2019年2月25日月曜日

「人口から読む日本の歴史」 (鬼頭宏 講談社学術文庫 2002年12月第二刷 )を読んで

 歴史人口学という研究分野の存在を知ったのは、フランスの歴史人口学者エマニエル・トッドを通じであった。
トッドは、歴史人口学の立場からヨーロッパ社会の変動を分析し、ソ連邦の崩壊を予側し、EU内部における右派の台頭を予側している。
彼は、ヨーロッパの社会内部では、宗教、家族制度、土地制度、相続制度が社会変動を特長づける要因であるとして、様々な分析を行っている。
 この歴史人口学とは如何なるもので、日本の研究の現状は、どうなっているかという問題意識をもっていたところ出会ったのが、この本である。
人口問題を歴史的に正面から取り上げた本が極めて少ないので、興味深く最後まで読み通すことが出来た。
 これによれば、日本列島の人口は、過去1万年間に4回の成長と停滞を繰り返してきたと云われる。そり第一は、狩猟、漁労、採取を中心とする自然環境依存の縄文文化のシステムの温暖化と寒冷化による人口増と人口減である。第二は、第一の限界を打ち破る稲作農業システムの拡大とその結果生み出された荘園システムの行き詰まりから来る戦乱と気候変動の影響による人口増と人口減である。第三は、平和な江戸時代の到来と市場経済の展開と高度有機経済システムの実現と文明の成熟化による人口増と人口減である。第四は、工業化による化石燃料依存の工業文明システムの誕生と成熟に伴う人口減である。
こうした観点からは、人口増は、新しい社会システムの誕生によってもたらされ、その成熟によって停滞又は人口減となる。こうした視点は、極めて地味な実証的研究の積み重ねによって得られたもので、マルクス主義の原理から演繹的に導かれたものでない点が興味深い。この観点に立てば、この後は、化石燃料依存から脱した新しい新文明システムの誕生が求められることになる。
 つまり、世界的には、工業文明依存システムが、開発途上国を中心として人口増をもたらす一方で、先進国では、その成熟による人口停滞又は人口減少が生じており、その結果としての全体としての人口増は、開発途上国の工業文明の成熟によって、人口減に転ずる
が、その前に、それが、再生できないまでの破棄的な環境破壊をもたらか、人々の破局逃れの予防行動によって回避できるのかが問題となる。
また、工業文明の行き詰まりから脱するためには、地球外への人口の移動や(例えば長寿・小人口・安定で精神成長を基本とするといった)脱化石エネルギーの情報・文化中心の新しい文明の勃興が必要であるが、その可能性や展望はまだ見えてこない。

2019年2月2日土曜日

連如――われ深き淵より (五木寛之)を読んで


 古書展でサブタイトルに魅かれて思わず手にした。蓮如が、浄土真宗の中興の祖ということは、漠然と知っていたが、それ以外の知識は、断片的なものであった。
 その本が、戯曲であることは、読み始めて初めて知った。この戯曲は、1995年1月から4月の中央公論に連載され、その後単行本として出版され1998年文庫本として出版されたが、僕が手にしたのは、その文庫本であった。内容は、蓮如がまだ部屋住みをしていた39歳から越前吉崎に赴く57歳までを扱ったものであったが、浄土真宗が何故多くの民衆の心を捉えていったのかの核心部分に迫るものとして興味深かった。
蓮如の生きた時代を日本の時代と仏教史の流れの中でまず確認してみよう。
 日本への仏教の公式な伝来は、古墳時代の538年と云われている。
この頃までに仏教は、小乗仏教から大乗仏教をへて金剛乗仏教すなわち密教への発展過程にあった。これらの仏教の教えは、中国を経てかなりの時間差を持って我が国に伝えせれてきた。そして、最終的な教えとしての密教が伝えられたのは、平安時代空海を通してであった。この空海によって教学や悟りの実践方法を含めた哲学としての仏教は完成する。
 古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
 仏教伝来 538
 飛鳥時代 592崇峻天皇5年)-710和銅3年)
 奈良時代710和銅3年)-794延暦13年)
  平安時代 794延暦13年)1185
空海は、774宝亀5年) -835 (承和2)
しかし、この仏教が、普及してゆくためには、古代からある神信仰との調整プロセスが必要であり、平安時代から鎌倉時代にかけての250年ほどでそのプロセスは
神仏習合思想として日本社会に定着する。その典型を1090年(寛治4年)の白川院の最初の熊野詣に見ることが出来る。
しかしこれらは、貴族社会等主に支配層の中での思想的な出来事であり、救済論としての仏教が深められ、広がるのは鎌倉時代以降である。
 まず、鎌倉幕府の誕生に見られる武士の勃興は、その内部での武力闘争の激化と精神の荒廃を生み出したが、その精神的支柱としての禅宗が、道元の活躍によって武士階級の中に普及する。また、庶民の中には、分かり易い救済思想としての浄土宗が法然、親鸞等を中心として広がり、これに対抗する形で、元寇等の対外的危機感を背景に、日蓮が現実的な救済論を布教し始める。こうして、鎌倉時代に、救済論としての禅宗、浄土宗、日蓮宗という三つの流れが生まれ、それらが室町時代に日本社会の中に定着してゆく、鈴木大拙は、日本的霊性の誕生と称している。
鎌倉幕府 1185-1333
道元は、1200 正治2)- 1253 (建長5)
親鸞は、1173承安3年)- 1262(弘長2
日蓮は、1222貞応元年) - 1282弘安5年)
室町幕府 1336年―1573
応仁の乱 1467応仁元年)-1477文明9年)
蓮如は、1415(応永22) - 1499(明応8)
蓮如が活躍した時代は、応仁の乱を境にも室町幕府が弱体化し、下克上の戦国時代が始まる時期と重なる。
 動乱の時代、不条理と不正義の横行で生きる希望の持てない生活を強いられていた民衆にいち早く精神を安定させる教えが求められていた。蓮如は、親鸞の教えを分かり易くとき、宗教儀式の簡素化をはかって民衆の支持を集めてゆく。
 また、信者が集まって話し合う場を「講」の創設とそれが大きくなり、集会場として設けられた特別の場を「道場」さらに、その大きなものを寺として認可する等として、救済活動を下から組織してゆく。こうして組織化された民衆は、「一向宗」「門徒宗」とも通称され、武士団と対等の武装勢力ともなり、戦国の歴史を動かす一大勢力となってゆく。
こうした末端での信者のコミュニケーション組織を基盤として民衆の組織化は、他の宗教や政党等にも取り入れられて現代に至っている。
「われ深き淵より」とは、混迷する意識の中から立ち上がってくる民衆の目覚めとその先頭に立った蓮如の姿のことであると理解した。
戦国末期、浄土真宗の拠点石山寺は、信長に降伏するが、その跡地には、秀吉が大阪城を築くことになる。