2024年4月28日日曜日

この世この生 ―西行・良寛・明恵・道元― 上田三四二

 

三月の古書展で出会った本である。題名に魅かれて思わず手にした本で、内容を少し確認しただけで、即購入した。その二週間程前、闘病中の友人のS君が、ラインで人間死んだら無になるのだろうかと問いかけて来た。私は、必ずしもそうではないのではないか、人間の生は、時空連続体の中の一条の光のようなものであるからと答えたが、多分それだけでは答えにならないのだろうと心のどこかで思っていた。死そのものについて、自分の考えを整理しておく必要を感じていた。この本を購入したのは、その問題意識があったせいである。購入してすぐに一回目を読み終えたが、よく理解できなかった。


この世この生―西行・良寛・明恵・道元―:上田三四二著:新潮社:1984925日発行、199312018刷。定価1600円のこの本は、古書展では、300円で新品であった。

 著者の上田 三四二(うえだ みよじ、1923年(大正12年)721 - 1989年(平成元年)18日)は、昭和期の歌人・小説家・文芸評論家。内科医。専門は結核。医学博士。

1949年(昭和24年)に北原白秋系の歌誌「新月」に参加し、その後アララギ派に移行。1956年(昭和31年)には歌会「青の会」結成に参加。1966年(昭和41年)に大腸癌、1983年(昭和58年)に膀胱癌を患う。二度の大病を経て、晩年は生命の内面を見つめ直した著述が多くなり、西行や良寛といった仏教の死生観を追求した歌人に傾倒した。平成改元最初の日である198918日、大腸癌のため東京都東村山市の病院で死去。1979年(昭和54年)から6年間、1987年(昭和62年)から2年間と8回にわたって、宮中歌会始選者を務めた著名人でもある。(WikipediaWiblio辞書)

この本は、昭和55年から59年にかけて「新潮」に掲載した生死に関する5つの文章と読売新聞に寄稿した文章を編集したものである。彼は43歳の時大腸癌を発症しており、昭和55(1980)は闘病生活14年目で、著者57歳に当たる。この3年後の1983(昭和58)には、60歳で膀胱癌を発症しており、この本は、生死の境を生きた時期に書かれた文章を集めたものである。彼はこの本の出版の5年後に亡くなっている。

 4月の末、この本を再び手に取って読み直し、この本の中核部分は、57歳の時に発表になった花月西行にあると思った。彼の「死」に関する論考の出発点は、フランスの哲学者

ウラジミル・ジャンケレヴッチの作品「死」にある。

ウラジーミル・ジャンケレヴィッチVladimir Jankélévitch フランス語: [ʒɑ̃kelevitʃ]1903831 - 198566[1])は、20世紀フランスの哲学者。

独特の思考を展開した、「分類できない哲学者」("Philosophe inclassable")。その思考の源泉は古代ギリシア(プラトン、アリストテレス、そして新プラトン主義のプロティノス)、教父哲学(アウグスティヌスほか)、モラリスト(グラシアンほか)、近代合理論哲学(スピノザ、ライプニッツ)、近代ドイツ哲学(シェリング、キェルケゴール、ニーチェ)、いわゆる「生の哲学」(ジンメル、ベルクソン)などをはじめ、極めて多様である。また、ドビュッシー論やラヴェル論などの音楽論でも著名。ピアノ演奏を好み、演奏の音源も残されている。

フランスのブールジュに生まれる。両親はロシア帝国領(現在のベラルーシ)からの移民。父シュムエルは医師であり、またヘーゲル、シェリング、フロイト、クローチェらの著作を含む多くの書籍の仏訳者。パリの高等師範学校を卒業後、1926年にはフランスの一級教職員資格であるアグレガシオンに首席で合格。フランスその他で、教職につき、ナチス占領下では、レジスタンスに参加、1968年の五月革命に際してはデモに積極的に参加し、学生から信頼を得ていた数少ない知識人であった。

上田三四二が「死」の問題を考える契機としたのが1966年に出版された下記の本である。

  • 1966, La Mort
    • 『死』(仲澤紀雄訳、みすず書房、1977年)

 

ジャンケレヴィッチは、「死」を「死のこちら側の死」、「死の瞬間における死」「死の向こう側の死」と三つに分けて考えているが、ここで問題となるのは、最後の「死の向こう側の死」である。死の向こう側に後世というものがあるかそれとも虚無があるだけなのかである。

ジャンケレヴィッチの立場は、後世と云うものはなく、虚無があるだけでもないと云う立場らしい。そしてそれは、死後は絶対に無だが、生きたと云う事実そのものが光芒を曳いて無の上にかかっていると云うことを意味する。この視点は、時空連続体の一条の光と云う私の生の在り方論と類似している。

しかし上田氏は、「死の向こう側の死」をめぐって考える。死後はないと考え、死に至る生をどう生きるかのみを考えるその先達として吉田兼好を取り上げ、それに共感してきたと云う。しかし、その考え方に一抹の不安を覚えた彼は、西行に向かう。その西行は、「死の向こう側の死」を視野の内に取り込んでおり、それを有名な「願わくは、花のもとにて春死なんその如月の望月の頃」に見る。

しかし西行は、現世を穢土とし後世に望みの全てを託くそうとする後世者ではなく、あくまで、現世にこだわっている。後世が成立するためには、身を離れて心は成立するかと云う問題に帰着する。ジャンケレヴッチも心と身の二元論を認めない。しかし、彼は此岸と彼岸の間を結ぼうとして彼岸が意味を持つには、此岸の生の云い難いまでの充実、「比類ない味わい」の持続が信じられているからだと云う。

ジャンケレヴッチは生と死、現世と死後の世界の間にありえないはずの連続性を回復しようとする。ありえないはずの連続性であるからむしろ相互呼応性とでも呼ぶ方が良いかも知れない。かれは、その連続性を現世と死後との間だけでなく、現世と生前の間にも回復しようとする。生前、生、死後、このように連続しつつ生にとっては超自然的ものである生前と死後に挟まれた現世の生と云うもの。すると、この現世の生と云うもりのは、私達が考えているほど、自然的なも日常的なものではないのではないか。慣れによって平凡で自明なものと考えられているこの現実、この生は、思いのほか、超自然的なものの相を帯びているのではないか。推論は、充分に魅惑的であり、戦慄的だ。

つまり、「超自然的な始まりと終わりに挟まれた連続は、始まりと終わりと同様に超自然的なものだ

空海は秘蔵宝鑰 の巻頭の詩で云う

生生生生暗生始・・・生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く

死死死死溟死終・・・死に死に死に死んで死の終わりに溟し

両端の超自然的なものに挟まれたそれとの連続としての生は、日常的、自然的でありつつ未生の闇と死後の闇をもつ故に、その日常性、自然性がそのまま神秘であり、超自然的なのである。

日常の隙間にときたま姿を見せる美や感動(これを私は永遠の相といっているが)、西行における花月とは、現世におけるその神秘性、超自然なものの露呈である。

死後を暗い黄泉的とみる他界観は、超自然的なものを自然的波長でみる誤った像であり、超自然的なものを超自然的な波長で見ればそこに浄土的世界が現れるだろう

ジャンケレヴッチは語る「此岸自体、その奇妙で神秘的な無償性がすでに超自然的であると考えなければならないのだ。此岸とそれを埋めるすべての生は、火のカーブを描いて永遠の奥底に消え去る。死によって、この世の全ての存在は、コーヒー店主にいたるまで超自然的な存在なのだ」「つまり、結局は、生そのもの、生きる喜びそして生きた自然性の超自然性の中に、我々は滅びることのない実存の証を見出すことになろう」

この言葉に著者は、「これまで見えてこなかった新しい認識の地平が、開かれているのを覚える」でこの「花月西行」の文を終えている。

あとの5つの文章は、全てこの観点の応用編であり、自然性の中にどのように超自然性を見出し、現世(此岸)と来世(彼岸)の境界を消し去るかについての記述であり、ここにおいては、「死後はどうなるか」と云う問題そのものが、消え去ることになる。

 まとめてみれば、兼好法師は、現世の時間を限りなく引き伸ばし、この結果薄くなった時間の裏に超自然性をみつけ、西行は、花月の中に見る美を通して現世の裏にある超自然性に目覚め、明恵は、現世そのものを浄土と見なすことによって超自然を現出させ。良寛は、無為無能により、人の世と自然に分け入り、超自然の世界に遊ぶ。そして道元は、日常坐臥の一瞬一瞬に超自然の世界を観よと云いそれは只管打座による心身脱落により現出すると云う。

つまり、生死の問いかけの答えは、その問そのものを消し去るところにある。そしてこのことは、自分がずっと考えて来たように、日常の中に永遠の相をみることに他ならない。

 


2024年4月25日木曜日

生命・宇宙・人類―埴谷雄高VS立花隆―

 

3月の古書展で出会って即購入を決断した本があった。それが、この本である。黒字に白の単行本は、角川春樹事務所発行で、紀伊国屋書店販売の本(199643日第一刷発行)で定価1800円であったが、300円か500円で、新品のまま、古書展の片隅にあった。埴谷雄高の名前が前面に出ていたが、これは、立花隆のインタビューをまとめた本であった。コロナ下で立花隆が亡くなったのを知ったのをごく最近のことのようにどこかで思い出していた。自分にとって重要な啓示が示されている予感があり、家に帰ってあらためて20分ばかりかけて内容を概観し、再度最初の予感に間違いのないことを確認するとそのまま、脇机の上に20冊ばかりの本とともに放置されていた。

この本を再び手にしたのは、その2か月ばかりあとのことだった。その間、古書展で見つけた他の5冊ばかりの本を読み、友人から頼まれた同人雑誌の原稿を送り、半年ばかり前に計画した友人達との二泊三日の富士五湖めぐりの旅を終え、その残務処理を片付け、送って貰った同人誌を数人の知人達に送付し、同人誌の原稿にAIで作成した挿絵を加えて気になっていたホームページの一つのサイトを更新した後のことであった。この間、いずれブログで感想をまとめたいと思っていた6冊ばかりの本を読破し、この半年ばかり取り組んで来た研究テーマ「食の現在―人間にとって食とは何か」の100頁ばかりのレポートのまとめとその概要発表資料とホームページへの掲載原稿のまとめに取り組んでいた。

こうした、当面急ぎたい作業が一段落したのは、一年前に行った肝臓癌手術後の半年前に予約していたフォロー検査の差し迫った4月中旬であった。日赤病院の検査と云う自分の生死にかかわる事態を目前にして、改めて立花隆の死がおもいだされた。埴谷雄高と立花隆、この二人は、死の直前に何を語りあっていたのだろうか。そしてそれらは今の生きている我々に何を示しているのだろうか。猛然と知りたくなった。

埴谷 雄高(はにや ゆたか、1909年(明治42年)1219 - 1997年(平成9年)219日)は、日本の政治・思想評論家、小説家。本名般若 豊(はんにゃ ゆたか)。

共産党に入党し、検挙された。カント、ドストエフスキーに影響され、意識と存在の追究が文学の基調となる。戦後、「近代文学」創刊に参加。作品に『死霊』(1946年~未完)、『虚空』(1960)などがある。(Wikipedia)

立花 隆(たちばな たかし、本名:橘 隆志 1940年(昭和15年)528 - 2021年(令和3年)430日)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。執筆テーマは、生物学、環境問題、医療、宇宙、政治、経済、生命、哲学、臨死体験など多岐にわたり、多くの著書がベストセラーとなる[3]。その類なき知的欲求を幅広い分野に及ばせているところから「知の巨人」のニックネームを持つ。(Wikipedia)

立花隆は、彼の文理を統合した全体知のあり方への共感もあり、自分の知のあり方や新たな分野への探究方法について教えられることも多かった人物であり、彼の主要な著作には目を通していたが、埴谷 雄高については、大学時代に名前は聞いたことがある程度で長い間全く接点がなかった。その彼に興味をもったのは、10年程前に彼の代表作              「死霊」の文庫本上・中・下巻を読んでからである。戦後の思想界の大御所達が、こぞって取り上げるこの大作に何がかかれているのか、そして彼はそこで何を語っているのか、彼等はどこまで考えているのか、興味をもったためである。「死霊」は難解な観念小説で、そこに登場する人物が長々と自分の世界観や思想を展開する物語であるが、その世界は虚無と死と静止を基調とするキリコの絵画の世界のようであった。しかし、彼等が、自分が考えていたより、遥か先まで、到達していることを暗示するものであった。

この本には埴谷 雄高と立花 隆が出逢い何を語り合ったのかその内容が示されていた。

この本は、199645日の発行であり、24日付で埴谷 雄高のあとがきが書かれていた。これは、彼の死の一年前のことで、この時87歳、ちなみに立花隆は、56歳である。20244月から見れば28年前のことである。

ところが、この内容となったインタビューは、1992318日の夕方から319日の早暁にかけて東京吉祥寺にある埴谷邸のおよそ12時間の対話の録音記録であり、この時埴谷雄高83歳、立花隆52歳の時である。インタビューの録音テープは、A450頁にも上る膨大なもので、それが100頁程に圧縮され、同年の雑誌「太陽」の6月号に掲載された。この時の記事は、「生命の根源から人類の究極へー立花隆が「埴谷雄高」にすべてを聞く」であり、この内容に、この19919月号に掲載された立石伯の「埴谷雄高年譜-虚実の向こう側」と白川正芳の書き下ろしである「死霊との対話―9章及び出発の頃」を新たに追加してまとめたものがこの「生命・宇宙・人類」と云う本である。

ちなみに、「死霊」の9章が書かれ、発表されたのは、1995年(平成7年)の群像の11月号であるので、それは、このインタビューの3年後「生命・宇宙・人類」の出版の半年前と云うことになる。その意味でこの本は、「死霊」の完成記念を祝って出版されたものと云える。

では、この本の中で、中で何が語られているのか、一言でいえば、「生い立ちから思想形成の経過と83歳時点での世界観と思想について」であり、題名の如く「生命・宇宙・人類」についてである。その内容の全貌は、簡単には要約出来ないので、本文に接して感ずるしかないが、彼の思想を解体する少しの割れ目を発見することは出来たような気がする。その感想のいくつかを整理してみたい。

驚くことに、彼の問題意識は、2024年現在の現代科学の直面している問題に確実にヒットしていることである。まず彼は、若い時にヘーゲル左派の哲学者マックスシュテルナーの「唯一者とその所有」を読んで決定的な影響を受けたと云っている。シュティルナーは、マルクスやエンゲルスと同時代の人間でヘーゲル左派に属する。彼はフィヒテとフォイエルバッハの哲学に影響され、極端なエゴイズムを軸とする哲学を展開。いかなる人間的共通性にも解消出来ない交換不可能な自己の自我以外の一切のものを空虚な概念として退け、その自己が、自らの有する力によって所有し、消費するものだけに価値の存在を認める徹底したエゴイズムという彼の思想は、青年ヘーゲル派のメンバーに大きな影響を与えると同時に批判にもさらされた。

しかしながら、彼のエゴイズムは単なる浅薄な利己主義ではなく、個々の人間の人格の独自性と自律性を最大限に重んじる立場である。シュティルナーの思想は、強力に個人主義に見えるが、しかし、シュティルナーによって「移ろいゆく自我(das vergängliche Ich)」と称されるその「自我」にかかわる思想は、近代的な意味の個人の概念とは異質なものであり、単に近代的自由主義における「過激な個人主義」というわけではないシュティルナーは、唯一者の自由を求めているのであって、個人(国民集団を分割した最小単位としてあらわれる人間の概念)の自由は、それとは異なる。シュティルナーによれば、自由主義の想定する「国民の自由」は、シュティルナーの求める「私の自由」とは異なるのである(Wikipekia)

現代の科学では、今脳科学やAI関係で、意識とは何かが問題になっており、その時の外ならぬ自分が感ずる意識をクオリアと称しており、シュティルナーの自我は、このクオリアと云う概念に近い。クオリアは、自分がまさしく自分である意識、自意識を指し、現代の脳科学やAI開発では、AIがかかる意識をもつか、又、この意識の移植可能性が、問題とされている。そうであるならば、埴谷の自意識に関する理解は、現代脳科学の最先端の思想を先取りしていたと云える。

それから、彼は、「死霊」の中で実体に対する反対概念として「虚体」と云うこと概念を使っているが、ホーキングの宇宙論等も読んでいるらしく、宇宙については、現代の理論物理学が想定する多次元宇宙的な世界観を持っている。

量子力学で、記述されるミクロな世界では、あらゆる物理量は、不確定な状態にあるとされる一方、我々の住む巨視的世界(古典的世界)では、いつも確定された物理量が支配している。ミクロに世界での物理量は、測定されることにより、マクロな世界での確定値として現れる。この不確定から観測により確定値が定まるプロセスは、量子力学では、縮退と云う言葉で表現され、ミクロな世界からマクロな世界に移る過程で生ずるとされ、そのような解釈は、コペンハーゲン解釈と云われてきた。

しかし、近年このコぺンハーゲン解釈に対して、それは、縮退等ではなく、可能性のある状態を選んだ結果であり、その他の状態も出現している可能性もあると云う多次元宇宙論的な解釈も出てきている。つまり、測定によって決まった値以外の数値も別宇宙で存在すると云う思想である。この点を以前可能性の歴史学として思いついたことがあった。我々は、実現したもの(実体)だけを必然的なものとして理解しているが、我々の世界では、

実体化していなくとも別の宇宙で実体化しているかも知れないもの、これを埴谷は、「虚体」としているようなのである。我々の世界は、実現した宇宙と未実現の宇宙の混在した

世界という複雑な構成をしている。これが私の中で稲妻のように閃いたことであった。

さらに彼は、人類を食と性に拘束された生命体、地球上の生命体の食物連鎖の頂点に存在する一形態として捉え、他の生命を犠牲にして成り立つ人類の在り方をこの生命体の持つ宿業として捉え、それを脱するために、別の形でエネルギーを吸収し、性のしがらみから脱出して生きる生命体をも夢想する視点から、キリストや釈迦の批判にまで及ぶ。その一方でその生命が宇宙へ進出して、現在の人類とは全く異なる生命として発展する可能性についても言及している。これも、月での資源開発や火星での基地建設の可能性が、議論される現在極めて現代的な視点と云える。

このインタビューが行われた時点では、ゲノム編集でのブレイクスルーであるキャスバー9やコンビューター技術のブレイクスルーであるデープラニングやチャットGPTにみられる人工知能(AI)の誕生等は知られていないが、間違いなく彼等は、こうした事態を想定した議論をしているのに驚かされる。

この本を一通り読み終わったとき、同じような文章に出会ったことを思い出した。書棚の奥を調べると出て来た本は、「無限の相のもとに 立花隆 埴谷雄高」:平凡社1997128日初版出版、定価1700円であった。こちらは、「死霊」を読み終えたとき、埴谷雄高のことがもっと知りたくて買い求めたものであるが、その内容の壁の高さにそのまま放置していたものであった。


こちらの内容を今回あらためて見てみるとこれは、19923月に行ったインタビューの500頁もの原稿を350頁に整理したものに、この後に行った「追補インタビューとそれ以前に行ったインタビュー(ともに「太陽」編集部が行った)の内容を付け加えたもので、埴谷雄高の死を記念に出版されたものであることが分かった。ちなみに、この本を私が買ったのは、この本に挟まれていた絵画展の葉書から2011年の7月頃と判断される。

「生命・宇宙・人類」は、「死霊」の完成を記念したもので「無限の相のもとに」は、埴谷雄高の死を記念したものであったのである。「無限の相のもとに」を出版して後24年後2021430日知の巨人と称された立花隆が80歳で亡くなった。立花隆は、2002年に大腸癌の手術を受け、2004年に膀胱癌が発症し、2007年には、膀胱がんの手術も受けているが、2021年の死因は、急性冠症候群とされる。これは急激な冠動脈狭窄によって生じる以下の三つの病態を包括した名称であるので、冠動脈狭窄が原因であり、癌による直接死ではなかった。いずれにせよ、立花隆の知的活動も2011年頃つまり70歳までがピークであったと云える。いずれにせよ、今回の本を読み終えて、埴谷雄高と立花隆という二人の知の巨人が、晩年に眺めた世界の風景の一端を追認することが出来た。これを一つの指標として更なる高みを目指す足掛かりを得たように思った。