2017年6月21日水曜日

濃尾参州記―司馬遼太郎 街道をゆく43― を読んで

古書市では、思いがけない本に出会う。この司馬遼太郎の「濃尾参州記:朝日文芸文庫1998発行」もその一つだ。最近は、作家や知識人が、その人生の最期に何を考え、どう生きたかに関心が移ってきた。そのためか、あまり意識しなくても、偶然こうした本に巡り合うことが多い。
何かに関心を持っているとそのことに関係のある情報が引力に引かれるように訪れる。この本との出会いもそり一例である。
 

司馬遼太郎の作品は、二三読んでいるが、それ程熱心にファンでもない。にもかかわらず、古書市で思わず手にしてしまったのは、それが、この尾張と三河をテーマとしていることと、25年にわたるシリーズの未完の最終巻とのキャッチフレーズに魅かれたためである。

 織田信長の桶狭間の合戦を中心としたこの本は、岐阜城から岡崎城までの岐阜から愛知三河までのいわば、美濃、尾張、三河三州の歴史風土記として企画されたが、家康が三方が原で、信玄に敗北するところで突如中断する。

   1991年に構想された名古屋を中心とするこの企画の取材が始まったのは、1995年の10月であり、司馬遼太郎が亡くなるのは、その4ケ月後の1996年2月12日である。
2回目の取材が行われたのは、1月2日から9日であり、編集者が最後の原稿を空け撮ったのは、1月31日である。12日に亡くなった時、机のまわりの本棚はすべて名古屋に関する資料で占められていたとのことである。

 執筆が途中で文字通り中断してしまったので、本来は、本にならない本であったと思われるが、編集者の執念であろう。2年後の1998年3月に未完の43巻として出版された。
このため、この本は、取材に同行した画家の安野光雅のスケッチ(この幾枚かは、本の挿絵となるはずであった)と取材風景の写真、さらに 濃尾参州記余話として「司馬千一夜」という安野光雅の一文と「名古屋取材ノートから」という編集部の村井重俊氏一文でようやく140ページの小冊子が出来上がった。司馬の文章はこの内の80頁にしかならなかった。

司馬は、1923年生れであるので、亡くなったときは、73歳今の私の年齢である。
取材を終わったとき司馬遼太郎はいったという「もう取材は、十分です。あくまで尾張が中心で三河や美濃はスパイスです。でも三河はおもしろいね」。


この作品は未完に終わったが、それでもそこには、名古屋と医学の歴史等司馬ならでの生きた人々の生活が浮かび上がってくるような記述がある。司馬遼太郎が執筆しようとして机の周りに集めた名古屋関係の資料は、どうなったであろうか。あの作品が完成していたら、尾張に住む我々は、もっと身近に歴史を感ずることが出来る本に出会えたに違いない。

2017年6月12日月曜日

「漱石、ジャムを舐める」は食の文化史だ

数年前のことである。電話口に出た娘が、当時小学6年の孫が、漱石の「吾輩は猫である」を読んで、そこに出てくる苦沙弥先生がおじいちゃんに似ていると云っていると話してくれた。それは、多分、本を枕元に置いて読まない内に寝てしまうこと、絵を描くこと、謡をしていることなどであろうと瞬時に思った。しかし、「吾輩は猫である」の記憶が曖昧であるのに気づき、孫がやってくるまでに、もう一度読んでみようと思い立ち、60年ぶりに新たに新潮の文庫本を買い求めて読んでみた。

そして驚いた。当時の文化世相を反映した内容は、面白いが結構難しく、こんな本を小学生が面白く読んでいるとは、到底信じられなかった。そこで、再び電話で、孫娘の読んだ本は、内容を抜粋した簡易本ではないかと問うてみたが、いやそうではないという。そこで、電話を代わってもらい本当に最後まで読んだか確認するため、猫は、最期どうなったと質問したら、川に落ち流されて死ぬと答えた。その答えを聞いて、どうやら孫娘は、本当に「吾輩は猫である」を読んだのだと納得した。

 たまたま、その時、「漱石の妻」というタイトルで漱石の生活がテレビドラマ化されていたこともあって古書展で漱石の講演録など漱石関連の本を見つけて、ようやく漱石の人物像と生きた時代をはっきりとさせることが、出来た。
 漱石が生きたのは、幕末の慶応3(1867)から大正5(1916,)で、岡倉天心の文久2(1860,)から大正2(1913)と重なるこの時代は、明治維新を成し遂げた日本が、西欧文化と伝統文化の衝突と統合の苦悩の上にようやく近代国家としての姿を確立してゆく時代であり、近代日本の基本構造が定まった時期でもある。

こんな漱石の話を釣り仲間のTさんにしたら、それならば、長年漱石の研究をしている大学時代の友人が、最近送ってきた本があるから提供しようといって手渡されたのが、「漱石、ジャムを舐める 河内一郎:創元社:20067月発行」であった。しかし、当時漱石の思想に関心のあった私は、なかなかそれを手に取ることが出来なかった。しかし、最近になって、とにかく一通り目を通してみようと思い立ち、読み始めて感心した。それは、漱石の作品を一つの手掛かりとした食文化の歴史書であった。

20年近く技術士会の食問題研究会で、月一回の勉強会を続けてきた。この会は当初食品の品質管理を中心としていたが、最近食文化や食品と生物工学の関係に重点を置くようになって、その中で、食の歴史もよく取り上げられるようになった。
その私からみて、日本の食品の歴史が、簡潔によくまとめられているのに舌をまいた。その食の歴史の範囲は、パン、西洋料理、ビールなどの飲み物、食材、日本料理、お菓子、飲食店と食に関する殆どの領域に亘っている。しかもその調査は、文献だけでなく、実地調査も加わっているし、当時の物価や収入の資料まで、まとめられている。特に印象に残ったのは、横山大観の白牡丹絵漱石が俳句を書き入れた掛け軸である。この話は、酒(正宗),と白牡丹の中に出てくるが、著者もよほど感銘したとみえ、その掛け軸が本の表紙の口絵になっていた。

 食と生活の歴史書といってよいこの本は、あまり、注目されないかも知れないが、私には、極めて貴重な本と感じられた。文系の人の書き物は、自分の感情や思いを記したものと思っていたが、この本は確かな調査と事実に基づき、技術文書にも似た簡潔な文章で思わず引き込まれてしまった。著者が食品関係の会社で、長年培った実務経験(おそらく生産現場もよく理解されている)が凝縮されており、ライフワークとして取り組まれただけの
ことはあると思わずにはいられなかった。題名に囚われず、食と食文化に興味がある人、

人間の歴史を食や生活の視点から見てみたい人に是非読んでもらいたい本である。完

2017年6月7日水曜日

光を掲げる者 ―「天才の栄光と挫折」― 藤原正彦 を読んで

最近の或る学習会でのことである。会が始まる前の雑談で定年後の生活などを扱った本は、すべて捨てた。そのかわり人間が人生の最後に何を思い、何を考えたに関心が移った。例えばあの山田風太郎の「あと千日の晩飯」や」渋澤龍彦の「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」等の本のように。などと話したたらその会のメンバーの一人の女性から我意を得たりとばかり、手渡された一冊の本があった。それが、あの社会学者で思想家の鶴見俊輔の「もうろく帖 後編:2017.2.25出版」でありであった。それは、2015年に亡くなった彼のノートに書かれていた78歳から93歳までの日記的なメモをまとめたものであった。それは、彼の読書の中で気になった数行の言葉又は詩句を記した文字通りのメモで、最晩年の彼が何に興味を持ったかを示すものであった。
 その中でただ一つなるほどと思ったことばがあった。それは、200458日の「本は古本になると真価だけで生きてゆくのである。」司馬遼太郎の街道をゆく・神田界隈と云うメモだった。この本は、ざっと目を通したが、それ以上の価値はなかった。彼女が一読して僕にくれた理由が分かった。


 古書店には、その真価だけで生きているような本に偶然出会うことがある。その中の一冊が三冊100円コーナーで見つけた「天才の栄光と挫折― 藤原正彦:20089月文春文庫であった。これは、数学者列伝と表紙に印刷それているように9人の天才数学者の栄光と挫折を扱った本であるが、その数学という言葉が包装紙の役割を果たしたためか全く読まれた形跡もない新品のまま、古書の山の中に埋もれていた。10年程前「フェルマーの最終定理」という本にいたく感動したことのある僕は、躊躇することなく買い入れた。それは数日間机の上に放置されていたが、読み始めたエバリスト・ガロワが面白かったので、一気に読み進めた。面白い本であった。その中には、映画「エニグマ」に出てくるチューリングや「フェルマーの最終定理」に出てくるアンドリュー・ワイルズも取り上げられていた。この本の解説を作家の小川洋子さんが書いていたが、これは物足りなかった。やはり「文系の人には理解できていない」そう思った。

「フェルマーの最終定理」を読んで以来、数学というものが何をあつかうのかおぼろげながら見えてきた。数字は、一つの言語であり、言語は、混沌たる世界に秩序をもたらす光である。この点で、言葉も数字も同じである。ただ、数学の諸概念は、一般の言語に比べてはるかに、ち密で、厳格な定義と論理で成り立っているので、我々を取り巻く混沌たる世界をより深く体系的に表現出来る。哲学や思想は、難しいといってもその殆どが日常的に使われる言葉や概念で構成されているため、先端分野の議論でもその内容は理解されやすい。しかし、数学の概念は、初等数学を除けば、その先端分野の議論は、殆ど一般の人にも理解出来ないし話題にもならない。
哲学者、思想家、文学者、作家といった人々はその内容が如何に独創的であったとしても、共感してくれる数多くの仲間を比較的容易に見つけることが出来る。
しかし、数学の先端の世界では、その見解を評価してくれるのはその先端近くにいる極めて限られた少数の人しかいない。その意味で、優秀な数学者ほど絶対的といっていいほど孤独である。この孤独を指標とすれば、文系と数学の間に物理等の理系や工学がある。学会の学術講演会などでも先端の研究程その内容を評価できる人間は少なくその周辺の研究者に限定されてしまう。自分の研究の努力が、理解されない孤独感は、研究者や開発者共通の宿命かも知れない。
一般の人達は、知の前線で、孤独に戦う人達を天才という言葉で、祭り上げるが、それは、ある種の思考停止のように思える。

人生は、一篇のボールドレールの詩にも値しないとは誰かのことばであったが、知の前線で孤独な戦いを続ける彼等に比べれば、鶴見俊輔も大江健三郎も大衆に迎合し数か月で忘れ去られる政治家や芸能人に近く、彼等の夥しい著作も一行のフェルマーの最終定理や美しいディラック方程式アインシュタインの宇宙方程式などの足元にも及ばない。
「一隅を照らす」とい言葉があるが、彼等は、知の前線で、混沌たる暗黒世界に光を掲げている人達である。

天才数学者の生きた時空は、あの天才宗教家空海の生きた時空に連なっている。その空海は、「秘蔵宝鑰」の序詩で「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」と詩っている。彼は、知の前線で戦うものの絶対的な孤独感を理解していたと思う。                    完