2026年3月7日土曜日

危機の三十年―冷戦後秩序はなぜ崩壊したか

 1.はじめに

20254月に「ポストトランプの世界」と云う一文を書いたとき、私は、その世界をグローバリズムの終焉として捉えていた。しかし96日のトランプによる国連総会での演説と13日の米軍によるベネゼイラ攻撃とそれに続く16日のアメリカの66の国際機関からの離脱声明を目の当たりにし、28日の衆議院選挙の高市政権の圧勝に直面したとき、直感的にそれが、戦後の国連体制の崩壊を意味すると思った。そうであるならば、それは国連体制を前提とした戦後思想の劣化と破綻を意味すると直感的に思い、それは終戦直後の連合国の正義とそれに繋がる戦後思想を見直す必要があると思った。さしてその作業をすすめつつある途中で出会ったのがこの本であった。

「危機の30年―冷戦後秩序はなぜ崩壊
したか」細川雄一:新潮選書:  株式会社新潮社:2026220日発行

この本は、その紹介文と目次からこの数年来私が気にかけて来たソ連邦崩壊後の世界秩序の現状について同じような認識すなわち戦後ながらく続いた国連体制の終焉と云うテーマを初めてまともに取り上げた本であることがわかり、しかもこれを購入した翌日の228日にアメリカとイスラエルのイラン攻撃と云うニュースが飛び込んできたので、急遽取り上げることにした。

2.本書の構成と内容

本書の全体構成と内容は、以下のようになっている。

はじめにーウクライナ侵攻はなぜ起きたのか

   せまりくる戦争の危機、ソ連崩壊の30周」年、「危機の30年」を回顧する冷戦後世界の光と影

序章 逆回転する世界史

   「ポスト冷戦時代の終わり」、「世界史の転換点」の到来、リベラルな国際秩序の危機、国際秩序を破壊する大国、国際経済秩序の崩壊、アメリカの覇権的地位の終焉、孤立主義への回帰、「米国第一主義」の系譜、「危機の30年」と云う視座

1章「危機の30年」とはなにか

    ユートピアニズムとリアリズム国際政治学の最も重要な古典、啓蒙思想と反啓

蒙思想「レッセフェールの終焉」、「危機

20年」におけるユートピアニズム, リアリズムの時代としての冷戦、ポスト冷戦期の到来、「新・危機の20年」の時代、「危機の30年」時代のリアリズム

2章 ユートピアニズムの再来

    台頭するユートピア思想、ユートピアの復権 グレイの新自由主義批判、「歴史の終わり」のイデオロギー、冷戦後の民主的平和。グローバリズムの奔流、コスモポリタリズムの思潮、資本主義が勝利した世界

3章 冷戦終結からポスト冷戦へ

    冷戦終結期の歴史、「魔法の杖」で消えた帝国、ポスト冷戦時代の到来へ、「冷戦後秩序の産物」ウイルソンむの夢、「自決権」をめぐる政治力学、「自決権を擁護するゴルバチョフ」、歴史家

    サロッティの警告、「1インチの攻防」をめぐる真相、「自決権」か「勢力圏」か、キッシンジャーの予言、消えたユートピアニズム

4章 西側世界の驕り

    勝利主義と怨恨、民主主義拡大への批判、「最後の巨大な帝国」の崩壊、冷戦の終わり方、協調を模索するNATO、「新しいNATO」の誕生、NATOとロシアの協調、「平和のためのパートナーシップ」の誕生、「民主主義の拡大」戦略、NATO加盟への道、NATO東方拡大論争、ウクライナの自決権と安全保障、ウクライナ非核化むへの日本の関与、NATOの拡大へ向けた交渉

5章 リアリズムの復権

    米ロの協力関係、ブレアとプーチン、9.11テロ後の協力、ラムズフェルドの警戒感、「フリーダム・アジェンダ」の促進、オレンジ革命の衝撃、オレンジ革命以後、西側と敵対するプーチン

    ゲーツ国防長官とバーンズ大使の懸念、ブカレストNATOの首脳会談、すれ違うブッシュとプーチン、「リセット」の限界、勢力圏を追求するプーチン、戸惑うメルケル、米英両国の融和的姿勢、抑止力の強化への動き、ポリス。ジョンソンの矜持、ユートピア主義の蹉跌

終章  「第三次世界大戦」を防ぐために

    「旧い秩序の終焉」「新しい戦前」と云う時代、「危機の30年」とは何だったのか

おわりに ユートピア主義とリアリズムのはざまで

  註

3著者 細川雄一について(AIWikipedia)

細谷雄一(ほそや・ゆういち1971813 -)氏は、慶應義塾大学法学部教授(2026年時点)で、専門は国際政治学、国際政治史、英国外交史、安全保障政策。サントリー学芸賞や読売・吉野作造賞を受賞した『戦後国際秩序とイギリス外交』『倫理的な戦争』など多数の著書を持つ、日本の安全保障政策や冷戦後の国際秩序に関する第一人者。 

プロフィール(2026年時点) 

  • 所属慶應義塾大学 法学部 教授 (2011年より現職)
  • 専門分野国際政治学、国際政治史、イギリス外交史、安全保障政策
  • 学位博士(法学)(慶應義塾大学・2000年)
  • 主な経歴北海道大学専任講師、プリンストン大学客員研究員、パリ政治学院客員教授などを経て現職

4.この本の概要と特徴について

4.1この本の背景

この本の中にあまり、見慣れないユートピアニズムとリアリズムの言葉が出てくるので少し不思議に思った。これは、題名の「危機の30年」とも関連することであるが、この本は、今や古典的名著となったイギリスの政治学者EHカーの「危機の20年」を参考としてソ連邦崩壊後の世界秩序の危機を扱った本ということが分かった。


EH・カーの『危機の二十年』は、第一次大戦後から第二次大戦勃発(1919-1939年)までの戦間期を分析した国際政治学の古典。国際連盟に代表される「理想主義(ユートピアニズム)」の限界を暴き、力と利害が支配する「現実主義(リアリズム)」の視点から、秩序崩壊の本質を突いた 

4.2「危機の二十年』について

193991日: ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。本書は、イギリスで発行されたが、第一版の序文には「1939930日」という日付が記されており、まさに戦争が始まったわずか4週間後に世に出たことになる。

この本は 1930年代の戦雲が立ち込める中で執筆された。カーは、当時の国際社会が信じていた「国際連盟や条約で平和を維持できる」という考え(理想主義)が、迫りくる戦争を止めるには無力であることを論理的に解明しようとしました。

的中した警告: 本書が店頭に並んだ瞬間に実際に大戦が始まったことで、カーの「理想主義は破綻しており、権力政治(パワー・ポリティクス)を直視すべきだ」という主張が残酷なまでに証明される形となった。

「危機の二十年』は、入手できずまだ読んでいないがAIによりその概要は次のように要約されている。

「危機の二十年』の主要なポイント:(AI)

①ユートピアニズムの批判: 第一次大戦後、道徳や理性で平和が維持できると信じられた「理想主義」は、強国の利害が衝突する実際の国際情勢に対応できず無力であったと論じた。

②リアリズムの強調: 国際関係は「何があるべきか」ではなく「何が存在するか(力)」で動いており、政治は権力闘争(パワー・ポリティクス)の側面が不可欠であると指摘。

③危機の本質: 英仏などの現状維持国が唱える「平和」が、弱者や後発国を犠牲にして自国の利益を守る偽善であったとし、秩序の崩壊(危機の二十年)を招いた。

➃目指すべき姿勢: 理想を欠く現実主義は無気力に陥り、現実を無視した理想主義は偽善に終わる。両者の相克の中で、力の現実を認めつつ平和を模索する「弁証法的な接近」が必要であると結論付けた。 (東京大学社会科学研究所 )

1939年の出版以来、現在に至るまで、国際秩序が流動化し「力の政治」が復活する局面でたびたび再評価されている。

 4.3「危機の30年」と云うこの本の性格と限界

 この本は、さすがに政治学者らしく政治学の観点からソ連邦崩壊後の過去30年間の国際秩序の変遷をEHカーの「危機の20年」を手本としてまとめたものである。それだけに実際の世界政治の動きを通して、戦後の国連体制の形成と崩壊プロセスが政治史として語られている。一方私の視点は、近代資本主義の思想的原理の必然的結果としてグローバリズムの終焉とリベラリズムと国連体制の終焉を理解しようとするものであるが、現在の国連体制とリベラリズムが終焉を迎えつつあり、現在が時代の転換点であるとの認識では一致している。この本は、危機を乗り越えるものとしてユートピアニズムとリアリズムの融合を示唆しているが、それを可能にする原理には触れていない。しかしユートピアニズムとリアリズムの発生する背景については、具体的な政治史の中で詳しく記述されている。その背景を私の論理で理解すれば、生存活動に限界が見えないか薄く感じられる時期がユートピアニズムの時期であり、限界が意識される時期がリアリズムの時期である。その意味で、現在は、リアリズムの時代である。

5.リベラリズムと国連主義の終焉をめぐって

20254月トランプ以後の世界と云う一文を書いたとき、その主要なテーマはグローバリズムの終焉であった。その後この問題について考えてゆく過程で、グローバリズムが資本主義そのものの本性に基づく結果であって、それが17世紀のパーナード・マンデェヴィルの「私悪すなわち公益」つまり個人の利益追求が結果的に社会の利益になるとの考え方に源流があり、それが個人を社会の上位に位置づける個人主義すなわち現代のリベラリズムの根拠になっていることに気づかされた。そしてこの仮定が成り立つためには、世界が無限に広がっていることが経済成長の条件であり、有限の空間では成り立たないことを指摘した。

高市政権が、衆院選挙で、圧勝したしたとき、その衝撃の中で思わず戦後思想からの脱却を予感したが、それは13日の米軍によるベネゼイラ攻撃と16日の米国の66の国際機関からの離脱声明の衝撃とも重なっていた。

そして、228日のイスラエルと米国によるイラン攻撃の現実を目のあたりにして、グローバリズムの終焉は、リベラリズムと国連主義の終焉でもあるとの確信が強まり、このことに関連する思いをまとめる氣になった。

資本主義の必然的結果としてのグローバリズムが終焉を迎えたと云うことは、それと表裏一体をなすリベラリズムと国連体制も終焉を迎えたということである。すなわちそれは個人の権利を社会構成の最上位に置くリベラリズムの終焉であり、それを国家観に拡大した国家主権を最上位に置く国連憲章と国連主義の終焉でもある。

 アメリカのベネゼイラ、イランへの攻撃に対してアメリカの行動は、国家主権に対する侵害であり、国連憲章に違反するとの意見が多いが、それは。単に、国連体制の終焉と崩壊を言い換えただけにすぐない。アメリカの意図と姿勢ははっきりしている。第二次トランプ政権の安全保障戦略は、「多国籍機関による国家主権への拘束に反対する」と云うものであり、これは、アメリカが長年にわたって推し進めて来た自由主義、市場主義、民主主義を基調とするグローバリズムが、自国の製造業の崩壊と移民の増大による文化的無秩序さとIT・金融依存の格差社会と分断と国力の減退をもたらしたことへの危機感とその現状からの脱却のあがきとみることが出来る。そして、今回のトランプ政権の行動は、アメリカも、ロシアや中国同様、自国に都合がわるいと思ったら他からの干渉を排して国益優先に行動すると云うことである。なぜ、こんな事態になってしまったのか、それは、国家主権を何者も侵すことの出来ない神聖な権利とする思想とその裏返しの個人の権利を侵すことの出来ない神聖な権利とみなすリベラリズムの思想が、平和と繁栄をもたらすとの考えが現実世界で有効性を失ったと云うことである。しかし、この国家主権の神聖化の思想は、過去30年にわたって結果的には、世界的に、国内に独裁体制を敷く専制国家をはびこらせることになったし、弱小国家を主権国家として平等に扱う国連基準は、運営の経済的基盤を大国に依存しながら権利のみ主張する義務を伴わない実行性の乏しい空論をはびこらせることにも連なった。 

その典型が国連主導のIPCCによる地球温暖化防止条約であり、CO2主犯説がその責任の全てを先進国のせいにした結果、温暖化対策を議論する場が、先進国から開発途上国への資金援助をめぐる話に矮小化され、本来的には、開発途上国には先進国とは異なった文明モデルを構築する責任があるのに結果的には、開発途上国が先進国の経済成長モデルの後追いする場になってしまった。

新秩序への論理をめぐって

個人の権利を最上位に置く思想は、閉ざされた領域では、個人の権利同士が衝突する。国と国同士でもグローバルな閉じた世界では、国と国の利害が対立する。個人主義に規範を置く西欧社会が揺らいでいるように、国家主権を基礎として国際社会がゆらいでいる。 

個人の権利が地域社会と衝突するようであれば制限を受けざるをえない、個人の利益と社会の利益の両立を社会の個人に対する外部からの権力による規制に頼る方法は、行き過ぎた独裁体制を招きかねないし、個人の自由に任せれば無秩序の弱肉強食社会を招きかねない。従ってこの両立のためには、個人の意思が社会全体にとって有意義であることを証明し、社会がそれを受け入れてもらうか、あるいは、自らの利益を内発的な自己制御機能で抑制して、個人と社会の調和を図っていく以外に方法はない。これには、その地域の文化的・宗教的な伝統や習慣の力が必要であろう。

 国家と世界との関係についても同様な論理が成り立つ。有限な世界の中では、国家の膨張と発展と利害は、衝突の必然性にさらされている。国家の生存スタイルが、限界を迎えた場合、その限界をどう乗り越えるかが問題で、それを外部空間の拡大で解消しようとすれば、それが他国の利害や価値観と衝突しかねない。自国内部の社会改革や技術革新等の他国に迷惑を及ばさない形で、その限界をのり超えることが出来れば国同士の摩擦を最小限に抑えることが可能になる。

個人の主権の維持、国家主権の尊守の理念を叫ぶだけでは平和維持の方策にはならない。現実に存在する利害対立の具体的な解消もしくは妥協の方策が求められている。

おわりに

202628日の衆議院選挙での高市政権の圧勝は、国際環境が明らかにしつつあるグローバリズムと国連体制の終焉という現実に対して、高市政権発足にともなう国会論戦の中で立憲民主党と公明党があいかわらず30年前の国際情勢認識とユートピアニズム的発想しかできていないことへの国民的批判の結果であると云える。10年で軍事費を倍以上に増大させる中国の現実を横目に、国防費の増加が中国を刺激するとのユートピア的発想しか提示できない政党が支持を失うことは必然的なことであった。野党はユートピア的理念だけにたよる時代が終わったことにはやく気づくべきであった。

 本書は、国際政治の現実をそのまま分析してみせた本であり、特定の立場から見れば納得できない点もあるかもしれない。しかし、今まで読んだどの本よりも包括的で、客観的、公平な視点で書かれた本のように思われる。冷厳な事実を見れば、我々は、第三次世界大戦の到来と云う危機に直面している。そして、今求められているのは、希望的観測や願望による平和という平和論ではなく、国際政治のパワーポリテックの現実を見据えた冷静な現状認識と安全保障戦略である。本書は、このことに気づかされる名著であると云える。

 

2026年1月27日火曜日

「さまよえる魂のうた」日本の美と文化の発見者ラフカディオ・ハーン ―ハーンは何故小泉八雲になったのかー

 1.はじめに

当初私は、幽霊について書くつもりであった。それは朝ドラ「ばけばけ」を見ていて主人公達(ヘルンと節)が怪談に興味を待っていたことと関連しており、最近の脳科学の現状と幽霊についての科学者達の取り組みの歴史を整理したくなったためであった。そんな時、年末の部屋の大掃除のついでに始めた書籍の整理をしていて手つかずにいた一冊の本に気ずき、思わず手にしたのが、この本であった。

さまよえる魂のうた:小泉八雲コレクション:池田雅之翻訳:ちくま文庫(株)筑摩書房:20041110日第一刷発行」


2.小泉八雲とはなんであるか

当初なにげなく手にしたこの本は、小泉八雲の思想形成の自伝的エッセイと文学論をまとめた本であるらしいことが分かるに従って徐々に私の心を惹きつけて行った。

この本をどんな気持ちで購入したかは、はっきりした記憶はないが、その思想にどことなくスビリチァルな気配を感じたためであることには間違いがない。しかし、この本は長い間詩集と同じ場所に放置されていたことを考えるとこの本が何か詩的な雰囲気を持っていたことは確かであろう。

今回あらためて、本の全体に目を通してみて。次のようなことに気づいた。この本の性格については、訳者の早稲田大学教授である池田雅之氏が巻末に解説を書いているが、その題は「小泉文学の原風景とghostlyなるもの」というものであり、これがまさにこの本の性格をぴったり言い当てている気がした。

この本は、小泉八雲の思想的背景とかれの思想の中核概念を表すエッセイとそれにかかわる文章を収録したものであった。この解説文によれば、この本はそれ以前に出された「妖怪・妖精譚」(20048月刊、ちくま文庫)と対をなすものであり、訳者としては、この二冊で小泉八雲の全体像を示したい意図があったように思えた。そしてこの「妖怪・妖精譚」が小泉文学の精華・達成であり、「さまよえる魂のうた」がその思想的背景をまとめた本ということになる。この本を読み進む内に私の中にある一つの思いが芽生えて来た。それは小泉八雲と云う人間の日本史の中における役割について、整理してみる必要性についてである。

3.明治と小泉八雲

小泉八雲(18501904)は、ギリシャのイオニア諸島レフカダ島生まれ、父はアイルランド人の軍医補、母はギリシャ人、幼少期アイルランドにわたるも両親が離婚し、母は、ギリシャに帰り、叔母の手元で育てられるが、若くしてヨーロッパを彷徨するも19歳の時アメリカにゆき新聞記者として文才に頭角を現す。1890年来日して、小泉せつと結婚。その後の生活は、朝ドラ「ばけばけ」で描かれている。小泉八雲の人生は、日本の近代の曙明治の時代と重なっている。明治維新以降の年表を確認してみよう。

明治維新以降の年表

1868(明治元年)

1894年~1895年 日清戦争

1904年~1905年 日露戦争1

1910年 日韓併合

1912年 明治天皇崩御、大正元年

小泉八雲が日本にやって来たのは、日清戦争直前であり、亡くなるのは、日露戦争が始まった年である。8月にアップしたブログ「日本文化の自画像をめぐる三冊の本と3人の先人達」の中で触れたように、この時期は、岡倉天心(18631913 )、鈴木大拙(18701966)、新渡戸稲造(18621933 )等が世界に向けて日本の自画像を発信し始めた時期と重なっている。

小泉八雲は、この3人の日本人が本格的に活動する前にいち早く、日本文化を世界に向けて紹介していたことになる。日本人である岡倉天心、鈴木大拙、新渡戸稲造が、活躍する前に、西洋人として日本文化の価値をみとめ、その価値を記録に残し、世界に情報発信していた。このことに気づいたとき、私は、人知れぬ驚きと感動を感じざるを得なかった。そして、ラフカディオ・ハーンなる人物は、世界がまだ日本のことを知らない時代に日本の何に感動し、日本に帰化して小泉八雲として人生を終えることになったのか強烈な興味を抱くようになった。

4.小泉八雲の全体像への道

ラフカディオ・ハーンの全体像に迫るには、三つのことを知る必要があると思った。その一つは、彼の思想であり、もう一つは、彼が日本で何をみて何を感じたのかであり、三つ目は、その結果としての彼の作品を知ることである。小泉八雲の残した文章は、膨大でありその研究者でもないことから次に何を読むかに迷ったが、とりあえずこの本の訳者池田雅之氏の解説の言葉に従って「妖怪・妖精譚」(20048月刊、ちくま文庫)でも読んで考えをまとめることにしようと早速書店に出かけていった。

ところが、当初簡単に見つかると思っていたこの本は、なかなか見つからなかった。書店に置いてなかったのである。そのかわり、栄地下のジュンク堂書店には、小泉八雲関連本の特設コーナーが設けられており、そこになんと最近の小泉八雲関連の新刊書が10冊ばかり並べられていた。テレビの連ドラの影響のせいであった。執拗に「妖怪・妖精譚」を見つけようとしたがみあたらなかったので結局次の二冊を買い込んで帰宅した。

新編 日本の面影:ラフカディオ・ハーン:池田雅之訳:平成12925日初版発行、令和7121556版発行:角川文庫」

怪談: ラフカディオ・ハーン:池田雅之編訳:令和7825日初版発行、令和71020日再版発行:角川文庫

 この二冊を選んだ理由は、前者が、ハーンが日本で何をみて、何をかんじたかを端的に示していると思ったからであり、後者がその結果としての彼の作品群の一部と感じたためであった。ハーンが来日してから死ぬまでは、1890年から1904年までの15年間に過ぎないが、この間に膨大な文章を書いている。翻訳した池田雅之の解説によるとこれ等一連の文庫本は、ホートン・ミフリン版のハーン全集全16:1922)の中からテーマに沿って翻訳者によって選ばれた作品群を纏めて一冊の本としたアンソロジー「アンソロジー(anthology)は、特定のテーマや基準で複数の作家の作品を集めた「選集」「詞華集」「作品集」を意味し」という性格のものらしい。

従って彼の全体像に迫るためには、そうした彼の全作品群の背景を理解した上で、個々の文庫本を読み解くことになる。以下では、今回手にした三冊の本から見えて来たことと感想について簡単にまとめてみる

5.「さまよえる魂のうた」にみるハーンの思想

この本は、次の構成で編集されていた。

第1章         私の守護天使―自伝的断片(8編の文章)

第2章         赤裸の詩-文学の力(7編の文章)

第3章         生活の中の文学(3編の文章)

第4章         ロマン主義の魂(6編の文章)

小泉八雲の家庭生活  萩原朔太郎

解説 八雲文学の原風景とghostly  なるもの 池田雅之つまり、この本は、ハーンの書いた24篇の文章に荻原朔太郎が昭和51年に書いた文章と訳者池田雅之の解説からなる26の文章をまとめた本であった。

これらを読んだ感想を一言でいえば、ハーンはghostlyなるものを追求した詩精神をもったロマン主義的神秘主義作家と思えた。それは、この第4章の中に、「イギリス最初の神秘家ブレイク」と云う文章と「ロマン主義的なものと文学的保守主義」なる文章を見つけた時決定的となった。

 私がウイリアム・ブレイクの名前を知ったのは、大学1年生の時で、それは当時英語の講義でコールズ・ワージーの「林檎の木」を購読してくれた英文学者の梅津先生がこのウイリアム・ブレイクの研究家であったためである。そのウイリアム・ブレイクを今から130年も前にハーンが日本に紹介していたとは驚きであった。

ロマン主義は、18世紀末から19世紀ヨーロッパで古典主義や啓蒙主義の理性・秩序への反発から生まれた思想・芸術運動で、感情、個性、自由を重んじ、自然賛美、中世への憧憬、神秘性、個人の内面性(不安、苦悩も含む)を追求する。文学・美術・音楽など多岐にわたり、「想像力」を重視し、現実を客観的に描くのではなく、主観的な感情や情熱、そして「崇高」な体験を表現することを特徴とするが、その源流はもっと古く、中世のアリストテレス的キリスト教的世界観への批判的潮流に遡ることが出来る。ハーンのキリスト教に対する批判的姿勢はその点で深い意味を持つ。

その一方、神秘主義(しんぴしゅぎ)とは、神や絶対者(宇宙の根源など)と人間が、理性や通常の認識を超えて、直接的・体験的に接触・合一(一体化)することを目指す思想や実践の総称で、内面への沈静、瞑想、修行などを通して、言葉では表現できない「神秘体験」を追求し、宗教や哲学の根源に関わる立場を指し、キリスト教、イスラム教(スーフィズム)、仏教(禅など)、ヘルメス主義など世界中の様々な宗教・思想に見られる。 

これらの思想は、ドイツやフランス思想の底流を流れるのが主流である。アイルランドやイギリス等経験主義の支配的な文化圏では、ウイリアム・ブレイク等少数の人間しか知られておらず神秘主義の伝統は弱くその意味でアイルランド出身のハーンがこうした特徴ある思想を持つに至った経緯は、彼の若き日のョーロッパ放浪の体験の結果であるかもしれない。

こうした彼の思想は、池田雅之氏の云うようにghostlyの追求という言葉に要約できる。この場合、このghostlyと云う言葉は、「神聖」「神秘」「宗教的なもの」そしてさらには人間の内面や魂を表す「霊的」なものをも指している。つまり、このghostlyなる言葉には「神」「宗教・神秘」「霊・霊性」と云った三つの意味が含まれており、この追求こそがハーン文学の思想であり中核をなすもののようである。

6.「日本の面影」とハーンが観て感じた日本

 この本の構成は、次のようになっている。

はじめに・・・・18945月 日本九州熊本にて ラフカディオ・ハーン

東洋の第一日目

盆踊り

神々の国の首都

杵築―日本最古の神社

子供達の死霊の岩屋でー加賀の潜戸

日本海に沿って

日本の庭にて

英語教師の日記から

日本人の微笑

さようなら

ラフカディオ・ハーン略年譜

訳者あとがきー木霊する出雲の地霊とハーンの魂・・。2000825

 この本は、ハーンが189044日日本の横浜に上陸してから松江に行き、そこで生活し、18911115日に松江を去るまでの17カ月の間に書かれた日本の滞在印象記であるホートン・ミフリン版のハーン全集の作品集「知られざる日本の面影」に掲載された27編の文章か10編を選抜・編集したものである。

 この中には、彼が初めて見た日本の美しい風景と人々や風物との出会いが感動的に語られている。彼には、日本が神々と共生する妖精の国のように感じられたことが、美しい言葉で綴られている。この本を読みながらその詩的な文章に何故か中学から高校時代に読んだ国木田独歩の「武蔵野」を読んだ時の感動が蘇ってきた。それは、そこに日本の自然の美しさが感動的に表現されていたためかも知れない。この中には、西欧の近代化の影響を受けない古き時代の美しい日本の面影が書かれている。

 最後の文章「さよなら」には、彼が松江を去り熊本に向かう場面が描かれている。それはまるで、恋人とのわかれを惜しむ若き詩人のように美しくも切ない文章であり、その哀切の情に胸を締め付けられるような感動を覚えた。この文庫本が56版重ねられた理由が分かった気がした。この本には、続編がすでに出版されている。それが「新編 日本の面影Ⅱ」である。いつかまたこの続編も読んでみたいと思わせる一冊であった。


7.
決定版「怪談」とハーンの芸術

この本は、次のように構成されていた

はじめにー池田雅之

完訳「怪談」

 序    1904120日 ラフカディオ・ハーン

 怪談(17)

    虫の研究(3)

    解説エッセイ1:完訳「怪談」世界を読み解く:池田雅之

「骨董」より

 15編の骨董・奇譚関連物語

 解説ウッセイ2:{骨董}の再話と瞑想の世界:池田雅之

怪談・奇談コレクション

 23篇の怪談・奇談物語

7編の自伝的作品

解説ウッセイ3:「怪談」「奇談」の世界を楽しむ:池田雅之

ラフカディオ・ハーン年譜

これは、ハーンの日本を舞台とした怪談、奇譚や自伝的作品をまとめた一冊で、決定版の意味が、最後のページに書かれていた。この本は、この前に発刊された「「日本の怪談1」と「日本の怪談Ⅱ」の収録作品を再編集の上あらたに「序」「かけひき」「葬られた秘密」「蝶」「蚊」「蟻」(完訳怪談)「焼津にて」(自伝的作品ほか)および解説を加え大幅に加筆修正したものです。」とあるので、これがハーンの作品集の主要なアンソロジーと云うことだろう。

このように、この本は、全体で70篇もの膨大な文章を収集編集したもので、「すぐれた芸術と云うものは、多少なりとも宇宙の神秘を、ghostlyなるものの世界をうかがわせてくれるものなのです。」のハーンの言葉にあるように、日本に伝わる話をフォークロア(民間伝承)的口調で再構成したものと自伝的エッセイからできている。

彼は、霊や夢といったものを通しても、無意識的世界に広がる集団の深層心理的真実に肉薄しようとしていたかも知れない。その一方で日本人としては、柳田 國男(1875年(明治8年)731 - 1962年(昭和37年)88日)が、民俗学の研究を始めたのが、明治41(1908)年頃からで、明治43(1910)年には日本民俗学の嚆矢となる『遠野物語』を著した。しかしハーンは、それより10年以上も前から日本の民話や怪談に着目し、その人間社会における重要性に気づいていたことになる。柳田国男とハーンの視点の比較は面白いテーマになるかも知れない。

8.まとめ

当初2冊の本を読んでまとめようとしていたが、ラフカディオ・ハーンは考えていたような簡単な素材ではなかった、その感受性と思想の広がりは私の想像力をはるかに超えていた。芳醇な思想と作品を前に私の旅はほんの入り口に立ったばかりと思わざるを得ない。ハーンの作品は美しい文章で綴られているが、これは翻訳者によるところ大かもしれない。とくに「日本の面影」の美しい日本語訳は見事であるとしか言いようがない。そこで訳者の経歴をwikipediaで調べてみた。下記に訳者の概要を記したが2000年に出版されたこの本は、訳者54歳の本であり、まさに一番充実した時期のものである。この本が56版も重ねた理由かもしれない。また、決定版「怪談」は、ハーンの作品の全体像に迫るにふさわしい本と感じざるを得なかった。多くの人に薦めたいと感じた。

翻訳者の池田雅之の概要(wikipedia)

池田 雅之(いけだ まさゆき、1946 - )は、日本の英文学者、比較文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。専門はTS・エリオットや小泉八雲(Lafcadio Hearn)研究を通じた比較文学・比較文化研究。早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授、早稲田大学国際言語文化研究所所長を歴任した。(了)