2024年11月27日水曜日

「飛ぶ男」と安部公房の世界

はじめに

9月初めに書店で思わず手に取り購入した本それが「飛ぶ男:安部公房:新潮文庫:新潮社:令和631日発行:65日四刷」であった。何よりもまず題名に魅かれた。


それは、その2週間程前、今年の中国で頻発する気象異常現象のYouTube画像を見ていた時、飛ぶ男の映像をみて、こんなことがあるのかと驚いた記憶があり、その同じ「飛ぶ男」のタイトルの本に魅かれたためであった。

しかもその本の帯に「鬼才安部公房、幻の遺作」とあり、そこに、それが「安部公房の死後、フロッピーディスクの中に遺されていた原稿の待望の文庫化」とも記されていた。  

死後発見されたと云うことは、安部公房の最晩年の作品でもある。安部公房の名前は、1960年代の大学時代、文学サークルでその名前を知ったが、大江健三郎と同様、純文学と云った別世界の住民としてほとんど興味の対象とはならなかった記憶が蘇えった。しかし、晩年の作品であれば、当時は理解できなかったが今なら理解できるかもしれないし、それを通して安部公房の世界をしることが出来るかも知れない。


 そんな思いから、読んでみようとの思い、たまたま、その隣に置いてあったもう一冊「死に急ぐ鯨たち・もぐら日記:安部公房: 新潮文庫:新潮社:令和691日発行」と共に購入すること決めた。この「死に急ぐ鯨たち・もぐら日記」は、小説ではなく、彼の小説や作品に対するエッセイと対談集であり、彼の世界を理解する導きになると思えた。 

「飛ぶ男」を読んで

「飛ぶ男」は、短いが想像以上に全く訳の分からぬ小説であった。話はこうだ。ある夏の朝時速23キロで滑空する物体がいた。「飛ぶ男」の出現である。目撃者は3人、暴力団の男、男性不信の女、とある中学校の数学教師、そして飛ぶ男に向かって突如発射されたた2発の銃弾。これが、飛ぶ男と中学教師と結びつけ、女を中学教師の奇妙な部屋に導く

ことになる。そしてこの物語には、結末がない。そもそも、飛ぶ男そのものが、怪奇現象であるが、その成立らしき物語は、飛ぶ男とは別の物語「さまざまな父」の中で暗示されているが、直接的な繋がりはない。ここで私は完全に混乱と行き詰まり状態に陥った。そして、その打開のために「死に急ぐ鯨たち・もぐら日記」を読むことになる。しかし、それと同時にそもそも安部公房とはどんな人物なのかその概要と略歴を見てみることにする。

安部 公房の概要と略歴(wikipedia)

概要

安部 公房(あべ こうぼう、1924年〈大正13年〉37 - 1993年〈平成5年〉122日)は、日本の小説家、劇作家、演出家。東京府北豊島郡(現在の東京都北区)出身。本名は安部 公房(あべ きみふさ)。「ノーベル文学賞に最も近い人物」とノーベル委員会から評価を得ていた中、脳内出血により急死した。昭和中期から平成初期にかけて活躍した現代日本文学を代表する作家の一人である。

 

東京府で生まれ、満洲で少年期を過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、世界30数か国で翻訳出版されている。

主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』 (芥川賞受賞)、『砂の女』 (読売文学賞受賞)、『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』など、戯曲に『幽霊はここにいる』『友達』『棒になった男』『緑色のストッキング』などがある。演劇集団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成にとりくみ、自身の演出による舞台でも国際的な評価を受けた。晩年はノーベル文学賞の有力候補と目された[3]。ノーベル文学賞委員会のペール・ベストベリー委員長は読売新聞のインタビューで、「急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。」と述べている。

経歴

生後まもなく満洲へ

北海道開拓民の両親をもつ医師安部浅吉と文才のあった井村よりみの二男二女の長男として、1924 (大正13) 37日、東京で生まれる。 生後8ヵ月の安部公房は家族と共に満洲に渡り、奉天の日本人地区で幼少期を過ごした。小学校での実験的な英才教育「五族協和」の理念は、後に安部の作品や思想へ大きな影響を及ぼした。1937 (昭和12) 4月、旧制奉天第二中学校に入学。奉天の実家にあった新潮社の世界文学全集や第一書房の近代劇全集などを読み、特にエドガー・アラン・ポーの作品に感銘を受ける1940 (昭和15)、中学校を4年で飛び級して卒業(16)日本に帰国し旧制成城高等学校 (現成城大学) 理科乙類に入学。ドイツ語教師の阿部六郎 (阿部次郎の実弟) からの影響で戯曲や実存主義文学を耽読する。在学中、高木貞治の『解析概論』を愛読し、成城始まって以来の数学の天才と称された。

1943 (昭和18) 3月、戦時下のため繰上げ卒業(19)。この頃、安部の初の小説とされる『(霊媒の話より) 題未定』を書く。同年10月、東京帝国大学医学部医学科に入学1944年、文科系学生の徴兵猶予が取り消されて次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系が徴兵される番だ」という想いと「敗戦が近い」という噂から家族の安否を気遣い、同年末に大学に無断で満洲に帰るが、友人が代返をして取り繕ってくれていた。1945 (昭和20)、奉天で開業医をしていた父の手伝いをしていた頃に召集令状が届くが、入営前に815日の終戦を迎えた。同年冬、発疹チフスが大流行して、診療にあたっていた父が感染して死亡する。

1946 (昭和21)、敗戦のために家を追われ、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。同年の暮れに引き揚げ船にて帰国。北海道の祖父母宅へ家族を送りとどけたのち帰京する。以後、安部は中国を再訪することはなく、小説家としても満洲における体験を書くことはなかった。

帰国・作家デビュー(23歳~)

1947 (昭和22) 3月、女子美術専門学校 (現女子美術大学) の学生で日本画を専攻していた山田真知子 (後年、安部真知名義で安部の著書の装幀や芝居の舞台美術を手掛ける) と結婚し、それまで真知子が住んでいたアパートで同居生活を始める。同年、安部は満洲からの引き揚げ体験のイメージに基づく『無名詩集』を、謄写版印刷により自費出版する。ライナー・マリア・リルケやマルティン・ハイデッガーの影響を受けたこの62ページの詩集には、失われた青春への苦悩と現実との対決の意思が強く込められていた。

1948 (昭和23)、東大医学部を卒業(24)。ただし、医師にならないことを前提とした条件付きの卒業単位付与であり、医師国家試験は受験しなかった。

同年、安部は「粘土塀」と題した処女長篇を、成城高校時代のドイツ語教師・阿部六郎のもとに持ち込んだ。この長篇は、一切の故郷を拒否する放浪の末に、満洲の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、3冊のノートの形式を取った物語であったが、阿部六郎はこの作品を文芸誌『近代文学』の編集者の1人である埴谷雄高に送った。埴谷はただちに安部の才能を認めたが、当時の「近代文学」の編集は合議制であり、埴谷は同人の平野謙に却下されることを危惧し、他の雑誌へ安部を推挙した。その結果「粘土塀」の内の「第一のノート」が『終りし道の標べに』と改題され「個性」2月号に掲載された。これが安部にとってはじめての商業誌への作品発表となる。これがきっかけとなり、安部は埴谷、花田清輝、岡本太郎らが運営する「夜の会」に参加。埴谷、花田らの尽力により、194810月「粘土塀」は『終りし道の標べに』として真善美社から単行本で上梓された。

1949 (昭和24) 4月、初めてシュルレアリスムの手法を採り入れた短篇小説、『デンドロカカリヤ』を発表する。

950年代・芥川賞受賞(26歳~)

1950 (昭和25)、勅使河原宏や瀬木慎一らと共に「世紀の会」を結成。埴谷によると、この時期の安部は食うや食わずの極貧で、売血をしながら何とか生活をしているという有様であり、埴谷は幾度か安部に生活費をカンパしたほどだったという。 同年夏ごろ、日本共産党に入党。1951 (昭和26)、「近代文学」2月号に安部の短篇「 - S・カルマ氏の犯罪」が掲載される。これは、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に触発された作品であり、テーマとして満洲での原野体験や、花田清輝の鉱物主義の影響が見られる超現実主義的な内容である。

- S・カルマ氏の犯罪」は1951年上半期の第25回芥川賞の候補となり、選考委員の宇野浩二からは酷評されたものの、川端康成と瀧井孝作の強い推挙が決め手となり、同じく候補に挙げられていた石川利光の『春の草』とともに受賞を果たす。川端は『壁』のような作品の出現に今日の必然性を感じ、新味があり好奇心をそそったとしている。同年528日、この短篇は「S・カルマ氏の犯罪」と改題され、短篇「バベルの塔の狸」と、4つのパートからなる中篇「赤い繭」を加え、石川淳の序文、勅使河原宏による装幀、桂川寛の挿絵を得て、安部の最初の短篇集『壁』が刊行された。

同年、友人である赤塚徹の伝手で画家の黒崎義介が茗荷谷に所有していた敷地内の納屋を借り、真知や友人たちの手を借りて改装し転居する11月、短篇小説『闖入者』を発表。 1952 (昭和27) 5月、江馬修、徳永直、野間宏、藤森成吉らとともに『人民文学』に参加。『人民文学』が『新日本文学』と合流した後は新日本文学会に移る6月、短篇小説『水中都市』を発表。

劇作への傾倒(29歳~)

1953 (昭和28) 3短篇小説『R62号の発明』を発表。7月、初の戯曲作品『少女と魚』を発表。以後盛んに劇作をおこない、推敲を重ねて改作し様々な媒体で発表するようになる1954 (昭和29) 2月、長篇小説『飢餓同盟』発表。 同年、長女誕生。真知の発案で宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」から採った「ねり」と命名する。12月、小説『奴隷狩』を翌年3月にかけて発表するが中絶。 1953 (昭和28) 3月、戯曲『制服』を発表。6月、前年に未完のまま中絶していた小説を戯曲『どれい狩り』として発表、劇団俳優座によって上演される。7月、小説『闖入者』を沼田幸二との共同脚本によるラジオドラマとして放送。同月、短篇小説『棒』を発表。8月、戯曲『快速船』を発表。

1956 (昭和31) 4中野区野方の借家に転居。同月17日、新日本文学会と国民文化会議の代表としてチェコ作家大会参加のためプラハを訪問、スロヴァキア各国を周り624日に帰国する。11月から12月にかけてラジオドラマ『耳』および『口』[22]が放送される。 1957 (昭和32) 2月、前年に訪問した東欧の印象をまとめたエッセイ集『東欧を行く ハンガリア問題の背景』を刊行。4月、長篇小説『けものたちは故郷をめざす』を発表。5月、花田清輝、佐々木基一、関根弘、野間宏、勅使河原宏、長谷川龍生らと「記録芸術の会」を結成する。6月、短篇小説『夢の兵士』発表。同月、子供向けのラジオドラマ『キッチュ・クッチュ・ケッチュ』を田中明夫ほかの出演で放送。7月、『夢の兵士』をラジオドラマ化した『兵士脱走』放送。11月、短篇小説『鉛の卵』発表。同月、小説『棒』を戯曲化したラジオドラマ『棒になった男』放送。12月、1954年から1957年にかけて書かれたエッセイをまとめた単行本『猛獣の心に計算器の手を』刊行。

1958 (昭和33) 1月より『群像』にエッセイ『裁かれる記録 映画芸術論』]1年間連載。6月、戯曲『幽霊はここにいる』を劇団俳優座により上演。7月、長篇小説『第四間氷期』を発表。10月、短篇小説『使者』を発表。 1959 (昭和34) 3月、前年発表の『使者』が『人間そっくり』として戯曲化される。4月、勅使河原宏から譲り受けた調布市若葉町仙川の敷地に真知の設計になる新居を建て、家族とともに転居する。511日よりNHKラジオ第1放送にて子供向けのラジオドラマ『ひげの生えたパイプ』を熊倉一雄ほかの出演により放送。823日よりミュージカル『可愛い女』を千田是也の演出、黛敏郎の音楽、ペギー葉山ほかの出演で上演。10月、ラジオドラマ『兵士脱走』を和田勉の演出によりテレビドラマ化した『日本の日蝕』をNHKにて放送。

1960年代・世界の前衛へ(36歳~)

1960 (昭和35) 3月、前年放送のドラマ『日本の日蝕』を再び戯曲化し、舞台劇『巨人伝説』として劇団俳優座により上演。6月、長篇小説『石の眼』を発表。9月、短篇小説『チチンデラ・ヤパナ』を発表。同月より子供向けのラジオドラマ『お化けが街にやって来た』を益田喜頓ほかの出演により1年間放送。1020日、ルポルタージュの手法を採り入れたテレビドラマ『煉獄』放送。同月26日、安保闘争をテーマとした戯曲『石の語る日』を千田是也の演出、林光の音楽、久米明ほかの出演により、中国にて試演。翌27日には小説「赤い繭」をラジオドラマ化した『ラジオのための作品 赤い繭』を諸井誠の音楽、芥川比呂志ほかの出演で、NHK2放送およびNHK-FM実験放送にて放送[33]1215日、初めて自己の年譜を書く。クリスマスには子供向けのミュージカル・コメディ『お化けの島』を南美江ほかの出演にて上演。 1961 (昭和36)、日本共産党が綱領を決定した第8回党大会に批判的な立場をとり、党の規律にそむいて意見書を公表し、その過程で党を除名される。 4月、短篇小説『無関係な死』を発表。7月から9月にかけて福岡県の三菱鯰田鉱業所にて『煉獄』の脚本を改作した映画『おとし穴(勅使河原宏監督作品)のロケ撮影が行なわれ、安部もエキストラ出演する。

1962 (昭和37)、昆虫採集の途次に迷い込んだ村に閉じ込められ、そこから脱出を図ろうとする教師とそれを阻もうとする村人を描いた『砂の女』を発表。以後は創作活動の比重を書き下ろし長篇に移し、都市に住む人々の孤独と他者との通路の回復を主たるテーマとして、次々と実験精神あふれる作品を発表し、国際的な評価を得るようになる。1964 (昭和39) 発表の『他人の顔』では事故で顔を失った男性が引き起こす騒動を、1967 (昭和42) の『燃えつきた地図』では失踪者を追う興信所員を主人公とし、その両者の末路を書いた。

1970年代・安部公房スタジオ

1970 (昭和45;46)、大阪万国博覧会に自動車館のシンクタンクとして参加する。1971 (昭和46) 3月より新潮社の雑誌『波』に「周辺飛行」と題するエッセイの連載を開始する。1973 (昭和48)、段ボール箱を被ったまま生活する男を描いた小説『箱男を発表。同年、自身が主宰する演劇集団「安部公房スタジオ」を発足させ、本格的に演劇活動をはじめる。発足時のメンバーは、新克利、井川比佐志、伊東辰夫、伊藤裕平、大西加代子、粂文子、佐藤正文、田中邦衛仲代達矢丸山善司宮沢譲治、山口果林の12名であった。以後安部公房スタジオは堤清二の後援を受け西武劇場を本拠地として活動する。

1975 (昭和50) 514日、アメリカ・コロンビア大学から名誉人文科学博士称号を授与される。また、この年の6月に連載が完結した「周辺飛行」を再編集した単行本『笑う月』を11月に刊行。

1977 (昭和52)、病院を舞台とし、奇妙な病気にかかった患者とその治療に当たる奇妙な医者たちを描いた『密会』を発表。同年、アメリカ芸術科学アカデミーの名誉会員に推挙される。また、写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンが渋谷区宇田川町にあった安部公房スタジオの稽古場を訪れ、安部のポートレイト[38]を撮影する。1979 (昭和54) 5月、安部公房スタジオを率いて渡米。セントルイス、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、デンバーで行なった『仔象は死んだ』の公演はその斬新な演劇手法が反響を呼んだ。

1980年代・箱根での日々](56歳~)

1980年以降は、文壇との付き合いをほとんど断ち、真知とも疎遠となり、箱根の芦ノ湖を見下ろす高台に建てた山荘を仕事場として独居するようになる。同年1月より『芸術新潮』に自ら撮った写真を用いた『フォト&エッセイ - 都市を盗る』を翌年12月にかけて連載する。 1982 (昭和57)、自身の体調不良を理由に安部公房スタジオの活動を休止する。1984 (昭和59) 11月、シェルター構想などをモチーフとしてワープロで執筆した初めての小説『方舟さくら丸』を発表。1985 (昭和60) 1月、NHK「訪問インタビュー」にテレビ出演する。番組では箱根での仕事ぶりが紹介され、以後も1987年まで同局の番組に数回出演した。1986 (昭和61) 9月、1980年代に書いたエッセイやインタビューをもとにした単行本『死に急ぐ鯨たち』を刊行。以後はいくつかのエッセイや寄稿を残して80年代を締めくくる。

1990年代・最晩年(56歳~)

1991 (平成3)、奇病にかかった患者を主人公とした小説『カンガルー・ノート』を発表。結果としてこれが安部公房が執筆した最後の小説となった。この頃、安部はクレオールに強い関心を寄せ、それをテーマとした長篇『飛ぶ男』の執筆に取り組んでいたが、同年121日に行なわれた談話ではそれに続く新しい構想として「アメリカ論」を挙げ、「チョムスキー風に言えば、学習無用の普遍文化。コカ・コーラやジーンズなどに代表される、反伝統の生命力と魅力をもう一度見直してみたい。」と語っている。

1992 (平成4) 1225日深夜、執筆中に脳内出血による意識障害を起こし、東海大学病院に入院。1993 (平成5) 116日には経過良好で退院したが、自宅療養中にインフルエンザを発症し、120日に多摩市の日本医科大学多摩永山病院に入院。122日には解熱し一時的に恢復したものの、就寝中の同日71分、急性心不全により死去。68歳没199212月に執筆していた小説『さまざまな父』が未完のまま絶筆となった。なお、入院時に愛人であり女優の山口果林宅より搬出されたためスキャンダル扱いとされたが、最期は家族に看取られた。

死後

123日、自宅で通夜、翌24日に告別式が営まれる。安部が使用していたワープロのフロッピーディスクから執筆途中の『飛ぶ男』 162枚、『もぐら日記』 240枚などが発見された。妻の真知は安部の死後に癌を患い、同年922日に急性心筋梗塞で死去。長女の真能ねりは、1997 (平成9) から2009 (平成21) にかけて刊行された全集の編集にも尽力した。2011 (平成23) 3月には、安部ねり名義で『安部公房伝』(新潮社)を上梓する。

2012 (平成24)、母方の実家に養子に入っていた実弟の井村春光宅(北海道札幌市)から、安部が1946年の引揚時に船内で執筆したと見られる未発表短編『天使』が発見され、同年11月発行の『新潮』12月号に掲載された。

2013年、山口果林が自身のエッセイ『安部公房とわたし』で、安部との20年以上に亘る愛人関係を公表した。山口によれば、安部は1987(63)に前立腺癌を患い、闘病していたが、本人の強い希望で隠されていたとされる。

2018816日、長女のねりが胸部大動脈破裂のため死去。64歳没。

安部公房の思想と世界観

人間・言語論

安部公房を理解するためには、彼がその思考の導きとした三人、すなわちロシアの大脳生理学者I・パブロフ、オーストリアの動物行動学者K・ローレンツ、アメノカの言語学者N・チョムスキーについて触れる必要がある。たとえばあの条件反射で有名なパプロフは、

「言語」を一般の条件反射より高次の条件反射とみなしていたといい、ある条件反射の系の積分値として、言葉を想定したと云う。一方ローレンツは、動物の反応を本能、すなわち遺伝子レベルに組み込まれたプログラムによる行動誘発もしくは抑制と捉えている。一方、チョムスキーは、言語の研究から言葉の根底には、遺伝子レベルに組み込まれた言語形成のための生得的プログラムがあるとし、これを普遍文法と名ずけた。そして個別の言語の文法は、その過程である制限法則を受けて形成される。それを彼は生成文法と名付けた。人間は、外界を探索することによって概念を構築するが、言葉を構築するわけではない。言葉は、普遍文法を素材に生成文法の設計図に従って構築される。こうして安部公房は、人間を言葉を介して本能を発現する動物としてとらえることになる。人間は、未知のものに直面したとき、本能的に反応するだけでなく、言葉のフィルターを通して意味の信号に転換してから行動の選択をする。つまり、言葉を行動刺激の信号にすることによって人間は、創造的なプログラムを持つようになった。ここで、外界⇒言語⇒行動⇒外界と云う流れが人間の生の営みとなる。外界を出発点とするのが、科学なら言語を出発点とするのが小説ということになる。

安部公房の小説の特徴

言葉から出発することによって、まず外界から自由になる。そこで彼は、外界が要求する常識やルールから独立した奇妙な世界や状況設定を出発点にすることが出来る。その世界や状況設定の中で、人間がどう振る舞うのかによって物語は展開してゆく。その奇妙な状況設定の典型が「飛ぶ男」であるが、以前読んだ「水中都市」や「第四間氷期」、これは、地球温暖化により、ほとんどが海となった地球の物語でうるが、その場面もその設定であり、それが科学的に想像できる場合は、SFとなり、怪奇じみてくれば、ミステリーとなる。

この安部公房作品の特徴を確認するために、以前古書市で入手したまま、書棚に飾っておいた単行本の「密会」を読んでみた。「密会」は、ある夜突然救急車が、自宅にやってきて

緊急だと云い妻が救急車で病院に運ばれてゆくことから始まり、その入院に納得できない

主人公が、妻が入院した病院を調べ、妻の行方を捜す物語である。これも「飛ぶ男」と同様、物語は、迷宮のような世界に繋がってゆく。

世界の探索戦略

 安部公房は、これ等の小説を通して何を語ろうとしているのか、生物学者である福岡 伸一{(ふくおか しんいち、1959929 - )は、日本の生物学者。青山学院大学教授。ロックフェラー大学客員教授。専攻は分子生物学。農学博士(京都大学、1987年)。日本の東京都出身}「飛ぶ男」の解説の中で、「内部の内部は外部」と云うテーゼを取り上げ

内部の内部は、つねに外部との連絡路を持っており、その連絡路を往き来する動き、それが動的な生命の本質であると細胞膜をめぐる生命の営みについて語り、言い換えれば安部公房は、終生、内部の内部に外部との連絡路を探し求めた作家でと云うことが出来ると思うと述べている。この言葉に触れて、初めて東京に転勤した頃、自分の狭い専門分野の研究を通して外国の文献や記事に触れ、そこから逆に日本の中の自分が見えて来た体験が思い出された。

安部公房と未来論

未来は、日常的連続感に、有罪の宣告をする。この問題は、今日のような転形期にあっては、とくに重要なテーマだと思い、ぼくは現在の中に闖入してきた未来の姿を、裁くものとしてとらえてみることにした。日常の連続感は、未来を見た瞬間に、死ななければならないのである。未来を了解するためには、現実に生きるだけでは不充分なのだ。日常性というこのもっとも平凡な秩序にこそ、もっとも大きながあることを、はっきり自覚しなければならないのである。安部公房「あとがき」(『第四間氷期』)

安部公房と技術論

技術自体は、決して人間、もしくは、人間性の対立物ではありえない。技術というのは、要するに道具を使ってなにかをする、その行為のプログラム全体を意識化することでしょう。人間は、技術的成果に満足感を覚えるだけでなく、プログラムの完結自体に深い喜びを感ずることさえあるのです。それは技術に投影された自己発見の喜びです。技術というのは、本質的に人間的なものです。

核戦争が困ると云うのではなく核と云う最終破壊手段にまで行き着かざるをえない人間の政治的無能力さこそ、真っ先に問われべきなんじゃないか。

 安部公房の国家論

安部公房は、国家を生物の種の保存法則との関係で、次のように捉えている。

「仮説――生物の種保存則<X>の系統発生的進化過程を<Y>とせよ。<Y>の言語レベルの到達点が「国家」概念である。この<Y・国家>に対応する<X>の具体例をさぐれ、つまり、現時点では、国家がもっとも進化した「縄張り」であることを歴史的事実として認めないわけにはいかない。しかし、同時に、これが死にいたる病であることもほとんど確実である。処方せんは存在するか?(もぐら日記)

<X>の具体例は、内部の内部に自己完結的な世界を構築しようとする私達の言語の指向性だ。個体としてのヒトは、種としてのホモサピエンスとの間に系統発生的に、様々なレベルのフィクショナルな階層・集団<Y>を生み出した。これが国家である。安部公房は、集団化の効用を認めながらもそれが「国」と云う形でナショナリズムと結晶することには、嫌悪感を持ち、別の可能性をさぐろうとする。そしてそれは、内部の内部から外部への巻絡路を開くことによって可能かもしれない。こうして、彼にとっての作品は、安部公房の種内部での争いー戦争―の無い世界への探検記録とで云えるものとしての性格を帯びる。

再び「飛ぶ男」について

以前、私は、人間とは、外界に対して半ば開き半ば閉じられた存在であると書いたことがあった。しかし、今回「飛ぶ男」が提起した問題は、この問題意識が、自己と他者と世界の繋がりに置いてもっとつきつめられて考えるべき課題であることをあらためて教えてくれたような気がする。この意味で「飛ぶ男」は、我々の日常的継続的感覚を突如打ち破って訪れる未来(事件や出来事)であるし、日常世界の中で突如出会う異質な人物や思想であったりの象徴であるのかも知れない。そしてそんなことに遭遇した場合、ヒトは、「内部」の「内部」を通して「外部」との連絡路を見つけ出し、今までの自分の世界を作り変えるつまり「更新」することが出来るかである。これが、個々のレベルや集団レベルで行えるなら人類にも希望があるかも知れない。安部公房の膨大な作品群は、こうした課題に対する彼の試行錯誤の記録であるような気がする。

阿部公房と私

阿部公房の名前を初めて知ったのは、大学1年生の時、文学サークルにおいてである。当時、このサークルでは、不毛の地に芸術の花を咲かせようのスローガンを掲げて活動していた。しかし大学に入ったばかりの私には、それがどんなことを意味するのかさっぱり分からなかった。しかし、そこでの先輩たちの話題は、大江健三郎と安部公房であったことは記憶にあるし、某女子大との読書会では、「砂の女」が取り上げられていたことも記憶に残っている。しかし、そこで論じられていた内容は、当時の私には、さっぱり理解できなかった。そのこともあって、次第に文学サークルの活動には、参加しなくなっていった。その後大江健三郎の作品は、読む機会があったが、安部公房の作品にはほとんど関心が持てなかった。私がその後安部公房と出会うのは、SFを通してであり、本格的な文芸作家が書いた作品「水中都市」と「第四間氷期」という作品を通してである。これらは、地球温暖化による海面上昇により地球のほとんどが海となった世界で水中生物となって生き延びる人類の物語であったが、その奇想天蓋の発想に驚いたもののSFとしての魅力としてはあまり魅かれなかった。従って、安部公房なる作家については、全く白紙に等しい

状態で今回の二冊「飛ぶ男」と「死に急ぐ鯨たち・もぐら日記」を読むことになった。そして、これらを読み終わったとき、以前古書店で入手した本があることを思い出した。それが安部公房の作品「密会」の立派な装丁の単行本であった。


そして私の安部公房論が正しいのか改めてこれを読んでみた。「飛ぶ男」読んだ後だったせいで、この奇妙な話もほとんど抵抗なく読むことができた。そして、私なりの彼の理解に大きな誤りのないことを確信した。そして、ようやく僕は安部公房の作品を味うことができるようになった気がした。しかしこれはやっと安部公房の世界の入り口に到達したに過ぎないような気がする。

「飛ぶ男」の解説の最後で生物学者福岡伸は、「進歩と調和ではなく停滞と分断がさらに進行する今こそ安部公房は読み直されるべきだ」と結んでいる。「飛ぶ男」はそのきっかけになる本であったと思わざるを得ない。

 

 

 


2024年11月12日火曜日

ポストコロナの世界―そのSFに連なる未来―

 

1.はじめに

2020年新型コロナが発生した当初、この騒ぎは、1年も過ぎれば収まるだろうと思っていた。ウイルスの性格からしてそれ程致命的なものとは思われなかったし、欧米に比べて日本における致死率の低い理由については、上久保理論で説明がつくように思ったためです。

想定外だったのは、日本社会の反応で、中国やヨーロッパでの、ロックダウンと死者数の増大と云う連日のメデアの報道で身近な人々の意識がコロナに対する恐怖心で侵されていくことでした。こうした中、三密、不要不急、自粛等の用語が日常化し、人々の行動の変容が広がってゆきました。そして冗談の如くあのオイルショックの時の再現のようなマスク不足が発生したのです。人々の行動や意識がおかしいといっても、個人の声は、社会全体には届かず、私の主張は、自分達でやっている座禅会を継続すると云う微かな形でしか発揮されませんでした。

だだこの中での救いは、リモートワークと云うデイジタル化の流れが加速したことで、人との新たなコミュニケーションの形が生まれたとことでした。

新型コロナが収束を見せない中、このコロナ禍はいつかは収まると確信しながら、これが収束した後の世界はどんなになっているかに私の関心は移っていった。

2.ポストコロナへの手掛かり

 ポストコロナを考える場合、僕が聞きたい知識人のほとんどは、もう亡くなっていたり、存命でもほとんど知的活動を停止していて参考にならない。そんな時、出会った本が僕より20歳以上若い、哲学や社会学、心理学等の若手研究者の論考を集めた「コロナ後の世界―今この地点から考える」(著者:12名の若手研究者;筑摩書房編集部編:株式会社筑摩書202091日初版第一刷)であり、日本の若手SF作家の作品集「ポストコロナのSF(20名の若手SF作家:日本SF作家クラブ編:早川書房:2021420日印刷)であった。


哲学、思想関係の良書に恵まれない中、SFに望みを託して書店を覗いていて、興味を抱いたのは中国のSFで、それが「折りたたみ北京―現代中国SFアンソロジー(7人の若手作家の作品とエッセイ集:編集ケン・リュウ編:中原尚哉・他訳:早川書房:20191010日印刷)

そうこうしている内に2022224ロシアによるウクライナ侵攻20221130日発表の人工知能CATGPTの誕生の衝撃と20221126日から始まった中国白紙革命によるゼロコロナ政策の終了と中国不動産バブル崩壊、さらに2023107日のハマスによるイスラエル攻撃を端緒とするイスラエル軍パレスチナガザ地区への攻撃と侵攻とパンデミック以上の衝撃と惨劇が続き、ポストコロナの世界は、ますます見えずらくなってきた。

 この中でSF関係は、「創られた心―AIロボットSF傑作編」(16人のSF作家の作品集:ジョナサン・ストラーン編:創元SF文庫:創元社;2022210日初版)AISF-日本SF作家クラブ編」(日本のSF作家23名の作品集:日本SF作家クラブ編:早川書房:2023520日印刷)が相次いで発刊された。

これらの作品はなるほど、パンデミックやAIを総花的にとり上げているが、あまりに散発的断片集のように思われた。ポストコロナの世界をイメージするには、もっと強烈な主題や視点が必要ではないかそんな思いを抱いていたとき古書展で一冊の本に出合った。


3.未来の記憶と異星人との接触


本の題名はERINNERUNGEN AN DIE ZUKUNFT(未来の記憶) 本の著者は、Erich  von Däniken(エーリッヒ・フォン・デニケン) Translated by Kenji Matsutani(翻訳者は、松谷健二)もともと1968(昭和43)にドイツのEcon Verlag GmbHから出版された本で、日本訳は、1969未来の記憶 : 超自然への挑戦エーリッヒ・フォン・デニケン著 ; 松谷健二訳としてハヤカワ・ライブラリから出版され、1974(昭和49)に角川文庫からも出版された。私が入手したのはその新装再販本で1997(平成9)に出版されたものである。

 本の内容は、宇宙人古代飛来説で、あのベストセラーになった1995年に出版されたラハム・ハンコック(Graham Hancock, 195082 - )による神々の指紋(日本では1996年刊行)のもとネタとなった本である。

地球外生命体については、 1959科学雑誌『Nature』上にジュゼッペ・コッコーニ(英語版)とフィリップ・モリソンが初めて地球外生命体に言及する論文を発表。その論文で「地球外に文明社会が存在すれば、我々は既にその文明と通信するだけの技術的能力を持っている」と指摘した。またその通信は電波を通して行われるだろうと推論し、当時の学界に衝撃を与え、これを契機として地球外文明の探査が始まった。

実際1960年、世界初の電波による地球外知的生命体探査 Search for Extra Terrestrial Intelligence:SETI)と称されるオズマ計画が行われた

オズマ計画以降、OZAPMANIA(旧ソビエト〜ロシアのOSETI)、セレンディップ計画、SUITCASE SETISENTINELBETA、カール・セーガンも参画したMETA、フェニックス計画など21世紀初頭までに約100のプロジェクトが、アメリカを中心に各国で実施されている。2007年からは、SETI研究所のアレン・テレスコープ・アレイ (ATA) による観測が行われている。2010年には、オズマ計画50周年記念・世界合同SETI、ドロシー計画が実施された。このように現実の世界においても、地球外生命体(異星人)との接触は、現実味を帯びて調査・研究されている。

 バンデェミックと人工知能AIの誕生が現実化した現代、次に浮上するショッキングな出来事は、地球外生命体との接触でしかない。「未来の記憶」は、このことを改めて思い出させてくれた。


そうであるならポストコロナの世界は、異星人の視点から見た世界と重なるのではなかろうか。そんな問題意識から異星人との接触をテーマとしたSFに興味を持ち、書棚の奥の方に放置されていた長編SFを取り出して読んでみた。それが「降伏の儀式上下巻(ラリー・ニーヴン&ジェリー・パーネル著酒井昭伸訳:創元推理文庫:東京創元社:19881223日初版)である。物語は、土星の衛星の裏側に長い間、隠れていた異星人の艦隊が。長年の準備を終えて地球を侵略してくるのに人類が立ち向かう物語である。これが興味深かったのは侵略者の姿や思想がはっきりした物語であることで、その他のSFが、異星人を地球人の目から一方的に描いているのに対して、異星人の側からも人類を見る双方向性をもっていることであった。そしてこの視点こそポストコロナの世界を見る場合必要な視点と私が思っていたことであった。


これに続いて手にした本が「異種間通信(ジェニファー・フェナー・ウエルズ著:幹瑤子訳:ハヤカワ文庫:早川書房:2016110日印刷)であり、こちらは、小惑星帯に放置されていた未確認宇宙船の中で未知の知的生命体と遭遇する物語であり、そこでは、異星人から見た地球人が取り上げられており、異星人の視点から人類の将来が議論されていた。


4.ポストコロナと未来

 これらの本を読みながら感じたことは、地球の中からしかも人間の目から未来をみていても限界があるのではないかとの思いである。

一般に過去が分かれば、現在が分かり、現在が分かれば未来がわかると云われているが、通信技術の急激な発展やAIの誕生、気候変動等過去の歴史では、あまり例のない、大きな変動や出来事をこのような手法では、予測できないのではないかと云うことである。

逆に未来が分かれば、現在が分かり、現在が分かれば、過去が分かるという思考の逆サイクルの発想も必要でないか。我々は今まで、現在の時点や地点に縛られて未来を見て来たが、その束縛を解き放ってみることが必要ではないかと感ずるようになった。


5.「三体」と「壊れ行く世界の標」


そんな時、ユーチューブ上で若者の間で中国の若手SF作家劉慈欣の作品「三体」が話題になっていることを知り、読んでみることにした。劉慈欣の名前や彼の作品「三体」については、「折りたたみ北京」の中に名を連ねていたので知っているが、大部の作品で読むことを躊躇していたが、これだけ話題となっているなら見逃すわけにはゆかないと意を決して書店へ出かけた。そこで入手したのが「三体」(著者劉慈欣、訳者大森望、光吉さくら、ワン・チャイ早川書房:2024225日発行)  この本には、これは20197月に早川書房より単行本として刊行したものを文庫化したものとの注がついていた。原作は2006年から中国のSF雑誌「科幻世界」に連載され、2008年に単行本として刊行され、2014ケン・リュウによりその英語訳が刊行され世界的に広がったものらしい。

この本は地球外知的生命体との接触をテーマとしているので、私のこのところの関心の延長線上にある作品であった。しかし、文庫本としては、大部であるため、一部、二部、三部と別れて刊行されたため、とりあえず第一部のみ購入した(後に第二部の上下巻も発刊され入手した)


このとき、近くに「壊れ行く世界の標(著者:ノーム・チヨムスキー:聞き手:デヴット・バーサミアン:富永晶子訳:NHK出版新書:NHK出版:20221110日第一刷発行)と云う本もあったので、購入した。

ノーム・チヨムスキー92歳のアメリカの政治に批判的な知識人の代表のような人物で、大学時代の友人のT君が、よくその意見を推奨していた人で、少し変わったリベラリストである。彼がどのような認識をもっているかは、既存の知識人の一般傾向を知るのによいと思って購入してみた。

6.「コロナ後の世界」と「壊れ行く世界の標」の感想

「壊れ行く世界の標」を読んでノーム・チヨムスキーの世界像に違和感を覚えた私は、改めて日本の研究者達の論考「コロナ後の世界」を読み直して、この違和感の正体を探ろうとした。この二冊の本に対する評価は別として、違和感の一つは、彼等が皆、ウイルスと人間の基本的関係についてあまり、理解しておらず、生物としての人間と云う認識に欠けているように思えることである。つまり、人間を特別視して、生態系と対立させる思考法に起因しており生態系の一部としての人間と云う視点を欠いているように思われた点である。これは、国連の会議で話題となる生態系サービスと云う言葉に現れているように、人間を生態系と対立させて考える西欧の近代合理主義的発想法に端的に示されている。

パンデミックが、生態系の破壊を原因としているなら、それは、人間自身の行動の結果であり、その結果を人間は受け入れなければならない。しかし、そうしておいて自分だけが助かろうとする。しかもワクチン等の科学を用いて。我々は大きな誤解をしている。人間を、生態系を守るべき存在として、生態系と切り離して理解している。人間は生態系の一部であり、そうであるなら生態系は、人間を防御する仕組みも備えている。人間の免疫系とはそう


したものであるはずである。SFの世界では、既にHG・ウェルズが1898年に発表した「宇宙戦争」の中で、「地球を異星人の侵略から守るのは、人類が長年の歴史の中で共生してきたウイルスであった。」と物語を締めくくっていた。

しかし、昨今の識者の一人として人間の免疫系に対する信頼を取り上げた人はいない。ワクチン、ワクチンと云うばかりの科学頼みばかりだ。異性人から見れば、人類はウイルスとの共生体としか見えないかも知れない。しかし肝心の人類は、そうとは思っていない。これは外部からみたとき喜劇だ。つまり問われているのは、人類とは如何なる種族であるかと云うことだ。

我々が宇宙の中で生きる意義、役割があるとすれば、それはなんであるのかこれが問われている。ポストコロナの世界では、人道ではなく生物道と人類の在り方が問われる世界と云うことではないだろうか。

 ポストコロナの世界について考えてきたが、従来のような人間を中心とした概念体系でその世界や文明を描くことは出来ない。それは、ニュートン力学で、世界の現象をすべて説明することが出来ないことに似ている。人間中心主義をニュートン力学と同じ巨視的世界の論理と考えれば、ポストコロナの世界では、物理学における量子力学や相対性理論に匹敵するミクロ生命理論(ゲノム生物学)やマクロ生命理論(宇宙生物学)に基づく、新たなミクロ人間学や相対論的人間学に基づく文明論ではなかろうか。そしてそれへの道を開くのは、ポストコロナのSFではないかと思わずにはいられない。 了