2016年6月16日木曜日

非寛容なワイドショー民主主義・・・桝添問題に思う

 東京都知事辞職問題をめぐる報道を見ていると日本の民主主義のレベルに危惧を感じざるを得ない。連日のような公私混合疑惑が全くいじめや噂レベルから扱われている。
 議論の前提となる公と私の区別はどう考えるべきかの基本的な議論は皆無で、自分達には出来ないことを知事がやっていることへの妬みの感情をぶっつけいるだけのように見える。 
都知事が1億の2億もネコハバしたとか、行政の失敗で何億もの損失を招いたというなら問題であるが、コーヒー代を経費で落としているとか金額にすれば取るに足りないことを公共の電波を使って延々と報道している。このコストはおそらく数十億にもなる。
一般に必要経費の曖昧な処理は、様々なレベルで日本社会の中で行われている。
例えば、商談の会食の費用が経費かどうかで問題になる。極端に云えば、商談をしてなくても食事は食べるので、認められなとの議論も成り立つ。
 しかし、日本の慣習では、これは多くの場合認められており、税務署もこれを違法とはしない。実際には、私的なものがあっても税務署は、そこまでの証拠をもとめない。徴税
効率を考えるからである。
 しかし、松添問題のメディアの報道は、一片の疑問も許さないという非寛容な姿勢であり、雛段のコメンテーターもこの姿勢の支持論者ばかりであった。このかたくなな姿勢は
どんな言い訳をしても「納得できない」「誠意が見られない」という韓国のメディヤや圧力団体の論調を思いだす。「誠意」等は、形がないので、見せられないのが普通である。この場合、それを見えるようにするということは、「金」という形で示せというのと一緒で「やくざ」論理である。反対論者のいない欠席裁判的なワイドショー番組ばかりたったのにあきれ返ったのは、私だけだろうか。
 片山、浅井、北川の知事経験者の発言も知事職と経費について真面目な意見は皆無で
街のおばちゃんに迎合する無責任な発言ばかりであった。一般に政治とは庶民をうまくだますことであり、それを説明責任という言葉で表現する。これがまずいと云うばかりである。自分達の時、本当に何もなかったのだろうか。
国民は、自分達が主権者であると祭り上げられており、自分に責任がない範囲では、云いたい放題である。「知事は、24時間勤務であり、すべてが公です。」と居直られたらどう反論するのだろう
 唯一三重県知事の、「知事の経費は税金から出ていることの認識を形で示すことでの配慮不足」との表現が的を得ていたように思う。
ただ、こうした支出問題は、せいぜい300万円程度の話で、この金額に対して日本国民が払った会議や報道関係費は、数十億円を下らないだろう。
個人的な正義感情で辞任すべしと叫んでいた人達は、自分の気晴らしになったことだろう。ただそれだけのような気がする。都知事選と云えばまた数十億の金がかかる。こんな金は、熊本の復興に回すべきではないか。
辞任に追い込んだのは、結構だが、その結果国民は何を得ただろう。
聖人君主のような人物はまずいない。欠点を監視し、良い点を伸ばす。この寛容な姿勢が
必要ではないか。このままでは、都知事に、AI(人工知能)を採用する時代が本当にやってくるかも知れない。そのとき、都民とメディヤは、どう対応するのだろうか
心なき非寛容な東京都民とメディアの幼稚さに失望を感ずるのは、私だけだろうか


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