本との出会い
今年(2024年)の9月の初めのことである。1年半ほど前に手術した肝臓癌の治療のため。別の病院に移ることになり、医師との対話のため癌についての基礎的知識の必要性を感じた私は、最新の生物学からみた癌研究の専門書を買って読んでみようと栄の書店を訪れて、その問題意識に応えてくれそうな一冊の本「がんは裏切る細胞である:アシーナ・アクティビス:梶山あゆみ訳:みすず書房:2021年12月10日第一刷発行」を買い込んで読んでみることにした。その本の清算をして、新刊コーナーに寄ったとき、そこで安部公房の未発表の小説`「飛ぶ男」と「死に急ぐ鯨達・モグラ日記」の2冊の文庫本を見つけた。そして「飛ぶ男」に魅かれて思わずその二冊を買おうと思った。それには、わけがあり、その2週間程前、YouTubeで、「最近の中国怪奇現象」に関する動画の中で、空を飛ぶ男の動画をみたためであった。そしてその二冊の新刊書から数冊離れた場所にあったのが、今回とり上げる「死ぬということ:黒木登志夫:中央新書2024年8月25日発行」であった、死をめぐる問題については、今まで様々な本を読んできたので、いまさらの感もあったが、著者が医学の専門家であることが気になって安部公房の二作品とともに買ってみることにした。
入院と読書
合計4冊もの本は買いこんだものの、最優先は、がんの専門書であり、次に安部公房の作品群であり、「死ぬということ」を読み始めたのは、新しい病院で診察を受けて、入院の予約をしてからのことであった。入院期間は10日間の予定であり、この間を埋めるものとして、三冊の本を持っていくことにした。安部公房の「飛ぶ男」は既に読み終えていたので残りの「死に急ぐ鯨達・モグラ日記」と読みかけのSF「三体」の第二巻、そして三冊目がこの読みかけの本「死ぬということ」であった。しかし、実際に本は、持ちこんだもののなかなか本に目を通す気になれず、「三体」は全く読む気にならなかった。安部公房の「死に急ぐ鯨達・モグラ日記」は、断片的な対談やエッセイであり一篇が10分程度で読めたので、一通り目を通すことが出来た。手術の前後は、治療への集中やスマホでの知人や親族とのやり取りで、全く本を読む時間もなかった。「死ぬということ」を読み終えようと思ったのは、手術後二日程経ち、飲食コーナーに出かけることが出来るようになってからである。この飲食コーナーで、コーヒーを飲みなながら2~3時間かけ、2回ばかりで一気に読み終えることができた。面白かった。
著者略歴
黒木 登志夫(1936年1月10日 - )は、東京生まれの医師・医学者で、専門は、がん細胞、がんの発生メカニズム、1960年東北大学医学部卒、1961年から2001年にかけて3か国5つの研究機関でがんの基礎研究に従事(東北大学加齢医学研究所、東京大学医科学研究所、ウイスコンシン大学、WHO国際がん研究機関、昭和大学)、1971年東京大学医科学研究所助教授、教授。1996年定年退官。名誉教授、昭和大学教授。2000年日本がん学会会長、2001~2008年岐阜大学学長、2008年~2011年日本学術振興会学術システム研究副センター長のち同相談役、顧問。2011年生命科学全般に対する貢献で瑞宝重光賞、2021年川崎市、2022年神奈川県文化賞受賞。著書多数。
本の内容と読後の感想
本の内容を私なりに要約するとこの本は、現代医学に基づく老、病、死についての科学的死生観をまとめた書と云うことになる。人生100年時代と云われる昨今であり、老後の生き方や過ごし方については、数多くの本が出版されているが、その多くは、文系の作家や哲学者・宗教関係者によるものである。それらのものは、死の直前までの話で、死そのものを真正面から見据えていない。しかしこの本は、死そのものの現実を客観的データや臨床の現場症例にもとづいて冷静に分析し、示してくれる。
本の表紙に概要と特徴が要約してあるので、それを引用すると「死ぬということはいくら考えてもわからない。自分がいなくなるこということのだが分からないのだ。生死と云う大テーマを哲学や宗教の立場から解説した本は多いが、本書は医学者が記した、初めての生死論である。といっても内容は分かりやすい。事実に基づきつつ、数多くの短歌や映画を紹介しながらューモラスを交えてやさしく語る。加えて、介護施設や遺品整理等実務的な情報も豊富な、必読の書である。」
よくまとまっているので、これ以上付け加えることはないが、人生100年時代と云う超高齢者社会を前にして、高齢と死と云う高齢者にとっても未知なる世界が広がっている。その中で何が起きようとしているのかその人生の指針が欲しい。30~60代の現役世代にとっても高齢者が何を考え、どんな問題を抱えているかを知っておく必要がある。本書の取り扱っている内容の範囲を示すため、本書の13章からなる目次構成を示すと次のようであった。
はじめに
第1章
人はみな老いて死んでいく
第2章
世界最長寿国、日本
第3章
ビンビンと長生きする
第4章
半数以上の人が罹るがん
第5章
突然死が恐ろしい循環器疾患
第6章
合併症が怖い糖尿病
第7章
受け入れざるを得ない認知症
第8章
老衰死、自然な死
第9章
在宅死、孤独死、安楽死
第10章
最後の日々
第11章
遺された人、残された物
第12章
理想的な死
第13章
(終章)人は何故死ぬのかー寿命死と病死
1970年当時、両親のいない都会で、未知の育児に直面したがその指針となったのは、松田道夫の育児書やスポック博士の育児書でそこには、これから何が起こり何が問題となるのかその対処はどうするのかが書かれていて随分助かった記憶がある。老齢から死に至るプロセスについても同じような指針があれば、事態が飲み込め、協力しやすい。
そのためには、社会全体として、宗教や思想にとらわれない現代の科学的知見に基づく高齢や病、死についての実際上の共通認識が必要である。本書は、そのための土台となり得る良書であると感じた。
著者のあとがきに米寿の誕生日にとある。日本の多くの知識人がまともに本を書くのは80歳までであることを考えると88歳の人が書いたとは、とても信じがたいがこれも高齢社会の一つの奇跡と云えるかも知れない。
家族や知人達へ
この20年ばかりで、数少ない親しい友人達を見送ったが、その中で感じたことを書いておきたい。最初に見送ったのは22年前で、理学部を出て弁護士となったS君であった。彼が胃癌にかかったと知らされたとき、彼にどんな風に会ったら良いのか分からず、1人で会う勇気がなかった。そこで、二人の友人を誘っておいて、おずおずと本人に電話すると、少しずつなら酒も飲めるので、小料理屋で会おうとの話になり、4人で会ったが、本人はあっけらかんとして病気の経過等を明るく話してくれ、その姿勢にこちらが救われた思いがした。
大学時代、神村町の下宿同士が近かった九州出身で、大手家電メーカーで半導体の開発・生産技術者であった物理専攻のK君は、膵臓癌のステージ4であったが、死ぬまでに一度会いたいというので、母校の大学で会った。付き添いの長男と生まれ故郷の九州で古き知人達と最期の別れをしてきたと云い明るく、なんの隠し事もなく病気の現状について語ってくれた。これ等の例が典型であるが、総じて理系の友人達は、死を目前にしても落ち着いていて清々しくさわやかであった。二人とも私が会って半年後に亡くなった。
これに比べて文系の知人達は、紋々とした思いは伝わるが、自らその状況を明確に伝えることも出来ず去って行った。死と云うものを受け入れ難いままに死んでいったように思われる。
こうした病気を患った人間達に対するに、全く予期しない反応をする人達もいる。それは、女性に多いのだが、病をすべて疫病のように恥ずべきものと考え、話題にするのも汚らわしいとして、ひたすら周囲から隠そうとする人達であり、それに感化された男達である。それは、病を戦前のハンセン病や結核のごとく忌むべきものとして、社会から隔離しょうとする姿勢の名残であるように見える。病を隠して黙って死なれても後に残されたものは、戸惑うばかりである。本当に知りたいのは、彼又は彼女が、老いや病とどのように戦いどんな思いで死に、私達に何を残したかったのかであり、それらは死んでしまえば、永遠の謎でしかない。つまり、老、病、死にいての世代を超えての共通認識があれば、高齢社会をもっと豊かにすることが出来るし、世代交代ももっとスムーズにゆくはずである。その意味で、現代医学に基づく老、病、死についての科学的死生観をまとめたこの本は、超高齢化社会を生きる世代を超えた老若男女の共通の必読本となるべき書物であるのかもしれない。(了)
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