「妻たちの2.26事件」 澤地久枝 昭和50年2月10日初版 中公文庫 (株)中央公論社
しかし、その期待を通り越して、読むほどに魅かれていった。その理由は、歴史へのアプローチへの新しさとも関連することであるが、歴史の状況の中に生身の人間を投げ入れ、その中で人間を動かして、状況と主体の関係を複眼的にてゆく方法で、初めて、主観と客観を総合的にみることが出来るのではないかと考えているためで、そのことをはっきりと教えられたのは、江藤新平を扱った「歳月」という司馬遼太郎の小説を読んだときであった。
「妻たちの2.26事件」は、作家 澤地久枝の41歳の時の処女作のドキュメンタリーであるが、インタビーを積み重ねて、事実に歴史を語らせる点で、「この作品は、戦後ルポルタージュの「古典」に加えられる価値がある。」と評論家の草柳大臓氏に語らしめている。
2.26事件で死刑になった青年将校達の遺族に宛てた手紙や残された妻達のインタビューの記録を読んで、戦没学生達の手記「きけわだつみの声」を読んだときと同じような悲しみを覚えた。それは、九州を旅して、「知覧」を訪れたときにや謡曲で「隅田川」を聞いたときの感情に近いものであった。
では、このようにして究明され浮かび上がってきた2.26事件とは、なんだったのだろうか。この疑問に答えよと本が迫ってきているように思えた。
作者の 澤地久枝は、あとがきで、「2.26事件の青年将校達の悲劇は、一言で云えば、もっとも激しい形で現れた天皇制内部の矛盾である」と云っているが、この言葉には、同意できなかった。「天皇制内部の矛盾」という言葉は、この本の事実から離れたところで発せられ響きがある。矛盾とは何と何の矛盾ということだろうか、その真実を事実を通して語らせようとするものではなかったか、その真実に直面して彼女は「私は、己の感傷や甘い主観の通用しない世界に直面した」はずであった。それにもかかわらず、これを「天皇制内部の矛盾」という政治用語でまとめる感覚に、当時42歳の作者の作家としての感性の新鮮さとそれとは別のアプリオリに歴史を決めつける政治的無知とそれを当然視する昭和50年当時の政治状況を感じた。
私の率直な感想は、あれば未熟な革命運動であったとの思いである。あれは、明らかに戦後の学生運動に似ている。それは、エリート意識を背景にもつ純粋な若者による運動であり、それが故に様々な政治勢力に利用された点でも安保闘争前後の学生運動に似ている。
2.26事件の起こった昭和11年(1936年)は、世界恐慌が起こって6年目で、ヒットラーが政権をとって3年目であり、ソビエトでは、大粛清でスターリンの独裁体制が決定的となった時代である。事実を冷静に見れば、殆どの場合、意識的な少数者の先導によってなされる。そしてその成功の多くが武力による政権交代を契機としている。明治維新がそうであったし、レーニンによるロシア革命がそうであった。毛沢東もこの時代「鉄砲から政権が生まれる」といっている。明治維新では、知的能力と武力を共にもつ武士達がその担い手となった。開発途上国の多くでは、その国の知的部分である学生達がその担い手であり、近代では、党派がその担い手となる。
明治維新後の日本では、武士という身分は無くなり。武力と切り離された形で、士族制度が残される。教育体制が整備され、この中で、国家を指導する知的エリートの育成システムが出来上がってゆく、しかし圧倒的な国民は、6年間の義務教育レベルの知識に留まっている。こうした中で、世界的な経済変動や政治変動に見舞われ、国民生活のいたるところで、貧困や飢餓の発生に見舞われたとき、それらの原因をどのように考え、当面する課題をどう解決するかは、国の指導層の中での大きな課題であった。
東アジアの辺境にある小さな日本は、西欧列強の近代文明の圧力下で、富国強兵策でかろうじて近代化を成し遂げた。その日本が、軍事色の強い教育体制を持たざるを得なかったのには、それなりの理由があった。この当時の教育体系において、陸軍士官学校出は、文武両道を兼ね備えたエリートで、さらにその上の陸軍大学卒は、実質的に国家の指導層を形成していた。
評論家草柳太臓氏は、この本の解説の中で「平均年齢二十九歳ともなれば、思慮分別もあるはずだと澤地氏書いているが、陸軍士官学校から兵営へと閉鎖社会で純粋培養された彼等には、軍も又官僚組織であり、前例主義と保身主義のために組織力学が働くことに無知であった。それ故に敗れた。しかもその敗れ方は、彼等が武力を使った後だけに大きかった。」と語っている。
しかし、政治が未成熟であった当時の日本で、ある程度の知識と武力を手にしていて、実際に革命を行う力を持つことが出来たのは、陸士出の青年将校達しかいなかったのも事実で、ロシアやその他諸国の武力革命の影響下で、彼等が国家改造の使命に突き動かされたのも必然性があった。
しかし、その国家改造論なるものが、その当時直面する課題の解決になり得るものであったかには、大きな疑問がある。課題とその解決策との分離と飛躍は、複雑な社会システムを単純化する原理主義もしくは宗教的な信念によって埋められざるを得なかった。この青年期特有の傾向は、戦後の学生運動にも引き継がれ、赤軍派の悲劇やオーム真理教事件にもつながる。しかも天皇制下で、育った彼等の思想は、どこまでも天皇制の思想ベールに包まれたままであり、その天皇の神格化とそれへの幻想が、彼等の武力と革命を失敗させた。彼等の行動が純粋無私であるだけに、これを公にすることは、当時鬱屈していた社会的不安に火を点ずる可能性があり、それ故に統治する立場からは、その声を極秘の内に抹殺する必要があった。
歴史的事件を現在の視点で批判することはたやすい。しかし、その時代の状況の中で、彼等が何故そのような行動にいたったかを理解することなくして、かれらの評価はできない。
「妻たちの2.26事件」は、ある意味で、戦後の社会運動に参加した者達に共通する体験であり、読み終えて、深い悲しみと感慨を覚えた。 以上