2021年11月23日火曜日

青春自然派歌人と老成荒地派詩人 ―若山牧水と加島祥造をめぐって―


 

コロナ下で2年近く中止になっていた古書展が再開されたのは、2021年の10月の末だった。古書展での私の目当ては、主に詩集、SF、怪奇物や宗教書である。全集物は、かさばるし画集類は、今から見れば印刷が悪い。また、科学技術関係書は、古典を除き中身が古い。

この時、2時間ばかり、会場を見て歩き、5冊程の本を買って帰ったが、その中の詩の関連の一冊が大岡信の若山牧水論であり、もう一冊が、加島祥造の詩集である。

大岡の本は、若山牧水―流浪する魂の歌:大岡信:中央文庫:昭和56910日発行で、当時の定価240円であり、これが200円で売り出されていた。大岡信は、1931年生まれの詩人で201786歳で亡くなっている。昭和56年は、1981年であり、この本は、彼が50歳の時に書かれた本である。解説は、歌人、評論家で国文学者の佐々木幸綱(1938年~)が書いている。

若山牧水は、中学の終わり頃から高校にかけて私が影響を受けた歌人であるが、この本を読みながら、この頃影響を受けたもう一人の詩人・小説家の国木田独歩のことを思い出した。

  その国木田独歩についても以前古書展で、関連本を入手した記憶があった。本棚の片隅で見つけたその本は、清水書院が明治、大正、昭和の近代文学の代表的作家の生涯と作品を平明に解説した全38冊の内の一冊で昭和411030日発行16巻目の本で、当時の定価250円であった。これは100円で入手した記憶がある。この本は児童文学作家で文芸評論家の福田清人が、その研究に出入りしていた本田浩に書かせ監修した作品であった。この2冊の本を今回あらためて読み直して、あらためて自分のこの二人の作家との出会いを振り返ることになった。

中学時代教科書に載っていた独歩の作品「武蔵野」の美文に魅かれて、彼の作品を読んだが、その中に散文と共に「山林に自由存す」との詩に出会い、それが山や山林等自然に対するあこがれを駆り立てられたものであった。この独歩との出会いは、すぐに若山牧水の紀行文と歌への共感となり、高校への入学と共に私を山岳部に導くことになった。

その当時その牧水と独歩自身の人物像や作品の背景に興味があったわけではない。その当時は、彼等の作品そのものに魅かれていたためである。

しかし、独歩や牧水が歌った自然への憧れに魅かれて入った高校の山岳部は、そうした世界とは、およそ無縁な体育会系の運動部であり、私は、全く異なる世界へ迷い込むことになった。若さの柔軟性のためかそれは、それで、楽しくなった。しかしその部活動は、2年生の初夏のロッククライミング中の滑落事故で、一年足らずで退部することになってしまった。けれど、この一年足らずの山岳部生活の中で、鈴鹿山系の山々や中央アルプスの駒ヶ岳、穂高連峰の山行等貴重な体験することになったが、滑落事故のため、左手を怪我し、その後遺症が握力の低下となって、左手が大切な役割を果たす運動分野での能力開花の可能性を閉ざすことにもなった。

独歩と牧水は、こうした青春の出来事を通して現在の自分のありようにまで影響を及ぼしている。それは、明治の時代の近代的自我の誕生が大自然を前に引き起こした驚愕と感動の律動、それが思春期に目覚める私の自我と共振した出来事であった。

「ああ山林に自由存す・・・・」と詠 こった独歩と「幾山川声去り行かば・・・」と歌った牧水とはいかなる人であったのか、現在の視点で確認しておきたくなった。

国木田独歩の生きたのは、1871(明治4)830日~1908(明治41)623日の37年間であり、牧水は、1885(明治18)824日~1928(昭和3)917日の43年間で、二人の年齢差は14歳であるが、この二人には幾つもの共通点がある。

その一つは、二人共短命であったことである。また、二人は、独歩は、千葉銚子の生まれ、牧水は、宮崎県臼杵郡東郷村(現日向市)の生まれであるが、共に上京し、独歩は、東京専門学校(後の早稲田大学)の英語普通科に入学しているし、牧水も早稲田大学文学部英文学科に入学している。共に主として新聞や雑誌の発行や編集等と文筆業で生活しており、教師や新聞社等の勤務経験をもつが長続きせず、ほとんど文筆や編集、揮毫や選歌等で、生計を立てていて、貧しい生活であった点、また20代前半で結ばれることのない熱烈な恋愛体験をもつが、その後の結婚で、よき伴侶に巡り合っていること等である。

独歩は、神奈川県茅ケ崎で亡くなっているし、牧水は、静岡県沼津市で亡くなっている。牧水は、独歩の武蔵野等の影響を強く受けているが、独歩が短命であったため、直接的な交流はない。独歩には、一男二女があり、牧水は、二男、二女に恵まれている。

7年程前のことである。大学時代の友人達と山口市を訪れたとき、聖ザビエル講会堂の近くの亀山公園を散策したが、その時、牧水の「ああ山林に自由存す・・」の詩碑を見つけ奇異に感じたが、独歩が、父親の転勤で、山口市で、青春時代を送ったことがあることを知り、得心した覚えがある。今回大岡信の「若山牧水」を読んで、彼が沼津の千本松原の保護活動

をしたこと。彼が石川啄木の寂しい臨終に立ち会ったただ一人の友人で、病弱な啄木夫人に代わって通夜から葬儀の一切の手配をしていたこと。北原白秋の親友で荻原朔太郎とも親しかったことを改めて知った。旅と自然を愛し続けた牧水の生涯、妻貴志子は、「汝が夫は家におくな、旅にあらば、命光ると人の言へども」の句を残している。牧水は、晩年幸せだったと思う。

 独歩も牧水も短い生涯であったが、その中でも、膨大な詩、散文、小説、歌を残している。それらの作品の大部分をまだ読んでいない気がする。しかし、その世界は、近代日本の青春の目覚めの書として、高齢化の日本に活力を与えてくれるかもしれない。そういえば2021年、歌人の俵万智が、「牧水の恋」と云う本を出版していた。

古書展で入手したもう一冊は、加島祥造詩集は、思想社の現代詩文庫の中の一冊で2003415日発行定価1165円のもので、これが500円で売りだされていた。軽い気持で、当面積読する気でいたが、彼が東京府立第三商業学校での田村隆一の同級生で、荒地派のグループに所属していたと知り、俄然と興味が湧いてきた。彼は5年ばかり荒地に詩を発表していたが、早稲田の文学部英文科を卒業するとフルブライト奨学金で、米国シアトルのワシントン大学に留学、帰国して信州大学、横浜国大、後には、青山学院女子短大等で英米文学を教える。

197350歳の時信州伊那谷の駒ケ根市大徳原に山小屋をつくると15年のブランクの後作詞をはじめる。60歳の時妻子と湧かれて伊那谷に移り住み、199067歳の時駒ケ根市中沢に家を建て、終の棲家とし、伊那谷の仙人と称され、20151225日ここで亡くなる。

同級の田村隆一は199976歳で亡くなっている。この詩集は田村の死から4年後に出されている。田村の最後の詩集1999年は、死の直前の1998年に出版されその最後の「蟻」と云う詩の中で人間社会を蟻と対比させ、「さようなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの 人間の世紀末 1999」と詠ってこの世を去った。

彼の詩には、最後までどこか軽妙な悲哀と静なロマンがあった。都会でウイスキーを毒を啜るようにして飲み、空想の翼を広げて世界を鳶のように眺めた田村隆一に対して、荒地派の生き残りとなって92歳まで生き加島祥造は、どんな詩を書いているのか、興味をもって読み進んだ。この詩集を出した時、彼は80歳であり、そこに掲載された詩の書かれた時期は、私の定年後に重なる。

 田村は、詩によって人間の宿命から逃れようとして空を飛びまわったが、加島は、人間の愛憎から逃れるために山林に戻ってきて、植物や動物、生き物達の世界に身をゆだねようとした。

自然の中には、人間世界とは別の時間が流れている。加島は、若くして勤務した信州大学時代にそのことに気が付いたに違いない。そのことが人間世界に疲れたとき、加島を伊那谷へと導いたに違いない。

定年後本格的に絵をはじめ、スケッチ旅行に行くようになり、23時間同じ風景を見続けていると光の陰影の変化で、時間の推移を知ることが出来る。

時計で管理される時間とは、別の時間のありように驚かされたものだ。そうした芽で周囲を眺めると自然が己のリズムで時を刻んでいることを至るところで感ずることが出来る。 

加島が、伊那谷で見つけたのは、そうした世界であったに違いない。その一方で文明人である我々は、人間社会という別の時間のリズムに支配され生きている。社会が生み出すリズムと時間。女王蜂を頂点とする組織された階級社会、そのスローガンは「帝国主義」、田村は人間社会を「蟻」の世界になぞらえ、我々に提示して去っていった。

 空から眺めるか、地面の上で感ずるのか、あるいは、その両者か、二人の荒地派の詩人の晩年は、私を新たな詩空間に導いてくれそうな気がする。   了

 

 

 

 




2021年11月16日火曜日

姿なき黒船との戦い ―「膨張GAFAとの闘い」を読んでー

 

書店で何気なく手にとった一冊の本、それが中央公論新書(2021610日発行)のこの本である。著者は、読売新聞の女性記者若江雅子氏。久々に熱い思いに満ちた本にであった。これは、自省と使命感に駆られて書かれた本のように思われる。


2020年以来日本社会は、新型コロナと云う見えない存在との闘いに翻弄され続けている。

しかし、その10年以上も前から、日本社会は、グローバル化の波に乗って密に押し寄せてきた通信技術革新とりわけGAFAに象徴されるIT企業の進出・侵略に直面していた。

けれど、その巨大な波は、2011年の3.11のように、目に見えるもものではなく、一部を除いてほとんどの人が意識することはなかった。この波が、日本の社会のビジネス、知的環境、生活環境を根本的に変えつつあることを我々が意識するようになったのは、皮肉なことにリモートが日常化した今回のコロナ下でのことであった。

 私にとってのIT技術は、主にビジネス環境の側面からの興味の対象であり、それが、現実の我々の生活基盤に直接かかわるとは、あまり意識してこなかった。これらの技術が日常生活と直結している予感はあった。それに注意が行くようになったのは、2016年欧州委員会が、「一般データ保護規則(GDPR)」を制定し、20185月にその運用が開始されると云う事態を受けて328日に出た日経新聞の一本の記事であった。しかしその時の受け止め方は、その企業活動への影響といった側面からしか見ていなかった。生活の中に急速に浸透IT技術の実態がよく見えていなかったためであった。

 2010年当時「無償で提供されるサービスの収益源は、どこから生まれるのか」この疑問を持ちつつその利用の魅力にひきつけられ、そのからくりまで、注意が及ばなかった。今では、その収益源は「サービス提供と引き換えに収集するユーザー情報の収集であり」、そこにプライバシー侵害の可能性があることはあまり意識されていなかった。

 この無償のプラットホームを土台とするビジネスモデルが、GAFAの急成長の原動力であるが、それまでにないこの新たなビジネスモデルに対して、日本社会は、それを規制する法体系が未整備のままであった。すなわち、目に見えるハードや物を中心とする法体系では、

海外に拠点を置くソフト中心の業態に対応できないと云うみとであった。その象徴が個人情報保護法で、個人情報を名前、住所、電話番号しいった狭い直接情報に限定いた法律は、IT時代には、時代遅れになっていたし、物品の売買を想定した独占禁止法も非対称取引の

ビジネスモデルには対応できなくなっていた。さらに、ハード機器を国内に設置しない通信

事業者への国内法の適用が出来ない等の問題もあった。

 つまり、実生活に急速に浸透しつつあるあらたな技術による生活環境の変化に日本人の意識や法体系が全く追いついて行けない事態がいたるところで発生しつつあった。

 本書は、こうした事態に危機感を抱いた政府や民間の人達が日本の法整備に尽力した

コロナ後も見据えた奮闘の記録である。

 「データ時代の大きな社会構造の変化」それは、今我々の生活のあらゆる分野に及んでいる。しかし、このことを自覚している人はまだ少数である。メディアや政治は、相変わらず

スキャンダルを追いかつづけている。こうした中、ここ数年で、日本の科学技術の衰退

が、目に見える形で明らかになりつつある。この20年間日本は、平成の太平の夢をむさぼって眠っていたように思う。黒船の来航は、明治維新を引き起こした。GAFAの来航の実体に目覚めて、日本は、新たな令和の改革で再生できるであろうか。

 文系ジャーナリズムへの期待をほとんどなくしかけていた私にとって、初めてまともな

ジャーナリストの書いた本に出合った思いである。

 

2021年11月4日木曜日

 日常の隙間よりー弥勒菩薩の微笑みの秘密を求めてー

 

もう20年近きく前のことだ、日経新聞の文化欄「美の美」で、弥勒菩薩の特集があり、その中で、思わず目に入ってきたのが、そのタイトルの「微笑みに始まる」と「弥勒菩薩の内なるまなざし、人は深い安らぎを覚える」のことばであり、その記事の横にあったのが広隆寺の弥勒菩薩のクローズアップされた顔の写真であった。

この時の記事によれば、広隆寺は、推古天皇と聖徳太子が建てたと云われる斑鳩七つの寺の一つであり、この仏像は、聖徳太子から秦氏に下されたとされている。一本の丸太から彫られたと云うこの仏像は、赤松出来ており、一部に楠が使われていることから朝鮮半島から帰化した工人の作ではないかとも云われている。

しかし、こうした仏像の由来より、私を深くひきつけたのは、その仏像の微笑みであった。その仏像のなんともいえぬ微笑みが私の心を捉えて離さなかった。これは定年近くになって絵を始めたばかりの私の中にあの微笑みを描いてみようとの強烈な意志が芽生えた。

そのことを絵の仲間の一人に話したとき、それは無理な話と即座に反応があった。しかし、その言葉に納得できず、微笑みを描こうとする私の挑戦が始まった。様々な人物画を描き始めて以来、そのことが絶えず頭にあった。当初は、弥勒菩薩の微笑みのデッサンを何度も繰り返したがなかなか思う微笑みにはならない。


そんな時、テレビの番組で砺波の仏師の番組があり、その時、弟子が何年もかかって製作した仏像を師匠がみて、最後に一鑿入れるだけで表情ががらりと変わると語る場面があった。その話を聞いて、はっとさせられた。人間の表情は、1mmの何分の一かの口角の変化によってコロッと変化することつまり、美は細部に宿ると云うことを改めて教えられた。

それ以来、何分の1mm単位での修正によって自分の思い描く微笑みに、次第に近づいてきたように思えてきた。しかし、微笑みを描くことには、さらに奥深い課題があった。

人は、微笑みによって何故安らぎを覚えるのかの謎である。人は、微笑みの先に自分が暗黙の内に求める世界を見ようとしているのではないか。だとすれば、仏像や絵画の微笑みは、その世界へいざなう入り口のようなものかもしれない。そしてその世界とは、目に見えない世界である。かくして、絵画や彫刻は見えるものでも見えない世界を描くものではないか。 

「死者と霊性」と云う本の中では、近代の合理主義が、見えないものを駆逐したとし、その代表として死者を挙げていたが、絵画や造形においても見えないものを意識した表現が求められているのではないか。弥勒菩薩の微笑みは、1300年の時空を超えて現代人が失いかけている人間にとって大切な世界へいざなっているように思われる。弥勒の微笑みのいざなう世界とは、何か 微笑みの秘密を探る私の旅はなかなか終わりそうにはない   了