「前もって自分の絵が分かるなら描く必要はない」これは、シュルリアリストにして天才画家のサルヴァドール・ダリが、その著「私の50の秘伝」の中の「芸術についての五つの思想」の中で、示した言葉である。
このシンプルな言葉は、別の分野にも当てはまる。即ち「前もって読みたい本が分かるなら、古書展に行く必要はない。」インターネットの発達した現在、古本を含めたほとんどの本はインターネットで検索できる。しかし、そこには前提がある。検索すべき本に関する何らかの情報があることがそれである。
全く今まで、想定や予測しなかった分野や世界を記述した本に出合うこと、この偶然が未知の世界へと自分を導いてゆくこと、これが面白くて、古書展に出かけるようになって10年近くなる。そんな本の一冊が「虹滅記」である。
著者は、足立巻一、私が入手したのは朝日新聞が、1994年11月発行の朝日文芸文庫である。著者は、1913年東京都生まれ、神宮皇学館卒、詩人・作家で1985年72歳で亡くなっている。この本のあとがきが書かれたのが1982年、死の三年前であり、それによれば、この作品を書こうと思い立ったのが1974年61歳の時であるので、8年がかりの作品であることが分かる。
私が古書展でこの本に魅かれた理由は、「虹滅記」と云う題名の異様さであった。表紙の「虹滅記」は、虹の字の虫の上に斜めの線の「のかんむり」が付いた手書きの字になっていた。本文369頁で、当時860円の本が100円であった。他の数冊と共に入手した本は、数日間机の上に置かれていたが、読み始めると止まらなかった。著者の略歴は、そのままこの本の中身に直結しているので、読み終わってからあらためてWikipediaによる彼の略歴を調べると次のように書かれていた。
「東京市神田区(現:東京都千代田区)に生まれる。生後間もなく父と死別、母は再婚したため、漢詩人であった祖父足立清三(敬亭)、祖母ヒデに育てられるが、1920年に祖母ヒデが急死、祖父清三としばし流浪の生活を送った。翌年、清三も横死を遂げ、神戸在住の母方の叔父に引き取られる。
諏訪山尋常小学校時代から「少年倶楽部」「赤い鳥」等に頻繁に短文、詩歌等を投稿。関西学院中等部に入学、同校の国語教諭であり、自らも歌人であった池部宗七(筆名は石川乙馬、「夕暮れに苺を植えて」はその評伝である)から短歌の手解きを受ける。
恩師池部の母校である神宮皇學館(現:皇學館大学)を受験するが、2度にわたって失敗、1934年に3度目の受験で合格する。同館在学中も詩誌、歌誌等を中心に活動した。この頃に本居春庭を知り、研究を始める。
1938年、神宮皇學館本科国漢科卒業。高校教諭となるが、同年に応召、中国に渡り北支戦線に従軍。帰国後新大阪新聞社に勤務、学芸部長、社会部長等を歴任した。1948年、井上靖の発案で児童詩誌『きりん』の創刊より編集に携わり、児童詩運動が終生の一事業となる[1]。1956年新聞社を退職して執筆活動に専念する。
毎日放送の『真珠の小箱』(1959年
- 2004年)で番組の構成に参加、出演も多数。立川文庫の研究も行い、1961年には尾崎秀樹、武蔵野次郎が創立した「大衆文学研究会」に編集委員として参加[2]。『文学』(岩波書店)、『思想の科学』、『大衆文学研究』はじめ多くの雑誌に執筆、その夥しい仕事は執筆目録ともなっている「足立巻一略年譜」がもっとも詳しい(『人の世やちまた』所収)。
1977年、大阪芸術大学芸術学部文芸学科教授を経て、1980年、神戸女子大学文学部国文学科教授」
「虹滅記」は、この著者の生い立ちを調べまとめあげた作品であった。この本の解説的エッセイ「虹の誕生」を作家司馬遼太郎が書いており、その中で、司馬遼太郎は、その内容を次のようにまとめている「「虹」が見慣れない字体になっているのは、漢学者であった祖父敬亭の自筆の文章によっている。祖父敬亭は時代遅れの、生活力を欠いた漢学者だったと云う。やがて足立さんの父となる敬亭の子菰川は、苦学して京都大学を出た。菰川は明治末期の東京で「二六新報」の論説記者として大正の初め妻マサヨとのあいだに足立さんをもうける。菰川は夭折した。敬亭は悲しみ菰川の著書の跋文の冒頭に「大正二年十月著者俄に虹滅」と書いた。題名の「虹滅」の二字は、祖父から父へ、父から足立さんへ移植された皮膚そのものだったことがわかる。足立さんは、その後生母が再婚して家を去っため、敬亭に養われ
さらには、親戚に預けられて成人した。しかし恨むことはなかった。うらみよりも志がこの人の文学のしん、になっている点、いかにも丈夫の文学と云うべきものだった。諸作品を
成立させる上でやったのは、自分が経た生の人生を体液のように循環させつつ、自分にかかわった他者、祖父、父、恩師、親友などーの生きた証しを編み込んで作品世界を作った」
「戒名には、余計なものはなく釈亭川とのみ祖父と父の号が一字づつ入っている」
司馬遼太郎は、「虹滅記」を出来上がった作品としてみているが、作者が何を描きたかった
のかについては触れていない。私は、むしろ、作者が何を描きたかったのかの方が気になった。十歳年下の司馬遼太郎にはこの作者の気持ちは、理解できなかったようだ。
この作品には、8年の歳月がかかっている。この間彼は、自分で親族の戸籍を調べ、関係者の消息を訪ね、話を聞き、墓を訪ね墓碑銘を調べたりしている。こんな作業は、たんに作品を作ると云うだけの動機でできるはずはない。彼は、この作品を通して、自分を現在たらしめてくれた人々とりわけ祖父と父を中心とする親族の存在の証を世間に示しかったのだと思う。それは、自分に連なる人々への愛と感謝の気持ちを表現することであったに違いない。
ほとんどの人間は、自分の家族と職場以外には、自分と社会の繋がりを深く考えたことはない。しかし、実際には、自分の存在には、それ以外の数多くの人達の機縁や関係が、現在
の自分にかかわっている。そして多くの場合そうしたことの多くは、人々の意識から隠されている。彼がこの物語の中で示しかったのは、こうした個人と社会の繋がりのありようを通して人間社会の真実に辿り着こうとすることであったのではなかろうか。数年前、親族の相続に関連して、数十部の戸籍をとりよせたことがあった。その時、その戸籍から透けて見えて来たのは、あまり語られてこなかったその当時の社会の実相ともゆうべき姿であり、親族の秘密めいた真実であった。「虹滅記」の著者も、このための取材の中で、こうした知らされてこなかった真実や思いがけない関係者の無償の行為や愛により、現在の自分があることを確認してゆく。
多くの小説では、社会は、その主人公が生きる背景に過ぎない。しかし実際には、社会は、その主人公の血であり肉であり、その体は、現在も社会と結びつき、今も他者とのあいだに血液循環をめぐらせていると云うことではなかろうか。人間終末期を迎えると自分の人生は何であったのか、振り返る心境になる。この本を思い立ったのが、著者が還暦を過ぎた61歳の時で完成したのは、69歳の時である。
72歳の死は、現代から見れば早すぎる気もするが、昭和60年であれば、古希を迎えての死であり、早死とは云えない。
あとがきに「多年こころにかかっていたことをようやく果たして安堵を覚えるとともに、私の人生もこれでほぼ終わったような気がした」とある。彼は、自分の人生を確認し終えた
安堵感と共に死を迎えた。
全くこの本は、私に自分が生きた世界に連なるもう一つの異世界を見せ、私の宇宙を広げてくれたような本であった。 了