2016年3月6日日曜日

一つの言葉から宇宙が広がる

「一つの言葉から宇宙が広がる」

1.            はじまり

 40歳の初め、10数年ほど前のことである。当時バブルの最盛期の頃、何かが間違っていると感じた。サラリ-マン生活に疲れかけていた僕は、このままでは、駄目になると感じ初めていた。もっと普遍的な世界に対するあこがれが日々強くなった。その頃である。
 書店の文庫本のコ-ナ-で岩波文庫の「荘子」を手にした。武田信玄を扱ったNHK
大河ドラマの中に千年に一度落葉する木の話があり、それが中国の古典「荘子」に出ていることが記憶にあったためである。このとき単行本の「荘子」を手にしたこと、これが僕
をはるかな世界に導くきっかけになろうとは、当時は想像すらできなかった。これから語ろうとするのは、この10数年の僕の偶然にも不思議な知的旅行誌である。

2.            荘子の奇妙な言葉

「荘子」の書は、内篇7篇、外篇15篇、雑篇11篇とからなる中国の古典である。この内篇の中で語られる世界は、実に広大で、ここでは、数千里の大きさの魚や鳥の話とともに、世界には人知の及ばぬ広大な存在のあること、人間は有限の存在であるが、心の動きは無限であることなどが具体的な物語で語られていた。人間は、どこから来てどこへ向かおうとしているのか、20世紀は、考えてみれば、世界観の急激に変貌・膨張した時代でもあった。1999年の文藝春秋の1月号の中で、立花隆は、「知の爆発」という論文を
書き、20世紀を振り返りこの百年の1世紀がそれに先立つ世紀の300世紀にも匹敵する時代であったと述べていたが、まさしくそうであったと思わずにはいられない。20世紀の初め、アインシュタインが相対性理論を考え、ハイゼンベルグとシュレディンガ-が
量子力学を完成させて以来、ガモフの膨張宇宙論の構想、ウェグナ-の大陸移動説、そして電算機の誕生と発展、急膨張した世界人口の果てに、ハッブル望遠鏡が明らかにした138億年の宇宙の歴史と広がりがある。荘子の世界は、この現代科学が明らかにした世界
に劣らず広いものであり、しかもその広がりの仕方は、目に見える世界ではなく、目に見えない世界を示すものであった。
 この荘子の内篇の第6の大宗師篇の中に奇妙な文を見つけた。「古の真人は、その寝ぬるや夢みず、その覚むるや憂いなく、その食らうや甘しとせず、その息するや深深たり」その言葉は、これらの言葉に続いてあった。「真人の息は、踵をもってし、衆人の息は喉を以ってす。」紀元前4世紀の後半、今から2400年前、荘子は、この奇妙な言葉をしるしている。この荘子の奇妙な言葉との出会い。思えばこれが-僕の冒険旅行のはじまりであった。
喉ではなく、踵で息をするとは一体何を意味するのか、荘子の真人は、荘子の考える理想的な人間であるが、この真人の世界とは何でそこに至る道があるのか、荘子は、この中で
何を伝えようとしているのか、このことの意味に気がつくのはずっとあとのことである。

3.心の世界との出会い


 荘子の世界は、渇きかけていた僕の心に何ともいえぬ安らぎの潤いをもたらした。人生の有限性が生の地平線上に姿を見せてきた。そんなとき、書店の片隅で「命の風光」という書物を手にした。著者は紀義光氏禅宗の僧侶であった。本の内容は、禅の入門書といったもので、般若心経についての記述があった。先祖代々禅宗の曹洞宗の檀家であった関係
で般若心経に違和感はなかったがその内容についての理解はなかった。しかし、このことが契機となり、般若心経に関する書物を手にするようになった。禅の書物の中に出てくる
「悟り」の内容に興味をもった。その内容は、「自分のいのちが大いなるいのちの一部であることを自覚することにより安心をうること」と要約出来た。しかし、その内容については、依然漠とした未知のものとしか感じられなかった。45才のある朝、僕は車で中央
自動車道を走っていた。ゴルフ上へゆく途中で聞くとも無しにラジオを聞いているとその
中で、禅の臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師の話しをしていた。若くして仏門に志した
白隠は、法華経を読んで「これは寓話の集まりだ」として興味を失ったが40代のある日
虫の声を聞いていて豁然とその意味を悟り、止めどもなく涙がこぼれた話しが語られ、
禅の修行にあけくれていて病にかかったが、ある人から京都の山奥の白幽士を訪ねよと教えられ、その人を訪ねていって、その人から内観の法という観法を学びこれによって病を直したことなどが語られていた。「悟り」とは何か、その意味するものは何か、それは本当にあり得る心的状況なのか、興味をもった僕の仏教書あさりが始まった。禅と仏教に関する本という本を片っ端から手にし、主要な仏教教典にまで興味の範囲は広がっていった。
この中で、いわゆる「悟り」は体験であり、理論では無く実践による実体験がベ-スにならないと理解不能な世界であることがますます明確になってきた。理論でなく体験である

のなら、これは体験してみる以外にない。僕の体験の世界への挑戦が始まった。

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