三月の古書展で出会った本である。題名に魅かれて思わず手にした本で、内容を少し確認しただけで、即購入した。その二週間程前、闘病中の友人のS君が、ラインで人間死んだら無になるのだろうかと問いかけて来た。私は、必ずしもそうではないのではないか、人間の生は、時空連続体の中の一条の光のようなものであるからと答えたが、多分それだけでは答えにならないのだろうと心のどこかで思っていた。死そのものについて、自分の考えを整理しておく必要を感じていた。この本を購入したのは、その問題意識があったせいである。購入してすぐに一回目を読み終えたが、よく理解できなかった。
この世この生―西行・良寛・明恵・道元―:上田三四二著:新潮社:1984年9月25日発行、1993年1月20日18刷。定価1600円のこの本は、古書展では、300円で新品であった。
著者の上田 三四二(うえだ みよじ、1923年(大正12年)7月21日 - 1989年(平成元年)1月8日)は、昭和期の歌人・小説家・文芸評論家。内科医。専門は結核。医学博士。
1949年(昭和24年)に北原白秋系の歌誌「新月」に参加し、その後アララギ派に移行。1956年(昭和31年)には歌会「青の会」結成に参加。1966年(昭和41年)に大腸癌、1983年(昭和58年)に膀胱癌を患う。二度の大病を経て、晩年は生命の内面を見つめ直した著述が多くなり、西行や良寛といった仏教の死生観を追求した歌人に傾倒した。平成改元最初の日である1989年1月8日、大腸癌のため東京都東村山市の病院で死去。1979年(昭和54年)から6年間、1987年(昭和62年)から2年間と8回にわたって、宮中歌会始選者を務めた著名人でもある。(Wikipedia、Wiblio辞書)
この本は、昭和55年から59年にかけて「新潮」に掲載した生死に関する5つの文章と読売新聞に寄稿した文章を編集したものである。彼は43歳の時大腸癌を発症しており、昭和55年(1980年)は闘病生活14年目で、著者57歳に当たる。この3年後の1983年(昭和58年)には、60歳で膀胱癌を発症しており、この本は、生死の境を生きた時期に書かれた文章を集めたものである。彼はこの本の出版の5年後に亡くなっている。
4月の末、この本を再び手に取って読み直し、この本の中核部分は、57歳の時に発表になった花月西行にあると思った。彼の「死」に関する論考の出発点は、フランスの哲学者
ウラジミル・ジャンケレヴッチの作品「死」にある。
ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ(Vladimir
Jankélévitch フランス語: [ʒɑ̃kelevitʃ]、1903年8月31日 - 1985年6月6日[1])は、20世紀フランスの哲学者。
独特の思考を展開した、「分類できない哲学者」("Philosophe
inclassable")。その思考の源泉は古代ギリシア(プラトン、アリストテレス、そして新プラトン主義のプロティノス)、教父哲学(アウグスティヌスほか)、モラリスト(グラシアンほか)、近代合理論哲学(スピノザ、ライプニッツ)、近代ドイツ哲学(シェリング、キェルケゴール、ニーチェ)、いわゆる「生の哲学」(ジンメル、ベルクソン)などをはじめ、極めて多様である。また、ドビュッシー論やラヴェル論などの音楽論でも著名。ピアノ演奏を好み、演奏の音源も残されている。
フランスのブールジュに生まれる。両親はロシア帝国領(現在のベラルーシ)からの移民。父シュムエルは医師であり、またヘーゲル、シェリング、フロイト、クローチェらの著作を含む多くの書籍の仏訳者。パリの高等師範学校を卒業後、1926年にはフランスの一級教職員資格であるアグレガシオンに首席で合格。フランスその他で、教職につき、ナチス占領下では、レジスタンスに参加、1968年の五月革命に際してはデモに積極的に参加し、学生から信頼を得ていた数少ない知識人であった。
上田三四二が「死」の問題を考える契機としたのが1966年に出版された下記の本である。
- 1966, La Mort
- 『死』(仲澤紀雄訳、みすず書房、1977年)
ジャンケレヴィッチは、「死」を「死のこちら側の死」、「死の瞬間における死」「死の向こう側の死」と三つに分けて考えているが、ここで問題となるのは、最後の「死の向こう側の死」である。死の向こう側に後世というものがあるかそれとも虚無があるだけなのかである。
ジャンケレヴィッチの立場は、後世と云うものはなく、虚無があるだけでもないと云う立場らしい。そしてそれは、死後は絶対に無だが、生きたと云う事実そのものが光芒を曳いて無の上にかかっていると云うことを意味する。この視点は、時空連続体の一条の光と云う私の生の在り方論と類似している。
しかし上田氏は、「死の向こう側の死」をめぐって考える。死後はないと考え、死に至る生をどう生きるかのみを考えるその先達として吉田兼好を取り上げ、それに共感してきたと云う。しかし、その考え方に一抹の不安を覚えた彼は、西行に向かう。その西行は、「死の向こう側の死」を視野の内に取り込んでおり、それを有名な「願わくは、花のもとにて春死なんその如月の望月の頃」に見る。
しかし西行は、現世を穢土とし後世に望みの全てを託くそうとする後世者ではなく、あくまで、現世にこだわっている。後世が成立するためには、身を離れて心は成立するかと云う問題に帰着する。ジャンケレヴッチも心と身の二元論を認めない。しかし、彼は此岸と彼岸の間を結ぼうとして彼岸が意味を持つには、此岸の生の云い難いまでの充実、「比類ない味わい」の持続が信じられているからだと云う。
「ジャンケレヴッチは生と死、現世と死後の世界の間にありえないはずの連続性を回復しようとする。ありえないはずの連続性であるからむしろ相互呼応性とでも呼ぶ方が良いかも知れない。かれは、その連続性を現世と死後との間だけでなく、現世と生前の間にも回復しようとする。生前、生、死後、このように連続しつつ生にとっては超自然的ものである生前と死後に挟まれた現世の生と云うもの。すると、この現世の生と云うもりのは、私達が考えているほど、自然的なも日常的なものではないのではないか。慣れによって平凡で自明なものと考えられているこの現実、この生は、思いのほか、超自然的なものの相を帯びているのではないか。推論は、充分に魅惑的であり、戦慄的だ。」
つまり、「超自然的な始まりと終わりに挟まれた連続は、始まりと終わりと同様に超自然的なものだ」
空海は秘蔵宝鑰 の巻頭の詩で云う
生生生生暗生始・・・生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く
死死死死溟死終・・・死に死に死に死んで死の終わりに溟し
「両端の超自然的なものに挟まれたそれとの連続としての生は、日常的、自然的でありつつ未生の闇と死後の闇をもつ故に、その日常性、自然性がそのまま神秘であり、超自然的なのである。」
日常の隙間にときたま姿を見せる美や感動(これを私は永遠の相といっているが)、西行における花月とは、現世におけるその神秘性、超自然なものの露呈である。
「死後を暗い黄泉的とみる他界観は、超自然的なものを自然的波長でみる誤った像であり、超自然的なものを超自然的な波長で見ればそこに浄土的世界が現れるだろう」
ジャンケレヴッチは語る「此岸自体、その奇妙で神秘的な無償性がすでに超自然的であると考えなければならないのだ。此岸とそれを埋めるすべての生は、火のカーブを描いて永遠の奥底に消え去る。死によって、この世の全ての存在は、コーヒー店主にいたるまで超自然的な存在なのだ」「つまり、結局は、生そのもの、生きる喜びそして生きた自然性の超自然性の中に、我々は滅びることのない実存の証を見出すことになろう」
この言葉に著者は、「これまで見えてこなかった新しい認識の地平が、開かれているのを覚える」でこの「花月西行」の文を終えている。
あとの5つの文章は、全てこの観点の応用編であり、自然性の中にどのように超自然性を見出し、現世(此岸)と来世(彼岸)の境界を消し去るかについての記述であり、ここにおいては、「死後はどうなるか」と云う問題そのものが、消え去ることになる。
まとめてみれば、兼好法師は、現世の時間を限りなく引き伸ばし、この結果薄くなった時間の裏に超自然性をみつけ、西行は、花月の中に見る美を通して現世の裏にある超自然性に目覚め、明恵は、現世そのものを浄土と見なすことによって超自然を現出させ。良寛は、無為無能により、人の世と自然に分け入り、超自然の世界に遊ぶ。そして道元は、日常坐臥の一瞬一瞬に超自然の世界を観よと云いそれは只管打座による心身脱落により現出すると云う。
つまり、生死の問いかけの答えは、その問そのものを消し去るところにある。そしてこのことは、自分がずっと考えて来たように、日常の中に永遠の相をみることに他ならない。