の著名な政治家、実業家、軍人、哲学者、科学者、文学者、画家、音楽家、探検家、宗教家、犯罪者、著名事件関係者など様々であり、これ等様々な人の死が、亡くなった年齢別に整理され掲載されている。人間を単純に死亡年齢順に分類して、その死亡の状況を1から3頁程度にまとめたものである。
人間臨終図鑑で、取り上げられた各年代の人数とその中の外国人の人数、男女比をまとめたものが下の表である。
人間臨終図鑑の内容 |
||
年代 |
人数(外人) |
備考 |
10代で死んだ人々 |
11(2) |
男6人女5人 |
20代で死んだ人々 |
33( 1 ) |
男27人女6人 |
30代で死んだ人々 |
87(28 ) |
男74人女13人 |
40代で死んだ人々 |
115( 25 ) |
男109人女6人 |
50代で死んだ人々 |
140( 45 ) |
男133人女7人 |
60代で死んだ人々 |
179( 52 ) |
男172人女7人 |
70代で死んだ人々 |
195(56 ) |
男188人女7人 |
80代で死んだ人々 |
124( 41 ) |
男120人女4人 |
90代で死んだ人々 |
34( 11 ) |
男32人女2人 |
100代で死んだ人々 |
6( 0 ) |
男5人女1人 |
計 |
924( 261 ) |
男866人女58人 |
取り上げられているのは、15歳で火あぶりの刑で亡くなった八百屋お七から121歳で亡くなった泉重千代の15歳から121歳までの924名であり、この内外国人は3割弱の261名で、男女比は、男子866名、女子58名である。女性の人数が少ないのは、女性が社会の表舞台に出る機会が少なかった今までの歴史の反映であろう。
読んでみて
作家で手本となるのは、100歳で亡くなった野上弥生子である。彼女は、死の直前まで、長編「森」を執筆していて、その作品は、一豪の老いも感じさせぬみずみずしさで、その年の文学ベストワンに挙げる批評家も少なくなかった。91歳で亡くなった武者小路実篤が晩年痴呆になり、壊れた時計のように同じところを堂々巡りするような文章を書いていたのと対比される。
小林秀雄は、75歳の時「本居宣長」を書き終えてから悠々自適の生活をしていたが、80歳のとき膀胱がんを発症し、以後手術入退院等の闘病生活1年の後81歳で亡くなっている。彼の最後が、現代人の平均的なものかも知れない。
禅僧の手本となるのは、96歳で亡くなった鈴木大拙であろう。彼は死の直前まで一日4時間の執筆を欠かせなかった。
生と死について
生は、死と云うブラックホールに向かう一連のプロセスで、如何に栄華を誇っていた人間と云えども避けることの出来ないプロセスである。この世に生を受けたもの達は、全てブラックホールに落ちてゆく物質のように、境界線である時空の縁を通って現世からは決してみることの出来ない来世に向かって転落してゆく、転落した場所に何があるか此方の世界(現世)からは、決して覗うことは出来ない。しかし、これは、生から見た死である。しかし、死からは、生はどのように見えるであろうか。
そのヒントは、謡曲の「邯鄲」の物語の中にある。「蜀の国の盧生と云うものが、楚国羊飛山の聖僧から悟道の教えを受けようと思って旅立ち、途中邯鄲の里で泊まり、聞き及んだ邯鄲の枕を借りて一睡した。すると楚王の勅使が迎えに来て宮殿に伴われ、王位を譲られ栄華の内に50年を過ごし、臣下が1000年の齢を保つ仙薬の盃を捧げたので、酒宴を催し自分も興じて楽を奏していたが、宿の主に起こされてその夢は、忽ち消えうせ、覚めて見ると、それはわずかに粟飯を炊く間の儚い夢に過ぎなかったのである。かくして盧生は、何事も夢の浮世と悟ることが出来たので、この枕こそ善智識であったと喜んで帰るのである」
ここでは、死から見れば、生は、夢、幻のごときものとみる。言い換えれば、死からみれば、生は一瞬の輝きのようなものに過ぎないと云うことであろう。
涅槃経 に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、前半の「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」をこの半偈を流転門、後半の「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」を還滅門と云い。釈迦の前世である雪山童子はこの中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てたと云われている。
読み終わって、一つ分かったことは、死は、恐れるものでも待つものでもないが、ただ備えておくものかも知れないと云うことである。そして生は死の瞬間が訪れるまで、輝かしくありたいとの思いである。
いつも思いますが、感想文としては秀逸で文章構成が素晴らしいです。これを読んだだけで本を読まなくても読んだ気になります。
返信削除私も同意見で、死の直前まで生の輝きを満喫したい。病院で寝たきりで最期を過ごすのは嫌ですね。野上弥生子や鈴木大拙のように。正直に言えば死後の世界をあまり信じていない。この辺は根っからの理科系人間から逃れられません。いまのところは、、です。