2014年11月に入ってから突然飛び込んできたフランスのアラブ・アフリカ系の若者による暴動は、チェチェン、イラク、バリ島などのイスラム系組織の活動が、米国とかロシアとかの国レベルの問題でない何か広く大きな問題を世界が抱え込んでいることを明らかにしたように思う。これらの問題は、我々が、青春を過ごした20世紀とは、確かに異なる問題を提起している。20世紀の革命運動や民族運動などは、何らかの意味でその最終目的が、より良い国家の建設を目指し、その活動に参加していた人達は、この大儀のために命を捧げたが、21世紀の自爆テロに象徴される、テロリズムには、もはや目指す国家・社会的なゴールは、見当らず、ただ、現状に対する絶望と苛立ちの狂気だけがあるかに見える。
20世紀末の1990年代に、極めて、顕著になった世界史的変動は、社会主義の敗退と市場経済の勝利、環境問題の顕在化、インターネット等情報革命の三つであると思う。これらは、全て、国家の枠組みを乗り越えてゆく変動であり、この中では、もはやひとつの理想国家の建設によって不条理な世界から脱出できるとの幻想は、もてなくなっている。しかも、市場経済や環境問題そして情報革命の影響は、伝統的な孤立した自然や文化を急速に破壊しつつあり、この中で、急激な人口増加、経済成長、環境破壊、貧富の差の増大が、世界的規模で進行している。
確かに、現在の世界は、経済成長と環境問題という基本的に対立した課題を抱えたままで、変化を加速しつつある。後から遅れてきた、膨大な人口が、アメリカやヨーロッパと同様なエネルギー消費をする権利を要求すれば、世界が破滅するのが目に見えていても、その欲望を抑えることは、出来ない。平等や民主主義や人間中心主義が、こうした矛盾を解決する思想とはなりえないことも明白になりつつある。現代文明そのものが、大きな行き詰まりに直面しているかに見える。テロリズムが、こうした事態を解決できぬ国家と現代文明そのものに対する絶望的で、病的な反応であることに違いない。自爆テロという自分の命を投げ出す無差別殺戮の根は、20世紀の革命運動、民族運動、政治運動の枠では、捉えられない深刻な思想的問題と繋がっており、僕らは、いまやこうした課題を直視すべき時期に来ているのかもしれない。
十数年前、年賀状で環境問題について思いを書いたところ、若き大学教授から、恩師のS教授を囲む会があり、そこで同じテーマを扱うので出席しないかと誘われ、東京に出かけた。学士会館ではじまったその集まりは、80歳になるS元東大教授が、人類と自然と我々は何をなすべきかにについて最近考えたことを切々と2時間話され、その後、若い教授の奥さんがヨーロッパの聖堂建築の研究の成果発表をし、最後は、代々木のイタリヤ料理店でのパーティでおひらきとなった。そのときの若きエリート達を相手した老元教授の話振りは、子供達に遺言するがごとく実に真摯であった。そのとき頂いた老元教授の講義のレジュメは、まだ私の手元に大切に保管されている。
僕自身は、その後、企業の中で、環境問題にたずさわり、技術の専門知識を少しでも環境問題に役立てようと学術関係で知り合った人達とNPOを立ち上げ、現在に至っているが、時代の大きな流れの中で自分の出来ることが如何に小さいかを痛感している。しかし、人間は、考える葦あり、例え、出来ることはささやかでも、自分が、宇宙誕生の138億年の中のどんな存在であるか人類史のどんな局面に生を受けどんな問題と向かい合って生きたかを時空越えた視点で見つめたいと思うこの頃である。
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