古書市では、思いがけない本に出会う。この司馬遼太郎の「濃尾参州記:朝日文芸文庫1998発行」もその一つだ。最近は、作家や知識人が、その人生の最期に何を考え、どう生きたかに関心が移ってきた。そのためか、あまり意識しなくても、偶然こうした本に巡り合うことが多い。
何かに関心を持っているとそのことに関係のある情報が引力に引かれるように訪れる。この本との出会いもそり一例である。
司馬遼太郎の作品は、二三読んでいるが、それ程熱心にファンでもない。にもかかわらず、古書市で思わず手にしてしまったのは、それが、この尾張と三河をテーマとしていることと、25年にわたるシリーズの未完の最終巻とのキャッチフレーズに魅かれたためである。
織田信長の桶狭間の合戦を中心としたこの本は、岐阜城から岡崎城までの岐阜から愛知三河までのいわば、美濃、尾張、三河三州の歴史風土記として企画されたが、家康が三方が原で、信玄に敗北するところで突如中断する。
1991年に構想された名古屋を中心とするこの企画の取材が始まったのは、1995年の10月であり、司馬遼太郎が亡くなるのは、その4ケ月後の1996年2月12日である。
2回目の取材が行われたのは、1月2日から9日であり、編集者が最後の原稿を空け撮ったのは、1月31日である。12日に亡くなった時、机のまわりの本棚はすべて名古屋に関する資料で占められていたとのことである。
執筆が途中で文字通り中断してしまったので、本来は、本にならない本であったと思われるが、編集者の執念であろう。2年後の1998年3月に未完の43巻として出版された。
このため、この本は、取材に同行した画家の安野光雅のスケッチ(この幾枚かは、本の挿絵となるはずであった)と取材風景の写真、さらに 濃尾参州記余話として「司馬千一夜」という安野光雅の一文と「名古屋取材ノートから」という編集部の村井重俊氏一文でようやく140ページの小冊子が出来上がった。司馬の文章はこの内の80頁にしかならなかった。
司馬は、1923年生れであるので、亡くなったときは、73歳今の私の年齢である。
取材を終わったとき司馬遼太郎はいったという「もう取材は、十分です。あくまで尾張が中心で三河や美濃はスパイスです。でも三河はおもしろいね」。
この作品は未完に終わったが、それでもそこには、名古屋と医学の歴史等司馬ならでの生きた人々の生活が浮かび上がってくるような記述がある。司馬遼太郎が執筆しようとして机の周りに集めた名古屋関係の資料は、どうなったであろうか。あの作品が完成していたら、尾張に住む我々は、もっと身近に歴史を感ずることが出来る本に出会えたに違いない。