2016年4月21日木曜日

熊本地震発生の日

熊本地震が発生した日は、何か異常を感じた日であった。
 まず、数日前から風呂の排水が悪くなっていた。
その原因を探っていたところ、玄関で妻の叫び声を聞いた。
 何事かと表に出てみるとなんと数十匹の毛虫が、落下傘部隊のように糸にぶら下がっている。
その糸は、立木の葉の間から垂れ下がっており少し木をゆすると次から次と垂れさがってくる。
これは、木の枝葉をすべて切り取る以外に方法はないと考え、2時間ばかりかけて全てゴミ袋に収納した頃はもうあたりはうす暗かった。
 その夜テレビで熊本地震を知った。
活断層の地震なので被害は局地的でやがて治まるだろうと思っていた。翌日は、熊本の知人と連絡を取ろうとしたが、取れなく、ただ住所で震源地との位置関係を確認し、多分命には、別状はないと判断した。数日後連絡が付き、推測どうりの無事が確認された。

 翌日は、排水問題の解決に集中、配管の図面を探しだし、現地で、排水状況を観察問題が汚水管の一部の詰りであるとの結論に達した。
 翌日、ホームセンターへゆき、5mのメッセンジャーを1080円で購入。詰り解消作業を行う。
 しかし、何度試してもうまくゆかない。最悪コンクリートに穴をあけ、古い排水舛を探し出す
抜本対策が、必要かもと思い立ち知り合いの業者に連絡を入れた。
 たまたま、翌日にすぐ来てくれることになり、調査したてもらったが、やはりプロでも解決できない
くらい詰まっていて、コンクリートをハツつって排水舛を掘り出した。

なんと排水舛の中で油が石化して、固まっているではないか、その量は殆ど舛の半分にも及び排水口を塞いでいた。それを取り出し、清掃してようやく問題が解決した。
そういえば、十数年前、舛の蓋の上をコンクリートで覆うという誤った行動をした。そのツケがこの結果である。悪いことは出来ない。
 それにしても想定外の事態であった。


2016年4月7日木曜日

米内光政」ー日本海軍の良識―について


古書展で見つけ一か月ばかりかけて読んだ本に阿川弘之の「米内光政」(新潮文庫昭和57年発行)がある。戦後70年を機に、日本は何故あの戦争に突入したのかが話題になったとき、当時の軍部とりわけ海軍の責任について議論になったことがあり、その時、戦争責任を軍部と一くぐりに論じて真実は見えてこないのではないかという疑問を覚えた。こんな時あの戦争の終結に注力した海軍出の海相米内光政の生涯を描いた「米内光政」と出会った。阿川弘之が海軍出の作家であり、膨大な取材と資料に基づき、淡々書き進められたこの本は米内光政の日常生活とその彼と戦争とのかかわりが気負うことなく記述されている。
あの「坂の上の雲」に出てくる日露戦争の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させた古武士の風格を持つ日本海軍が、無謀な日米開戦に何故突入せざるを得なかったのか、それは、軍部が愚かであったとの一言では済まされない事態があったに違いない。その理由が知りたかった。
米内 光政(よない みつまさ、1880年(明治13年)3月2日 - 1948年(昭和23年)4月20日 )は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。位階は従二位勲等勲一等。巧級巧一級。第23連合艦隊司長官。第39-4149-52海軍大臣。第37代内閣総理大臣
1901(明治34年)海軍兵学校29期125人中68番の成績で卒業した生粋の軍人で、帝国海軍の最期の見届け人でもある。彼の生涯の主要部分は、日露戦争で勝利した日本が、敗戦を迎えるまでの期間と一致しており、その生涯は、個人の眼から見た近代史と云える。軍部の中にも様々な人達がおり、無謀な戦争を避けるために努力した人達も数多くいたそれにも拘わらず、戦争に突入していった背景には、海外の事情や思想に対する日本の国民レベルでの理解不足と内向き志向と独善、それに便乗するメディヤとそれを利用する政治家や軍部等の存在がある。この点では、内向な国民とそれに迎合する政治やメディヤ等日本が道を間違える要素は現代も存在し続けている。
歴史を結果論から断罪するのは、易しいが、時代の只中にいてその動向を正しく評価して果敢に行動することは、至難の業である。ただ、正しき人間観があれば、大きな間違いは避けることが出来る。本書はその可能性のあることも又語っているように思われた。「戦争反対」と叫べば戦争を避けることが出来ると単純に考えている人達に是非読んでもらいたい本である。


歳月(明治維新と江藤新平)について


古書展で見つけ一気に読んだ本に司馬遼太郎の「歳月」(講談社文庫:昭和49年第13刷発行)がある。司馬遼太郎の名前に惹かれて偶然手にしたこの本は、書名が平凡すぎ、一見して何の小説かわからない本であったが、700頁にも上る歴史半ドキュメンタリー小説であった。
これは、佐賀藩の下級武士であった江藤新平が、35歳で突如明治維新の歴史の舞台に現れ、わずか五年目の三十九歳で維新政府の司法卿(今でゆう法務大臣)に任ぜられ、佐賀の乱に捲き込まれ、四十一歳で梟首刑に処せられるまでの物語である。
今まで、維新をテーマにした多くが、明治維新までの物語が殆どであつたが「八重の桜」や「花燃ゆ」など、最近のドラマがようやく明治維新後に焦点を当て始めた。江藤新平を扱ったこの「歳月」は、維新政府の誕生とその後の士族の反乱という革命政権の誕生と混乱の歴史を見事に描いた作品である。
江戸城開城の際、薩長の人間達が、武器と財宝の確認に走る中で、一人江藤新のみが江戸幕府の書庫に入り行政上の書類の分析から幕府の財政状況の分析に着手し、当時の日本の財政規模が5000万石でその大半が武士給料として支出されていたことを把握した等の話は、その後の廃藩置県や士族反乱を理解する上での興味深いエピーソードであり、各所に今まであまり知られなかった史実も示されており、歴史書としても興味深い。
歴史を見る場合、マクロの視点とミクロの視点のどちらに偏りがちであるが、これは、個人が見える形で対局的な歴史をみるという司馬遼太郎の歴史観が見事に表現された小説である。また、無名の下級武士が、一躍時代の先端にどのようにして踊り出て、どのように躓いたかの人間ドラマとしても面白く考えさせられる一冊である。


新訳聖書物語について ―西洋思想とキリスト教―


古書展で、出会った貴重な本の一つが犬養道子の「新約聖書物語上下巻(新潮社昭和55年発行)」であった。
当時私は、木田元の「ハイデガー「存在と時間」の構築」(岩波現代文庫2001年第5)を読み上げて数ケ月たっていたが、その中で、キェルケゴールド、ニーチェ、ハイデガーが必死に格闘していたのが、キリスト教的な枠組みからの脱出で、ことほど左様に、西欧思想の基盤には、ユダヤ・キリスト教が強固に深く根を下ろしていることを感じた。その根深さは、数年前名古屋で行われた生態系に関する国際会議で、「生態系サービス」といった生態系を人間の利用対象としか見ない概念で世界を捉える現代ヨーロッパ思想に覚えた違和感と通じるものであった。
 西欧思想の根本を知るには、キリスト教そのものをもっと知る必要がある。そのように無意識に感じていた時にこの本に出会った。
上下巻で1100頁にも及ぶこの本は、現地調査と聖書に基づいたイエスキリストとその弟子達の物語で、17年かかって書かれたこの本は、1975年彼女54歳の時に単行本として出版され、私が出会ったのは、1980年発行の文庫本である。イエスの布教の行程を地図上で丹念に追いながらまるで映画を見るように語られるのに引き込まれ一気に最後まで読み進むことが出来た。その中で、聖書をみる目が少し変わってきた。
イエスキリストが実際に布教活動を行ったのは、西暦28年から30年のたかだか3年間である。ペテロ、パウロが殉教するのが、西暦67年であるので、イエスキリストが、磔になって以後、その出来事を弟子達がどのように受け止めていったのかの記録が聖書であり、それらは、使徒行伝や使徒達の書簡、ヨハネ黙示録等のイエスキリストの直弟子達の思想や行動と共に見てゆく必要があるということである。
イエスキリストの活動は、極めて短期間の出来事であるが、その思想は強烈で、衝撃的であり、弟子達がそのことの意味を考え、整理するのに数十年かかり、その衝撃波が、現代まで続いているということなのだろう。科学がこれほど進み、キリスト教的世界観がどんどん薄らいでゆく中でも、まだその影響が大きいその理由は、その核心が、世界観ではなく救済論にあると私には思えた。マルクス主義は、宗教無批判をフォイエルバッハに依存し、救済論に真摯に向き合ってこなかったように思える。
そして救済論という視点からならば、インド的又は仏教的思想との統一的理解が出来るかもしれないと思うようになった。キリスト教を考える手がかりを得たと感じさせられた本であった。


私と出会った三冊の本



脳科学者の茂木健一郎が、書店で本を選ぶとき、深く考えなくて感性で選ぶと語ったことがあった。それは、我々の脳は、無意識に働くのでその働きに任せるというのがその理由であった。この一年ばかり、頻繁に古書展に通うようになり、そのことと関係するような感覚を何度か経験するようになった。
その古書展というのは、名古屋の古本屋の組合が丸田町の交差点近くの百メートル道路に近接した組合の事務所の建物を使って月一回開いている古書の即売会のことである。
この即売会の正式な会場はその二階で、そこは、古書が整然と整理され陳列されているが、その一階では、三冊百円の文庫本や一冊百円の単行本、写真集やグラビヤ等一千冊を超えると思われる古書がところ狭しと乱雑に積み上げられている。
この一階で一時間ばかり書物を眺めていると必ず不思議に私に語りかけてくる本がある。
これは、この三冊100円のコーナーで出会った、聖書物語(犬養道子)、歳月(司馬遼太郎)米内光政(阿川弘之)の三冊の本の話である。





2016年4月1日金曜日

プログ事始め



下村胡人の「次郎物語」と阿部次郎の「三太郎日記」倉田百三の「愛と認識の出発」等の大正デモクラシーと教養主義に導かれて中学、高校時代を過ごした私にとって大学は、まさに「真理追及」の場としか考えられなかった。その大学時代は、卒業後の世界のあることを全く考えず、アルバイトの時間を除けば、サークルと学生運動、討論三昧、読書三昧の生活で、この時代は、殆ど人生の半分に値すると思い悔いの無いように生きようと思っていた。その時、卒業後は忍従の生活がまっているだけだと覚悟していた。

しかし70歳を機に、本格的な年金生活を始めてみて、これは、奨学金を先払いした新たな大学生活のようなもので、再び青春が蘇ってきた思いがしてきた。まさに貝原益軒がいったように「老年の一刻値千金」を実感するようになった。なにより、生活にあまり金がかからなくなった。その理由は、欲望が減退し、自分を制御しやすくなったことと関係し、飲む機会と量が減がったことであり、趣味が金のかからぬ読書や謡、描画と座禅であり、着る物に無頓着で、美食は健康に良くないと外食にも興味が少なく、在職中に、職務で米国を三週間、ヨーロッパを二週間旅行し、国外旅行への渇望もそれ程強くなく、ウオーキングという自分の体との対話を日常の友としているためである。無論、年数回のスケッチ旅行や年10回ばかりの筏釣には、それなりに費用はかかるが、スナックへ行く費用と比べれば安いものである。

読書の焦点は、大学時代未消化に終わり、その後五十年間あまり勉強できなかった物理学を中心とする現代科学の過去五十年間の成果とこれからの展望を知ることであり、もう一つは、大学時代に学び考えた哲学や思想をその後の歴史を振り返り再評価し、あらためて、自分の生きた時代と未来を考えることであった。

時代の最先端の知識は、本屋へ行けば、おびただしい新刊書が出ているので、容易に手に入る。もう一つは、古本屋めぐりで、特に古本屋の組合が開催している古書展には、掘り出しものが多い。今の書店は、殆ど新刊書で占められているので、ここは、書店にない貴重本の宝庫にも思える。この五十年間にアナログからディジダルの時代になり、多くの書籍が、ゴミとして打ち捨てられゆきつつある。そしてこの古書の多くは、戦後から二〇〇〇年までの出版物である。

五十年前は、マルクス主義の全盛時代であり、書店は、これ等の本であふれ返っていた。大学生であった私もそうしたその時代の先端を扱った本しか目にしなかった。しかし、五十年経ってその時代の古書群を眺めてみると当時の自分では、気付くことの出来なかった思いがけない名著が、数多くあることに驚かされる。それらは、ただ古いというだけで、三冊百円や一冊百円のコーナーでただ同然の値段で投げ出されている。これらは、多分もはや絶版になっていて容易には、手に入らないものである。無論古書の中でも店主により、それなりに評価されているものもあるが、それらも新刊に比べれば極めて安い。

  ソ連邦の崩壊とともに訪れたアナログからディジダルの時代の変化は、五十年前の思想や価値観を洗い流し、現在私の前には、砂金のようにキラキラ輝くものだけが語りかけてくるように思える。
五十年前の視点から現代をみるのは、一つの驚きあるが、現代の視点から五周年前の時代を眺めることにも多くの驚きと発見があり、これにはハイラインの名作「夏への扉」の時間旅行者しか味わえない感覚と感動がある。

 七十年も生きていると以前には見えなかったことも見えてくる。この発見をこれからの人に伝えれば、何かの役に立つかもしれないとブログを始めることにした。