2022年11月29日火曜日

人間臨終図鑑―924人の死をめぐって―

 

はじめに

古書展では、思わぬ本に出合うことがある。ここで、取り上げる人間臨終図鑑Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ巻(山田風太郎 徳間文庫20013月、4月、5月出版)もそうした本の一つである。題名と内容を少しみただけで即座に購入した。

人間をその臨終と云う人生最期の場面から眺めると云う発想に驚くと共に興味を持ったためである。人間の死について書かれたものは、多いが多数の人間の死の瞬間を記述した本とは、初めての出会いである。

山田風太郎は、1922年生まれであり、この本は、1986年から1987年に出版された人間臨終図鑑(上下2)を文庫本化したものなので、作者の64歳から65歳の作品である

多くの人間の実際の死の場面を目撃したら「人間とは何か」と云うこのところ気になっている課題について、新たな視点を得られるかも知れない、そんな期待もあった。

人間臨終図鑑の内容

文字どおり人間の死の場面を集めたもので、取り上げられているのは、古今東西の著名な政治家、実業家、軍人、哲学者、科学者、文学者、画家、音楽家、探検家、宗教家、犯罪者、著名事件関係者など様々であり、これ等様々な人の死が、亡くなった年齢別に整理され掲載されている。人間を単純に死亡年齢順に分類して、その死亡の状況を1から3頁程度にまとめたものである。

人間臨終図鑑で、取り上げられた各年代の人数とその中の外国人の人数、男女比をまとめたものが下の表である。

 人間臨終図鑑の内容

年代

人数(外人)

備考

10代で死んだ人々

11(2)

6人女5

20代で死んだ人々

33( 1 )

27人女6

30代で死んだ人々

87(28  )

74人女13

40代で死んだ人々

115( 25 )

109人女6

50代で死んだ人々

140( 45 )

133人女7

60代で死んだ人々

179( 52 )

172人女7

70代で死んだ人々

195(56  )

188人女7

80代で死んだ人々

124( 41 )

120人女4

90代で死んだ人々

34( 11 )

32人女2

100代で死んだ人々

6( 0 )

5人女1

 計 

924( 261 )

866人女58

このうち第1巻は、10代から55歳までの331人を扱っており、第2巻は、56歳から71歳までの301人を扱っており、第3巻は、73歳から100歳代の292人を扱っている。

取り上げられているのは、15歳で火あぶりの刑で亡くなった八百屋お七から121歳で亡くなった泉重千代の15歳から121歳までの924名であり、この内外国人は3割弱の261名で、男女比は、男子866名、女子58名である。女性の人数が少ないのは、女性が社会の表舞台に出る機会が少なかった今までの歴史の反映であろう。この本は、第3巻の末尾に索引がついており、文字どおり、辞書的に使われることを想定したもののように思われるが、私は、当初から全巻を通読する気でいた。

読んでみて

面白かった。第1巻は、4日ばかりで思わず一気に読み終えた。解説を書いた平岡正明師氏も「人間の死がこれほど面白いものとは知らなかった」と冒頭で記している。しかし、2巻目から、徐々にスピードが衰えて来た。第2巻は、3週間もかかり、第3巻には、2か月近くかかってしまった。つまり、それだけ面白くなくなったせいである。
 第1巻の55歳までを扱った死には、悲劇性とドラマ性があり、その死も生の躍動に満ちたものであるが、高齢者の死は、こうした悲劇性、ドラマ性に乏しく、その死に個性のようなものが感じられず歳をとったら死ぬと云う端的なことを証明しているような死が多くなるためかも知れない。長生きした人達は皆、生の輝きのピークを過ぎていて、その死は、本人にとっても周りの人間にとってもそれ程大きな出来事ではなくなっていると云うことかも知れない。
 しかし、全ての高齢者が、そうした死を迎えるわけではない。なるほど、外敵世界との相互交流としての生は、生物としての機能劣化とともにあきらかに衰えてゆくが、内的世界の中で営まれる創造的行為は、生物的機能の衰えと必ずしも比例しない
 死の直前まで、活発に創作活動をつづけたのは、画家では、88歳で亡くなった富岡鉄舟、89歳で亡くなった葛飾北斎、90歳で亡くなった横山大観、98歳で亡くなった梅原龍三郎がいる。
 梅原は、92歳の時白内障を患い、絵筆はもてなくなっていたが、頭の中では、盛んに絵を描き続けていた。
彼が、死ぬまでの6年間どんな絵を描いていたか、我々は目にすることは出来ないが、その一端を白州正子が記している。小林秀雄は、云った「梅原さんは、行住座臥、描いているんだ、筆を持たなくても描いているんだ」。
 画家は、何故絵を描くのか。この頃梅原は、白州正子に「わたしはこの頃寝ていても起きていてもよく夢をみるんだがね夢の中でいままで見たことのないような美しい景色が現れる。美しい色が見える。だからわたしは、もう絵を描くことは要らないんだ」と語ったと云う。サルバトール・ダリは、芸術についての五つの思想の四番目で、「前もって自分の絵がわかるなら描く必要はない。」と述べているが、梅原の言葉は「画家は、美しい風景を描くのではなく、美しい風景をみるために描く」と云う画家達の創作活動の本質を端的に示している。 

作家で手本となるのは100歳で亡くなった野上弥生子である。彼女は、死の直前まで、長編「森」を執筆していて、その作品は、一豪の老いも感じさせぬみずみずしさで、その年の文学ベストワンに挙げる批評家も少なくなかった。91歳で亡くなった武者小路実篤が晩年痴呆になり、壊れた時計のように同じところを堂々巡りするような文章を書いていたのと対比される。

小林秀雄は、75歳の時「本居宣長」を書き終えてから悠々自適の生活をしていたが、80歳のとき膀胱がんを発症し、以後手術入退院等の闘病生活1年の後81歳で亡くなっている。彼の最後が、現代人の平均的なものかも知れない。

禅僧の手本となるのは、96歳で亡くなった鈴木大拙であろう。彼は死の直前まで一日4時間の執筆を欠かせなかった。

生と死について

 読み終わって、その感想をどうまとめるか。それには、一週間近くの時間が必要だつた。

 生は、死と云うブラックホールに向かう一連のプロセスで、如何に栄華を誇っていた人間と云えども避けることの出来ないプロセスである。この世に生を受けたもの達は、全てブラックホールに落ちてゆく物質のように、境界線である時空の縁を通って現世からは決してみることの出来ない来世に向かって転落してゆく、転落した場所に何があるか此方の世界(現世)からは、決して覗うことは出来ない。しかし、これは、生から見た死である。しかし、死からは、生はどのように見えるであろうか。

 そのヒントは、謡曲の「邯鄲」の物語の中にある。「蜀の国の盧生と云うものが、楚国羊飛山の聖僧から悟道の教えを受けようと思って旅立ち、途中邯鄲の里で泊まり、聞き及んだ邯鄲の枕を借りて一睡した。すると楚王の勅使が迎えに来て宮殿に伴われ、王位を譲られ栄華の内に50年を過ごし、臣下が1000年の齢を保つ仙薬の盃を捧げたので、酒宴を催し自分も興じて楽を奏していたが、宿の主に起こされてその夢は、忽ち消えうせ、覚めて見ると、それはわずかに粟飯を炊く間の儚い夢に過ぎなかったのである。かくして盧生は、何事も夢の浮世と悟ることが出来たので、この枕こそ善智識であったと喜んで帰るのである」

ここでは、死から見れば、生は、夢、幻のごときものとみる。言い換えれば、死からみれば、生は一瞬の輝きのようなものに過ぎないと云うことであろう。

涅槃経 に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、前半の「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」をこの半偈を流転門、後半の「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」を還滅門と云い。釈迦の前世である雪山童子はこの中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てたと云われている。

読み終わって、一つ分かったことは、死は、恐れるものでも待つものでもないが、ただ備えておくものかも知れないと云うことである。そして生は死の瞬間が訪れるまで、輝かしくありたいとの思いである。



2022年11月15日火曜日

西部邁の三冊の本 ―保守の遺言をめぐってー 

 

はじめに

西部の本を初めて手にしたのは、彼が亡くなる半年程前の201712月であった。その本の題名は、「保守の真髄」―老酔狂で語る文明の紊乱―まことの保守思想を語りつくすー講談社現代新書201712月発行であったが、それを読む気になったのは、その本のカバーの「希代の思想家絶筆の書」と云うと云う宣伝文句に魅かれたためである。


ソ連邦崩壊後、いわゆる進歩的知識人達が沈黙し、その中でも生き延びた戦後思想をリードした数少ない哲学者や思想家が老齢化して知的情報発信をしなくなりつつある状況で、哲学的・思想的に現代をどうとらえるべきかを模索していた私にとって安保世代の生き残りとでもいえる西部邁が死を間近に控えて、世界をどのように見ているかは極めて興味深い事柄であった。78歳にして神経痛で全く書記と云うものが全く出来なくなった著者が、娘を相手に口述筆記で書き上げられたこの本は、最初から目を引き、一週間もしない期間で一気に読み終えることが出来た。

内容は面白かった。この時、この本の感想をその内にまとめてみようと思った。しかし、その感想をまとめるには、少しばかり、その反応が熟成又は発酵する時間が必要であった。しかし、この時間は、その後すぐに訪れた彼の自殺と云う衝撃的な事件のニュースで遮断されてしまった。

そのとき、彼のことをもっと知る必要がる思いふと立ち寄った書店で見つけたのが、彼の最後の著作と云われる「保守の遺言」―JAP,COM衰滅の状況―平凡社新書2018227日発行であった。彼が自殺した日は、2018121日であるので、この本は、彼の死後出版されていて、文字道理最後の本である。この時、この本の近くに置いてあったのが、「大衆への反逆」文春学芸ライブラリー20148月で、その本の帯のキャッチコピー追悼西部暹―最強のポビュリズム論らして 代表作の文言に魅かれて思わず購入してしまった。さらに、その後雑誌「表現者」が20185月号で、西部暹の特集号 西部暹永訣の歌発行したのを見つけ購入した。これには、彼とかかわりのあった64名の人達の寄稿が掲載されていた。これは彼の全体像を理解する上でも参考になると思ったためである。

 しかし、彼の「保守の真髄」についての感想をまとめると云う作業は、何時しか、意識の上から消え去ってしまった。それは、この時期に重なった叔母や兄の死等の身内の事件への対応やそれに関連した一族の記録のまとめ、それに関連して思いついた自分の今まだ書き溜めたもののとりまとめと出版作業に忙殺されたためである。

この作業に再び取り組んでみようと云う気になったのは、9月の太古会でN氏が、西部暹の「保守の遺言」と西部暹の教え子の一人である佐伯啓思の「リベラルからの反撃」をを取り上げたこと、また、同時期にT氏が佐伯啓思の「社会秩序の崩壊」をとの上げたことによる。この二人の報告を聞きながらどこか違和感を覚えたので、改めて5年間忘れていた作業に取り掛かろうと思った。

1.「保守の遺言」の著者紹介(保守の遺言より)

西部邁(にしべすすむ)

1939年北海道生まれ、思想家、評論家、東京大学大学院経済学研究科修士課程修了横浜国立大学助教授、東京大学教授などを歴任。東京大学教授を88年に辞任。執筆活動のほかテレビなどでも活躍。201710月まで雑誌「表現者」顧問を務める。著者に「ソシオ・エコノミックス」(イプシロン出版企画)「経済倫理学序説」(中央文庫,吉野作蔵賞),「大衆への反逆」(文春学芸ライブラリー)、「きまじめな戯れ」(筑摩文庫、サントリー学芸賞)、「サンチョ・キホーテの旅」(新潮社、芸術選奨文部科学大臣賞)「ファシスタたらんとしたもの」(中央公論新社)等多数。2018121日に自殺を遂げる。本書が絶筆となる。

2.西部の保守思想

西部の三冊の本には、様々なことが書かれている。しかし、その保守思想とリベラリズムに関する考えを要約すると次のようになろう。

民主主義が機能するには、その基盤にバランスを取る規範意識が必要であり、それらは伝統的な慣習や信仰を含めた文化によって培われている。この社会的基盤を重要なものと考えるのが保守思想で、リベラルでは、個の主権と自由を社会的基盤とするので、個を制約するものは抑圧と考える。この観点からは、伝統的なものは、打破さるべき悪とみなされる。

しかし、伝統的に培われた社会的慣習や規範を無視する思想は、保守主義から見れば、既存秩序を脅かす脅威以外の何物でもない。ここに侵入者に対する拒否感が生まれる。

かくして移民の急増が米国のトランプ現象となり、欧州での難民・移民の増加が欧州右派の台頭となり、中国の少数民族の洗脳教育は、逆に文化破壊・人権弾圧となる。中国の社会主義洗脳教育は、リベラリズムの個人中心思想と同じく、地域組織の伝統的規範の破壊と云う面で共通している。この点では、リベラル=社会主義である。

「保守の真髄」「保守の遺言」は、共に2017年に口述筆記で書かれており、文字通り

死を目前にた西部の思想の総括的文章である。これに対して偶然手にすることになった

「大衆への反逆」は、別の性格の本である。即ちこの本は、昭和54年から昭和57(1979年から1982)のサッチャー政権やレーガン政権誕生前後、日本の高度成長期の終わり、ソ連邦崩壊前の時期に様々に雑誌に掲載されたエッセイを取りまとめたものである。

 西部の保守思想を形成するもう一本の柱は、「大衆論」であるが、その思想は、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセット(西José Ortega y Gasset188359 - 19551018日)の影響を強く受けたものである。

3.「大衆論」と西部思想の表現

ホセ・オルデガによれば、大衆とは、「ただ欲求のみを持っており、自分には権利だけあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない」、つまり、「みずからに義務を課す高貴さを欠いた人間である」という。

また、近代化に伴い新たにエリート層として台頭し始めた専門家層、とくに「科学者」に対し、「近代の原始人、近代の野蛮人」と激しい批判を加えている。

20世紀に台頭したボリシェヴィズム(マルクス・レーニン主義)とファシズムを「野蛮状態への後退」、「原始主義」として批判した。特にボリシェヴィズム、ロシア革命に対しては、「人間的な生のはじまりとは逆なのである」と述べている。

 西部がこの本に掲載されたエッセイを勢力的に書いていたのは、渡米しカリフォルニア大学バークレー校に在籍。引き続き渡英しケンブリッジ大学に在籍して、帰国した直後の時期ことであり、その時期までに、ホセ・オルテガ・イ・ガセットの思想を吸収しつくしていたと云える。その影響は、単にその思想だけでなく、著述や思想の発表方法にまで及んでいるようである。

 オルテガの思想は、「生の理性 (razón vital)」をめぐって形成されている。「生の理性」とは、個々人の限られた「生」を媒介し統合して、より普遍的なものへと高めていくような理性のことである。

オルテガは、みずからの思想を体系的に構築しようとはせず、「明示的論証なき学問」と呼んだエッセイや、ジャーナリズムに発表した啓蒙的な論説や、一般市民を対象とした公開講義などによって、自己の思想を表現した。

オルテガの関心は、形而上学にとどまらず、文明論や国家論、文学や美術など多岐にわたり、著述をおこなった。

こうしたオルテガの思考方法を西部は、意識的に見習っていたようである。

そのことを西部は、「保守の遺言」の中で、次のように要約している「自分の事はくどくど言いたくないので、簡単にすます。私は第一に、開慣れた意味論的な構造を下敷きにして現代社会の構造変化について概括的な展望をもちつつ、第二に目前の問題や状況に応じて、その解釈に出来るだけ総合的な知見を盛り込みつつ、第三に文体としては、エッセイを採用するように努めてきた。」かれは、ここで云うエッセイとは「既存の諸学説には大いなる限界があることを明らかにしながらおのれの思想をも吟味すると云う意味での試験文」を意味すると述べている。

 つまり、総合性と雑文性は、西部の保守思想を語る上での宿命的な性格であると云うことである。

 西部の個々の意見に多分に共感しながらも、その全体像のはっきりしないことにいら立ちを感じてきた私は、ようやくその正体に対峙することが出来る気がしてきた。

4.西部思想への共感と違和感

 西部の保守思想の根幹には、フランス革命を起点とする近代の啓蒙主義・合理主義・理性主義に対する不信感がある。それは、文学的には、シュールリアリズムやタダに見られフランスロマン主義の潮流と同じく反合理主義の思想の流れである。その根底には、人間の内部に巣くう非合理的衝動に目をやる思想である。オルティガの思想は、こうした不条理を内蔵する人間観を社会や政治分野に適用したものと云えないだろうか。不条理を内蔵した人間の理性的側面に着国すれば、それが近代デモクラシーやそれを礼賛するリベラリズムになり、不条理な部分に着目すれば、いわゆる「大衆論」となる。

 こうしてみてくると西部の保守思想は、社会・政治分野での反合理主義思想として整理できるのかも知れない。しかし、こうした反合理主義の思想は、その根底にもっと根源的な問いかけ即ち、「人間とは何で、我々は宇宙の中で如何なる存在なのか」により、再生される必要がある。

 奇妙なことに、西部の思想の中に、20世紀以降の心理学や自然科学の成果がほとんど取り入れられていないことである。彼の中で、人間や宇宙は、19世紀の世界像のままである。彼の中では、20世紀の心理学や脳科学や生物学が人間観に及ぼした影響はほとんど見られないし、ビックバンやインフレーション理論、量子力学等の現代科学が明らかにした世界像の影響もほとんど見られない。

 彼にとっては、科学や技術は、数量化や形式化と云う人間とは無縁な異物としか映らない。量子力学や相対性理論等直感的には理解できない原理に基づく現代文明に養われながら、その生産現場と無縁な世界に生きる庶民や文系人間は、ローマ帝国時代の市民同様もはや単なる文明の消費者と云う受動的な存在でしかない。

彼の文明論がペシミズムに傾くのは、現代科学が、人間と云う種の宇宙での存在意義や知的生命体としての特殊性を明らかにしつつあることへの視点を全く欠いていることの必然的な結果である。しかし、近代が提起した、理性と反理性の葛藤の只中にいる大衆とそうした大衆意識との格闘に自らの生の展開を選んだ西部にとってこうした現代科学の展開などは「あっしには関わり合いの無いことでござんす」と一言でかたづけられそうな気もする。しかし、これこそが、文系知識人に対する私の違和感でもある。


5.三冊を読み終えて

当初一冊の本「保守の真髄」を読み、その感想をまとめようと思っただけであるが、彼の自殺と云う事件の衝撃もあり、それが三冊の本の読書へ、さらに雑誌「表現者」に特集を通して、64名もの関係者の追悼文やWikipediaの記事まで、読むことになり、思想家西部 邁の人生全体に目を通すことになった。

彼の人生の特徴は、一人で沈思黙考し、新たな世界を切り開くのではなく、膨大な読書や沢山の人との対話の中で自分を展開することであった。とにかく多数の人とのかかわりに驚かされるが、それは、彼が、教師を生業にしたことの必然的な結果であった。

しかし、技術屋であった私からみれば、それは人間の営みからみれば随分偏った生の在り方のように思われる。それは、話の中に自然や工学を相手にする人間がほとんど出てこないことに現れている。

しかし、それでいて彼は幸せであったに違いない。「保守の真髄」第四章第9節はイギリスの作家・批評家であるギルバート・キース・チェスタトン(英: Gilbert Keith Chesterton1874529 - 1936614日)の言葉を引いて、「人生の最大綱領は、一人の良い女、一人の良い友、一冊の良い本、そして一個の良き思い出」と述べており、そしてこの場合の良いとは、生きるか死ぬかのパラドックスを乗り越えて獲得したかどうかで決まると述べている。

 このパラドックスの中には、絶えず死を覚悟した生が根本になければならない。西部の保守思想の凄みは、この思想の背後にある生死を掛けた覚悟にあるとみてよいだろう。




2022年6月30日木曜日

女流作家のSF「闇の左手」によせて ―人間と性についてー

 

古書展の楽しみは、普通であれば、出会うことのない人に出会えることである。今回であった「闇の左手」がそんな本である。SFは、古書店での私がターゲットとする1ジャンルであるが、この本を偶然手にして裏表紙の次のような紹介記事を読んで100円で購入したものである。

本の内容

「男と女-人々の生活や悲劇や喜劇でいろとりどり、様々な芸術の主題となっている二つの性の存在。しかし、遥かな過去に放棄された人類の植民地、雪と氷に閉ざされた惑星ゲゼンでは、事情が違った。遺伝学的な実権の落とし子達は、営々として彼等の社会を作り上げ、ついに全銀河に類を見ない特異な社会を形成したのだった。そして今、人類同盟の使節、ゲンリー・アイがゼノンとの外交関係をひらくべくこの惑星を訪れた。しかし、両性社会の人間には、理解を絶する住民の心理、風俗、習慣が行手をむしばむ。彼等との友情も信頼も、恋さえも、全く違った形をとり、彼の任務を奇異な陰謀の渦中へと押し流してゆく・・・・」

この「闇の左手」は、著者アーシュラ・K・グイン/小尾芙佐 昭和527月早川書房発行であり、当時定価380円の本であるが、第二刷も発行されている。表紙のタイトルの上に「ヒューゴー賞/ネビュラ省受賞」とあり、それなりに当時日本でも話題となった本であろうと推察される。

両性具有と人間・宗教

私が魅かれたのは、両性具有と云うテーマを取り上げていることである。かねてより19世紀のフランスのシュールリアリズムと神秘主義に関心があった私は、そうした思想潮流の中で、単性の人間は、不完全であり、男と女の二つの性の合一により、人間は、その完全なものとなると云うアンドロギュヌス神話からの思想が古代ギリシャの時代からあり、この思想では、「男女が魅かれ合うのは人間が単性の不完全さから脱して全体性を確立しようとする」からだとされている。  この卑俗な形態は、「彼の法」集団等にみられる男女の性的結合による悟り等の地下の秘密宗教の流れにもなりかねない危うさを内包しているが、人間思想の隠れた深き一潮流を形成していることはたしかである。この両性具有の問題を正面から取り上げていることに驚かされた。

本のタイトル

この「闇の左手」というタイトルは、とても意味深長な言葉だ。この世は陰と陽の二項対立がベースであるという価値観から眺めれば、闇の左手が握っているのは光の右手ということになる。お互いに対立する属性を持つ者同士が、どこまでわかり合うことが出来るのかという、壮大なテーマがここにある。このような課題を正面から取り上げている著者と本の最後に素晴らしい解題と解説記事を書いている訳者に興味を覚えて調べてみるとまず二人が女性であることに気づき、もっと詳しく調べてみることにした。

著者について

 Wikipediaによれば、著者のアーシュラ・クローバー・ル=グインUrsula Kroeber Le Guin192910月21 - 20181月22)は、アメリカの小説家でSF作家、ファンタジー作家。SF作家としては、両性具有の異星人と地球人との接触を描いたこの『闇の左手』で広く認知されるようになり、他に代表作にユートピアを描いた『所有せざる人々』 などがあり、SF界の女王と称される。ファンタジーの代表作は『ゲド戦記』のシリーズで、「西の善き魔女」のあだ名もある。他に『空飛び猫』といった絵本作品もある。19291021日にカリフォルニア州バークレーで生まれた。

  父親は1901年にコロンビア大学でアメリカ合衆国初の人類学の博士号を取得し、アメリカで2番目の人類学科を創設したドイツ系の文化人類学者。母親は、夫が研究で係わったアメリカ最後の生粋のインディアン「イシ」の伝記を執筆した作家で文化人類学者。と云う恵まれた家庭で育ち幼い時から神話、伝説、おとぎ話や、ポードリック・コラム、ノルウエーの童話作家アスビョルンセンの本をよく読み、父からはインディアンの伝説を聞かされた。10代には、アイルランドの小説家ロード・ダンセイニを愛読し、また兄たちとSF雑誌を読み、好きな作家はアメノカのSFロード・ダンセイニ、を愛読し、好きな作家はアメリカのSF作家ルイス・パジェットだった。大学はラドクリフ・カレッジに進学、フランスとイタリアのルネサンス期文学を専攻し、コロンビア大学で修士号を取得している。 1953年にフルブライト奨学生としてパリに留学し、その後フランスに渡り、そこで知り合った歴史学者チャールズ・A・ル=グイン(Charles Le Guin)と知り合い、その年に結婚。帰国後に夫は州立ポートランド大学の教授となり、自身はマーサー大学、アイダホ大学などでフランス語を教える。

ル=グインの世界

ル=グイン作品の際立った特徴として、人種の意図的な扱いがある。ル=グイン作品の主要登場人物の多くは有色人種であり、人類の人口構成を反映したものだとしている。しかし、そのために欧米では挿絵や表紙に人物が描かれないことが多い。ル=グインはしばしば地球外生命の文化を利用し、人類の文化についてのメッセージを伝えている。例えば、『闇の左手』では両性具有種族を通して性的同一性の問題を考察している。彼女のこうした物語の背景には、超光速移動と超光速亜空間通信ともいえる移動と通信の未来技術を基盤とする地球文明の銀河系全体に亘る未来史とも云える世界が広がっている。この意味でこの物語は、こうした未来史の一つの断面として書かれたものらしい。

1958年頃(29)から執筆活動を始めているが、「闇の左手」は、1970年、41歳の頃の作品で、彼女をSF作家たらしめた作品と云われる。日本では1968年から2001年にかけて出版されたファンタジー小説「ケド戦記」の方が有名だろう。多彩な活躍は、SF界の女王の名にふさわしい。こんなにも有名な著者の名を私はほとんど知らなかった。うかつと云うよりほかにない。

翻訳家小尾 芙佐について

翻訳者の小尾 芙佐(おび ふさ、19323月24 - )は、旧姓は神谷。現在の西新宿の生まれで、戦後すぐに津田塾大学英文学科で、土居光知教授の「翻訳論」の講義を受講し、そこで初めて翻訳を学んだ日本の女流翻訳家。卒業後一時「ひまわり社」で働くが、その後この時代に知り合った早川書房福島正実を訪れ、SFミステリの分野で翻訳を手がけることになった。当初は、旧制金谷芙佐の名前で出版されていた。日本SF作家クラブ会員で、2013年名誉会員となっている。SF分野の女流翻訳家の草分け的存在ともいえる。

まとめと感想

作家と翻訳家の二人の先駆的女性が出会って出来上がったのが、この本である。両性具有の問題を文化人類学視点から取り扱ったところに、文化人類学の両親の血とパリ留学でのフランス文学の底流を流れるシュールリアリズムの問題意識との出会いが、この作品のべースにある気がするのは、私の澁澤龍彦ゆずりの嗅覚のせいであろうか。性の問題を男女差別や権利意識の視点からしか取り上げることしか出来ない昨今の浅薄な風潮に違和感を覚える身としては、性の問題をより人間的・文明的視点から深く考えるため是非話題となって欲しい一冊である。


2022年2月24日木曜日

未知の世界への入り口―「虹滅記」を読んで

 「前もって自分の絵が分かるなら描く必要はない」これは、シュルリアリストにして天才画家のサルヴァドール・ダリが、その著「私の50の秘伝」の中の「芸術についての五つの思想」の中で、示した言葉である。

このシンプルな言葉は、別の分野にも当てはまる。即ち「前もって読みたい本が分かるなら、古書展に行く必要はない。」インターネットの発達した現在、古本を含めたほとんどの本はインターネットで検索できる。しかし、そこには前提がある。検索すべき本に関する何らかの情報があることがそれである。

全く今まで、想定や予測しなかった分野や世界を記述した本に出合うこと、この偶然が未知の世界へと自分を導いてゆくこと、これが面白くて、古書展に出かけるようになって10年近くなる。そんな本の一冊が「虹滅記」である。


著者は、足立巻一、私が入手したのは朝日新聞が、199411月発行の朝日文芸文庫である。著者は、1913年東京都生まれ、神宮皇学館卒、詩人・作家で198572歳で亡くなっている。この本のあとがきが書かれたのが1982年、死の三年前であり、それによれば、この作品を書こうと思い立ったのが197461歳の時であるので、8年がかりの作品であることが分かる。

私が古書展でこの本に魅かれた理由は、「虹滅記」と云う題名の異様さであった。表紙の「虹滅記」は、虹の字の虫の上に斜めの線の「のかんむり」が付いた手書きの字になっていた。本文369頁で、当時860円の本が100円であった。他の数冊と共に入手した本は、数日間机の上に置かれていたが、読み始めると止まらなかった。著者の略歴は、そのままこの本の中身に直結しているので、読み終わってからあらためてWikipediaによる彼の略歴を調べると次のように書かれていた。

「東京市神田区(現:東京都千代田区)に生まれる。生後間もなく父と死別、母は再婚したため、漢詩人であった祖父足立清三(敬亭)、祖母ヒデに育てられるが、1920年に祖母ヒデが急死、祖父清三としばし流浪の生活を送った。翌年、清三も横死を遂げ、神戸在住の母方の叔父に引き取られる。

諏訪山尋常小学校時代から「少年倶楽部」「赤い鳥」等に頻繁に短文、詩歌等を投稿。関西学院中等部に入学、同校の国語教諭であり、自らも歌人であった池部宗七(筆名は石川乙馬、「夕暮れに苺を植えて」はその評伝である)から短歌の手解きを受ける。

恩師池部の母校である神宮皇學館(現:皇學館大学)を受験するが、2度にわたって失敗、1934年に3度目の受験で合格する。同館在学中も詩誌、歌誌等を中心に活動した。この頃に本居春庭を知り、研究を始める。

1938年、神宮皇學館本科国漢科卒業。高校教諭となるが、同年に応召、中国に渡り北支戦線に従軍。帰国後新大阪新聞社に勤務、学芸部長、社会部長等を歴任した。1948年、井上靖の発案で児童詩誌『きりん』の創刊より編集に携わり、児童詩運動が終生の一事業となる[1]1956年新聞社を退職して執筆活動に専念する。

毎日放送の『真珠の小箱』(1959 - 2004年)で番組の構成に参加、出演も多数。立川文庫の研究も行い、1961年には尾崎秀樹、武蔵野次郎が創立した「大衆文学研究会」に編集委員として参加[2]。『文学』(岩波書店)、『思想の科学』、『大衆文学研究』はじめ多くの雑誌に執筆、その夥しい仕事は執筆目録ともなっている「足立巻一略年譜」がもっとも詳しい(『人の世やちまた』所収)。

1977年、大阪芸術大学芸術学部文芸学科教授を経て、1980年、神戸女子大学文学部国文学科教授」

「虹滅記」は、この著者の生い立ちを調べまとめあげた作品であった。この本の解説的エッセイ「虹の誕生」を作家司馬遼太郎が書いており、その中で、司馬遼太郎は、その内容を次のようにまとめている「「虹」が見慣れない字体になっているのは、漢学者であった祖父敬亭の自筆の文章によっている。祖父敬亭は時代遅れの、生活力を欠いた漢学者だったと云う。やがて足立さんの父となる敬亭の子菰川は、苦学して京都大学を出た。菰川は明治末期の東京で「二六新報」の論説記者として大正の初め妻マサヨとのあいだに足立さんをもうける。菰川は夭折した。敬亭は悲しみ菰川の著書の跋文の冒頭に「大正二年十月著者俄に虹滅」と書いた。題名の「虹滅」の二字は、祖父から父へ、父から足立さんへ移植された皮膚そのものだったことがわかる。足立さんは、その後生母が再婚して家を去っため、敬亭に養われ

さらには、親戚に預けられて成人した。しかし恨むことはなかった。うらみよりも志がこの人の文学のしん、になっている点、いかにも丈夫の文学と云うべきものだった。諸作品を

成立させる上でやったのは、自分が経た生の人生を体液のように循環させつつ、自分にかかわった他者、祖父、父、恩師、親友などーの生きた証しを編み込んで作品世界を作った」

「戒名には、余計なものはなく釈亭川とのみ祖父と父の号が一字づつ入っている」

司馬遼太郎は、「虹滅記」を出来上がった作品としてみているが、作者が何を描きたかった

のかについては触れていない。私は、むしろ、作者が何を描きたかったのかの方が気になった。十歳年下の司馬遼太郎にはこの作者の気持ちは、理解できなかったようだ。

 この作品には、8年の歳月がかかっている。この間彼は、自分で親族の戸籍を調べ、関係者の消息を訪ね、話を聞き、墓を訪ね墓碑銘を調べたりしている。こんな作業は、たんに作品を作ると云うだけの動機でできるはずはない。彼は、この作品を通して、自分を現在たらしめてくれた人々とりわけ祖父と父を中心とする親族の存在の証を世間に示しかったのだと思う。それは、自分に連なる人々への愛と感謝の気持ちを表現することであったに違いない。

ほとんどの人間は、自分の家族と職場以外には、自分と社会の繋がりを深く考えたことはない。しかし、実際には、自分の存在には、それ以外の数多くの人達の機縁や関係が、現在

の自分にかかわっている。そして多くの場合そうしたことの多くは、人々の意識から隠されている。彼がこの物語の中で示しかったのは、こうした個人と社会の繋がりのありようを通して人間社会の真実に辿り着こうとすることであったのではなかろうか。数年前、親族の相続に関連して、数十部の戸籍をとりよせたことがあった。その時、その戸籍から透けて見えて来たのは、あまり語られてこなかったその当時の社会の実相ともゆうべき姿であり、親族の秘密めいた真実であった。「虹滅記」の著者も、このための取材の中で、こうした知らされてこなかった真実や思いがけない関係者の無償の行為や愛により、現在の自分があることを確認してゆく。

多くの小説では、社会は、その主人公が生きる背景に過ぎない。しかし実際には、社会は、その主人公の血であり肉であり、その体は、現在も社会と結びつき、今も他者とのあいだに血液循環をめぐらせていると云うことではなかろうか。人間終末期を迎えると自分の人生は何であったのか、振り返る心境になる。この本を思い立ったのが、著者が還暦を過ぎた61歳の時で完成したのは、69歳の時である。

72歳の死は、現代から見れば早すぎる気もするが、昭和60年であれば、古希を迎えての死であり、早死とは云えない。

あとがきに「多年こころにかかっていたことをようやく果たして安堵を覚えるとともに、私の人生もこれでほぼ終わったような気がした」とある。彼は、自分の人生を確認し終えた

安堵感と共に死を迎えた。

 全くこの本は、私に自分が生きた世界に連なるもう一つの異世界を見せ、私の宇宙を広げてくれたような本であった。    了


2022年2月8日火曜日

SFが導く未来の科学・技術と世界ー「メタバース」と「スノウ・クラッシュ」によせて

最近新聞や雑誌で頻繁に目にするメタバース、その言葉が初めて使われた1992年に発行されたSF「スノウ・クラッシュ」。今や世界を席巻したIT企業の創業者の多くがSF小説に影響を受けたり愛読したりしている。その中でも特に名を上げられる頻度が高いのがこの「スノウ・クラッシュ」の作者である。2022125日新版として再発行された上下2巻からなる本を発行と同時に入手し、読んでみた。「スノウ・クラッシュ」、そこでどんな世界観が展開されているのか期待に胸を膨らませながら・・・ 

20代からのSFファンである私にとって、ずっと捨てられぬ蔵書がSF関連の本であった。それは、未来に対して新しい世界や希望を示す指標であったためである。

その私が-これが究極のSFではないかと感じいったのは、ウエルズの「タイムマシン」の刊行100周年に合わせて1995年、イギリスのハーバー・コリンズUK社から発行された。スティーブ・バクスターの「タイムシップ」であった。相対性理論に加え現代の量子論やマルチユニバース論まで視野に入れ、遥かなる未来まで旅するこの小説に時空の果てをみた思いであった。

 しかし、その私に、未来の別の可能性の扉への予感が襲ってきたのは、むしろ急激に進む

科学・技術の現実であった。その代表的なものは、SNSに象徴される通信関連技術の発展であり、ディープラニングと云うブレイクスルーにより出現したAIの進歩と普及であるし、生科学分野でのゲノム解析の進歩とその改変ブレイクスルー技術クリスパーキヤス9の出現と人工加工生物の誕生である。

しかし、その私に、未来の別の可能性の扉への予感が襲ってきたのは、むしろ急激に進む科学・技術の現実であった。

その代表的なものは、SNSに象徴される通信関連技術の発展であり、ディープラニングと云うブレイクスルーにより出現したAIの進歩と普及であるし、生科学分野でのゲノム解析の進歩とその改変ブレイクスルー技術クリスパーキヤス9の出現と人工加工生物の誕生である。

 さらに最新生科学による脳科学の発展は、人間の意識構造や幸不幸等の人間の行動パターンや心理思想まで解明しようとしている。つまり1000憶の神経細胞は各々の神経細胞がもつ10000ものシナップスを介して壮大なネットワークを構築して意識世界を形成している。つまり、人間そのものが一つの小宇宙であることがはっきりしてきた。

そんな時、大学生の若者とのふとした会話から手にしたのが、メタバースの誕生のきっかけとなったSF「スノウ・クラッシュ」である。

この本は、すでに1992年に出版されていていたのであるが、昨今のメタバースブームの中で、新版として早川文庫から2022125日発行された。著者は、1959年米国生まれのニール・タウン・スティーブンソン。ボストン大学で、物理学と地理学を学んだ作家で、これは、33歳の時の作品である。物理出の私と同様、社会で実務につくのに苦労して作家になっただけに波長が合った。

ちなみに、メタバース(metaverse)とは、英語の「meta)」と「宇宙(universe)」を組み合わせたてこの著者によってつくられた造語である。

「スノウ・クラッシュ」の舞台は、フランチャイズ都市国家のパッチワークみたいになってしまったアメリカ合掌国の近未来、そこでは、バアーチャルとリアルが溶けあう社会となっている。そこでメタバースと云う巨大VR,ネットと現実世界を行き来する人達の物語が展開される。多分著者の意図とは別にこの作品が最近になって注目されるようになったのは、メタバースを構成するコードやルール、アバターのスペック等が詳細に語られている点であるかもしれない。

現在のメタバースブームを知る人間から見れば、この世界が30年前に30歳を少し超えたばかりの若者によって構築されたことに驚きを禁じ得ない。

しかし、この著者にとってメタバースそのものは、物語の背景でしかない。物語の主題は、メタバースとリアル世界の根底に横たわる人間の脳や無意識を含めた意識構造との関係で、これは文明の発生や宗教とも関係する領域である。

ここに、見える世界と見えない世界とを仲介するバーチャルの世界の意義がある。

人類は、有史以来の長い間、見えない世界と見える世界を一体のものとして生活してきたが、近代は、この見えない世界を虚妄として退けて来た。目に見える科学的、合理的、理性的なものが全てであるとの思想潮流が文明の主体となった。この流れのアンチテーゼとして起こったのがロマン主義であり、シュールリアリズム運動であり、フロイドの精神分析に代表される無意識の世界の発見であった。

 こうした科学と宗教に代表される目に見える世界と見えない世界の哲学的・思想的対立や境界は、最近の脳科学や神経科学、心理学の発展により、急速に溶解しようとしている。

バーチャルとリアルを仲介するメタバースは、間違いなく、心の中の新大陸発見であり、人間世界の宇宙構造を内側から拡大しようとしている。経済学者は、資本主義のフロンテイアは消滅したと云うが、ここには無限の可能性とフロンティアがある。

 今後の社会や文明の動向を考えるためにメタバースからは、目が離せない。