はじめに
その紫色の装丁に魅かれて思わず手にした本があった。本の帯に書かれた文にさして心が魅かれなかったが、目次の中に散見された悪女や美しい老い、和泉式部や小野小町といったキーワードに興味をそそられ、古書店で購入したのが、下記の本であった。
「大姫考―薄命のエロス:馬場あき子:大和書選書:大和書房:1972年6月初版発行」
この本に触発されて女性と知のあり様について日頃考えていることをまとめてみようと思い立った。
大姫考」の概要
著者は、1928年生まれで昭和女子大卒の女流歌人。内容は、1970年(昭和45年)から1972年(昭和47年)の間、つまり著者42歳から44歳の間に芸術生活や婦人公論等13もの雑誌に掲載したエッセイをまとめたもので、それにその当時未発表であった原稿「大姫考」を加えたもので、本の題名は、ここからとったと「あとがき」に書かれていた。本は、全体が三部構成となっており、エッセイ部分が第1部と第Ⅱ部を構成しており、第Ⅲ部が「大姫考」に充てられていた。1部とⅡ部の区分けは、明確な基準に沿ったものではなく「ことに意味のあるものではない」と著者の言葉にあるが、しいて言えば1部が性愛と老いと女歌をめぐるエッセイ、Ⅱ部が女性の生死と文学論をめぐるエッセイと云えるかも知れない。そしてⅢ部の「大姫考」は、家運に大きくかかわらざるを得なかった大姫=長女の宿命的な生き方を考察したエッセイであった。
1部(性愛と老いと女歌)は、次のエッセイ群から構成されている。
悪女考―挑発の論理―
夫殺しの弁明―愛の原型としての殺意
美しい老いへの叛きー鬼女考
妖たる魂しずめー和泉式部と小野小町
闇の性のかなたへーエロスの闇と三輪の闇
女流の歌にみる怨念の系譜
女歌のゆくえ
Ⅱ部(女性の生死と文学論)は次のエッセイ群からなる
一所の死への願望―汝がゆくへの恋しさに
酷薄な生と死の混淆―能面の生と死
鬼哭の参虐
魅力的な盗の世界
鬼のお出かけ
妄執論―源三位頼政序説
埋もれ木の歌人―源三位頼政論
定型の中の文体確立の苦悩
中世歌謡と民衆思想
第Ⅲ部 大姫考(長女の宿命をめぐる考察)
エッセイは、著者の多様な視点の感覚的表現であり、「今後とも私の仕事の一部になってゆくであろう萌芽の部分を秘めたもの」であるので、それを要約することは非常に困難であるがそれを私なりの受けとめ方で、あえて主要なテーマごとにまとめてみる。
悪女と鬼女
女の価値が男によって一方的に決められた時代、それに果敢に挑戦し、挑発によって男を翻弄した女。これが悪女であり、この意味で美人は本質的に悪女と云える。第Ⅰ部はこの男のとの関係における女のありようのエッセイから始まり、体制の庇護から離れて暮らさざるを得なくなった女、鬼女へと考察は進む、このいずれも、体制の領域をはみ出した存在であるが、悪女が、自発的であるのに対して鬼女は結果として体制から放遂された存在である。
愛と殺意と老い
こうした異形の在り方を背景にして、男の裏切りへの対応としての殺意が、愛の延長線上に語られ、さらに宿命的に訪れる老いに対峙する女の情念とその行く先についての考察がつながる。恋愛が遊戯と化した王朝の古に出現した対照的な二人の女性、小野小町と和泉式部、容色に魅かれて言い寄る男の不誠実を見抜いて、かたくなに身を固くして守り抜き、夢の中に理想の愛を夢見て、老いさらばえてゆく小町に対して、情のままに、何度もの恋を重ね、その果てに空虚さを見つめた式部。二人は、共に自立が不可能だった時代における恋のありようの対照的な姿を示す。殺意や恋は、若い時期のテーマであるが、もっと現代的なテーマは、老いへの対応である。「老いることを希わぬのにいち早く老いてゆくしまう肉体と、老い枯れることを希いながら朽ゆかぬ情念と二つの谷間で女は苦しみやすく生きてきたしこれからもそうであろう」その悩みの究極の姿を能の「姨捨」「山姥」「黒塚」の中にみて論じたのは、著者が喜多流の能を学びその世界を知っているからできたことである。
女歌と抒情の現代的課題
鬼女を生み出したのは、当時の社会からの空間的孤絶であったと云える。この条件は、現在では、自分の意志でポツンと一軒家に住む極少数者でしかないが、高齢社会と技術変化の環境に時間的に隔離された老人たちは多数存在する。この人達の多くが鬼女と変じかねないことを考えるとこれは極めて現代的な課題でもある。その時、鬼女の世界を浄化するものとして詩花の根源をなす抒情のエネルギーがエロスである。「エロスの形而上学は快楽であったが、快楽には、人間の原初の火が必要である」エロスとは、最初の自我であると共に、他者の発見なのである。」「エロスの闇には異形のもが眠っている。」この闇には共通のカオス、つまり神としての高貴な愛の精神と対称的な肉欲の求めの混沌としてまじりあう闇である。」このエロスの闇の彼方にある漠然たる無形の存在感の重さが意外に大切なものであり、「このエロスの闇は、現代においてもう一度呼び戻されねばならぬ抒情である」
女歌の方法と行方
1970年代、政治の時代に、女歌とは「恋の情感がいつも下敷きとなっていて匂やかさを保っているような歌」であると考え、女歌の在り方として政治や思想や西欧哲学によらず、「女歌と古典、この伝統の中に自己をつなぎ留め過去と現在の凝縮の中から女の情念や怨念をあるいはそこに密閉された血のゆくへを見つめる」方法、言い換えれば、「女の地獄を通して時代の魂を見る方法」を提唱し、そこに女歌の行方をみたのは、著者の卓見であったと言わざるを得ない。
義仲と頼政の死をめぐって
日本の古典である「平家物語」「源氏物語」「源平盛衰記」「今昔物語」等の主要なテーマは生と死であるが、その死の具体例として木曽義仲と頼政を取り上げたのは、女性である著者にとってこの二つがどうにも理解しがたいことであったためではなかろうか。義仲とその乳兄弟兼平の二人の同性愛的な「一所の死」への願望は、三島由紀夫の死と同様女性には、理解不能な出来事で、著者は、結局その最後を「悲壮な、ある情事の終わりをみてしまったような寂しさ」と結ばざるを得なかった。もう一つの女性にとって理解不能な死が「頼政」の死であつた。源平の時代、源氏の傍流の一門とした頼政は、源平の争乱から絶えず距離をおき、和歌と社交性により、宮中で従三位にまで出世する。その頼政は、77歳の時突如として、勝利の見通しのないまま、謀反を起こし戦死する。その心情は、次の辞世の歌に込められている。
埋もれ木の花咲くこともなかりしに実のなるはてぞあわれなりける。
著者は、この頼政を突き動かすものを「妄執」とし、それを「常識をこえ、異常な次元に高騰したまま存在する情念の在り方」で、そこに極点までたどり着いた人間の欲望すなわち人間の存在の意味を感じたと見た著者は、「妄執論―源三位頼政序説」と「埋もれ木の歌人―源三位頼政論」の中で、長文のエッセイを書く事になる。
]闇と生死の境界
王朝と源平の時代には、統治された領域の周囲には、権力の手が届かない領域、異界が広く広がっており、その権力に従わぬ者達は、鬼と称された。その典型が大江山の酒呑童子であるが、治世領域でも、非合法的行動をするものは、治世外に住む鬼と称される。法治の世界と異界(闇)との関係は、今昔物語や更級日記等の逸話の中で「鬼」仕業の出来事として事件ではなく物語として取り上げられている。
この法治の世界と異界との関係は、既知の世界と未知の世界と云う意味で、現世と来世すなわち生の世界と死の世界を連想させる。こうした生と死の混濁した酷薄の世界を背景とした芸術が「能」の世界でそこでは、生と死が行き交う世界が描かれる。そのとき、その象徴として能面が位置づけられ、交流のリズム、効果音として、笛、太鼓、鼓等の音曲があると云うことだはなかろうか。
古典と文学をめぐって
「文学的参加の空間」と「定型の中の文体確立の苦悩」と「中世歌謡と民衆思想」は、一言でいえば、著者の文学論であり、「文学的参加の空間」では、古典には、読者の主体的参加の場が用意されているので、「常に現実の痛みに敏感な多面的心づかい」、つまり「甲斐ある空想の力」を持って作品を読めと云い、「定型の中の文体確立の苦悩」では、短歌の伝統的な原点としての万葉集を俳句の原点としての芭蕉を据えている。五七調と七七調等の定型の意味について、型の文学において「型は絶対的であり」「その詩形の中で、どれだけの事がいえるかと云う多欲な表現への意図を持ったとき、はじめて、言葉の重さや多様な表情は意識される」これが、定型についての議論の出発点であることは理解出来た。
源平の時代から書くものとしての和歌に対して歌うものとしての歌謡が成立し、それを表したものが、閑吟集や梁塵秘抄であるが、「中世歌謡と民衆思想」は、中世における民衆思想と民衆の中で広く歌われた歌謡との橋渡しになったのが、古典教養をもつ世捨て人の一群であり、和歌や能との繋がりが論じられているが、歌うものとしての歌謡論としては、まだ、序論的なものに終わっている。
大姫考
大姫とは、長女のことであるが、それは単に出生の順序を表す言葉ではなく、古代社会では神に仕える一族を代表する巫祝としての意味があり、時の流れの方向や生活そのものへの示唆や集団のあり方への啓示等特殊能力の保持者として家の命運を左右する存在として位置付けられていた。特に姻戚関係が一族の命運を左右する時代にあっては、大姫の命運は家の命運の一端を担うものとして、二の姫、三の姫とは、比較にならぬ重さがあった。この場合、大姫の適齢期は、おおくその父の最も波乱の多い活動期に当たっていることから、その処遇は、親の思惑等外的条件に強く支配されることになる。その宿命と「私」の思いの間で、彼女達が如何に生きたのか。これがこの論考のテーマである。
古事記にみる天つ神の秩序からはみ出して生きる楽しみをしったがゆえに破滅した天若日子を手掛かりに、王朝時代、二条の后高子と在原の業平の恋等既存の秩序からはみ出して生きる楽しみを知った大姫達の挫折と破滅の物語を分析したのがこの論考であり、王朝文学を理解する手掛かりの一つがここにある。「鎌倉殿の13人」で示されたように、大姫の夫義高を殺害し、大姫を悲嘆の内に死にやった頼朝の一族が滅びたのは、大姫の巫祝的な力を失ったせいかも知れない。一族の中における古代社会に見られたこうした長女(大姫)へある種の期待は、家長制度を取り入れた近世の日本社会にもある種の潜在意識として残り続けてきたのかも知れない。
上の姉の言動の中に早世した父に代わって一族全般に気配りする様子を幾度となく目撃してきた。さらに長女として生まれて来た多くの知人の女性達には、一族の繁栄を願う古代からの巫祝的な雰囲気を感ずるのは、私だけであろうか。昭和35年戸籍制度が改定され、戸籍制度の上からも家長制度が廃止されると、長男、長女と云う特別な意識も薄らいでゆく。しかし、この感覚は、潜在意識として、日本文化の下層にのこり続けるかもしれない。
まとめと感想
思いがけずも、女流歌人のエッセイと云う全く縁の遠いジャンルの本を読むことになったがその内容にあまり違和感を覚えなかったのは、この内容が古典を対象としていたが、私が謡をやっていて、ここで取り扱われている「頼政」「当麻」「木曽」「山姥」や「安達原」、「中将姫」や「酒呑童子」、伊勢物語の在原の業平と高子の話等を謡いの曲の中で見知っていためである。しかし、こうまで、古典を題材とするには、著者が単に歌人であると云うだけでなく能の喜多流を学び、謡の様々な曲に通じているためである。
馬場あき子のWikipediaによる経歴を最後に示すが、この「大姫考」は、彼女の教員時代の出版で、この5年後、彼女は歌作と著述に専念するため、教職を辞している。そしてこの「大姫考」の事は、経歴にも作品リストにも掲載されていない。
其の後の活躍により数多くの作品を発表し様々な賞、とりわけ旭日中綬章や文化功労者まで受賞した著者にとって「大姫考」は大した作品ではないのかも知れない。しかし、なんの先入観もないままに、手に取ってみた私にとっては、42歳から44歳、1970年代初頭のあの安保と云う政治の時代に古典を題材に文学的思考を重ねていた女性がいたことは驚きであり、新鮮な発見でもあった。
この本以外に馬場あきこの作品は、一切目にしていないが、多分この論考の中に彼女のその業績の全ての朋芽が含まれているような気がする。
馬場あき子の概要(Wikipediaより)
馬場 あき子(ばば あきこ、1928年(昭和3年)1月28日 - )は、日本の歌人、評論家、能作家、教育者。勲等は旭日中綬章。かりん主宰[1]、日本芸術院会員、文化功労者。本名は岩田
暁子(いわた あきこ)[2]。かつての本名は馬場
暁子(ばば あきこ)。
小学生時代に韻文の面白さに目覚め、『古今集』や『平家物語』の韻律に強く心を揺さぶられた。1947年窪田章一郎に師事。喜多流宗家に入門、1948年に昭和女子大国文科卒業後、中学、高校で教鞭をとった。窪田章一郎に師事し、その主宰誌「まひる野」に入会。1977年、歌作と著述に専念するために教職を辞した。翌年には歌誌「かりん」を創刊。歴史の裏側に追いやられてきた、紡ぎ、包丁を持つことに象徴される「女手」の意味を掘り返し、そこに思想の根元と創作の動機を見据えようとした。歌集に、『早笛』(1955年)、『飛種』(1997年)など。能の舞手であり、その方面への造詣も深い。評論に『式子内親王』(1969年)、『鬼の研究』(1971年)などがある。