2023年6月19日月曜日

魯迅と中国人のエトス(心性) について

 

 数年前、現代中国論をまとめた後現代ロシア論をまとめてみようと云う気になった。その途中でロシアのことを理解するには、ロシア人の心性を知ることが不可欠と思い、その手掛かりがドフトエフスキーにあると感じた。

 そして中国でロシアのドフトエフスキーに対応するのが魯迅ではないかとの直観が生まれ、魯迅の作品を一度読んでみようと思った。そんな時、古書店で見つけたのが魯迅の作品10編を収録した次の文庫本であった。


「阿Q正伝他9:魯迅、丸山昇訳:新日本文庫:新日本出版社:197511月」

この本を読もうとして、以前気になって購入した魯迅関係の以下の二冊の本があることを思い出した。

「魯迅烈読:佐高信:岩波現代文庫、岩波書店:20075月第一刷発行」

「魯迅 その文学と革命 :丸山昇:東洋文庫、平凡社:昭和40(1965)7月第一刷、昭和47(1972)4月第8刷発行」


魯迅烈読」は同文庫の「毛沢東の朝鮮戦争」が、中国共産党と毛沢東が朝鮮戦争をどう取らえ、対処したかを歴史的に跡付けた本で面白かったので、その流れで思わず購入したもので、「魯迅 その文学と革命」はそのことがあって何時かは読んでみようと古書展で見つけて購入したものである。

魯迅(1881-1936) 本名周樹人は今の上海に近い浙江省紹興の父が進士で中央政府の官僚を務める地主の家に生まれる。1213歳の時祖父が入獄し、父も重病にかかり亡くなり、家はにわかに没落する。

1994-1995年の日清戦争の敗北を契機に西欧の軍事技術を導入しようとする「洋務派」運動がおこり、その中で清朝の上からの革命を測った康有為等「変法派」が一旦政権を握ぎるが、彼等は、保守派のクーデター「戊戌政変」によって追放される。

この1898年、魯迅は、家を出て、南京にある海軍の学校江南水師学童に入るが内容に不満で退学、翌年陸軍の江南陸師学堂付設鉱務鉄路学堂に再入学、世界への目が開かれる。

この学校を卒業した1902年、魯迅は、国費留学生として日本に派遣され、そしてまず東京で、中国留学生の基礎教育機関として設けられた弘文学院2年間学び、その後1904年仙台医学専門学校に進学し、医学を学ぶことになるが、何故か医学への道を中断する。19063仙台医学専門学校への退学届けが受理され、東京に戻る。そして7月母の命により、結婚のため一時帰国するが、すぐに弟を伴って東京に戻り、もっぱら文学を研究する。

清朝の光緒帝、西太后が亡くなり清朝の最後の皇帝宣統帝(溥儀)が即位した翌年1909年帰国、浙江両級師範学校の生理学と化学の教員となり、日本語の通訳も兼ねる。1910年紹興中学校の生理学等の教員兼監学(教務長)となるも翌年1911年辞職し、紹興師範学堂校長になる。

 この時辛亥革命がおこり清朝が崩壊し、1912年南京に臨時政府が誕生。そして招かれ、教育部員となる。その後、教育部関係の仕事をしつつ各大学の講師も務めながら小説・評論等執筆活動する。軍閥政府の弾圧、国民党の反共クーデター等で危険が迫り。各地を転々。1930年上海で左翼作家連盟に加入。1936年深まる日本の侵略の危機と抗日統一戦線を求める激動の中1019日、永眠(享年55)

 魯迅の思想の基盤となる体験が、彼の家を取り巻く環境にあったことは確かで、特に14歳の時父親が重病になり、長男として没落してゆく一家の命運を背う中で経験した親族と財産をめぐる軋轢の経験と父の重病と死ぬまでの看病の経験、すなわち医師や薬をめぐる理不尽な医療への疑問等が、彼をより広い世界へと導くことになった。彼の生活の原点が、清朝末期の農村社会にあったとすれば、その彼の目を大きく世界に開かせたのは、日本での留学体験であった。彼は、1902年から1909年までの7年間日本で生活することになる。この間彼は、諸外国の植民地と化してゆく祖国の惨状を憂い、強い民族意識に目覚めると共に同じ危機感を持つ留学生や亡命革命家等と交わり光復会(中国人革命団体)に加入したりする。彼が留学生の基礎教育機関である弘文学院を卒業した後仙台医学専門学校へ進学したのは、父の看病時体験した古き医療体制への疑問からであったと思われるが、その学業を途中で打ち切って文学の道を目指すには、中国社会の現状とその改革への強い思いがあったためである。

彼は、日本で、同じく浙江省出身の留学生許寿裳と出会い親友となる。彼等は、いつも理想の人間性とはなにか中国民族に最も欠けているものは何か、その病根は何かについて議論した。そして中国民族に最も欠けているのは、誠と愛で、言い換えれば偽っても恥ずることなく猜疑からお互いに傷つけ合うと云う病に深く犯されていることで、その病根の最深の原因が二度にわたって異民族の奴隷となったことであると結論づけ、 そしてこの病の救済方法は革命であるとの結論となった。(この辺はタタールのくびきと農奴制に烙印されたロシア民族のエトスと共通する点でもある) 。上からの強制力で共同作業する集団の中では、自主的共同作業の基礎となる誠や愛と云った心性や感情は、育ちにくいのであろう。

つまり魯迅にとっての革命とは、中国民族の奴隷根性からの脱却すなわち心性(エトス)の改造を意味するものであり、このための精神改造を促す手段が、文学であると云うことであった。

今回、狂人日記、阿Q正伝等の彼の作品群を読み直して、当時の中国社会の出口の見えない暗闇のような農村を中心とする社会の心性に接し、あらためて思うのは、彼は、あの時代の中国人の病的な心性の闇を描くことによって、自分自身や仲間達、自国民に革命の標的を明確にしたかったのではないかと云うことである。ドフトエフスキーとの違いは、ドクトエフキキーに比して彼が多感な時期に文明開化すなわち急速近代化をすすめつつある同じアジアの漢字文明圏である異国日本に留学した体験をもったことで、その心性の特徴をより強烈に意識した点にあるように思う。

中国に戻った魯迅は、辛亥革命勃発と共に臨時政府の教育部員となり、教育文化行政の一端を担うと共に各大学の講師や管理業務、小説、評論等の執筆活動を積極的に展開するが軍閥や独裁政権への鋭い批判活動も行う等中国革命の混乱の渦の中に巻き込まれ、国共合作の前夜の1936年持病の喘息がもとで55歳で亡くなる。

「魯迅の人生の最後の6年間は、左派的な理念によって育まれた多くの人にとって突出した文化的英雄であった。彼の死後、ほどなくして20巻からなる『魯迅全集』が出版されたが、これは現代中国文学界における空前の出来事であった。中国現代作家の中で、このような栄誉に浴したのは魯迅以外にはいない。このような栄誉は、中国共産党により作り出されたものである。国民党との奪権闘争を通じて、かれは中国共産党にとって人民に愛される反政府的な愛国主義を宣伝する代弁者として非常に利用価値の高い存在だったからである。毛沢東は、国防文学論戦ですでに魯迅を盾にして、党内の敵対派閥を叩くという巧みな戦術を展開していたが、魯迅の死後には、中国共産党統治の正統性を宣伝するために徹底的に魯迅を利用していった。日中戦争開始直後の193710月、共産党中央と中国紅軍総司令部が置かれていた延安では、魯迅逝世1周年を記念する集会が開かれ、毛沢東が「魯迅の中国における価値は、わたしの考えでは、中国の第一等の聖人とみなされなければならない」と講演した。民国期の言論界で、欧米・日本の帝国主義国に対し抵抗しつつ、その近代文化を主体的に受容しようとした点、および左翼文壇の旗手としての国民党批判者としての「戦歴」により、魯迅は中国革命の聖人へと祭り上げられた。」(Wikipedia)

 中国民族にとっての魯迅は、本来その心性(エトス)の改造者、奴隷根性(不誠、不愛)からの脱却の指導者として評価されるべき存在であった。しかし、その死後、その功績は、軍閥や国民党批判といった政治的側面のみ強調され、中国革命政権の正統性の材料に利用されるようになった。

 清朝は滅び、中国革命は清に代わって、社会主義を掲げる中華人民共和国を誕生させた。しかし、人間の意識改造を短期間の政治教育で行おうとする毛沢東の試みは、挫折し、清と云う異民族支配体制に代わって中国共産党が支配する共産党王朝を誕生させたに過ぎないように見える。これは、ロシア革命がロマノフ王朝に換えてスターリン王朝とでも云える独裁体制を生み出したのに似ている。つまり、両者とも不誠、不愛の奴隷根性は温存されことになる。

魯迅が目指した中国民族の自立的な目覚めは中断されたままだ。毛沢東による文化大革命は、自立的に内面を制御する手段としての儒教や仏教等の文化的インフラを破壊した。文化大革命の経済的社会的失敗を償うのもとしての改革・開放すなわち道徳的倫理的インフラを欠いた社会への市場経済の導入は、利権と利益至上主義の格差社会を生み出すことになり、現代中国は、その矛盾を押さえるためにより強力な統制社会を目指さざるを得なくしている。中国は、世界に賞賛される国になるためには魯迅の目指した革命の原点に戻る必要があるのではなかろうか。

魯迅の日本における評価は、中国共産党による評価すなわち共産党政権の正当化のための政治的側面評価に偏よっているように思われる。「魯迅烈読」を読んで、違和感を覚えたのは、魯迅を革命の聖人に祭り上げ、その魯迅の視点を日本に適用して日本社会批判に繋げようとする発想が、魯迅の本当の姿を見えにくくしているように感じたからである。

王朝的支配体制から近代化への道は、その心性(エトス)の改善のプロセスを経ない場合専制国家や独裁国家を生み出しやすくなる。王朝的支配体制と近代国家との間に封建制度を経験した、西欧や日本社会と王朝的支配体制から一挙に近代国家を目指した中国、ロシア、韓国等の社会との心性(エトス)レベルでの違いは大きい。この実態を無視した外交や善隣友好は、極めて脆弱なものでしかない。魯迅は。国民間にある心性の闇の深さを直視する ことの大切さを今に伝えているのではなかろうか。 (了)