2024年6月29日土曜日

秘録 陸軍中野学校

古書展で見つけて、「謀略は 誠なり」この言葉を本の裏表紙に見つけたためか、あるいは、陸軍中野学校と云う名前にイメージするものが無いことに突き動かされたのか、思わず手に取り読んでみたいと思い、購入した本、それが下記である。

「秘録 陸軍中野学校:畠山清行著:保坂正康編:新潮文庫:新潮社:平成15(2003)81日発行」

インテリジェンス関連本と私

   私が、何故こうした本に興味を持ったのか、そのきっかけとなった出来事がある。それはバブルの真っただ中の1985326日付の朝日新聞に「スペインで戦死した無名の日本人ジャック白井の足跡たどって」と云う一文を読んだことに始まる。

その記事は、国際義勇軍としてスペイン戦争に参加したアメリカのリンカーン大隊。その一員として参加し、スペインで戦死した日本人ジャック白井に関する記事であった。そこにスペイン戦争で戦ったリンカーン大隊の義勇兵達が50年後にサンフランシスコの隣の町のオークランドに集まり、そこで「果敢なる闘争」と云う映画を上映したとの記載があり、その中で、当時リンカーン大隊の隊長だったミルトン・ウルフが「われわれは、未熟な反ファシストだった。今でも同じだ。」と語ったとの記事で、この言葉に集約されるが、このような観点を貫くことあるいは貫ける思想を持つことの困難さと素晴らしさに心から感動した。

。つまり、当時バブル真っただ中の経済大国日本の中で、一見平和な生活を送っている41歳の自分も「20年前には未熟に反ファシスト」で「今でも同じ」だが、残念ながら集まるべき仲間をおらず、「一人の孤独で未熟な反フゥシスト」でしかないと思い自分の仲間は、もっと広い歴史と世界に求めるしかないと思い定めた出来事であった。  

その時、この朝日新聞の記事を書いたのが、当時法政大学教授の川成洋氏であった。この記事の内容は、後に「スペイン戦争―ジャック白井と国際旅団:川成洋:朝日選書:朝日新聞出版:19892月」として発刊されている。

 この川成洋氏の名前に再び出会ったのが定年後、古書展に通うようになってからで、そこの100円コーナーで見つけたのが「紳士の国のインテリジェンス:川成洋:集英社新書:株集英社:20077月第一刷発行」で、この本は、最も伝統と実力を持つと云われるスパイ王国イギリスの情報機関に関する祖国につくしたスパイと祖国を裏切ったスパイ列伝とも云うべき本で、この本に刺激されて、インテリジェンス関連の本を度々手にするようになった。その中には、次のような本がある。

「インテリジェンス武器なき戦争:佐藤優、手嶋龍一;幻冬舎新書:200611月第一刷発行」


「情報立国・日本の戦争:山崎文明:角川新書:KADOKAWA:20152月初版発行」



「インテリジェンス人間論:佐藤優:新潮文庫:新潮社:平成22(2010)111日発行」



「秘録陸軍中野学校」の書物としての特徴

  今回取り上げる「秘録陸軍中野学校」は、上に示したような一般的な本とは、格違いの本である。格違いと云う理由が、この本が著者自らによる資料の発掘、や取材、インタビューに基づくものであり、そこに著者のある種の執念か使命感を感ずるからである。

さらにこの本の面白さは、この本の編集者の視点にある。著者は、畠山清行氏であるが、編者は保坂正康氏であり、その保坂氏は、各編の末尾に、その簡潔な解説を追記しているだけでなく、この本を成立せしめた著者畠山氏そのものにも着目して作家畠山清行小伝とその後の陸軍中野学校の一文をこの本の一部として追記して、この秘録陸軍中野学校の価値をより広い視野から鮮明にして、編者としての役割を立派に果たしている。

著者畠山清行氏とは

畠山清行(19051991)は、明治38(1905)年北海道石狩次男として生まれた。父は、網元や町長を務めた地元の有力者であったが、13歳の時、父が病死し、家は一挙に傾き、親戚の家に預けられるが、まもなく東京に出奔し、アナーキズム運動に身を投じ、アナーキスト団体にも加わり、一端の活動家となる。彼は、文才に恵まれていて、実話雑誌に「読み物」を書き小作品も発表したりして生活費を稼いでいた。この間も皇太子の暗殺を企て死刑になった大正13(1924)年難波大助の遺体引き取り事件に参加する等血の気の多い活動をしている。昭和初期20歳を過ぎた頃から社会運動から少しずつ身を引き、文筆の世界に没頭、その当時、実録雑誌が相次いで刊行され、月刊誌のお抱えライターとして、幽霊もの、股旅もの、猟奇事件のルポルタージュ等を書いていたらしい。昭和10年代、思想弾圧の続く時代、そのエネルギーは文筆活動に向かい、徳川の埋蔵金伝説等の文筆の特徴は、現地調査によるルポルタージュ的文章にあったらしい。

戦時中は、大日本言論報国会に組み込まれるものの、子供向けの書、科学者の啓蒙書等を書いていた。

戦後の混乱期、カストリ雑誌の編集・発行に手をそめ、兄と共にいくつもの出版社を作り、幾つもペンネームを駆使して様々な記事や文章を書いていたらしい。酒を飲まない煙草好きの彼は、この事業で、莫大な富を積んだと云われている。

「カストリ雑誌は、太平洋戦争終結直後の日本で、出版自由化(ただし検閲あり、詳細は下段参照)を機に多数発行された大衆向け娯楽雑誌を指す。これらは粗悪な用紙に印刷された安価な雑誌で、内容は安直で興味本位なものが多く、エロ(性・性風俗)・グロ(猟奇・犯罪)で特徴付けられる。具体的には、赤線などの色街探訪記事、猟奇事件記事、性生活告白記事、ポルノ小説などのほか、性的興奮を煽る女性の写真や挿絵が掲載された。戦前の言論弾圧で消滅したエログロナンセンス(1929 - 1936年)を引き継ぐ面もあり、戦後のサブカルチャーに与えた影響も大きい。」(wikipedea)

 昭和20年代の後半、このカストリ雑誌ブームが衰退してゆくが、この少し前、彼は、茨城県結城市で、国民協同党公認で、戦後最初の町議選に出馬し当選し、一期務めているが、これはかつての社会運動家達との縁がきっかけであったらしい。

しかし、昭和20年代後半から文筆業に本腰を入れ、旧軍人や兵士の聞き書きを始め、東京の第一師団の証言をもとに、昭和38(1963)年に「東京兵団(3):光風社」を上梓している。この本は、昭和陸軍研究の基礎文献とも云えるもので、数百人の将兵の戦争体験を丹念に紹介している。

「秘録陸軍中野学校(正続)」誕生

畠山清行は、この取材の過程で、陸軍中野学校の関係者と知り合い、その話を聞いて、陸軍中野学校への関心が、一挙に高まり、この記録を残すことをライフワークとして自覚するようになる。これは、彼が60歳頃の話だ。そして昭和46(1971)年番町書房から刊行されたのが「秘録陸軍中野学校(正続)」の2冊である。

 私が手にしたのは、この番町書房版を底本としたもので、番町書房版は、独立した60章から構成されているが、その中から28章を精選し、テーマごとに5篇に分けて収録したものである。つまり、底本が出版されてから32年後。著者が亡くなってから12年後の出版物ということになる。

編者保阪 正康について

編者の保阪 正康(1939年(昭和14年)―-)は、北海道札幌市生まれの日本の作家・評論家。同志社大学文学部社会学科卒後電通PRセンターへ入社。その後、物書きを志して転職した朝日ソノラマで編集者生活を送る。1970年に三島由紀夫事件をきっかけに死のう団事件を2年間取材。途中で5年勤務した朝日ソノラマを退社してフリーに転じて現在に至る。ちなみに、西部邁は札幌の中学校の1年先輩に当たる。札幌の高校生時代、北海道大学のシナリオ研究会に入会し、先輩に唐牛健太郎がいた。京都の私大に通っていた時は60年安保に反対する学生運動に参加する左翼系の学生であった。

また、この本は、彼の64歳当時の編集であり、畠山清行が「秘録陸軍中野学校(正続)」を発行した年齢66歳に近くなってからのものであることも興味深い。

文庫本の構成と概要

編者まえがき

まえがき

第一編 諜報戦の概要

第二編 陸軍中野学校の「秘密教育」

第三編 開戦前夜の南方工作

第四編 日米開戦と対外工作

第五編 戦慄の国内工作

小伝 作家・畠山清行

その後の陸軍中野学校(編者解説)

  付録 陸軍中野学校関係年表

   南方関係図

読後の感想

 世の中に、沢山の本が出回っている。そしてその多くは、著者が一カ月、長くて数か月で書き上げた本が多い。地道な調査・取材をもとに一人の人間のライフワークとも云える執念で書き上げられた書物は極めて少ない。戦争や戦史に関連する本は多いが、その場に実際にいて、生きた当人達に直接取材して書かれた本は、それ程多くない。反戦や平和を語る前に世界の実体を知ることが必要である。戦争体験の語り部の話をきくのも結構だが、戦いに赴く人間達の実像をしることはさらに重要である。その意味で、これは一読に値するとつくづく感じた。特に自主的な判断と決断と行動を必要とされる諜報活動を行う人材教育が、日本でも自由な環境と教育によってつくられていたことに、諜報活動先進国のイギリスの情報機関の人材選抜システムとの類似性を感じて興味深かった。

なお、陸軍中野学校は、映画にもなっており、市川雷蔵、加藤大介出演の白黒映画は、現在でもYouTube上でみることが出来る。

 


2024年6月24日月曜日

アフリカの白い呪術師

 

古書展で題名に魅かれて思わず購入した下記の本の題名である。

「アフリカの白い呪術師:ライアル・ワトソン:訳村田恵子:河出文庫:河出書房新書199611月初版発行」

著者のライアル・ワトソンLyall Watson, 1939412 - 2008625日)は南アフリカ共和国生まれのイギリスの植物学者・動物学者・生物学者・人類学者・動物行動学者。(Wikipedia)

この本は、著者によって書かれているが、その内容は、著者自身の体験ではない。そのことは、この本の英語の題名「‹One Man’s Journey into Africa:1人の男のアフリカへの旅」に示されており、この1人の男は、著者ではない。これは、アフリカのブッシュ(未開墾の森林地帯)22年間生活し、1978年死亡したあるイギリス人の実話である。そのイギリス人の名は、エイドリアン・ボーヂャ(1939年から1978)である。

彼は、16歳でブッシュに入り奥地の部族に受け入れられ、呪術師の修行を受けると云う白人としては稀有な体験をした。この本はその冒険談であり、貴重な体験談である。これは、このボーヂャの伝記であると共に、著者ライアル・ワトソンによるアフリカ解説論でもある。16歳でジャングル生活を始めたボーヂャに己の体験を記述する動機や能力がはじめから備わっていたはずはない。従ってこの本の成立そのものが不思議な出逢いのたまものである。

ボーヂャに己の体験を記述するきっかけは、彼がオーストラリア出身の1人の人類学者レイモンド・アーサー・ダートRaymond Arthur Dart18932 - 198811月)と出会ったことによる。ダートは、1924年、世界で初めてアフリカで生まれた初期の人類であり、約400万年前 - 200万年前に生存していたとされるアウストラロピテクス(アウストラロピテクス・アフリカヌス)の化石を発見したことで知られている。

 彼はオーストラリア北東部のクイーンズランド州シドニー、メルボルンに次ぐオーストラリア第三の都市ブリスベンで、畜産農家の9人兄弟の5番目として生まれた。クイーンズランド大学で奨学金を得て医学を学んだ。卒業後はシドニーで研修医を勤めた後イギリスに渡り、第一次世界大戦では従軍医師としてイギリス軍の部隊に参加した。戦後、マンチェスター大学で助手の職を得る。 1922年に南アフリカのヨハネスブルグへと渡り、ウィットウォータズランド大学で教職を得る。192411月スタークフォンテインの洞窟で

タウング堆積層から類人猿によく似た頭骨の化石を発掘。ダートは、一見して類人猿を思わせるが、脳が大きく眼窩上隆起も弱いこの頭骨がヒトと類人猿の中間にあたる化石と判断、すぐさま論文を執筆して、翌1925年に『ネイチャー』誌に投稿した。しかし、その説は受け入れられず、彼の調査は、一時中断するが1930年代から1940年代にイギリス生まれの考古学者ロバート・ブルーム等が次々とダートの説を裏付ける発見をし、ダートは名誉回復され、1940年代から再び調査活動を始めるようになっていた。

一方ボーシャは、戦時中にイギリスから難民の子としてアメリカにわたり、19467歳のときヨーロッパに戻ってきて、当時出来たばかりの「野外学校」に入学して、そこで自給自足の精神を教えられ、そこでスタンレー、リビングストン等のアフリカ探検の本を読み彼等探検家の後を追うのが夢になった。195516歳の時転機が訪れた。母親が再婚し、その相手が南アフリカに行って教職に就く事になり、1955年一家は南アフリカに移民した。

そしてヨハネスブルグ到着して幾日もたたない内にボーシャは待ちきれず、大事にしていたポケットナイフと袋一杯の塩だけを持ってヒッチハイクで街を出て行った。塩は物々交換に役立つと本でよんで知っていたためである。この後ボーシャは1人でブッシュの中で生活してゆくことになる。

この二人が運命的に出会ったのが196211月のことで、この時ダート69歳ボーシャ23歳で、ボーシャは、すでに6年間ブッシュの中で1人で生活してきていた。

 ダートは、訓練や経験もなくブッシュに勝手に入ってゆき、独学で生存法を覚えた青年の進取の精神に深い感銘を覚えた。ダートは、この青年の話を聞き行動とシンボルとの相関、現在の慣習を歴史的・先史的背景に照合して説明した。彼の話を聞いてボーシャは目を洗われるような思いだった。彼は、一つの発見からこれほど豊富な内容をくみ取ることが出来ると夢にも思わなかった。

 何年間も孤独に、しかも時にはあてもない探検を続けてきたボーシャは、博士との会話の中で学問の世界で何か貢献が出来るかも知れないと考えるようになった。話し合いが終った時、博士は、ポーシャに素晴らしい提案をしてくれた。博士が読書の指導と解説を行い、ある基金からいくばくかの助成金を捻出する。そのかわりボーシャは。その資金を使ってブッシュの探検をつづけ、ときおり市内に戻って報告すると云う案だった。

  この提案に基づく報告がこの本の内容である。

ボーシャは、ひとりブッシュの中で生き延びるため身に着けた狩りや住まいについての知識や原住民達から学んだ骨や石器や薬草についての知識が数百万年の昔から受け継がれてきた知恵であり、その習慣・音楽や儀式がブッシュで生きてゆく上での指針や集団意識の形成・喜びの発露、恐怖や不安解消のための処方箋であることを理解し、その精神の在り方が、初期人類の精神世界に連なっていることを理解してゆく。そこには、巨大で不可解な自然に対して、幼年期の人類がどのような思考の枠組みの中で集団として生き抜いていったかの原型が残されていた。

その内容をボーシャは、骨、石、血、土、水といったキーワード乃至テーマごとに記録し残こしていった。しかし、その彼は39歳の若さで亡くなったため、そのままでは、その記録は、歴史の片隅に埋もれてゆく運命にあった。

したがって、この本が生まれるためには、もう一人この本の著者との関係に触れる必要がある。

新しい知識で、武装したボーシャは野生の世界に帰りもっと系統だった方法で情報収集を開始した。やがて彼は、ヨハネスブルグの「人類と科学の博物館」のフィールド・オフィサーに任命されるまでになった。そして貴重な資料をあつめながら学識を深め、いつのまにかヨハネスブルグの考古学・人類学会の目立つ存在となった。

彼とこの本の著者のライアル・ワトソンが知り会ったのは、この時期である。

ライアル・ワトソンはヨハネスブルグで生まれ、マルコム・ライアル・ワトソンと名付けられた。幼少時より周囲の自然界に関心を抱き、ズールー人の老人に教えを受けた。ケープタウンの高校を1955年に卒業し、翌1956年にウィットウォーターズランド大学に入学、植物学と動物学を修めた後、オーストラリア出身の人類学者レイモンド・ダートに弟子入りし古生物学を学んだ。この経験がきっかけとなり、ドイツやオランダで人類学の研究に従事。後に地質学、化学、海洋生物学、環境学、人類学などにおいても学位を取得した。ワトソンはロンドン大学で、イギリスの動植物学者デズモンド・モリスに師事し、動物行動学において博士号を取得している。また、BBC(英国放送協会)で自然ドキュメンタリーのライター、プロデューサーとしても働いた。この時期に、名前をライアル・ワトソンに短縮した。上記のほか、ヨハネスブルグ動物園の園長や、様々な地域への探検隊長、国際捕鯨委員会のセーシェル担当コミッショナーなどの職歴がある。1980年代後半には英国のチャンネル4で、大相撲ロンドン場所のプロデュース・解説を務めた。

ライアル・ワトソンは動植物界、人間界における超常現象を含む科学の水際をフィールドワークとして「新自然学」の確立を目指し、自然的現象と超自然的現象を生物学的見地から解説しようと試みた。

 ボーシャとライアンは、偶然にも1939年生まれの同じ年齢であり、しかも自然や人間精神について同じような関心を持っていたので互いにある種の興味と共感を抱いたのは事実であろう。

ボーシャが亡くなった1978年には、ライアンは、既に一つの思想を確立しており、その考えを複数の著作で明らかにしつつあった。ボージャ自身は、膨大な調査とその記録ノートを残していたが、まとまった著作はなかった。このため、この膨大な記録ノートをまとめて一冊の本にすることがライアンに託され、その結果生まれたのがこの本である。

さらに、この本が我々の目に留まるようになるには、もう1人の人物が関係している。それは翻訳者である村田恵子(19462013)である。今回ライアンの著作の中に「未知の贈りもの」の題名を見つけ、その本に以前出会った記憶があったので書棚を調べたたら確かにあった。


それが「未知の贈り物:ライアル・ワトソン:」村田恵子訳:ちくま文庫:199212月第一刷」、この本の最後のページに、この本は、1979515日工作舎より刊行されたとあった。つまりこの本は、村田恵子33歳の時の翻訳本となる。そして今回手にした「アフリカの白い呪術師」は、1983年に河出書房から刊行された本を文庫化したものなので、この本は、村田恵子37歳の翻訳本となる。

彼女は、小学時代をニューヨークですごし、国際基督教大学人文科学科卒業後フリーの同時通訳者となり、翻訳も手掛けたらしい。残念ながら201367歳で肺炎のため亡くなっており、それ以上の詳しい情報は得られなかった

ライアル・ワトソンは動植物界、人間界における超常現象を含む科学の水際をフィールドワークとして「新自然学」の確立を目指し、自然的現象と超自然的現象を生物学的見地から解説しようと試みた。彼はニューサイエンス(ニューエイジサイエンス)に類する書籍を多く上梓し、中でも『スーパーネイチュア』は世界的なベストセラーとなった。

ここで、ニューエイジ(英New Age「新時代」の意)とは、20世紀後半に現れた自己意識運動であり、宗教的・疑似宗教的な潮流である。ニューエイジという言葉は、魚座の時代から水瓶座の時代 (Age of Aquarius) の新時代(ニューエイジ)に移行するという西洋占星術の思想に基づいている。グノーシス的・超越的な立場を根幹とし、物質的世界によって見えなくなっている神聖な真実を得ることを目指す。ニューエイジ思想の運動は、ニュ―エイジ運動と云う。(Wikipedia)

「アフリカの白い呪術師」は、こうした思想的背景を持つライアル・ワトソンが、白人青年ボーシャの経験したアフリカの生活記録をまとめた本である。しかし、そこにワトソンの思想的影響がそれ程多く反映しているようには、見えなかった。ボーシャの体験は、数百万年かけて形成されてきた人間の意識の深さをアフリカの原住民の精神生活の中に見たのであり、それは、人間が世界を認識する枠組みを理解する根幹をなす部分と直結していることである。

 新型コロナのバンデェミックを経験して、自然と人類の関係や人間と云う種の地球上でのあり方が改めて問われている現在、ライアル・ワトソンの視点やボージャの体験からの視点を今一度再検討する必要があると思わずにはいられなかった。