2016年6月16日木曜日

非寛容なワイドショーとメディヤ・・・ベッキー報道をめぐって


 ベッキー問題が発生したとき、メディヤの取上げ方や報道に違和感を覚えた。それまでアンドロイドのごとく、浮いた話の無かったベッキーが人並みに恋に陥ったことに、何故か親しみを感じたのに、執拗な不倫の非難報道は道徳論に終始し、嫌気がさした。その時、かって作家の渡辺淳一郎が、女性記者に立派な先生が「不倫の小説をかいていいのですか」と問われ、「文学は本音を書くものだ」と一蹴したことを思い出した。
若者がはじめての恋に狂うのは、「ロミオとジュリエット」や「若きヴエルテルの悩み」「曽根崎心中」まで古今東西例に事欠かない。これには、人間とは何かにつらなる本質的問題が潜んでいる。それなのに、一方的に倫理的にしか報道しないメディァに空恐ろしさを覚えた。
 何度も会見で謝らせ、もう二度と他人を傷つける恋はしません(傷つき、傷つかない恋なんてありえないにも関わらず)とまで云わせたメディヤは、肝心のことを問題にしなかったような気がする。
 結果的に分かったことは、ベッキーが芸能界・事務所という遊郭の花魁のような存在で、多額のギャラと引き換えに自分の自由を売っていた事実であり、幾つもの企業が、宣伝のためにアンドロイド的人格を要求し、不祥事の違約金が何億にもなるということであった。
 問題の核心は、若い女の不倫行動ではなく、宣伝イメージ破壊行動が、企業の不利益になるということであり、メディアは、この企業論理に従って、企業利益の擁護活動に走ったということであった。
 芸能界の巨額なギャラも問題であるが、不倫非難という正義の仮面で大衆を扇動するメディアに、戦前の権力迎合の匂いを感じた。
メディヤが、企業の飼い犬であると同様ベッキーもスマップも所詮芸能会や事務所の飼い犬でしかなかった。復帰後のベッキーがアンドロイド飼い犬に見えるのは、僕の目が曇っているせいかも知れない
 

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