はじめに
家に帰って本を開いてみると表紙の裏にメモ用紙が一枚はさんであり、「ひまつぶしに、気が向いたら、読んで下さい」と書いてあった。はしがきにざっと目を通し、パラパラとページをめくってみるとどうやら松平と云う家にまつわる家の歴史書の類としれた。松平家は、明治維新当時尾張藩で5000石の身分の高い由緒ある家柄でその家の明治維新後の一族の歴史を扱った本らしきことは分かった。しかし、他に読みたい本もあったので、再びその本を取り上げたのは、それから一か月程たった頃であった。しかし、最初の7~8頁ですぐ飽きてしまい。長いこと放置してあった。
その本を再び開いたのは、それから1年半ばか経ち、少し暇の出来た9月半ばの事であった、残暑厳しい夏が続いたせいで、冷房を入れ、家にいることが多くなったためか、懸念していた書類の整理も進んで、ほっとしたとき、たまたま脇テーブルに積んであったこの本が目に入った。早朝の比較的集中力のある時間に、中断していたそれを読み始めた。それが面白かった。珍しくあきることなく3日程で読み終えてしまった。
本の内容
本の内容は、明治維新当時尾張藩5000石の高級武士であった曽祖父松平甚之進保眞を中心とするその兄弟、その子供達、孫達総勢20人ばかりの生活がどのようなって行ったか、とりわけその女達の運命が克明に描かれていた。明治維新は、ある種の革命であり、社会体制の変革である。社会体制の変革は、旧来の体制の崩壊である。我々は歴史の中で、変革する側、つまり勝者の物語しか知らされてない。しかし、こうした社会変動の中には、変革される側、つまり破壊されてゆく人達もいるのである。
明治維新により、幕藩体制を支えて来た武士が録を失い士族と云う名誉称号だけの存在となったが、永らくその体制下で生きて来た人間達は、新しい環境で生きるすべも方法も知らず社会に放り出され、今まで蓄えて来た資産や財産を切り売りする以外に方法は、無かったし、その一族に仕える者達の多くも今までどおり主人に仕える以外の生き方しか出来なかった。武士階級の廃止は、単にその武士一家の生活崩壊のみならず、その一家に係わる全ての人の従来生活の崩壊をもたらす。その全体像が詳しく描かれる。
これを物語るのは本の著者松平すゞで、彼女は、松平甚之進保眞の孫の1人である。彼女は、幸運にも明治の女には珍しく8年間も学校に通うことになり、教員の職につくことによって結婚してからも自活能力を身に着け、第二次世界戦後の動乱期も山林を買い取り、山林を開拓して、そこに掘っ建て小屋をたてて半ば自給自足の生活を始めて戦後を生き抜き、膨大な記録を残し80歳で亡くなる。
この原稿をみつけ、本にしようと思い立ったのは、すゞの次女、西尾なほであり、その膨大な原稿に見出しをつけ本の体裁に原稿を整えたのが作家桑原恭子である。
松平家とすゞの略歴
松平家は、徳川家康の家系の本家筋の家柄で明治維新当時すゞの祖父松平甚之進保真は、尾張藩の5000石の家臣であった。すゞは、この甚之進保真の長男新之助の三女として明治24年(1891年)生まれ、明治31年(1898年)7歳の時愛知県師範学校附属小学校文教場に入学、その2年後母離婚して家を出る。その2年後、明治35年兄の勧めで附属小学校文教場高等科に進学、この頃下の姉結核で亡くなる。明治37年兄日露戦争で戦死。母一端家に戻るが再度離婚して家を出る。
明治39年(1906年)高等小学校卒業、郵便局事務員として勤務、明治41年友の勧めで裁縫女学校師範科に入学、校長に頼まれて小学校の代用教員となる。裁縫専科正教員試験と中等教員の受験資格の獲得、その後裁縫科の文部省資格を取得、代用教員をやめ裁縫女学校の教員となる。
大正4年(1915年)結婚、2年後男子出産で夫を婿養子にして入籍、大正7年(1918年)、第2子誕生、知多で二人の子供と教員生活大正9年(1920年)名古屋へ転勤。大正10年(1921年)第三子(なお)誕生。夫は、一時籍をぬくも、長男を戸主としてから、再入籍している。大正13年夫喀血して入院、昭和10年 (1935年)退院。半年で夫死亡、すゞは44歳になっていた。昭和16年(1941年)父死亡、この時すゞは、50歳。この間愛知県立第一高等女学校、同刈谷高等女学校、安城女子職業学校等と長年教壇に立つ。
昭和20年(1945年)4月長男がニューギニアで戦病死。昭和22年(1947年)56歳の時挙母町の山奥山地を購入し、1人移住し移り住み、荒地を耕し、食糧や野菜を作り自活する。
「はばさ会」なるものをつくり、老人の自立ししと、老後をいかに生きがいのあるものにするかを率先垂範、老人達に勇気を与えた。また、新聞等にもしばしば投書して意見を述べた。昭和47年(1972年)6月80歳で没す。
所感
著者松平すゞは、明治24年の生まれであるが、私の祖母せいは、明治23年生まれで年は1歳しか違わない。また私の家は尾張藩の下級武士であり、曽祖父は、維新後士族の称号を受けている。祖母はそんな関係で没落士族の末裔として、このすゞと若干の共通点がある。そんな分けで、思わず祖母の面影と重ねて熱中して読んでしまった。
読み終わってあらためて、この書き手は、どうしてこんな文章を書き残すまでの知性と教養をみにつけたのかと興味を持った。私の祖母は、明治生まれの田舎の女として珍しく読み書きそろばんが出来る人だったが、それは尋常小学校4年まで学校に行けたためである。彼女が社家の出で、親が学校に行かせてくれたそうであるが、田舎では、女子が学校に行く事が珍しく、学校で乱暴ものの男子によくからかい囃されたと私に語ったことがあった。すゞはそんな時代に生まれこれだけの文章が書けるまで、どうしてなることができたのか。この疑問を整理して略歴をまとめるために再度読み直した。
彼女が尋常小学校でおわらず高等小学校に進学して普通の女子の倍(それでも8年間)もの年少教育を受けることになったのは、兄の存在があり、さらにその上の師範学校を目指し、当時の女子としては珍しい教員資格を師得して教員で身を立てるようになったのは小学時代からの友の勧めの影響が大きい。
すゞは、明治時代の女子には珍しく、高度な教育を受けることになるが、それは、婚期を遅らせることになった。すゞは、24歳で結婚している。祖母は、16歳で嫁に来たと語っていたが、当時としては、祖母の方一般的であった。すゞの結婚相手は、7歳年上であったが祖母の相手も7歳年上であった。すゞは、結婚した当時、もう経済的に自立した女であり、松永家の家系を支える一員でもあった。
彼女の記録の中では、夫の籍の問題でのいざこざや夫が家に金を入れないこと等がくどくど書かれているが、その背景には、夫を養子として籍を入れると云う問題がある。これは、そのまま読めば夫の理不仁な振る舞いにみえるが、養子となることへの心理的抵抗があったように思われる。当時、女子の場合、結婚しても子供が生まれるまでは、籍に入れてもらえないことは、よくあることで、自分から望んで籍に入いらないことは、異常であった。すゞの夫の場合、養子の籍に入ることは貧乏な松平家の戸主となることであり、夫はその重圧を避けたかったということであろう。すゞの記述は女の立場からの思いである。家制度は、女にとってのしがらみであったが男にとってのしがらみでもあった。結局、この戸籍問題は、長男を戸主にすることで、松平の家の世継ぎ体制が出来た時、夫が籍を入れて問題が解消することになる。そうした男の気持ちについてすゞは、少し無理解であったように思う。
すゞは、44歳で夫を亡くし、50歳の時、父を亡くしている。祖母が、嫁ぎ先の義父を亡くしたのは、28歳の時で、夫を亡くしたのは48歳の時である。共に、比較的若くして夫を亡くしているが、「人間50年」の時代では、普通のことであったかも知れない。
終戦当時すゞは、54歳、祖母は、55歳である。すゞは、56歳の時にひとりで、挙母町の山奥で自活生活を始めるが、祖母は、既に55歳の時に疎開で、郷里の篠岡村に疎開して、長女と末娘と孫3人の6人家族とともに田舎暮らしを始めている。
その祖母の働きぶりを見て来た私にとって、戦後のすゞの1人暮らしの生活は、それ程珍しいものではなかった。それよりも大人の女のしかいない一家の生活を運営・指示した祖母の働きの方がはるかに困難で大変であったように思われる。
しかし、祖母は、その役割を立派に果たした。衣食住の全てに亘ったその働きぶりは、今の時代のものから見れば驚くべきことで、食事作りや掃除・洗濯はもちろん、畑での農作物の栽培から鶏やウサギの生育、サツマイモ等農作物の長期保存から自家製味噌の製造、切干大根の製造や餅つき、着物の製作や布団の作成までありとあらゆる生活に必要な全ての作業をこなすことが出来た。彼女は、それらの田舎暮らしの知恵を若いとき嫁ぎ先の姑から教えられ、学んだとのことであった。
つまりすゞが、高等小学校からさらに先の教育を受けていたその時期、祖母は、嫁ぎ先で、農作業を始め田舎暮らしに必要な全ての生活術を学んでいたことになる。
松平家の女3代を描いたこの本は、明治維新と敗戦と云う二つの社会変動が、具体的にどのように個人の生活レベルに影響を与えたのかを描いている。たまたま著者が、祖母とほとんど同じ年齢であったため、つい比較してみたくなった。すゞは、80歳で亡くなるが、その生涯を一冊の本に残した。祖母は、米寿を一族のものに祝ってもらい94歳まで生きた。いずれにせよ、すゞと祖母の二人の女性が男の保護受けず、変動の時代を生き抜いたことには、感嘆せざるを得ない。その彼女等を支えた原動力は何であったろう。それは、彼女等が自覚した自らの役割と責任観であり、その背後には、自らの家系に対する誇りとブライドのようなものでは、なかっただろうか。
明治維新と敗戦は、日本人が共通して経験した社会変動である。こうした社会変動が個人に与える影響は大きい。しかし、個人の立場から見れば、影響の大きな出来事は、社会変動に限らない。その余波とも云える出来事が一家や一族の生活を大きく変えることもある。
私の一族は、下級武士で生産の現場近くで生活していたため、比較的うまく明治維新の変動をやり過ごすことはできた、しかし、第一次世界大戦中に起こったスペイン風邪というパンデェミックの日本での流行のせいで、曽祖父とその跡継ぎを相次いで亡くし、やがてその影響が家運の衰退と一族の没落を招くことになる。しかし、こうした逆境にあっても人によってはそれが、転機となり別の可能性が開けることもある。「危機は崩壊につながるが、転機は希望に繋がる」それを決定する主体は、自立せる精神である。このことを感じさせてくれた一冊であった。(了)