ことの始まり
コロナ下で外出の減った時期、自宅でユーチュブを見る時間が多くなり、中でも音楽を聴く機会も増えた。そのジャンルは、クラッシックから歌謡曲まで多岐に渡ったが、とりわけ気分が落ち込んだときには、あの安保闘争後の暗い時期に流行った藤圭子の声で聴く歌謡曲や倍賞千恵子の声で聴く唱歌であった。その唱歌の中で、学生時代あまり歌ったことのない心惹かれた曲が「惜別の歌」で、作詞島崎藤村、作曲藤江英輔のこの曲は、中央大学の学生歌として有名な曲であることは、すぐに分かった。しかし、何度も聞いている内にその詩に微妙な違和感を覚えた。これは、別れを歌っているが、誰が歌う、誰との別れなのか、男なのか女なのか。作詞が藤村であれば、彼の別れの歌に違いない。
そんな疑問を抱いて、深く考えもせず、日々を過ごしていたが、古書展で一冊の本を見つけたとき、その本が、この疑念に応えてくれるかも知れないと思わず手にしたのが「藤村のパリ 河盛好蔵: 河盛好蔵:新潮文庫:新潮社: 2000 (平成12)年9月1日発行」であった。
私の中の藤村は、「夜明け前」と「千曲川」のイメージしかなかった。その藤村がパリにいたとの題名は、私には、衝撃であり、「借別の歌」の「長き別れ」のフレーズは、この藤村のバリ行きに違いないと勝手に思い込んでしまった。
藤村のパリ行き
第一次世界大戦は1914年(大正3年)7月28日から1918年(大正7年)11月11日にかけてであるので、藤村は、この第一次世界大戦のほとんどの期間、フランスですごしたことになる。
「夜明け前」はアメリカ海軍のペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、中山道の宿場町だった信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬籠)を舞台に、主人公・青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。青山半蔵のモデルは、旧家に生まれて国学を学び、役人となるが発狂して座敷牢内で没した藤村の父親・島崎正樹である。『中央公論』誌上に、1929年(昭和4年)4月から1931年10月(第一部)、1932年4月から1935年(昭和10年)10月まで(第二部)断続的に掲載され、第1部は1932年1月、第2部は1935年11月に、新潮社で刊行された。(Wikipedia)
0私が「夜明け前」に興味をもったのは、私の曽祖父松田濱次郎(1841年(天保12年)~1918(大正7年))の生きた時代がこの「夜明け前」の時代と重なり、尾張藩の下級武士であった曽祖父の生きた時代と環境が「夜明け前」の中から推察できると感じたためであった。
島崎藤村の略歴と主な作品(wikipedia)
島崎 藤村( 1872年3月25日(明治5年2月17日)~1943年(昭和18年)8月22日)は、日本における詩人又は小説家である。
略歴
1872年3月25日(明治5年2月17日)、現在の岐阜県中津川市馬籠に父・正樹、母・縫の四男として生まれた。
1881年(明治14年) 上京。泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・武居用拙に『詩経』などを学んだ。さらに三田英学校、共立学校など当時の進学予備校で学び、明治学院本科(明治学院大学の前身)入学。明治学院本科の第一期卒業生で、校歌も作詞している。
1892年(明治25年:20歳)10月 - 明治女学校の教師となる。
1893年(明治26年)1月、北村透谷、星野天知らと『文学界』を創刊する。
教え子の佐藤輔子を愛したため明治女学校を辞め、キリスト教を棄教する。
1896年(明治29年)9月8日 - 東北学院(仙台市)の教師として約1年間赴任。
10月25日 - 母・縫が死去。この頃から詩作を始め、『若菜集』を書き上げる。
1897年(明治30年:25歳) 8月 - 処女詩集『若菜集』を出版
1898年(明治31年) 4月 - 東京音楽学校選科入学。
1899年(明治32年:27歳)4月) 小諸義塾の英語教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。5月3日 -北海道函館市出身の秦冬子と結婚し、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。
1910年(明治43年:38歳)1月より「家」を『読売新聞』に連載。8月 - 四女・柳子、生誕。妻・冬子、死去。
1913年(大正2年:41歳)4月 - 手伝いに来ていた姪・こま子と過ちを犯しこま子が懐妊したため、関係を絶つためにフランスへ渡る。
1916年(大正5年毛44歳)7月4日 - 帰国。こま子との関係が再燃する。9月 - 早稲田大学講師に就任。
1928年(昭和3年:56歳)
『処女地』の同人で24歳年少の加藤静子と再婚[12]。
1943年(昭和18年)8月22日 - 大磯町の自宅にて死去、満71歳。戒名は文樹院静屋藤村居士。大磯町の地福寺に埋葬された他、島崎家の菩提寺である馬籠村(現・岐阜県中津川市)の永昌寺に藤村の遺髪と遺爪の一部が納められた墓碑が建てられた。
主な作品
『若菜集』(1897年、詩集:25歳)
『破戒』(1906年)
『春』(1908年)
『家』(1911年)
『千曲川のスケッチ』(1912年:40歳)
『桜の実の熟する時』(1919年)
『新生』(1919年:47歳)
『嵐』(1926年)
『夜明け前』(1929年 - 1935年:63歳)
「藤村のパリ」では、バリについてからの藤村の生活が、さまざまな資料を総括する形で詳しく書かれているが、それは藤村のパリ留学生活とでもいうべきものである。その内容は、フランス語の個人レッスンを受ける。演劇を見る。著名な各所を廻ると云った行動であるが、その人間関係の主体は、当時、同じようにフランスに来ていた日本の画家や文化人との交流記のようなものであり、その心情は、若くして東京転勤し、頼るべき親族もいなく、ほとんどが見知らぬ人達ばかりの世界の中で、大学時代の数少ない同級生を唯一の繋がりとして始まった私の東京生活での心境と重なるものがあった。日本から多額の資金を持ってきたのではない藤村の生活は、パリ生活の様子を書き、新聞社におくり、その原稿料をあてることで成り立っていたようである。
日本でおいてフランス文学の研究が本格的になるのは、東京大学や京都大学で、フランス語の講座が設けられるようになった1923年頃からのことであり、藤村のパリでの生活は、その後のフランス文学研究の基礎となる体験であり、この「パリの藤村」の著者の河盛好蔵も藤村の経験の上にフランス留学を果たした一人である。そして藤村自身のパリ体験記は、作品「エトランゼ」の中に詳述されているとのことらしい。
つまり、藤村のバリ行きは、妻冬子の死に直面し、その後家事手伝いに来ていた姪のこま子と関係し、こま子が懐妊と云う混乱した事態を招いたため、その関係を絶つための逃避行として性格を色濃く示すものであり、今までの社会のしがらみから離れて、異国で自分を見つめ直すきっかけとなったものであった。この体験記自身は、私の若き日の東京転勤と心情的に重なる部分があるので、それ自身興味がないわけではないが、明らかに、この本を読み始めたきっかけとなった「惜別の歌」とは全く関係がないことがわかり、この本の精読を途中で放棄してしまった。つまり、この本は、藤村の「エトランゼ」と合わせ読むべきものと思われたのである。
藤村の詩と「借別の歌」
では、あの「惜別の歌」とは何であったのか、インターネットで検索してみると私の望みどおりの一文に巡り合った。それは、昭和41年12月1日に行われた中央大学商学部猪間駿一教授の退官記念講演からの抜粋「惜別の歌の由来」と題する一文であった。その記述によれば、作曲者の藤江英輔は、昭和19年に大学の旧制予科に入学、昭和25年に法学部を卒業している。入学の1年前から始まったのが、学徒出陣で、彼は、徴兵官の錯誤で、出陣はしなかったが、動員を受け板橋の造兵廠へ行って労働に従事、ここには、他の学校からも学生が動員され、厳しい勤務に従事していた。社会的には、男女同席禁止であったが、この軍事工場では、禁制が解かれており、陰惨さの中にも陽気さも漂っていたらしい。しかし、そのような中にも一瞬、全工場がシーンとなるときがあった。それは、誰かに赤紙が来たと伝えられる時である。戦線への召集令状が赤紙である。その赤紙の来方が、だんだん頻繁になっていたある日、藤江は、東京女高師(今のお茶の水女子大)の女子学生から「この詩御存じ」と云って見せられたのが、島崎藤村の若菜集に収録されていた「高楼」と云う詩であった。この詩から歌詞をとり、曲を付けたのが、「惜別の歌」である。
『高殿』
別れゆく、人を惜しむと今宵より
遠き夢地に、我や纏わん
(妹)遠き別れに 耐えかねて この高楼に、登るかな
悲しむなかれ 我が姉よ、旅の衣を、整えへよ
(姉)別れと云えば、昔より、この人の世の、常なるを
流るる水を、眺むれば、夢恥ずかしき、涙かな
(妹)慕える人の、元にゆく、君のうへこそ、楽のしけれ
冬山こえて、君ゆかば、何を光の、我が身ぞや
(姉)ああ花鳥の、色につけ、音につけわれを、思えかし
今日別れては、いつかまた、相見るまでの、命かも
(妹)君がさやけき、目の色も、君紅の唇も
君が緑の、黒髪も、また何時か見ん、この別れ
(姉)なれが優しき、慰めも、なれが楽しき、歌声も
なれが心の、琴の音も、またいつ聞かん、この別れ
(妹) きみの行くべき 山川はおつる涙に、見えわかず
袖の時雨の、冬の日に、きみに贈らん、花もがな
(姉)袖に覆える、麗しき、なが顔ばせを、上げよかし
なが紅の、顔ばせに、流るる涙、我はぬぐはん
この詩の1,2,5,7を「わが姉」を「わが友」に変更して、歌詞とし、作曲したのが「惜別の歌」である。
造兵廠工場では、招集された仲間をおくる時に歌われていたが戦争が終っても学内で歌われるようになり、中央大学が譜をアレンジして「惜別の歌」と云う名を正式にきめて、学生歌として歌われるようになり、その後、小林旭等により歌謡界でも歌われるようになった。
猪間駿一教授の退官記念講演の日は、昭和41年12月1日であったが、この12月1日は、多くの学生達が、学徒動員で招集されていった日でもある。
すなわち昭和18年10月1日の「在学徴集延期臨時特例」(昭和18年勅令第755号)により理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃するものである。これに基づき昭和十八年臨時徴兵検査規則」(昭和18年陸軍省令第40号)が定められ、同年10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者(開放性結核患者を除く)までを12月に入隊させることとした。
これに先立ち東京の神宮外苑競技場等で10月21日を皮切りに各地で行われたのが「出陣学徒壮行会」であった。
学徒出陣学生の戦後
この学徒出陣で出かけた学生達は、どんな思いで、復学し、戦後の世界を生きたのであろうか。その内容を語った小説に出会っていた。それが、次の本である。
「苦い夏:中野航孝次:河出書房新書:河出書房新社:1983年8月4日初版発行:1993年8月4日新装初版発行」この作品は、歴史としての第二次世界大戦と私の戦後体験を繋ぐ作品であり、思わず2日間で読み込んでしまった本である。作者の中野孝次のことは、「清貧の思想」を読み、彼が幸田露伴の「努力論」の解説等、露伴のファンであることから好感を持っていた著者であるが、その彼の小説ということで、古書展で何気なく購入した本ではあったが、読む程に自分の体験との連続性と重なる部分が多く、自分の青春を整理するが如く感じられた。
中野孝次の略歴と主な作品(wikipedia)
この本の概要と感想に触れる前に中野孝次の略歴を見てみよう。
中野孝次の略歴
中野 孝次(1925年(大正14年)1月1日 - 2004年(平成16年)7月16日)は、日本の小説家、ドイツ文学者、評論家。元國學院大學教授。
東大独文科卒。近代化と自己を冷静に分析したエッセイ『ブリューゲルへの旅:51歳』(1976年)、自伝小説『麦熟るる日に』(1978年)、愛犬の思い出を綴った『ハラスのいた日々』(1987年)で認められ幅広く活躍する。ほかに『清貧の思想』(1992年:67歳)など。
千葉県市川市の大工の子として生まれ、1925年:千葉県市川市須和田出身。「職人の子に教育は不要」との父親の考えから旧制中学に進学できなかったが、独学で1日14時間の猛勉強で専検に合格して旧制中学卒業資格を取得し、旧制第五高等学校(現熊本大学)に入学。第二次大戦出兵を経て、東京大学独文科を卒業。1952年から28年間、国学院大学で教鞭を執る傍ら、フランツ・カフカ、ギュンター・グラスなど現代ドイツ文学の翻訳紹介に努めた。
1966年に1年間滞欧ののち、日本の中世文学に傾倒、1972年に初の著作『実朝考』を刊行、1976年には洋画との出会いをもとに半生を検証したエッセイ『ブリューゲルへの旅』で独自の世界を確立した(51歳)。その後も自伝的小説『麦熟るる日に』、愛犬の回想記『ハラスのいた日々』、凛然と生きる文人を描いた『清貧の思想』など多彩な執筆活動を続けた。『清貧の思想』、愛犬ハラス(柴犬)との日々を描いた『ハラスのいた日々』はベストセラーとなり、後者はテレビドラマ・映画化されている。『暢気眼鏡』の尾崎一雄を慕い、碁や焼き物も愛好した。
政治的には平和主義者であり、反核アピールでは井上靖、井上ひさし、大江健三郎と行動を共にし、大岡昇平に対しては弟子格の関係にあった。
囲碁を趣味として、趙治勲との対談本を刊行、『日本の芽衣随筆 別科 囲碁』の編纂を行った。また、中野の提唱により、囲碁棋戦中野杯U20選手権(20歳以下の棋士及び推薦の院生が戦う)が開催された。
主な著作(wikipedia)
『実朝考 ホモ・レリギオーズスの文学』(河出書房新社) 1972、のち講談社文芸文庫
『ブリューゲルへの旅』(河出書房新社) 1976、のち文庫
『麦熟るる日に』(河出書房新社) 1978、のち文庫
『苦い夏』(河出書房新社) 1980、のち文庫
『人生を闘う顔』(新潮社) 1982、のち岩波同時代ライブラリー
『ハラスのいた日々』(文藝春秋) 1987、のち文庫
『ひとり遊び』(朝日新聞社) 1990、のち文庫
『清貧の思想』(草思社) 1992、のち文春文庫
『暗殺者』(岩波書店) 1999
『趣味に生きる愉しみ 老年の過ごし方』(光文社) 1999、のち知恵の森文庫
『自分を活かす “気” の思想
幸田露伴『努力論』に学ぶ』(集英社新書) 2001
『苦い夏』の背景と私
学徒出陣が、始まったのは、昭和18年12月からであり、それは私の生まれる2か月前のことであり、惜別の歌の作曲者である藤江英輔は、私の生まれた年に大学の旧制予科に入学して、歌の作曲を行っている。この時中野孝次は19歳で、学徒出陣で出征している。
「苦い夏」について
「苦い夏」は、「復員して帰ったのは10月初めであった。」の一行から始まっている。彼が復員して帰って行ったのは、生まれ故郷の千葉県市川市ではなく、8畳間の貸屋に住む親たちの疎開先栃木県益子町であった。一家の厳しい生活状態に直面する中、彼は「疚しい(やましい)」心と直面しながら、復学のため熊本へ立ち、復学を果たす。「苦い夏」は、復学してから1年後の1946年の夏までを扱った小説で、彼は1950年東大を卒業しているので、この夏を終えた翌年東京に戻り、ここで家からの仕送りの無い大学生活を始める。
「険しい朝」は、この大学生活の始まりと主に男友達との関係に焦点が当てられているのに対して「彷徨の夏」では、主に異性関係に焦点が当てられている。「険しい朝」は、彼の一家が新しい家を建て、上京してから初めて実家に帰り、家族の新たな現実を確認して、東京に帰る時までを扱っているのに対して、「彷徨の夏」では、夏休みも実家に帰ることなく、アイスキャンデー工場でアルバイトをして過ごしたことを中心にしながらも、当時の大学生達の生活や異性関係等の青春の葛藤を扱っている。
私の時もそうであったが、学生にとっては、夏休みこそが、問題であった。学校がないとき何をするか実家に帰るか、アルバイトをするかである。「険しい朝」では、実家に帰った夏を扱っており、「彷徨の夏」では、実家に帰らずアルバイトですごした夏を扱っている。
異文化体験と作家中野孝次の誕生
中野孝次は、1966年41歳の時1年間ドイツに留学したとのことで、この時の体験をもとに1976年51歳には洋画との出会いをもとに半生を検証したエッセイ『ブリューゲルへの旅』で独自の世界を確立したと云われている。この「苦い夏」は、この後のことである。
「苦い夏」には、文芸評論家秋山
駿(1930年(昭和5年)4月23日[1] - 2013年(平成25年)10月2日)の「中野孝次の小説の魅力」と云う一文が掲載されているが、これが実にいい。これによれば、中野孝次が、小説を書こうとしたのは、多分1年間のドイツ留学の後のことで、その最初の試みが『ブリューゲルへの旅』で、「こんな真率なエッセイはめったにないと」云い「彼はおのれの人生にいかなる過誤の有りや無しやとこれまで生きて来た生の全過程にわたって点検しているのだ」と語っている。さらに云う「生の全的な再検討を完えると彼は、一つの試みに着手した。つまり、もう一度自分を生き直してみること、これが本来の意味の作家の誕生である。この作家と云う奇妙な生き物は、人が一度死ぬことによってもう一度新たに自分を生き直そうと云うような生命の瞬間に出現してくるものなのだ。」そしてこの自伝的連作は、「自分を生き直す、自分を呼び出す、あるいわ自分を生み出す行為なのだ。」と語る。
「自伝は、自己の生の縺れを解いてみる作業だが、これは、ベクトルを正反対にもう一度生の縺れを生み出すそんな作業をしているのだ」。「この作品の主人公は、作者の自己を模倣することによって生きているのではなく、人はいかにして自己となるかと云う作者の疑問によって生きている」だから小説なのだと秋山は云う。そして「結果的には、この小説の中で描かれているのは、「戦中派青年」の鮮明な人間像である。」で文章を締めくくっている。
私の感想と青春への旅
そしてこの文を読みながら、私は思った。この青年像こそ、私達が引き継ぐべきものであったし、戦後に生きた自分と云うものの原点とすべきものであった。今思えば、社会に出てから自分より10歳以上の良き大人たちに巡りあったが、彼等から可愛がられた背景には、私が彼等の体験に繋がる何かを持っていたためのように思われる。その意味では、この本は、私の青春の人間像を鮮明にする指針になり得る本でもあった。
「惜別の歌」への違和感から始まった二冊の本をめぐる旅は、高校3年生の夏、大学受験のため幼馴染のM君と見知らぬ春日井の林昌寺と云うお寺の本堂で過ごした頃から始まり、大学の教養部時代と云う文化を中心とする旧制高校的な大学の前半期、その後留年した1年間の空白期を経て始まった物理学とう大学らしい理学の時代と就職してからの東京転勤と云う留学生活にも似た異国体験を経た自分のサラリーマン生活と幾重にも重なり、青春を再構築する手掛かりになった旅でもあった。
2024年を青春への旅する年にしたいとの私の思いは、「熱い夏」を迎えて、その道の半ばに差し掛かっている。「辛い夏」は、秋山氏に言わせれば「つまりこれは生の形を見出そうとして藻掻くある男の自己発見の物語なのである。」と云うことになる。
この二冊を読み終えて、感じたことは、自分を見直すきっかけとしての異国又は異文化体験の重要性であり、自分にとって、振り返るべきは、私にとって異文化。異世界体験゜ともなった若き日の東京転勤時代であり、読むべきものは、島崎藤村の「エトランゼ」であり、中野孝次の「ブリューゲルへの旅」であることである。この本を求めて栄の本屋を駆け巡ったが、当然のことながらどこにも見当たらなかった。島崎藤村と中野孝次などと云う作家そのものが、このAIの時代には、必要とされていないかのようであった。しかしそれらの本の内容は、およそ、見当がつく。私は、同じような本に、既に出合っている。それは、多分加藤周一の「羊の歌」や森有正の「ノートルダムの畔で」等の世界に連なるものであると思われるからである。急ぐ必要はない。それが、私にとって考える以上のものならば、その内にきっとどこかの古本屋の片隅か古書展の膨大な本の片隅で出会うに違いないからである。(了)
追記、二つの本のことがどうしても気になり、ネットで検索してみた。古本の「エトランゼ」は驚くことに3万数千円で売り出されていたが、手が出なかった。「フリューゲルへの旅」は電子書籍の実が見つかり545円であったので、こちらは思わずそれを購入してしまった。そしてその翌日のことである。部屋の掃除をし、書物を整理していてなんと「フリューゲルへの旅」を見つけた。それが、次の本である。「ブリューゲルへの旅:中野孝次:河出文庫:河出書房新社:d」昭和55(1980)年10月4日初版発行」
私が中野孝次の名前を知ったきっかけは、バブル崩壊後、「清貧の思想」を買って読んだ1992年頃のことであるので、「ブリューゲルへの旅」を購入したのも多分この頃のことであるが、そのまま目を通さず放っておいたものであろう。あれから30年、出会っていても、そのことの意味や意義が分かるには、自分の中の何かの成熟が必要だったと改めて感じた。さらに良いこともあった。この掃除をしていて、1年前失くしたと思っていた腕時計が整理ボックスの片隅から見つかり、しかもそれは、正常に動いていたことである。それは、私にとって青春の良き記憶を思い出したような幸福な出来事であった。完
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