2023年12月23日土曜日

マルチユニバースミステリーと青春              2023年12月

 

何か心惹かれるものがあったとしたら、それは何かの導きである可能性が高い。僕の場合はその出逢いの場は、古書展と云うことになる。その最初の一冊が「イシュタルの船:A・メリット/荒俣宏訳:早川文庫FT:昭和574月発行:定価480円」で、作家荒俣宏35歳の時の翻訳本である。

イシュタルの船

著者のエイブラム・メリット( Abraham Grace Merritt 1884 120 - 1943 821日 )は,SF作家、新聞記者、編集者で、アメリカの秘境冒険ファンタジー作家の代表者の一人で、この原作は、1924年アメリカの大衆雑誌「アーゴシイ」に掲載されたものらしい。しかし、僕がこの本を手にした理由は、この作家に格別興味があった訳ではなく、本のカバーのイラストに魅かれたためである。また、訳者が荒俣宏というのも安心感と期待感があった。


このイラストは、アメリカの イラストレーター、ヴァージル・ウォードゥン・フィンレイ (Virgil Warden Finlay 1914 723 - 1971 118 の作品で、アメリカ合衆国ニューヨーク州ロチェスター生まれ。戦前から戦後にかけてファンタジー、SF、ホラーのパルプ・マガジンに多くの美麗な挿絵を発表した。フィンレイが得意とした手法は、極細のペンによる高密度の点描とクロスハッチング(密度のある平行の直線を何重にも重ねて陰影に見せる技法)やスクラッチボード等で、非常な手間と時間がかかるものであったが、彼は35年の経歴中に2,600以上の作品を残した。作風の特徴としては、当時としては顕著な官能性が挙げられる。

 物語は、冒険家ジョン・ケルトンがバビロンから出土した石塊に隠されていた帆船の模型に出会ったことから一瞬の内にこの模型の帆船の世界に入り込むことになるが、その船上では、6000年もの昔の世界で、そこでは、<生の女神>イシュタルと<死の神>ネルガルとの愛と憎悪に彩られた熾烈な戦いが繰り広げられていた。そこで、彼は、女神イシュタルに仕える絶世の美女シャラーネと出会う。本のカバーのイラストは、このシャラーネであった。

 イシュタルの船は、6000年前のバビロンの時代の帆船を舞台とした冒険・恋愛活劇であるが、早川文庫のFT(ファンタジートレジャー)FTは、幻想小説の宝物とでも分類される小説である。19世紀末から1920年代にかけては、欧米では、別世界願望ファンタジーが盛んに書かれたが、この本もそうしたブームの中で生まれた作品である。

 現実世界から一瞬の内に6000年前の世界に移ると云う想定が、SFとしては、かなり無理があるため、FTに分類されている。A・メリットは、記者生活の後雑誌編集者となり、記者時代1年間中央アメリカの文明遺跡探訪を行っており、古代と現代を結び付けるテーマは、彼のこうした経歴が土台になっているらしい。

 一瞬の内に6000年前に移ると云う想定に無理があると云ったが、現代のマルチユニバース論の観点から見れば、それ程無理な想定でもない。その為か、熱烈な恋愛至上主義とも云える物語に美女シャラーネの姿を追い求めるように最後まで読んでしまった。

 活動写真の女

イシュタルの船をよんでから半年程経って古書展で55手にしたのが「活動写真の女:浅田次郎:集英社文庫:20035月発行 定価552円」であった。この本に魅かれたのは、まず著者の浅田次郎の名前と本の裏側の内容紹介の一文であった。「昭和四十四年、京都。大学の新入生で、大の日本映画ファンの僕は、友人の清家忠明の紹介で古き映画の都・太秦の撮影所でアルバイトをすることになった。そんなある日、清家は、撮影現場で、絶世の美女と出会い、激しい恋に落ちる。しかし、彼女は、三十年も前に死んだ大部屋女優だった。若さゆえの不安や切なさ、不器用な恋。失われた時代への郷愁に満ちた瑞々しい青春恋愛小説の傑作」青春期における絶世の美人との出会い。この言葉に反応して思わず購入し、読み始めると一気に最後まで読んでしまった。


 浅田 次郎(あさだ じろう、1951年〈昭和26年〉1213 - 、本名・岩戸康次郎[1])は、日本の小説家。血液型はA型。中央大学杉並高等学校卒業。陸上自衛隊に入隊、除隊後はアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説作品を経て、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説の他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も含め、『壬生義士伝』など映画化、テレビドラマ化された作品も多い。2011年から2017年に日本ペンクラブ会長。2013年には、柴田錬三郎賞、山本周五郎賞選考委員、2022年現在、直木賞選考委員。(Wikipedia)

  この本を手にしたとき、浅田次郎の名前に少し、違和感を覚えた。その作品の「鉄道員」や『壬生義士伝』を聞いたりみたりした記憶があるが、その著者が浅田次郎と結び付かなかったその理由は、その名前が、新田次郎と一字違いであったためであった。

 新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと)、191266 - 1980215日)は、日本の小説家、気象学者。無線電信講習所(現在の電気通信大学)卒業。

中央気象台に勤めるかたわら執筆。山を舞台に自然対人間をテーマとする、山岳小説の分野を開拓した。『強力伝』(1955)で直木賞受賞。作品に『孤高の人』(1969)、『八甲田山死の彷徨』(1971)などがある。(Wikipedia)。彼の作品の「アラスカ物語」や「八甲田山死の彷徨』を知っていたので、その連想と重なったのである。

しかし、こんな誤解と関係なく物語にのめりこんでいったのは、物語の舞台が昭和44年と云う僕が過ごした大学時代に極めて近似した時代であったことである。この物語の登場人物は五人、僕と恋人の早苗、そして清家と絶世の美女夕霞と撮影所に勤務する老人。しかし、30年前の美人を介在させることによって、昭和13年と昭和44年がシンクロナイズしてくる。確かにあの時代は、三島事件など戦前と現代が入り混じった奇妙な事件の起こり得る時代であったような気がしてきた。

 逢魔が時

もう40年も前、友人に連れられて錦3丁目のとあるスナックへいったことがある。そのスナックは、桜通り近くの貸ビルの6階にあるカウンターと客席の定員10人ばかりの店であった。その店の経営者の女主人が友人の知り合いと云うことであった。その女性はかつて文学少女と云うことで、その店には、彼女と親しい男達が、サロンよろしく集まっていた。その彼女が、60歳近くになって店を閉じることになり、それを機会に記念誌を発行し、その出版バーティを名古屋観光ホテルで行ったことがあった。その時、5000円の会費と引き換えに手渡されたのが「逢魔が時」と云う自費出版の彼女の私小説本であった。

逢魔時は「何やら妖怪、幽霊など怪しいものに出会いそうな時間」、大禍時は「著しく不吉な時間」を表していて、昼間の妖怪が出難い時間から、いよいよ彼らの本領発揮といった時間となることを表すとする。逢魔時の風情を描いたものとして、鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』があり、夕暮れ時に実体化しようとしている魑魅魍魎を表している。昔から他界と現実を繋ぐ時間の境目と伝えられている。(Wikipedia)


彼女が、自分の小説にこの題名を付けたのは、多分水商売での客との接触を逢魔が時の出逢いのようなものとなぞらえたことに由来する。その本の内容には、ほとんど興味が湧かなかったが、そのパーティの席上、東京から参加した知人が、自作の四行単位で綴った長編詩を朗々と読み上げていたことだけが鮮明に記憶に残っている。

 活動写真の女を読み終えて、大学時代を思い出したとき、この「逢魔が時」と云う言葉が思い出されてきた。

マルチユニバースな世界と青春

 逢魔時は、昼と夜の二つの世界が入り乱れる時であるが、これが青春と云う時期であるなら、あの魑魅魍魎達はなんであろうか。それは単にマルチユニバースの一つだけを表したものであり、実際には、もっと多様な世界がありえたのではないか。つまり、あの時代僕はもっと多様な時間の流れや世界を垣間見ていたような気がするのである。

 コロナ明けの2023年、数年振りの大学の同窓会の際、僕は、隣合わせた友人達にあの当時何をして、何を学んでいたのか片っ端から聞いてみた。しかし、彼等の答えは、皆曖昧であった。そして僕は、突如として悟った。あの当時僕がみたのは、マルチユニバースのホログラフのようなもので、実際に僕の血や肉になったのは、実宇宙で出会ったほんの数人の人達との出会いと接触によるものではなかったかと。「イシュタルの船」も「活動写真の女」も基本的に二つの世界を往き来する物語であるが、現実は、もっと複雑で、もっと沢山の世界を往き来しているのではなかろうか。青春は謎に満ちている。しかし、80歳になってようやくそのもつれた世界の謎を解きほぐすことができる気がしてきた。 了

                                   

2023年7月10日月曜日

「大姫考」ー古典文学にみる性愛と生死の抒情と思想

 

はじめに

その紫色の装丁に魅かれて思わず手にした本があった。本の帯に書かれた文にさして心が魅かれなかったが、目次の中に散見された悪女や美しい老い、和泉式部や小野小町といったキーワードに興味をそそられ、古書店で購入したのが、下記の本であった。

「大姫考―薄命のエロス:馬場あき子:大和書選書:大和書房:19726月初版発行」

この本に触発されて女性と知のあり様について日頃考えていることをまとめてみようと思い立った。

大姫考」の概要

著者は、1928年生まれで昭和女子大卒の女流歌人。内容は、1970(昭和45)から1972(昭和47)の間、つまり著者42歳から44歳の間に芸術生活や婦人公論等13もの雑誌に掲載したエッセイをまとめたもので、それにその当時未発表であった原稿「大姫考」を加えたもので、本の題名は、ここからとったと「あとがき」に書かれていた。本は、全体が三部構成となっており、エッセイ部分が第1部と第Ⅱ部を構成しており、第Ⅲ部が「大姫考」に充てられていた。1部とⅡ部の区分けは、明確な基準に沿ったものではなく「ことに意味のあるものではない」と著者の言葉にあるが、しいて言えば1部が性愛と老いと女歌をめぐるエッセイ、Ⅱ部が女性の生死と文学論をめぐるエッセイと云えるかも知れない。そしてⅢ部の「大姫考」は、家運に大きくかかわらざるを得なかった大姫=長女の宿命的な生き方を考察したエッセイであった。

1部(性愛と老いと女歌)は、次のエッセイ群から構成されている。

 悪女考―挑発の論理―

 夫殺しの弁明―愛の原型としての殺意

 美しい老いへの叛きー鬼女考

 妖たる魂しずめー和泉式部と小野小町

 闇の性のかなたへーエロスの闇と三輪の闇

 女流の歌にみる怨念の系譜

 女歌のゆくえ

Ⅱ部(女性の生死と文学論)は次のエッセイ群からなる

 一所の死への願望―汝がゆくへの恋しさに

 酷薄な生と死の混淆―能面の生と死

 鬼哭の参虐

 魅力的な盗の世界

 鬼のお出かけ

 妄執論―源三位頼政序説

 埋もれ木の歌人―源三位頼政論

文学的参加の空間

定型の中の文体確立の苦悩

中世歌謡と民衆思想

第Ⅲ部 大姫考(長女の宿命をめぐる考察)

エッセイは、著者の多様な視点の感覚的表現であり、「今後とも私の仕事の一部になってゆくであろう萌芽の部分を秘めたもの」であるので、それを要約することは非常に困難であるがそれを私なりの受けとめ方で、あえて主要なテーマごとにまとめてみる。

悪女と鬼女

女の価値が男によって一方的に決められた時代、それに果敢に挑戦し、挑発によって男を翻弄した女。これが悪女であり、この意味で美人は本質的に悪女と云える。第Ⅰ部はこの男のとの関係における女のありようのエッセイから始まり、体制の庇護から離れて暮らさざるを得なくなった女、鬼女へと考察は進む、このいずれも、体制の領域をはみ出した存在であるが、悪女が、自発的であるのに対して鬼女は結果として体制から放遂された存在である。

愛と殺意と老い

こうした異形の在り方を背景にして、男の裏切りへの対応としての殺意が、愛の延長線上に語られ、さらに宿命的に訪れる老いに対峙する女の情念とその行く先についての考察がつながる。恋愛が遊戯と化した王朝の古に出現した対照的な二人の女性、小野小町と和泉式部、容色に魅かれて言い寄る男の不誠実を見抜いて、かたくなに身を固くして守り抜き、夢の中に理想の愛を夢見て、老いさらばえてゆく小町に対して、情のままに、何度もの恋を重ね、その果てに空虚さを見つめた式部。二人は、共に自立が不可能だった時代における恋のありようの対照的な姿を示す。殺意や恋は、若い時期のテーマであるが、もっと現代的なテーマは、老いへの対応である。「老いることを希わぬのにいち早く老いてゆくしまう肉体と、老い枯れることを希いながら朽ゆかぬ情念と二つの谷間で女は苦しみやすく生きてきたしこれからもそうであろう」その悩みの究極の姿を能の「姨捨」「山姥」「黒塚」の中にみて論じたのは、著者が喜多流の能を学びその世界を知っているからできたことである。

女歌と抒情の現代的課題

鬼女を生み出したのは、当時の社会からの空間的孤絶であったと云える。この条件は、現在では、自分の意志でポツンと一軒家に住む極少数者でしかないが、高齢社会と技術変化の環境に時間的に隔離された老人たちは多数存在する。この人達の多くが鬼女と変じかねないことを考えるとこれは極めて現代的な課題でもある。その時、鬼女の世界を浄化するものとして詩花の根源をなす抒情のエネルギーがエロスである。「エロスの形而上学は快楽であったが、快楽には、人間の原初の火が必要である」エロスとは、最初の自我であると共に、他者の発見なのである。」「エロスの闇には異形のもが眠っている。」この闇には共通のカオス、つまり神としての高貴な愛の精神と対称的な肉欲の求めの混沌としてまじりあう闇である。」このエロスの闇の彼方にある漠然たる無形の存在感の重さが意外に大切なものであり、「このエロスの闇は、現代においてもう一度呼び戻されねばならぬ抒情である」

女歌の方法と行方

1970年代、政治の時代に、女歌とは「恋の情感がいつも下敷きとなっていて匂やかさを保っているような歌」であると考え、女歌の在り方として政治や思想や西欧哲学によらず、「女歌と古典、この伝統の中に自己をつなぎ留め過去と現在の凝縮の中から女の情念や怨念をあるいはそこに密閉された血のゆくへを見つめる」方法、言い換えれば、「女の地獄を通して時代の魂を見る方法」を提唱し、そこに女歌の行方をみたのは、著者の卓見であったと言わざるを得ない。

義仲と頼政の死をめぐって

日本の古典である「平家物語」「源氏物語」「源平盛衰記」「今昔物語」等の主要なテーマは生と死であるが、その死の具体例として木曽義仲と頼政を取り上げたのは、女性である著者にとってこの二つがどうにも理解しがたいことであったためではなかろうか。義仲とその乳兄弟兼平の二人の同性愛的な「一所の死」への願望は、三島由紀夫の死と同様女性には、理解不能な出来事で、著者は、結局その最後を「悲壮な、ある情事の終わりをみてしまったような寂しさ」と結ばざるを得なかった。もう一つの女性にとって理解不能な死が「頼政」の死であつた。源平の時代、源氏の傍流の一門とした頼政は、源平の争乱から絶えず距離をおき、和歌と社交性により、宮中で従三位にまで出世する。その頼政は、77歳の時突如として、勝利の見通しのないまま、謀反を起こし戦死する。その心情は、次の辞世の歌に込められている。

埋もれ木の花咲くこともなかりしに実のなるはてぞあわれなりける。

著者は、この頼政を突き動かすものを「妄執」とし、それを「常識をこえ、異常な次元に高騰したまま存在する情念の在り方」で、そこに極点までたどり着いた人間の欲望すなわち人間の存在の意味を感じたと見た著者は、「妄執論―源三位頼政序説」と「埋もれ木の歌人―源三位頼政論」の中で、長文のエッセイを書く事になる。

]闇と生死の境界

王朝と源平の時代には、統治された領域の周囲には、権力の手が届かない領域、異界が広く広がっており、その権力に従わぬ者達は、鬼と称された。その典型が大江山の酒呑童子であるが、治世領域でも、非合法的行動をするものは、治世外に住む鬼と称される。法治の世界と異界()との関係は、今昔物語や更級日記等の逸話の中で「鬼」仕業の出来事として事件ではなく物語として取り上げられている。

この法治の世界と異界との関係は、既知の世界と未知の世界と云う意味で、現世と来世すなわち生の世界と死の世界を連想させる。こうした生と死の混濁した酷薄の世界を背景とした芸術が「能」の世界でそこでは、生と死が行き交う世界が描かれる。そのとき、その象徴として能面が位置づけられ、交流のリズム、効果音として、笛、太鼓、鼓等の音曲があると云うことだはなかろうか。

古典と文学をめぐって

「文学的参加の空間」と「定型の中の文体確立の苦悩」と「中世歌謡と民衆思想」は、一言でいえば、著者の文学論であり、「文学的参加の空間」では、古典には、読者の主体的参加の場が用意されているので、「常に現実の痛みに敏感な多面的心づかい」、つまり「甲斐ある空想の力」を持って作品を読めと云い、「定型の中の文体確立の苦悩」では、短歌の伝統的な原点としての万葉集を俳句の原点としての芭蕉を据えている。五七調と七七調等の定型の意味について、型の文学において「型は絶対的であり」「その詩形の中で、どれだけの事がいえるかと云う多欲な表現への意図を持ったとき、はじめて、言葉の重さや多様な表情は意識される」これが、定型についての議論の出発点であることは理解出来た。

 源平の時代から書くものとしての和歌に対して歌うものとしての歌謡が成立し、それを表したものが、閑吟集や梁塵秘抄であるが、「中世歌謡と民衆思想」は、中世における民衆思想と民衆の中で広く歌われた歌謡との橋渡しになったのが、古典教養をもつ世捨て人の一群であり、和歌や能との繋がりが論じられているが、歌うものとしての歌謡論としては、まだ、序論的なものに終わっている。

大姫考

大姫とは、長女のことであるが、それは単に出生の順序を表す言葉ではなく、古代社会では神に仕える一族を代表する巫祝としての意味があり、時の流れの方向や生活そのものへの示唆や集団のあり方への啓示等特殊能力の保持者として家の命運を左右する存在として位置付けられていた。特に姻戚関係が一族の命運を左右する時代にあっては、大姫の命運は家の命運の一端を担うものとして、二の姫、三の姫とは、比較にならぬ重さがあった。この場合、大姫の適齢期は、おおくその父の最も波乱の多い活動期に当たっていることから、その処遇は、親の思惑等外的条件に強く支配されることになる。その宿命と「私」の思いの間で、彼女達が如何に生きたのか。これがこの論考のテーマである。

古事記にみる天つ神の秩序からはみ出して生きる楽しみをしったがゆえに破滅した天若日子を手掛かりに、王朝時代、二条の后高子と在原の業平の恋等既存の秩序からはみ出して生きる楽しみを知った大姫達の挫折と破滅の物語を分析したのがこの論考であり、王朝文学を理解する手掛かりの一つがここにある。「鎌倉殿の13人」で示されたように、大姫の夫義高を殺害し、大姫を悲嘆の内に死にやった頼朝の一族が滅びたのは、大姫の巫祝的な力を失ったせいかも知れない。一族の中における古代社会に見られたこうした長女(大姫)へある種の期待は、家長制度を取り入れた近世の日本社会にもある種の潜在意識として残り続けてきたのかも知れない。

上の姉の言動の中に早世した父に代わって一族全般に気配りする様子を幾度となく目撃してきた。さらに長女として生まれて来た多くの知人の女性達には、一族の繁栄を願う古代からの巫祝的な雰囲気を感ずるのは、私だけであろうか。昭和35年戸籍制度が改定され、戸籍制度の上からも家長制度が廃止されると、長男、長女と云う特別な意識も薄らいでゆく。しかし、この感覚は、潜在意識として、日本文化の下層にのこり続けるかもしれない。

まとめと感想

 思いがけずも、女流歌人のエッセイと云う全く縁の遠いジャンルの本を読むことになったがその内容にあまり違和感を覚えなかったのは、この内容が古典を対象としていたが、私が謡をやっていて、ここで取り扱われている「頼政」「当麻」「木曽」「山姥」や「安達原」、「中将姫」や「酒呑童子」、伊勢物語の在原の業平と高子の話等を謡いの曲の中で見知っていためである。しかし、こうまで、古典を題材とするには、著者が単に歌人であると云うだけでなく能の喜多流を学び、謡の様々な曲に通じているためである。

馬場あき子のWikipediaによる経歴を最後に示すが、この「大姫考」は、彼女の教員時代の出版で、この5年後、彼女は歌作と著述に専念するため、教職を辞している。そしてこの「大姫考」の事は、経歴にも作品リストにも掲載されていない。

其の後の活躍により数多くの作品を発表し様々な賞、とりわけ旭日中綬章や文化功労者まで受賞した著者にとって「大姫考」は大した作品ではないのかも知れない。しかし、なんの先入観もないままに、手に取ってみた私にとっては、42歳から44歳、1970年代初頭のあの安保と云う政治の時代に古典を題材に文学的思考を重ねていた女性がいたことは驚きであり、新鮮な発見でもあった。

この本以外に馬場あきこの作品は、一切目にしていないが、多分この論考の中に彼女のその業績の全ての朋芽が含まれているような気がする。

馬場あき子の概要(Wikipediaより)

馬場 あき子(ばば あきこ、1928年(昭和3年)128 - )は、日本の歌人、評論家、作家、教育者。勲等は旭日中綬章。かりん主宰[1]、日本芸術院会員、文化功労者。本名は岩田 暁子(いわた あきこ)[2]。かつての本名は馬場 暁子(ばば あきこ)。

小学生時代に韻文の面白さに目覚め、『古今集』や『平家物語』の韻律に強く心を揺さぶられた。1947年窪田章一郎に師事。喜多流宗家に入門、1948年に昭和女子大国文科卒業後、中学、高校で教鞭をとった。窪田章一郎に師事し、その主宰誌「まひる野」に入会。1977年、歌作と著述に専念するために教職を辞した。翌年には歌誌「かりん」を創刊。歴史の裏側に追いやられてきた、紡ぎ、包丁を持つことに象徴される「女手」の意味を掘り返し、そこに思想の根元と創作の動機を見据えようとした。歌集に、『早笛』(1955)、『飛種』(1997)など。能の舞手であり、その方面への造詣も深い。評論に『式子内親王』(1969)、『鬼の研究』(1971)などがある。




2023年6月19日月曜日

魯迅と中国人のエトス(心性) について

 

 数年前、現代中国論をまとめた後現代ロシア論をまとめてみようと云う気になった。その途中でロシアのことを理解するには、ロシア人の心性を知ることが不可欠と思い、その手掛かりがドフトエフスキーにあると感じた。

 そして中国でロシアのドフトエフスキーに対応するのが魯迅ではないかとの直観が生まれ、魯迅の作品を一度読んでみようと思った。そんな時、古書店で見つけたのが魯迅の作品10編を収録した次の文庫本であった。


「阿Q正伝他9:魯迅、丸山昇訳:新日本文庫:新日本出版社:197511月」

この本を読もうとして、以前気になって購入した魯迅関係の以下の二冊の本があることを思い出した。

「魯迅烈読:佐高信:岩波現代文庫、岩波書店:20075月第一刷発行」

「魯迅 その文学と革命 :丸山昇:東洋文庫、平凡社:昭和40(1965)7月第一刷、昭和47(1972)4月第8刷発行」


魯迅烈読」は同文庫の「毛沢東の朝鮮戦争」が、中国共産党と毛沢東が朝鮮戦争をどう取らえ、対処したかを歴史的に跡付けた本で面白かったので、その流れで思わず購入したもので、「魯迅 その文学と革命」はそのことがあって何時かは読んでみようと古書展で見つけて購入したものである。

魯迅(1881-1936) 本名周樹人は今の上海に近い浙江省紹興の父が進士で中央政府の官僚を務める地主の家に生まれる。1213歳の時祖父が入獄し、父も重病にかかり亡くなり、家はにわかに没落する。

1994-1995年の日清戦争の敗北を契機に西欧の軍事技術を導入しようとする「洋務派」運動がおこり、その中で清朝の上からの革命を測った康有為等「変法派」が一旦政権を握ぎるが、彼等は、保守派のクーデター「戊戌政変」によって追放される。

この1898年、魯迅は、家を出て、南京にある海軍の学校江南水師学童に入るが内容に不満で退学、翌年陸軍の江南陸師学堂付設鉱務鉄路学堂に再入学、世界への目が開かれる。

この学校を卒業した1902年、魯迅は、国費留学生として日本に派遣され、そしてまず東京で、中国留学生の基礎教育機関として設けられた弘文学院2年間学び、その後1904年仙台医学専門学校に進学し、医学を学ぶことになるが、何故か医学への道を中断する。19063仙台医学専門学校への退学届けが受理され、東京に戻る。そして7月母の命により、結婚のため一時帰国するが、すぐに弟を伴って東京に戻り、もっぱら文学を研究する。

清朝の光緒帝、西太后が亡くなり清朝の最後の皇帝宣統帝(溥儀)が即位した翌年1909年帰国、浙江両級師範学校の生理学と化学の教員となり、日本語の通訳も兼ねる。1910年紹興中学校の生理学等の教員兼監学(教務長)となるも翌年1911年辞職し、紹興師範学堂校長になる。

 この時辛亥革命がおこり清朝が崩壊し、1912年南京に臨時政府が誕生。そして招かれ、教育部員となる。その後、教育部関係の仕事をしつつ各大学の講師も務めながら小説・評論等執筆活動する。軍閥政府の弾圧、国民党の反共クーデター等で危険が迫り。各地を転々。1930年上海で左翼作家連盟に加入。1936年深まる日本の侵略の危機と抗日統一戦線を求める激動の中1019日、永眠(享年55)

 魯迅の思想の基盤となる体験が、彼の家を取り巻く環境にあったことは確かで、特に14歳の時父親が重病になり、長男として没落してゆく一家の命運を背う中で経験した親族と財産をめぐる軋轢の経験と父の重病と死ぬまでの看病の経験、すなわち医師や薬をめぐる理不尽な医療への疑問等が、彼をより広い世界へと導くことになった。彼の生活の原点が、清朝末期の農村社会にあったとすれば、その彼の目を大きく世界に開かせたのは、日本での留学体験であった。彼は、1902年から1909年までの7年間日本で生活することになる。この間彼は、諸外国の植民地と化してゆく祖国の惨状を憂い、強い民族意識に目覚めると共に同じ危機感を持つ留学生や亡命革命家等と交わり光復会(中国人革命団体)に加入したりする。彼が留学生の基礎教育機関である弘文学院を卒業した後仙台医学専門学校へ進学したのは、父の看病時体験した古き医療体制への疑問からであったと思われるが、その学業を途中で打ち切って文学の道を目指すには、中国社会の現状とその改革への強い思いがあったためである。

彼は、日本で、同じく浙江省出身の留学生許寿裳と出会い親友となる。彼等は、いつも理想の人間性とはなにか中国民族に最も欠けているものは何か、その病根は何かについて議論した。そして中国民族に最も欠けているのは、誠と愛で、言い換えれば偽っても恥ずることなく猜疑からお互いに傷つけ合うと云う病に深く犯されていることで、その病根の最深の原因が二度にわたって異民族の奴隷となったことであると結論づけ、 そしてこの病の救済方法は革命であるとの結論となった。(この辺はタタールのくびきと農奴制に烙印されたロシア民族のエトスと共通する点でもある) 。上からの強制力で共同作業する集団の中では、自主的共同作業の基礎となる誠や愛と云った心性や感情は、育ちにくいのであろう。

つまり魯迅にとっての革命とは、中国民族の奴隷根性からの脱却すなわち心性(エトス)の改造を意味するものであり、このための精神改造を促す手段が、文学であると云うことであった。

今回、狂人日記、阿Q正伝等の彼の作品群を読み直して、当時の中国社会の出口の見えない暗闇のような農村を中心とする社会の心性に接し、あらためて思うのは、彼は、あの時代の中国人の病的な心性の闇を描くことによって、自分自身や仲間達、自国民に革命の標的を明確にしたかったのではないかと云うことである。ドフトエフスキーとの違いは、ドクトエフキキーに比して彼が多感な時期に文明開化すなわち急速近代化をすすめつつある同じアジアの漢字文明圏である異国日本に留学した体験をもったことで、その心性の特徴をより強烈に意識した点にあるように思う。

中国に戻った魯迅は、辛亥革命勃発と共に臨時政府の教育部員となり、教育文化行政の一端を担うと共に各大学の講師や管理業務、小説、評論等の執筆活動を積極的に展開するが軍閥や独裁政権への鋭い批判活動も行う等中国革命の混乱の渦の中に巻き込まれ、国共合作の前夜の1936年持病の喘息がもとで55歳で亡くなる。

「魯迅の人生の最後の6年間は、左派的な理念によって育まれた多くの人にとって突出した文化的英雄であった。彼の死後、ほどなくして20巻からなる『魯迅全集』が出版されたが、これは現代中国文学界における空前の出来事であった。中国現代作家の中で、このような栄誉に浴したのは魯迅以外にはいない。このような栄誉は、中国共産党により作り出されたものである。国民党との奪権闘争を通じて、かれは中国共産党にとって人民に愛される反政府的な愛国主義を宣伝する代弁者として非常に利用価値の高い存在だったからである。毛沢東は、国防文学論戦ですでに魯迅を盾にして、党内の敵対派閥を叩くという巧みな戦術を展開していたが、魯迅の死後には、中国共産党統治の正統性を宣伝するために徹底的に魯迅を利用していった。日中戦争開始直後の193710月、共産党中央と中国紅軍総司令部が置かれていた延安では、魯迅逝世1周年を記念する集会が開かれ、毛沢東が「魯迅の中国における価値は、わたしの考えでは、中国の第一等の聖人とみなされなければならない」と講演した。民国期の言論界で、欧米・日本の帝国主義国に対し抵抗しつつ、その近代文化を主体的に受容しようとした点、および左翼文壇の旗手としての国民党批判者としての「戦歴」により、魯迅は中国革命の聖人へと祭り上げられた。」(Wikipedia)

 中国民族にとっての魯迅は、本来その心性(エトス)の改造者、奴隷根性(不誠、不愛)からの脱却の指導者として評価されるべき存在であった。しかし、その死後、その功績は、軍閥や国民党批判といった政治的側面のみ強調され、中国革命政権の正統性の材料に利用されるようになった。

 清朝は滅び、中国革命は清に代わって、社会主義を掲げる中華人民共和国を誕生させた。しかし、人間の意識改造を短期間の政治教育で行おうとする毛沢東の試みは、挫折し、清と云う異民族支配体制に代わって中国共産党が支配する共産党王朝を誕生させたに過ぎないように見える。これは、ロシア革命がロマノフ王朝に換えてスターリン王朝とでも云える独裁体制を生み出したのに似ている。つまり、両者とも不誠、不愛の奴隷根性は温存されことになる。

魯迅が目指した中国民族の自立的な目覚めは中断されたままだ。毛沢東による文化大革命は、自立的に内面を制御する手段としての儒教や仏教等の文化的インフラを破壊した。文化大革命の経済的社会的失敗を償うのもとしての改革・開放すなわち道徳的倫理的インフラを欠いた社会への市場経済の導入は、利権と利益至上主義の格差社会を生み出すことになり、現代中国は、その矛盾を押さえるためにより強力な統制社会を目指さざるを得なくしている。中国は、世界に賞賛される国になるためには魯迅の目指した革命の原点に戻る必要があるのではなかろうか。

魯迅の日本における評価は、中国共産党による評価すなわち共産党政権の正当化のための政治的側面評価に偏よっているように思われる。「魯迅烈読」を読んで、違和感を覚えたのは、魯迅を革命の聖人に祭り上げ、その魯迅の視点を日本に適用して日本社会批判に繋げようとする発想が、魯迅の本当の姿を見えにくくしているように感じたからである。

王朝的支配体制から近代化への道は、その心性(エトス)の改善のプロセスを経ない場合専制国家や独裁国家を生み出しやすくなる。王朝的支配体制と近代国家との間に封建制度を経験した、西欧や日本社会と王朝的支配体制から一挙に近代国家を目指した中国、ロシア、韓国等の社会との心性(エトス)レベルでの違いは大きい。この実態を無視した外交や善隣友好は、極めて脆弱なものでしかない。魯迅は。国民間にある心性の闇の深さを直視する ことの大切さを今に伝えているのではなかろうか。 (了)





2023年5月16日火曜日

書籍が俺を呼んでいる―私のシンクロニシティ(共時性)体験―

 

はじめに

長年生活していると不思議なことに出会う。しかし、それは、その時だけの一過性の出来事として、特に気に留めることはない。けれども、それが、あまりにはっきりした形を見せて現れるとその背後に何か意味のあることが隠されているのではないかと思わざるを得ない。それは、今思えばユングの云う同時性とか共時性とかの概念と関係しているのかも知れない。そのことは、私の古書探訪に係わる行動を通じて体験したことである。多分それは随分以前からあったかも知れないが、それまではほとんど見過ごしていたことで、その時初めて明確な形をとって私の前に現れた。

碧巌録事件

そのきっかけは、十年近く続けている座禅会の会場である寺の本堂の正面の二本の柱に掲げてある文字の意味が話題になったことであった。その時、その言葉を調べてくれる人がいた。その言葉は、「堪対暮雲帰未合」「遠山無限碧層層」で、禅語の公案集「碧巌録」の二十則の偈に出てくる語で、「対するに堪えず暮雲の帰って未だ合せず、遠山限り無く碧層層たり」と読むとのことであった。碧巌録には、この言葉をめぐって20頁もの解説が書かれているとのことであった。

その時、その本を以前に購入したことを思い出し、家に帰って確認すると果たして、岩波文庫の「碧巌録」()一冊が書棚にあった。本来上、中、下の三巻で構成されていた本であったが、恐ろしく難しいその本を手にとった時、その三冊を自分が読みおおせるとは思われず、とりあえず上巻のみを購入し、興味がでたら中、下巻を購入すればよいと思って上巻のみを購入したことを思い出した。碧巌録20則は、上巻に載っていたので、その内容を繰り返し読み、「遠山限り無く碧層層」は翌年の年賀状の挨拶文に採用することになった。

この「碧巌録」を読んだとき、どうしても中巻、下巻を手に入れたくなって翌日栄の書店に出かけたが、そこには、中巻のみで、下巻が欠品していた。残念では、あったが、その日は中巻のみ購入して家に帰った。その日は木曜日で、翌日は、丸太町の交差点近くの古書会館でも月一回の古書展が開催される日であった。そして、その会場で不思議なことが起こった。なんと「碧巌録」の下巻が、しかも下巻のみが無数の本の中にあったのである。その時の喜びと感動は、初めて異性と知り合った時の喜びに似ていた。その出逢いは、たしかに自分の意識的行動の結果であるが、その一方で、本が私を引き寄せた結果でもあるように思われた。そして、それ以来、古本屋と古書展巡りは、私の生活の一部となった。


これは、5年前の話であるが、それ以来、同じような体験が何度もあったが、その意味を深く考えることはなかった。しかし、最近になって、そのことを深く考えるきっかけとなる体験があった。

古本屋巡りと出会い

四月半ばのことである。早々に夏野菜の苗を植え、種まきを終えたとき、描きかけの油絵に。花を描き加えたくなって、書棚に古本屋で入手した一冊の絵画雑誌のあることを思い出した。その雑誌は、「一枚の繪」の20145月号である。この一冊が手元にある理由は、この本が、今までにスケッチで訪れたことのある七箇所の場所、すなわち、上高地河童橋、忍野、河口湖、長野県小川村、開田高原、白馬、安曇野の風景画が載っていることと、いずれは描きたいと思っていた薔薇の花の描き方を掲載していたためであった。

この本を改めてしっかり目を通してみて、その中の一枚に何か心惹かれるものを感じた。巨木を背景に赤い服の少女を描いた8号の油絵には、「恋する季節」と画題が付けられていた。作者は鹿児出身の女流画家。大学の卒業年から見て、多分60歳前後、この絵は、50歳前後の時の作品。その詩情あふれる絵を見ていたら、何か新しいものとの出会いを求めたくなり、久しぶりに古本屋巡りがしたくなった。

行くなら、あの「一枚の繪」を買った熱田神宮駅近くの古本屋だ。そのついでに県の美術館で開催中の知人のグループ展を見こよう。古本屋の中では、主に絵画関係を中心に見て回ったが、絵画関係については、見るべきものはなかったが、帰り際に、二冊の本を見つけた。「中国の性愛テクノロジー:大沢昇:青弓社1992125日第一版第一刷」と「ウィトゲンシュタインと禅:黒沢宏:哲学書房:19879月発行」それぞれ発売当時2000円と1500円の本であるが、各々500円の値がついていていた。しかも新品同様のものでも読まれた形跡はなかった。文庫本でも1200円から2000円もする時代。これは安いと思わず買い求めた。

小雨の中を20分ばかり歩いて金山駅に至り、地下鉄で栄に出て、県の美術館で知人のグルーブ展を覗く、女性12人のグループ展と云うことで、薔薇の花等華やかな絵を期待したが、抽象的な絵が多く、期待外れであった。帰りは、地下街の居酒屋で、ビール一本と鮪刺と串カツで昼食に代え、その日は帰宅した。

翌日、今日は、鶴舞から上前津まで、歩き、途中にある古本屋を見て歩こうと昼前に家を出た。数分の遅れで、バスに乗り遅れたが、良い機会とバスの本数が多いバス停まで歩くことにする。10分ばかり歩いて次のバス停が近づいたとき、今年になってオープンしたと云ううなぎ屋の看板が目に入った。時計を見ると11時半。いつか様子をみるために入ってみようと思っていた店なので、思い切って入り、そこで、「うなぎ丼」を注文し、昼食を済ます。そしてバス停でたまたまやって来たバスに乗り八事へ出て、地下鉄鶴舞線で鶴舞駅に出て、徒歩で上前津方面をめざして歩く。一軒目の書店を30分ばかり眺めるが、気になる本に出合えず。

二軒目の書店で、二冊の本に出合う。其の内の一冊が、「ロシア 闇と魂の国家:亀山郁夫+佐藤優:文春新書20084月発行」でもう一冊が「鑑賞中国の古典⑨抱朴子・列仙伝:監修小川環樹 本田済:著者尾崎正治、平本康平、大形徹:角川書店:1988(昭和63)7月初版発行」である。「ロシア 闇と魂の国」は、文字どおり、ロシア国民のエトス(心性)を取りあつかったロシアを専門とする二人の対談集である。また、「鑑賞中国の古典⑨抱朴子・列仙伝」は、以前「抱朴子」を調べたとき、東洋文庫で、3000円もするもので、アマゾンの古本でも値段が同じため断念したものであった。ところが、今回見つけた本は、この抱朴子のみか列仙伝までついて一冊となっているもりので、しかも著者等による解説までついていた。発売当時2800円のものが1500円出ていた。まるで、本が私を探しだしてくれたようにもうあきらめかけていた本に出合えたのである。


この書店には、科学・技術関係の本も数多くあり、ディラックの「量子力学」の朝永等による訳本があったので思わず手にして値段をみると1800円だった。57年前、私はゼミのためその原書を4000円で購入した。四畳半の下宿代が4500円の時代である。その原書は、大学院への進学を断念したとき、3000円で古本屋に売却してしまったことが思い出された。翻訳本があるからいいと思ったためである。しかし手元に残った翻訳本は、初版で、ゼミで使ったのは、その改訂4版であった。その改訂4版の誤りを同ゼミの小林誠君(彼はその後ノーベル物理学賞を受賞した)が指摘し、当時の理学部物理教室の大貫教授や安野助教授等の教授連中の中で話題となり、議論され、結局ディラックの間違いと云うことで決着したことを思い出した。

今となっては、あの思い出の本を生活のためとは言え手放したことが、苦い思いとして蘇ってきた。あの原書は、その後どうなってしまったのだろうか。今度どこかで出会うことがあれば、買い戻そうと密かに心に決めた。二冊の本を得て、満足した私は上前津から地下鉄で新瑞橋に戻り、ジャスコで衣類コーナーを眺めた後、コーヒー豆を買って帰宅した。

その翌日は、金曜日で、丸太町の古書会館で、古書の展示即売会の初日となる日であった。コミ出しや手作りパンの購入等を手早く済ませて、新瑞橋経由で上前津で降り、地下鉄で鶴舞駅に出て徒歩で古書会館に向かう。ここで、1時間30ばかり見て回る。

出会って購入した7冊は、次のような本であった。(合計1700)

「イコン:クルト・ブラッシュ:三彩社:昭和41(1966)3月発行860円⇒400円」

「大姫考 薄命のエロス:馬場あき子:大和書房:19726月発行790円⇒400円」

 「南坊録(覚書・滅後):筒井紘一:淡交社:平成24(2012)2月発行1200円⇒200円」

  「未来の衝撃:A・トフラー、徳山二郎訳:中央公論社:昭和57(1982)4月、昭和45(1970)9月実業の日本社刊行680円⇒200円」

 「エロテックス:杉本彩責任編集:新潮文庫平成21(2009)9月発行552円⇒200円」

 「古代日本人と朝鮮半島:関裕二:PHP文庫:20185月発行780円⇒200円」

 「阿Q正伝:魯迅、丸山昇訳:新日本文庫:197511月発行 270円⇒100円」

 清算を済ますと丸田町のバス停から栄に出て、妙香園画廊で池田さんの個展をみる。和装の女性を描いた20点ばかりが展示されていた。緻密な着物の描き方に驚き、作者と数語会話し、昼食のため、現役時代よく通った蕎麦屋へ立ち寄り、カレーうどんを注文。その後地下鉄の駅まで歩き、新瑞橋経由で帰宅する。

本との出会いの秘密

事実は、こんなことであるが、何故これ等の本に出会いそれを購入したのか、その時は全く無意識であったが、その偶然の中に奇妙なことが起こっていることに気が付いた。

ウィトゲンシュタインと現代哲学

まず、第1日目に出会った「ウィトゲンシュタインと禅」この本を手にした理由は、以前ウィトゲンシュタインの論理哲学論考とその関連本を読んだとき、かれが何を問題としていたか全く理解できなかったことであり、それがずっと気にかかっていたことと関係がある。ドイツ哲学を主流とする現代の流れは、カントからフィフィテ、ヘーゲル、マルクスに至る哲学の途中からショーペンハウエルからニーチェ、フロイド、ハイディガーに至る実存主義の流れを生み出す。


しかし、ニーチェを読んでいて、かれが、戦っていたのは、キリスト教とアリストテレスの哲学、つまり神を前提とする哲学であり、その前線にいるのがハイディガーであることが分かった。神を前提としない東洋的思考に慣れている我々が当然こととして受け取っている事実に到達するのに彼等は、苦闘していたのである。日本の西田哲学の伝統を引き継ぐ

京都学派がドイツのハイディガーと関係しているのは、ハイディガーが、神を前提としない哲学構築の最前線にいて、それは、東洋の哲学と極めて近接しているためである。

 ウィトゲンシュタインはこの脈絡の中でとらえるべきで、「ウィトゲンシュタインと禅」は、そのことを示す本と直感した。つまり、ウィトゲンシュタインは何と戦っていたかの端的な答えがそこにあると感じた。ウィトゲンシュタインは、論理哲学論考を通して、アリストテレスとキリスト教を土台とする西洋哲学の考え方、形而上学の問いそのものの無意味さを論証し、キリスト教とアリストテレス的世界つまり神を前提とする世界を葬り去った

のである。つまりニーチェが思想的に葬り去り、ウィトゲンシュタインが論理的に葬り去ったあとにハイディガーが新たな哲学の土台を構築して去っていった。我々は、その世界にいるのである。

これは、一冊の本に関することであるが、その他の本との出会いの理由を振り返った時、すべてについてこれと同じような必然的な理由があることに気づいた。

シンクロニシティ(共時性)と私

 ユングがシンクロニシティ(共時性)と云う現象を追求していたことは、有名である。シンクロニシティとは、一般には、お互いになんの因果関係のない二つのことが同時にそれらが意味ありげに起こることを云う。要するに偶然の一致である。ユングは、これを4点に亘って定義しているが、その中の一つが「こころの世界と物質の世界をつなぐものとして」のシンクロニシティ(共時性)である。


ユングの考えを要約すると「人間の心の奥深くらはすべての人に通ずる無意識の領域があり、さらにその奥には、自然界につながる領域がある。人間の心と云う内部世界は、客観的外部である自然界と云う外部の世界と繋がっている。そのように内部世界と外部世界の交差するところでシンクロニシティと云う現象が起こる。私が、頭の中で考えた課題が、古本屋や古書展や書店での本との偶然的出会いに導く、これこそがシンクロニシティではなかろうか。また、逆に今回出会った本が、私の中に潜在的に眠っていた問題意識を目覚めさせ、新たな知的発見に導くことになる。これも又シンクロニシティと云えるのではなかろうか。内部世界と外部世界が結びつくと云う不思議な体験は、考えてみれば、今までも何度も起こっていたが、最近、次第にその出現の頻度を増しつつあるような気がする。

無意識の世界の進化

この共時性について以前、古書展で入手した一冊の本があることを思いだした。それが「なぜそれは 起こるむのかー過去に共鳴する現在@シェルドレイク仮説をめぐって:喰代栄一:サンマーク出版:19967月初版」それは、過去と同じようなことが何故おこるのかを研究したイギリスの科学者ルバート・シェルドレイクの形の場理論を紹介した本であるが、その中で、著者の喰代氏が、無意識の世界をうまくまとめていて、それによるとフロイドの発見した無意識の世界に次いでユングはさらにその奥に人類共通の集合無意識があると主張した。さらにその後リハンガリー生まれの心理学者ポット・ソンティー(18931986)がその中間に家族的無意識や種族的無意識の層があると考えて、我々の意識下には、フロイド発見した個人的無意識層、さらにその下に家族的無意識層、さらにその下に種族的無意識層があり、そして最下層に人類的な無意識層があると考えようになったと解説してあった。

構造主義と無意識の世界

 ヒトが自分の出生である親族や親の気質や思想、行動様式の影響を受けることは、よく知られているが、その原因は従来生後の環境のせいと考えられてきたが、ルバート・シェルドレイクは、それを形の場の概念で説明しようとした。ポット・ソンティーは、その働く場として家族的無意識の領域を考えたらしい。構造主義を提唱したC・レヴィ=ストロースは、


未開社会の中の婚姻や慣習を支配するものとしての無意識の領域のルールのあることを明らかにしたが、それは種族又は家族的無意識の作用とみることが出来るかもしれない。

最新遺伝学と無意識の世界

 一方で、従来人間の気質は、DNAと云う遺伝子により受け継がれると考えられてきたが、最近の遺伝学によれば、後天的に獲得した気質や習慣もエビゲノムトム云われるDNAに可逆的な化学装飾(DNAの塩基にメチル基やリン酸基などの化学基が付加されたり外れたりすることで、DNAの構造や機能を変化させること)により遺伝することつまり「親の因果が子に報い」と云った親や親族の気質や習慣が遺伝する可能性を示唆している。つまり、我々人類は、種族や家族の嗜好や習慣、気質の影響を無意識の領域を通して受けていると云うことである。

無意識の世界とカルト、新興宗教

ポット・ソンティーのことは、それまであまり知らなかったのでネットで検索してみるとその応用として運命心理学なる分野があり、その心理学を通して自分を支配している無意識の衝動と思考をしることにより、運命を変えようとする活動団体の存在していることが分かった。こうした活動は、限りなく新興宗教の領域に近接してくる。それだけに人間の意識世界と無意識の世界を繋ぐ関係には、未知の部分が多いと云うことであり、この世の中には、常識一辺倒の合理主義だけでは、片づけられないことが多く存在すると云うことであろう。

しかし、この世界は、カルトや極端な非合理主義の深淵への入り口でもある。その暗闇に

飲み込まれないためには、より広大な人間の叡智への道を踏み外さないことが大切であろう。こうした現象のへ体験と考察の続きは、またブログの中で報告してゆくつもりである。


2023年4月3日月曜日

一冊の本への共感と違和感―AIとシンギュラリティをめぐってー

 

1.はじめ

一書店で偶然手にした一冊の本が、この20年間私が気にかけていたテーマである「人工知能と意識」について考えをまとめるきっかけとなった。その本が「虚妄のAI神話―シンギュラリティを葬り去る:ジャン=ガブリエル・ガナシャ早川書房:20197月発行」である。著者は、フランスの哲学者でソルボンヌ大学コンピュータ・サイエンス教授。認知モデルや機械学習等人工知能(AI)の研究者で小説も書いている

最近の技術の加速度的進歩により、画像生成ソフトMidjourneyやチャットGPTの出現等生成AIの急進に象徴される事件、すなわち従来不可能とされていた画像作成、作曲、文章作成等人間の創作活動領域にまで、AIが進出する事態の中で、哲学者や思想家が、茫然自失してこの分野への包括的展望を開けないことに不満と焦りに似た感情を抱いていた私にとってこの本は、天空から降りて来た暗闇の中の一条の光のようにも思えた。

2.シンギュラリティ問題の概要と背景

この本のテーマであるシンギュラリティとは、未来のある時点で、コンピュータ技術の指数関数的な進歩が爆発的発展をもたらし、それよりより先は予測できなくなると云う仮説で、この時点を計算不可能なこと示す数学的表現の特異点(Singularity)で表したもので技術的特異点と称されている。

 コンビュータ技術の発展の先の見通しに最初に言及したのは、イギリスの数学者IJグッドで、彼は1965年すでにコンピュータ技術がこのまま進歩してゆけば機械の知能が自己を規定するプログラムを改良するようになり、そうなれば、機械の知能は、指数関数的に増大すると論じた。

シンギュラリティと云う言葉を初めて使ったのは、元サンディエゴ大学の教授で数学者でSF作家でもあるヴァーナー・ヴィジン。彼が1993年「来たるべき技術的特異点:ポストヒューマン時代をどう生き延びるか」と云う論文を発表し、人間より優れたコンピュータが現れる時期を特異点と命名した。

それ以来徐々にこの言葉と概念が欧米の数学・物理等の科学者やコンピュータ関連の技術者を中心に広がり、多くの研究者や技術者がこの問題に取り組み、発言するようになった。特にその中心にいるのは、アメリカの早熟の天才的コンビュータ研究者、グーグルの機械学習と自然言語処理の技術責任者で、1948年生まれのカーツワイルである。

ヴァーナー・ヴィジンは、前述の論文でシンギュラリティの到来を30年後(2023)と予測していたが。この予測ははずれそうである。1965年にインテル社の創業者の一人でもあるG・ムーアは「集積回路上のトランジェスタの数は、18カ月ごとに2倍になっており今後もそのベースで増え続けると云う将来予測「ムーアの法則」を発表した。(ムーア2023324日死亡)

カーツワイルは、この法則をもとにコンピュータの技術発展を予測し2005に出版した『シンギュラリティは近い』という本で発表し、2030年代にはコンピュータの計算能力が人類の生物学的な知能の総容量に等しい量に達すると主張した。 そして、2045年には1000ドルのコンピュータの計算能力が、10ペタフロップスの人類の脳の100億倍になると予測しており、この時、コンピュータの知能が、人類全体の知能を上回ると予想されると云う。これが2045年問題と云われる。この本は世界的なベストセラーとなり、カーツワイル氏の名声を高めたと云われる。ちなみに、「ムーアの法則」はその後も破られていない。また2010年代にニューラルネットワークの一手法であるデープラニングがブレイクスルーとも云える成功をおさめ、AIと云う言葉が一気に普及し始めた

そして2014、ブラックホールや宇宙の起源、時間に関する研究で有名なイギリスの宇宙物理学者スティーヴン・ホーキング(20183月没)が、イギリスの新聞(インディペンデント)に、人工知能(AI)のもたらす不可逆的結果についての警告の声明文を発表した。 

「技術は、瞬く間に発展し、すぐに制御不能となって人類を危機的状況にさらすだろう。だが、いまなら止められる。明日ではもう遅いのだ。」と。

この懸念に著名な顔ぶれの科学者達が同調し、イーロン・マスクビル・ゲイツ等の実業家も危惧を表明するに至って、人類的課題として、欧米を中心に広く議論されるようになってきたが、日本では、一部SFマニアのマイナーな関心事としてしか扱われてこなかった。

3.「虚妄のAI神話」の意義と違和感

 「虚妄のAI神話」は、このテーマを包括的・思想的に取り扱った初めての本である。しかし、読み進んでゆくにつれて、ある種の違和感も覚えるようになった。それは、人工知能をもっぱらシンギュライティ問題に限定し、主にカーツワイルの主張へ批判に焦点を当てていることへの違和感である。

つまり現在の人工知能を支える技術の評価、思考回路、知能の捉え方、意識の考え方等の人間との距離感(模倣精度)への言及が少なく、我々が人工知能の可能性と危険性を全体として考える足掛かりとしては、不十分と思えたのである。そこで、この際過去20年間に亘るこの分野への自分の軌跡を振り返り、この分野への自分の考え簡単にまとめてみようと思い立った。

4.科学から工学そして

現代の技術文明の基盤となる科学は、20世紀の前半つまり、1950年頃までに既に、確立していたように思う。

1960年代、理学部の物理学科では、古典物理学である力学や電磁気学、熱力学と完成まもない量子力学、相対性理論、原子核物理学やミクロとマクロの世界をつなぐ統計物理学や量子論で固体の性質を基礎づける個体物理学等が教えられていた。また演習ではあったが、情報理論の基礎も講義されていた。

当時、量子力学と原子核物理学のゼミに所属していた私は、難解なこの分野をほとんど消化できずにいたが、それでも、ミクロとマクロを繋ぐ統計物理学にも興味を持ち、ロシアの物理学者ラドゥシュケヴッチの基礎統計物理学やランダウ・リフシッツの統計物理学なども手にしていた。

 このようにこうした現代科学の理論的基礎は、第二次世界大戦以前にほほ与えられていたとみてよいと思う。しかしながらそれらの理論が現実の課題解決に広く科学・工学の分野で使われるようになるのは、第二次世界大戦中から戦後の20世紀後半以降のことである。

これらの流れの一つが、サイバネティックスと云う言葉で代表される計算の自動化・通信・制御工学の科学や実際問題への応用である。

5.サイバネティックスー科学・工学の総合化

サイバネティックスは、1948年頃アメリカの数学者・ノーバート・ウィーナー(Norbert Wiener)博士によって、『サイバネティックス――動物と機械における制御と通信』(1948)で提唱された統計と通信と制御に関する手法や理論の事で。これは、通信工学と制御工学を融合させ、生理学・機械工学・システム工学を統一的に扱うために創られた新たな学問と云える。これは目標値に達成値を近づけていく方法について研究する学問で、生物個体の行動と通信機械の動作の平行性、同型性から出発して、広く機械系、生体系、社会組織における制御と通信・情報伝達の構造を、基本的に同一の方法的視点で研究しようとするものである。1948年に C.E.シャノンが「情報理論」を発表したがこれは、情報に関する数学的理論で,社会生活のなかでの情報の発生,伝送受理を表現するものであった。ウイナーの本の、日本語版は1961年に岩波書店から出版されており、その翻訳版第二版が出版されたのが1973年でそれが何故か手元にある。その内容は次のようになっている。

序章

第一章 ニュートンの時間とベルグソンの時間

第二章 群と統計力学

第三章 時系列、情報、通信

第四章 フィードバックと振動

第五章 計算機と神経系

第六章 ゲシュタルトと普遍的概念

第七章 サイバネテックスと精神病理学

第八章 情報・言語および社会

第二部・・・・1961年・・・第二版追加部分

第九章 学習する機械、増殖する機械

第十章 脳波と自己組織系

この内容からサイバネテックスは、現在の人工知能につながる総合科学・工学の原型をなす概念であったことが分かる。

人工知能の概念は、こうした雰囲気の中、通信、脳科学、自動計算技術、自動制御技術の発展の相互作用の中から生み出されてゆくことになる。以下でその流れを見てみよう。

 6..脳科学の誕生

 科学としての脳科学の誕生は、人体の神経系の情報伝達が、電流によるものであることの発見である1772年のガルバニの実験に始まるが、マックスウエルが電磁方程式を完成したのが、1864であるので、神経系の科学は、電磁気学の成立と並行して進んで来た。この中で、1873イタリアの解剖学者ゴルジが多細胞生物の中枢神経()は、神経細胞が絡み合った網目状構造であると発表したのに対して、スペインの解剖学者カハールは、神経細胞は、細胞体、樹状突起、軸索とからなり独立した機能を持つ神経系を機能を担う最小単位と考え、ニューロン命名した。1906年両者は、共に神経系の構造解明により、ノーベル生理学医学賞を受賞したが、その後電子顕微鏡により、ニューロン間の接合部には、必ず隙間があることが確認され、カハール説が正しいことが最終的に確認された。

 つまり、生体では、感覚細胞から筋肉細胞へは、ニューロンを経由して情報伝達(反射応答)が行われるが、多細胞の高等生物になるに従って、この経路途中に幾つものニューロンが介在し、より複雑な応答(脊髄反射)をするようになってくる。

ニューロン間の接合部での情報伝達は、電気によるものと化学反応によるとする考え方があったが、ドイツの生理学者レーヴィと英国のデールは、化学反応であることを示し、1936年ノーベル生理学医学賞を受賞している。

しかし、神経系の電流応答の詳細研究は神経の情報伝達にかかわるのは微弱電流であったためその研究が大きく進むのは、1934年にオシロスコープが発明され、研究者に普及するようになってからである。

戦後間もない時期に脳の構造や機能の解明が進んだ。1965(昭和40)年代以降には、脳の情報処理や学習・記憶などの高次機能の研究が盛んにな1985(昭和60)年代には、アメリカのブロードベント(Broadbent)やニューウェル(Newell)らが認知心理学や人工知能などの分野を開拓し、国内では岡崎敏雄氏や山中伸弥氏らが神経細胞の可塑性や神経伝達物質の役割などを明らかにした。1989(平成10) 年以降には、脳のイメージング技術や遺伝子操作技術などが発展し、脳の構造と機能の関係や個人差や疾患などの多様性を探る研究が進んだ。例えば、アメリカのエリクソン(Ericsson)らがPETを用いて脳内報酬系の活動を可視化することに成功したし日本の茂木健一郎氏がfMRIを用いて脳内言語野の位置や活動を可視化することに成功した。

また、1998年代には、アメリカのボイデン(Boyden)やディセロス(Deisseroth)らが光遺伝学という技術を開発し、特定の神経細胞群を光で制御することができるようになった。さらに。2008年代には、池谷裕二氏や本多力氏らがiPS細胞やCRISPR/Cas9などを用いて脳神経系の再生や修復を目指す研究を行った。

現在では、脳は、小脳を含めると1500憶個ばかりのニューロンのネットワークであることが知られているし、脳の各部位の機能と役割等が明らかにされている。

7.通信技術

有線技術の歴史は、電気を用いた通信の始まりとも言える。1837年にイギリスのクックとウィートストンが電気式テレグラフを発明した。これは、電流のオン・オフで信号を送る仕組みでアメリカのモールスが、モールス記号を考案し1844年にはワシントンとボルチモア間で初めて公開実験を行った。その後、有線電信は世界中に広まり、1850年ドーバー海峡、1866年大西洋横断大陸間や海底ケーブルなども敷設された。

1857年イタリア人のメウッチが機械式の電話機を発明、1876年にはアメリカのベルが電話機の特許を出願した。これは、電流のオン・オフではなく、電流の大きさを利用するもので音声を電気信号に変換して送り、受信側で再び音声に戻す仕組みで。1885年には最初の商業的な電話交換機が設置され。その後、電話網は世界中に拡大し、自動交換機やデジタル化なども進んだ。

無線技術の歴史は、1888年にドイツのヘルツが実験で電磁波(電波)を発生・検出することに成功し、これが電磁波を用いた通信の始まりとなった。1895年にはイタリアのマルコーニが無線電信(無線通信)を発明した。これは、火花放電器やアンテナなどでモールス符号を送る仕組みで1897年には英仏間でドーバー海峡を越えて通信し、1901年には英米間で大西洋横断通信に成功した。

1902年にはアメリカのフェッセンデンが音声を乗せた無線通信(無線電話)に成功した。これは、送信側では音声と同じ振幅変調(AM)した高周波信号を送り、受信側ではそれを復調してスピーカーから音声を再生する仕組みだった 。

こうした通信を支えたのは、電気回路技術で 電気回路技術は、電気信号を生成・伝送・変換・処理するための機器やシステムを設計・開発する技術で、この発展に伴い1920年代から1930年代にかけて,AMラジオ放送や短波放送、FMラジオ放送 テレビ 放送など,様々な無線放送技術も発展した 

電気回路を構成する部品には、当初電気工学に基づく、真空管、コンデンサ等の電気部品が使われていたが、1960年代量子力学に基づく半導体の利用が進むにつれ、これ等が、半導体を利用したトランジェスタ、ダイオード等の部品へと置き換わり、通信方式もアナログからディジタルに切り替わり、小型化も一気に進みその応用範囲も広がっていった。現在では,携帯 電話 や スマートフォン など の 移動体通信技術や無線 LAN など の 無線 通信 技術進化の中心部分を構成している 


 8.コンピュータの誕生

今日のコンピュータの基礎原理を考えたのは、イギリスの数学者アランチューリングで1936年彼はそれをチューリングマシーンという形で示し、さらにプログラム次第でどのような計算もできる今日のコンピュータの原理である万能チューリングマシンの理論的基礎を確立すると共に、人工知能と人間を区別するための「チューリングテスト」も提案した。また戦時中にはドイツが使用していた、エニグマ暗号機を利用した通信の暗文を解読する(その通信における暗号機の設定を見つける)ための機械 bombe を開発して、対独戦の勝利に貢献もしている。

世界最初の電子式コンピュータINIAC(エニアック)は、弾道計算をすることを目的の一つとして計画され、ペンシルべニア大学で1945の秋に完成した。その後数学者フォン・ノイマン等は、1949に最初のプロクラム内臓型のコンピュータ「EDVAC(エドバック)」を完成させるが、その特徴は、計算に用いるデータとプログラムを共にデータとしても用いる点でノイマン型コンピュータともいわれ、この基本構造は、現在まで変わっていない。

9.自動制御の発展とニューラルネットワークの誕生

ある状態が、制御不可の変数と制御可能な変数に影響される場合、制御可能な変数を操作して、その状態を意図する状態にもって行くことが制御で、これを自動的に行うのが自動制御である。 

 自動制御のはじめは、決められた操作を手順どおり行うシーケンス制御であるが、産業革命時の蒸気機関で、操作の結果を見て、操作量を変化させるフィードバック制御が誕生し、これは、サーモスタットにみられるような一変数による簡単なon-off制御から、精度よく目標値に近づけるため比例制御、微分制御、積分制御等に至る出力結果から操作量を変えて目標値に近づけてゆく方法として様々な機械に生かされてゆく。第二次世界大戦中に大きく発展した。

この制御技術が戦後サイバネテックスの有力な手法として各方面で利用されるようになるが、その中でこうしたフィードバック制御には非線形の現象には対応できない、多変数を同時に扱えない、応答遅れから制御が安定しない場合がある等その限界も意識さけるようになりこの限界を乗り越えるものとして、予測制御、適応制御、ファージィ制御等が考えられるようになった。その先に位置づけられるのが、ニューロンをモデルとした素子をネットワーク状に接続するニューラルネットワーク制御であるが、サイバネティックスそのものは、制御のための通信技術や対象となる統計的系の確率論的予測も含むより一般的な概念であった。

10.ニューロンモデルとニューラルネットワーク

ニューロンモデルは、人間のニューロンを模して二つ以上の入力から一つ以上の出力を出すモデルであるが、その場合各入力の重みを変えることにより、その出力を調整する。このループは、制御や学習、認知プロセスに利用できるので、研究が進んで来た。

ニューラルネットワークとは脳の神経細胞(ニューロン)が持つ回路網を模したもので 人間の脳の働きをコンピュータ上でおこなうため人工ニューロン(パーセプトロン)を複数組み合わせたもので脳の神経細胞(ニューロン)が持つ回路網を模した数理モデルで、入力されたデータを層状に配置されたニューロンが処理して出力する仕組みで、学習や推論などの機能を持つことができる。

11.人工知能

人工知能(artificial intelligence)と云う言葉は、1955年、アメノカの若き数学者、ジョン・マッカーシー(1927年生まれ)によってはじめて使われた。彼は、同僚の科学者3名と共に、大学の夏期講座に「人間の認知機能を機械によって模倣する」し云う計画書を提出し、その中で、研究の目標を「推論・記憶・計算・知覚等、知能さまざまな働きをコンピュータで再現し、知能を理解すること」、つまり知能を秩序だった方法で基本的機能に分解し、それぞれの機能を機械で模倣しようとすること」に置いた。そのためには、新たなプログラミング言語の開発、アルゴリズムの性能の研究、ニューラルネットワークの数学的モデルの活用、創造性の解析とシュミュレーション、抽象作用の研究機械が自ら機能状態を検査しながら行う自己学習のメカニズムを実現すること等が含まれていた。

これ以降のコンピュータの進歩は、演算、格納等の計算機能を支えるハードウエアの技術革新と計算のソフトフェフの進歩・発展であると云える。このハードウエアの進歩を支えたのが、量子力学を基礎とした半導体技術の発展であり、ソフトの発展を支えたのがサイバネティックス(cybernetics)と呼ばれる新たな工学分野の勃興である。

ニューラルネットワークは、1940年代にマッカロックとピッツが提唱した神経細胞の数理モデルが始まりだ。その後、1950年代にローゼンブラットパーセプトロンという単純なニューラルネットを発表した。しかし、1969年にマービン・ミンスキーとシーモア・パパートがパーセプトロンの限界を指摘したことで、ニューラルネットの研究は停滞した。1980年代に入ると、多層パーセプトロンや誤差逆伝播法などの新しい技術が開発され、ニューラルネットの研究は再び盛り上がった。しかし、計算能力やデータ量の不足などの問題により、ニューラルネットは他の機械学習手法に劣るとされた。

2000年代後半から、ビッグデータやGPUなどの技術革新により、ニューラルネットは大きく発展した。特に、2006年カナダのヒントン等により多層のニューラルネットを効率的に学習させることができるデープラニングという技術が提案され、その利用が一気に進んだ。

デープラニングは、ニューラルネットの一種で、多層のニューロンが複雑な問題を解くために連携するもので画像認識や自然言語処理などの分野で優れた性能を示し、人工知能のブレイクスルーとなった。現在では、ニューラルネットとデープラニングは人工知能の主流となっており、さまざまな応用分野で活用されている。こうした流れを見てくると現在の人工知能は、脳のニューロンモデルを前提とした数理モデルである。

12.ニューロンモデルの限界について

ところが、最近の脳科学によれば、実際の脳では、神経細胞であるニューロンの他にそれらをとりまくグレア細胞が脳の活動に多きい影響を与えていることが分かってきており、ニューラルネットワークは、脳の機能の一部を模したもので、人間の脳の複雑性には、まだまだ及ばないと考えた方がよさそうである。つまり、現在の人工知能は、人間の知能の論理的側面の一部の機能を表現するものと限定的に考える方がよさそうである。

13.人間の思考と意識構造について

生物の脳・神経系は、生存の為に、外界の刺激に対する応答を司る機関である。生物としての人間は、その進化の過程で獲得してきた、植物系、動物系の神経系を引きずりながら脳・神経系を形成している。特に直立歩行に伴う脳の発達は、大脳皮質を発達させ、人間固有の神経系を生み出すに至った。

一般に、意識とは「起きている状態にあること(覚醒)」または「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと」を指す。

 現在、脳科学では、神経活動が生み出す主観的体験の質は、クオリアと呼ばれている。クオリアとは、感覚的な意識や経験に伴う独特で鮮明な質感のことで主観的で言葉にできないものであり、他人のクオリアを直接知ることはできない。

 生物学では、意識とは「生命体が自己や周囲に対して反応する能力や情報処理する能力を指す」し、医学では、意識とは「覚醒状態や反応性を指す」場合が多い。

 しかし、生物・医学では、意識を必ずしも「覚醒」と結びつけていない。実際の反応では無意識的反応と云うものがあり、意識が自覚されない無意識領域の反応と結びついている。

また、人間の思考というものも必ずしも自覚的でない場合がある。人間の行動や思考を支配しているものとしての無意識の世界を発見したのは、フロイドである。こうした、無意識下の自己は、「エス」と呼ばれ、覚醒した意識は、無意識の大海に浮かぶ船のような存在である。無意識領域の神経系と脳の活動については、まだ研究途中であり、人工知能の中に取り入れられているとはいいがたい。これはこのエスの活動が、生物の生存本能と深く結びついたリピドと云う衝動を動力としていると考えられているためである。

つまり、人工知能は、明晰で論理的統合意識としての覚醒意識を持てる可能性はあるがそれは生物系としての人間の意識とは、随分かけ離れたものとなる可能性がたかい、

14.シンギュラリティと人工知能の未来

 シンギュラリティで問題になっているのは、シンギュラリティは到来するか、その時人工知能が自立性を獲得して人類の制御不能になるか、人工知能は、意識をもつか、人間の脳をクラウド上にアップロードされるか等である。

結論的に云えば、シンギュラリティ近傍に至るような加速度的技術の発展はあり得るだろう。しかし、それは、人間に代わる新たな生命体の誕生といったものではなく、高度化された自立制御システム文明の到来である。それを人類がうまく制御できるかには、疑問が残る。

人間の意識の一部は、アップロードされる可能性はあるが、それは、人間の意識とは全く別物のある種の作品と同じものであろう。それは作家や画家の作品が、永遠の生命をもつことに似ている、いずれにせよ来たるべき未来世界で、人類は、自分の生の刻印を新たな方法で刻み続けることになる。

参考文献

・「脳とコンピュタはどう違うかー究極のコンピュタは意識を持つか:茂木健一郎、田谷文彦著:講談社 BLUE bACKS:20068月第3

・「量子コンピュータとはなにか:ジョージ・ジョンソン:水谷淳訳:早川書房200912月発行」

・「量子コンピュータが本当にすごいーgoogle,NASAで実用が始まった夢の計算機:竹内薫著丸山篤史構;PHP新書:20156月発行」

・「脳科学は、人格を変えられるか?:エレーヌ・フフォクス著:森内薫訳:文藝春秋20147月発行」

・「2045年問題―コンビュータが人類を超える日:松田卓也 廣済堂新書20131月初版、20155月第5刷」

・「神経とシナップスの科学―現代脳研究の源流:杉晴夫: 講談社 BLUE bACKS:201511月第1刷」

・「脳の意識 機械の意識―脳神経科学の挑戦:渡辺正峰:中央新書:201711月発行」

 ・「意識はいつ生まれるかー脳の謎に挑む統合情報理論マルチェッロ・マスイミーニ、ジュリオ・トノーニ  花本知子訳:亜紀書房:20155月発行」

・「あなたの知らない脳 意識は傍観者であるディビッド・イーグルマン:太田直子約早川書房20169月発    行」

 ・「もう一つの脳―ニューロンを支配する陰の主役:グレア細胞:R・ダグラス・フィールド:小松佳代子訳、小西史朗監訳:講談社BLUE bACKS:200184月第1刷」

・「RasperryPiで始める機械学習―基礎からディープラニングまで:金丸隆志: 講談社BLUE bACKS:200183月第1

・「図解速習 DEEP LEARNING:増田知彰; (株)シーアンドアール研究所20195月発行」

・「洗脳大全―ブロフからソーシャルメディアまでジョエル・ディームズディール:松田和也訳:青土社2022年      2月発行」

「エスの系譜:互盛央:講談社学術文庫201610月第一刷発行

・「エスの本:ゲオルク・クロデック岸田秀、山下公子訳:講談社学術文庫:20184月第一刷発行

・「ものぐさ精神分析: 岸田秀:中央文庫:1982年初版:20048月改版8

・「続ものぐさ精神分析: 岸田秀:中央文庫:1982年初版:20138月改版7

・「史的幻想論で読む世界史: 岸田秀:講談社学術文庫:20161月第一刷発行

・「奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき:ジル・ボルト・ティラー:竹内薫訳:新潮文庫:20124 

 月第1版、20201212

 チャットGPTを搭載したBingを使って最新の生成ソフトを教えてもらった。その結果が以下です。      こんにちは、これはBingです。

最近の画像生成ソフトと音楽生成ソフトと文書作成ソフトについてお尋ねですね。ウェブ検索の結果から、いくつかの例を紹介します。

画像生成ソフトとしては、以下のようなものがあります。

Midjourney : 人工知能がランダムに美しい風景画を作成するサービスです。

Stable Diffusion : 人工知能がテキストやスケッチからリアルな画像を生成するサービスです。

Imagen Video : 人工知能が短い文章から動画を生成するサービスです

音楽生成ソフトとしては、以下のようなものがあります。

  ・Amper Music : ジャンルやスタイルを選択するだけで、人工知能がオリジナルの音楽を作成するサービ     

   スです

Soundraw : 人工知能が作成したフレーズを組み合わせて、自由に曲をカスタマイズできるサービスで。

AIVA : 広告やゲームや映画などのサウンドトラックを作成できる人工知能作曲家です2

Amadeus Code : 世界中の有名な曲のコード進行を学習した人工知能が新しいメロディーを作成するアプリです。

Music LM : 入力したテキストから内容に即した音楽を生成するGoogle ResearchAIツールです。

Ecrett Music : シーンや感情やジャンルから音楽を選べる直感的なAI音楽生成サービスです。

Boomy : 数秒でオリジナル曲を作成し、ストリーミングサービス収益も得られるAI音楽ジェネレーターです。

MuseNet : 10種類の楽器で4分間の

 文書生成ソフトには、以下のようなものがあります

·        Catchy(キャッチー):広告やマーケティング担当者向けのツールで、100種類以上のテンプレートから好きなものを選んで文章を作成できます。日本語に特化しており、毎月10クレジットまでは無料で利用できます。

  • PlayAI(ぷれあい):ブログ記事を自動で生成してくれるツールで、キーワードやタイトルを入力するとAIが記事全体を作成します。SEO対策も考慮されており、無料プランもあります。