2019年3月19日火曜日

2.26事件とは何であったか ――「妻たちの2.26事件」と歴史を見る視点――


「妻たちの2.26事件」 澤地久枝 昭和50210日初版 中公文庫 (株)中央公論社

古書展で何気なく手にした本であった。2.26事件のことは、知っていたが、題名にひかれた。以前から、作家達を妻や恋人または、妹等の女性の視点から見た作品に興味をもったことから、その延長戦上に何か発見できることを漠然と期待したためである。

しかし、その期待を通り越して、読むほどに魅かれていった。その理由は、歴史へのアプローチへの新しさとも関連することであるが、歴史の状況の中に生身の人間を投げ入れ、その中で人間を動かして、状況と主体の関係を複眼的にてゆく方法で、初めて、主観と客観を総合的にみることが出来るのではないかと考えているためで、そのことをはっきりと教えられたのは、江藤新平を扱った「歳月」という司馬遼太郎の小説を読んだときであった。

「妻たちの2.26事件」は、作家 澤地久枝の41歳の時の処女作のドキュメンタリーであるが、インタビーを積み重ねて、事実に歴史を語らせる点で、「この作品は、戦後ルポルタージュの「古典」に加えられる価値がある。」と評論家の草柳大臓氏に語らしめている。

2.26事件で死刑になった青年将校達の遺族に宛てた手紙や残された妻達のインタビューの記録を読んで、戦没学生達の手記「きけわだつみの声」を読んだときと同じような悲しみを覚えた。それは、九州を旅して、「知覧」を訪れたときにや謡曲で「隅田川」を聞いたときの感情に近いものであった。
 では、このようにして究明され浮かび上がってきた2.26事件とは、なんだったのだろうか。この疑問に答えよと本が迫ってきているように思えた。

作者の 澤地久枝は、あとがきで、「2.26事件の青年将校達の悲劇は、一言で云えば、もっとも激しい形で現れた天皇制内部の矛盾である」と云っているが、この言葉には、同意できなかった。「天皇制内部の矛盾」という言葉は、この本の事実から離れたところで発せられ響きがある。矛盾とは何と何の矛盾ということだろうか、その真実を事実を通して語らせようとするものではなかったか、その真実に直面して彼女は「私は、己の感傷や甘い主観の通用しない世界に直面した」はずであった。それにもかかわらず、これを「天皇制内部の矛盾」という政治用語でまとめる感覚に、当時42歳の作者の作家としての感性の新鮮さとそれとは別のアプリオリに歴史を決めつける政治的無知とそれを当然視する昭和50年当時の政治状況を感じた。

私の率直な感想は、あれば未熟な革命運動であったとの思いである。あれは、明らかに戦後の学生運動に似ている。それは、エリート意識を背景にもつ純粋な若者による運動であり、それが故に様々な政治勢力に利用された点でも安保闘争前後の学生運動に似ている。

2.26事件の起こった昭和11(1936)は、世界恐慌が起こって6年目で、ヒットラーが政権をとって3年目であり、ソビエトでは、大粛清でスターリンの独裁体制が決定的となった時代である。事実を冷静に見れば、殆どの場合、意識的な少数者の先導によってなされる。そしてその成功の多くが武力による政権交代を契機としている。明治維新がそうであったし、レーニンによるロシア革命がそうであった。毛沢東もこの時代「鉄砲から政権が生まれる」といっている。明治維新では、知的能力と武力を共にもつ武士達がその担い手となった。開発途上国の多くでは、その国の知的部分である学生達がその担い手であり、近代では、党派がその担い手となる。

明治維新後の日本では、武士という身分は無くなり。武力と切り離された形で、士族制度が残される。教育体制が整備され、この中で、国家を指導する知的エリートの育成システムが出来上がってゆく、しかし圧倒的な国民は、6年間の義務教育レベルの知識に留まっている。こうした中で、世界的な経済変動や政治変動に見舞われ、国民生活のいたるところで、貧困や飢餓の発生に見舞われたとき、それらの原因をどのように考え、当面する課題をどう解決するかは、国の指導層の中での大きな課題であった。


東アジアの辺境にある小さな日本は、西欧列強の近代文明の圧力下で、富国強兵策でかろうじて近代化を成し遂げた。その日本が、軍事色の強い教育体制を持たざるを得なかったのには、それなりの理由があった。この当時の教育体系において、陸軍士官学校出は、文武両道を兼ね備えたエリートで、さらにその上の陸軍大学卒は、実質的に国家の指導層を形成していた。

評論家草柳太臓氏は、この本の解説の中で「平均年齢二十九歳ともなれば、思慮分別もあるはずだと澤地氏書いているが、陸軍士官学校から兵営へと閉鎖社会で純粋培養された彼等には、軍も又官僚組織であり、前例主義と保身主義のために組織力学が働くことに無知であった。それ故に敗れた。しかもその敗れ方は、彼等が武力を使った後だけに大きかった。」と語っている。

しかし、政治が未成熟であった当時の日本で、ある程度の知識と武力を手にしていて、実際に革命を行う力を持つことが出来たのは、陸士出の青年将校達しかいなかったのも事実で、ロシアやその他諸国の武力革命の影響下で、彼等が国家改造の使命に突き動かされたのも必然性があった。
  
しかし、その国家改造論なるものが、その当時直面する課題の解決になり得るものであったかには、大きな疑問がある。課題とその解決策との分離と飛躍は、複雑な社会システムを単純化する原理主義もしくは宗教的な信念によって埋められざるを得なかった。この青年期特有の傾向は、戦後の学生運動にも引き継がれ、赤軍派の悲劇やオーム真理教事件にもつながる。しかも天皇制下で、育った彼等の思想は、どこまでも天皇制の思想ベールに包まれたままであり、その天皇の神格化とそれへの幻想が、彼等の武力と革命を失敗させた。彼等の行動が純粋無私であるだけに、これを公にすることは、当時鬱屈していた社会的不安に火を点ずる可能性があり、それ故に統治する立場からは、その声を極秘の内に抹殺する必要があった。

 歴史的事件を現在の視点で批判することはたやすい。しかし、その時代の状況の中で、彼等が何故そのような行動にいたったかを理解することなくして、かれらの評価はできない。
 「妻たちの2.26事件」は、ある意味で、戦後の社会運動に参加した者達に共通する体験であり、読み終えて、深い悲しみと感慨を覚えた。            以上

2019年2月25日月曜日

「人口から読む日本の歴史」 (鬼頭宏 講談社学術文庫 2002年12月第二刷 )を読んで

 歴史人口学という研究分野の存在を知ったのは、フランスの歴史人口学者エマニエル・トッドを通じであった。
トッドは、歴史人口学の立場からヨーロッパ社会の変動を分析し、ソ連邦の崩壊を予側し、EU内部における右派の台頭を予側している。
彼は、ヨーロッパの社会内部では、宗教、家族制度、土地制度、相続制度が社会変動を特長づける要因であるとして、様々な分析を行っている。
 この歴史人口学とは如何なるもので、日本の研究の現状は、どうなっているかという問題意識をもっていたところ出会ったのが、この本である。
人口問題を歴史的に正面から取り上げた本が極めて少ないので、興味深く最後まで読み通すことが出来た。
 これによれば、日本列島の人口は、過去1万年間に4回の成長と停滞を繰り返してきたと云われる。そり第一は、狩猟、漁労、採取を中心とする自然環境依存の縄文文化のシステムの温暖化と寒冷化による人口増と人口減である。第二は、第一の限界を打ち破る稲作農業システムの拡大とその結果生み出された荘園システムの行き詰まりから来る戦乱と気候変動の影響による人口増と人口減である。第三は、平和な江戸時代の到来と市場経済の展開と高度有機経済システムの実現と文明の成熟化による人口増と人口減である。第四は、工業化による化石燃料依存の工業文明システムの誕生と成熟に伴う人口減である。
こうした観点からは、人口増は、新しい社会システムの誕生によってもたらされ、その成熟によって停滞又は人口減となる。こうした視点は、極めて地味な実証的研究の積み重ねによって得られたもので、マルクス主義の原理から演繹的に導かれたものでない点が興味深い。この観点に立てば、この後は、化石燃料依存から脱した新しい新文明システムの誕生が求められることになる。
 つまり、世界的には、工業文明依存システムが、開発途上国を中心として人口増をもたらす一方で、先進国では、その成熟による人口停滞又は人口減少が生じており、その結果としての全体としての人口増は、開発途上国の工業文明の成熟によって、人口減に転ずる
が、その前に、それが、再生できないまでの破棄的な環境破壊をもたらか、人々の破局逃れの予防行動によって回避できるのかが問題となる。
また、工業文明の行き詰まりから脱するためには、地球外への人口の移動や(例えば長寿・小人口・安定で精神成長を基本とするといった)脱化石エネルギーの情報・文化中心の新しい文明の勃興が必要であるが、その可能性や展望はまだ見えてこない。

2019年2月2日土曜日

連如――われ深き淵より (五木寛之)を読んで


 古書展でサブタイトルに魅かれて思わず手にした。蓮如が、浄土真宗の中興の祖ということは、漠然と知っていたが、それ以外の知識は、断片的なものであった。
 その本が、戯曲であることは、読み始めて初めて知った。この戯曲は、1995年1月から4月の中央公論に連載され、その後単行本として出版され1998年文庫本として出版されたが、僕が手にしたのは、その文庫本であった。内容は、蓮如がまだ部屋住みをしていた39歳から越前吉崎に赴く57歳までを扱ったものであったが、浄土真宗が何故多くの民衆の心を捉えていったのかの核心部分に迫るものとして興味深かった。
蓮如の生きた時代を日本の時代と仏教史の流れの中でまず確認してみよう。
 日本への仏教の公式な伝来は、古墳時代の538年と云われている。
この頃までに仏教は、小乗仏教から大乗仏教をへて金剛乗仏教すなわち密教への発展過程にあった。これらの仏教の教えは、中国を経てかなりの時間差を持って我が国に伝えせれてきた。そして、最終的な教えとしての密教が伝えられたのは、平安時代空海を通してであった。この空海によって教学や悟りの実践方法を含めた哲学としての仏教は完成する。
 古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
 仏教伝来 538
 飛鳥時代 592崇峻天皇5年)-710和銅3年)
 奈良時代710和銅3年)-794延暦13年)
  平安時代 794延暦13年)1185
空海は、774宝亀5年) -835 (承和2)
しかし、この仏教が、普及してゆくためには、古代からある神信仰との調整プロセスが必要であり、平安時代から鎌倉時代にかけての250年ほどでそのプロセスは
神仏習合思想として日本社会に定着する。その典型を1090年(寛治4年)の白川院の最初の熊野詣に見ることが出来る。
しかしこれらは、貴族社会等主に支配層の中での思想的な出来事であり、救済論としての仏教が深められ、広がるのは鎌倉時代以降である。
 まず、鎌倉幕府の誕生に見られる武士の勃興は、その内部での武力闘争の激化と精神の荒廃を生み出したが、その精神的支柱としての禅宗が、道元の活躍によって武士階級の中に普及する。また、庶民の中には、分かり易い救済思想としての浄土宗が法然、親鸞等を中心として広がり、これに対抗する形で、元寇等の対外的危機感を背景に、日蓮が現実的な救済論を布教し始める。こうして、鎌倉時代に、救済論としての禅宗、浄土宗、日蓮宗という三つの流れが生まれ、それらが室町時代に日本社会の中に定着してゆく、鈴木大拙は、日本的霊性の誕生と称している。
鎌倉幕府 1185-1333
道元は、1200 正治2)- 1253 (建長5)
親鸞は、1173承安3年)- 1262(弘長2
日蓮は、1222貞応元年) - 1282弘安5年)
室町幕府 1336年―1573
応仁の乱 1467応仁元年)-1477文明9年)
蓮如は、1415(応永22) - 1499(明応8)
蓮如が活躍した時代は、応仁の乱を境にも室町幕府が弱体化し、下克上の戦国時代が始まる時期と重なる。
 動乱の時代、不条理と不正義の横行で生きる希望の持てない生活を強いられていた民衆にいち早く精神を安定させる教えが求められていた。蓮如は、親鸞の教えを分かり易くとき、宗教儀式の簡素化をはかって民衆の支持を集めてゆく。
 また、信者が集まって話し合う場を「講」の創設とそれが大きくなり、集会場として設けられた特別の場を「道場」さらに、その大きなものを寺として認可する等として、救済活動を下から組織してゆく。こうして組織化された民衆は、「一向宗」「門徒宗」とも通称され、武士団と対等の武装勢力ともなり、戦国の歴史を動かす一大勢力となってゆく。
こうした末端での信者のコミュニケーション組織を基盤として民衆の組織化は、他の宗教や政党等にも取り入れられて現代に至っている。
「われ深き淵より」とは、混迷する意識の中から立ち上がってくる民衆の目覚めとその先頭に立った蓮如の姿のことであると理解した。
戦国末期、浄土真宗の拠点石山寺は、信長に降伏するが、その跡地には、秀吉が大阪城を築くことになる。

2019年1月29日火曜日

養老猛司「バカの壁」についての感想


名前は、出版当時から知っていたが、宣伝されている本には、一過性の本が多いという理由で手に取る気になれなかった本であるが、古書展で三冊100円コーナーで新品のような本であったので、とりあえず購入してみた。2003年の出版で15刷というからよほど売れた本である。1937年生れの医学部出で、解剖学者の著者が66歳にして出した本である。
内容は、人間の脳の働きから見て「わかるとはどういうことか」をテーマにしたものであった。自分にとって目新しいことは、一切なかったが、日頃考えていることと全く同じことが書いてあったので、自分の考えを整理する意味で、読みやすく、最期まで読むのにあまり抵抗はなかった。
その基礎に、我々を取り巻く世界と言語についてソシュールの言語学のベースやフロイドの発見した無意識の領域についての知識があり、経済についても岩井克人さんの「貨幣論」を読んでいること。また、身体論についても一通りの知識と見識があることを垣間見ることができ、好感がもてた。とくに「原理主義」や何の疑問もなく「正義」を振りかざす人達への批判的な視点は全く同感できた。
 しかし、この本が、ある種のベストセラーのように売れながら、著者の思いが、どれだけ世間に伝わったかについては、はなはだ疑問である。というのは、言語論、脳科学、経済学、身体論、宗教論とその話しぶりの根底にある科学的・文化的な基礎知識は、現代では、細分化した知識として日々展開されてきているためで、多くの読者には、その偏在がいわゆる「バカの壁」として存在していると思われるためである。
多分多くの読者は、この本の中に自分の理解できる点を見つけて共感しただけかも知れない。しかし、それにもかかわらず、この本に価値があるとすれば、現代の科学的・文化的な基礎知識を一つの全体知として日常的な判断基準のレベルまで展開して示した点にある。私自身にとっては「バカの壁」は、他者と対話する上での基本的な姿勢をあらためて
考えさせられた本となった。 完