1.はじめに
脳科学関係の書物の内容を確認し、整理している中で、どうしても気にかかり内容を読んでみたくなったのがこの本である。その理由は、この本の脳科学についての視点が全く他の書籍とは、異なっていること、しかも著者のベンローズは、ノーベル賞を受賞した物理学者であり、この本を取り上げたのがサイエンスライターの竹内薫と脳科学者の茂木健一郎であったことである。私が読んだのは「ベンローズの<量子脳>理論―心と意識の科学的基礎を求めてー:ロジャー・ベンローズ:竹内薫、茂木健一郎:筑摩学芸文庫:株式会社筑摩書房2006年9月20日第一刷発行:2020年10月30日第7刷発行」である。ここで分かるように、この本は、2006年から14年間に第七刷まで発行されており、しかももともとこの本は「ベンローズの電子脳理論」として1997年5月31日に徳間書店より刊行されたと書いてあった。つまりこの本は、約28年前の書籍である。そんな本が、未だに発行されている。そこに何があるのか、しかもこの本の関係者は、茂木、竹内共に物理学科出身である。そんな分けで、物理出の私としては、どうしても目を通しておく必要を感じた。2.本の概要について
この本は、ベンローズが、心と意識について書いた下記二冊の本すなわち「皇帝の新しい心」と「心の影」で展開した量子脳理論の解説本である。
The Emperor's New Mind: Concerning
Computers, Minds, and The Laws of Physics (1989)
『皇帝の新しい心 コンピュータ・心・物理法則』林一 訳、みすず書房, 1994
Shadows of the Mind: A Search for the
Missing Science of Consciousness (1994)
『心の影 意識をめぐる未知の科学を探る 1・2』 林一 訳、みすず書房, 2001-02、新版2016
しかし、この二冊をそのまま取り上げた本ではない。ベンローズ自身の文章は、序文(5p)と意識はマイクロチューブにおける波動関数の収縮として起こる(33p)、影への疑いを超えて(115p)の合計189pで本全体のページ数461pの41%に過ぎない。
そこで「序文」に続いて、まず「ベンローズの最初の文ツイスターとベンローズのプラトン的世界」というベンローズの世界を理解するための解説の章(104p)が設けられ、そこで彼の量子重力理論の基礎となり、新高性能相対性理論のようなものに繋がるツイスター理論についての竹内薫の解説やジエーン・クラークのよるベンローズの二冊の本に関連するインタビュー、茂木健一郎のベンローズとの会遇記、用語解説(竹内薫)が取り上げられている。そして「意識はマイクロチューブにおける波動関数の収縮として起こる」に続いて「ツイスター、心、脳―ベンローズ理論への招待」(88p)と題する茂木健一郎の解説とベンローズに対する批判とそれへの応酬が「ヘンローズ卿と10人の小人たち」(18p)の中で竹内薫によりまとめられている。ベンローズは、最初の本「皇帝の新しい心」の中で、自身の量子脳理論を展開したが、それには、数多くの批判が寄せられたため、これ等の批判に応えるために書かれたのが「心の影」であった。「影への疑いを超えて」は、この「心の影」への様々な方面からの批判に対する補足、反論をまとめた文章であり、量子力学の生物学への適用から意識の問題まで、広範囲に亘っており、ベンローズの考えの当時としての到達点を示す文章と思われる。本の最後に竹内薫と茂木健一郎が文庫本へのあとがきを書いているが、この本が出版された2006年は、ベンローズは75歳であり、茂木健一郎44歳、竹内薫46歳である。あとがきの中で茂木健一郎が「このような本は、10年たっても20年たっても内容が古くなることはないであろう」と書いているのが印象的であった。
3.ベンローズの量子脳理論について
本の概要を紹介するためにロジャー・ベンローズについて(wikipedia)で調べてみた。この内容と特にその中のその他の活動の電子脳についての記述が、本書の内容に当たる。Wikipediaで、ベンローズを調べたがよくまとまっているので、この内容を紹介し、最後に感想を書く事でこの作業をおえることにする。
3.1ロジャー・ペンローズとは
ロジャー・ペンローズ OM FRS(Sir Roger Penrose、1931年8月8日 - )は、イギリスの数理物理学者・数学者・科学哲学者。2020年ノーベル物理学賞受賞。
一般相対性理論と宇宙論の数理物理学に貢献した。特異点定理によりスティーブン・ホーキングとともに1988年のウルフ賞物理学部門を受賞し、「ブラックホールの形成が一般相対性理論の強力な裏付けであることの発見」により、ラインハルト・ゲンツェル、アンドレア・ゲズともに2020年のノーベル物理学賞を受賞した。
3.2経歴
1931年8月8日、イギリス、エセックス州コルチェスター生まれ。
ユニバーシティ・カレッジ・スクール卒業後、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)入学。父のライオネル・ペンローズがUCLの遺伝学教授で、学費が免除された。
1952年、UCL卒業、B.Sc.。ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ大学院で学び、1957年にPh.D.取得。
ロンドン大学、ケンブリッジ大学、プリンストン大学、シラキュース大学に勤務した。また、テキサス大学、コーネル大学、ライス大学などで客員として教鞭をとった。
1964年、スティーヴン・ホーキングと共にブラックホールの特異点定理を証明。1972年、王立学会フェロー。1973年、オクスフォード大学ラウズ・ボール教授職に就任。1994年、ナイト叙勲。
1988年、ウルフ賞物理学部門受賞。2020年、ノーベル物理学賞受賞。
3.3家族・親族
父ライオネル・ペンローズは精神科医、遺伝学者。母マーガレット・ペンローズ(旧姓リーズス)は医者。
物理学者オリバー・ペンローズは兄、チェスのグランドマスターのジョナサン・ペンローズ、遺伝学者シャーリー・ホジソンは弟。
父方の祖父はアイルランド生まれの芸術家J・ドイル・ペンローズ。
母方の祖父は生理学者のジョン・ベレスフォード・リーズス。母方の祖母のソニア・マリー・ナタンソンは、1880年代後半にサンクトペテルブルクを離れたユダヤ系ロシア人である。
ローランド・ペンローズは叔父。ローランドの妻は写真家のリー・ミラー、息子は写真家のアントニー・ペンローズである。
3.4業績
・スティーヴン・ホーキングと共にブラックホールの特異点定理(重力崩壊を起こしている物体は最後には全て特異点を形成する)を証明し、「事象の地平線」の存在を唱えた。
回転するブラックホールから理論的にはエネルギーを取り出せる方法としてペンローズ過程を考案。
・時空の因果構造を表すペンローズ図を考案。
・量子的なスピンを組み合わせ論的につなぎ合わせると、時空が構成できるというスピンネットワークを提唱。このアイデアは後に量子重力理論の1候補であるループ量子重力理論に取り込まれた。
・時空全体を複素数で記述し、量子論と相対論を統一的に扱う枠組みであるツイスター理論を創始した。長らく物理理論というよりは数学的な研究対象とされていたが、近年、超弦理論やループ量子重力理論との関連性が見いだされつつある。
・2種類の図形で非周期的な平面充填の「ペンローズ・タイル」を提示した。当初、純粋に数学上の存在と考えられていたが、1984年にペンローズ・タイルと同じ対称性を有する結晶構造(準結晶と呼ばれるもの)が実際に発見された。
・角柱が3本、それぞれ直角に接続しているという不可能立体「ペンローズの三角形」や「ペンローズの階段」を考案し、エッシャーの作品『滝』などに影響を与えた(ペンローズ自身もエッシャーのファンであり、平面充填や不可能図形の研究もその作品に触発された物と言われている)。ペンローズはエッシャーのアドバイザーであった。

ペンローズの階段 ペンローズの三角形
3.5量子脳理論
著書『皇帝の新しい心』にて、脳内の情報処理には量子力学が深く関わっているというアイデア・仮説を提示している。その仮説は「ペンローズの量子脳理論」と呼ばれている。放射性原子が崩壊時期を選ぶように、物質は重ね合わせから条件を選ぶことができるといい、意識は原子の振る舞いや時空の中に既に存在していると解釈する。
素粒子にはそれぞれ意識の元となる基本的で単純な未知の属性が付随しており、脳内の神経細胞にある微小管で、波動関数が収縮すると、意識の元となる基本的で単純な未知の属性も同時に組み合わさり、生物の高レベルな意識が生起するというのである。
一方、麻酔科医のスチュワート・ハメロフは、生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説明可能な点から少しずつ立証されていて、20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないと主張している。
臨死体験の関連性について以下のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとらわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合には意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」と述べている。
3.6量子論上の観測問題
『皇帝の新しい心』以降の著書で、現在の量子力学の定式化では現実の世界を記述しきれていないという主張を展開している。(学術論文としても提出している)
量子論には波動関数のユニタリ発展(U)と、波束の収縮(R)の2つの過程が(暗に)含まれているが、現在の量子力学の方程式ではUのみを記述しており、それだけでは非線形なR過程は説明がつかない。すなわち、現在の量子力学の定式化はRが含まれていないため不完全であるとする。そして、Rに相当する未発見の物理現象が存在していると考え、量子重力理論の正しい定式化には、それが自ずと含まれているだろうと唱えた。
『皇帝の新しい心』の続編として出版された『心の影』では、上記の仮説をより進め、UとRを含む仮説理論として「OR理論(Objective-Reduction、客観的収縮)」を提唱した。量子レベルの世界から古典的なマクロ世界を作り出しているのは、重力であり、重力がRに相当する現象を引き起こすとする。量子的線形重ね合わせとは、時空の重ね合わせであり、重ね合わせ同士の重力的なエネルギー差が大きくなると宇宙は重ね合わせを保持できなくなって、ひとつの古典的状態に自発的に崩壊するというモデルである。
その後、著書『The Road to Reality』の中で、OR理論を検証するための実験(FELIX:Free-orbit Experiment with Laser-Interferometry X-rays)を提案している。
これらの主張は、量子論におけるいわゆる「観測問題」あるいは「解釈問題」と呼ばれる議論に関連している。
3.7受賞歴
1966年 アダムズ賞
1971年 ハイネマン賞数理物理学部門
1975年 エディントン・メダル(スティーヴン・ホーキングと共同受賞)
1985年 ロイヤル・メダル
1988年 ウルフ賞物理学部門(スティーヴン・ホーキングと共同受賞)、 ヘルムホルツ・メダル
1989年 ポール・ディラック賞
2000年 メリット勲章、 マルセル・グロスマン賞
2004年 ド・モルガン・メダル
2006年 ディラック・メダル(ニューサウスウェールズ大学より)
2008年 コプリ・メダル、トムソン・ロイター引用栄誉賞
2019年 ポメランチュク賞
2020年 ノーベル物理学賞
3.8著作一覧
物理学関係
The Nature of Space and Time (1996)
スティーヴン・ホーキング共著『ホーキングとペンローズが語る時空の本質
ブラックホールから量子宇宙論へ』林一 訳、早川書房, 1997
The Road to Reality : A Complete Guide to the Laws of the
Universe (2004)
Cycles of Time: An Extraordinary New View of the Universe (2010)
Fashion, Faith, and Fantasy in the New Physics of the Universe (2016)
数学関係
ツイスターと一般相対論 (Twistors and General Relativity) - エルク・フラウエンディーナーと共著、『数学の最先端 21世紀への挑戦 第2巻』収録。丸善出版
20世紀および21世紀の数理物理学 (Mathematical
Physics of the 20th and 21st Centuries) - 『数学の最先端 21世紀への挑戦 第4巻』収録。丸善出版
その他
The Emperor's New Mind: Concerning
Computers, Minds, and The Laws of Physics (1989)
『皇帝の新しい心 コンピュータ・心・物理法則』林一 訳、みすず書房, 1994
Shadows of the Mind: A
Search for the Missing Science of Consciousness (1994)
『心の影 意識をめぐる未知の科学を探る 1・2』 林一 訳、みすず書房, 2001-02、新版2016
The Large, the Small, and the Human Mind (1997)
『心は量子で語れるか』中村和幸 訳、講談社, 1998、講談社ブルーバックス,
1999 - アブナー・シモニー、ナンシー・カートライト、スティーヴン・ホーキング寄稿。
Beyond the Doubting of a Shadow(1997)
『ペンローズの量子脳理論 21世紀を動かす心とコンピュータのサイエンス』竹内薫・茂木健一郎 訳・解説、徳間書店, 1997/ちくま学芸文庫, 2006 - 日本独自編集。
Cycles of Time(2010)
『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』竹内薫
訳、新潮社, 2014
『時間とは何か、空間とは何か
数学者・物理学者・哲学者が語る』 伊藤雄二 監訳、岩波書店, 2013
A.コンヌ, S.マジッド, R.ペンローズ, J.ポーキングホーン, A.テイラー
『あなたの心を描きだすはじめてのアルテアデザイン
幾何学模様のカラーリングブック』渡辺滋人 訳、創元社, 2017.2
エンソー・ホリデー, ロジャー・バローズ, ペンローズ, ジョン・マルティノー, ハイファ・ハワージャ
関連書籍
- 谷岡一郎・荒木義明『ペンローズの幾何学』講談社ブルーバックス 2024
- 高橋昌一郎『天才の光と影 ノーベル賞受賞者23人の狂気』PHP研究所、2024年5月。ISBN 978-4-569-85681-0。
4.読後の感想
ロジャー・ベンローズは、名門出のエリート物理学者である。しかし、私が学んだ1960年代は、まだ30代であり、ほとんど無名の物理学徒であった。しかし、彼は才能と環境に恵まれ、その才能を開花させた。今回その才能の一端に触れることが出来た。
1960年代、物理学徒であった私は、量子力学と統計物理学と原子物理学を主として学んでいた。この中で統計物理学に関心があったのは、ミクロの世界の法則性とマクロの世界の法則性の関係を知りたかったからである。その頃量子力学での結果が確率論的であることが因果律に反するとの議論もあったが、シュレデンガー方程式の状態ψは、連続的に変化し因果律に従うとの意見に賛同しながらもミクロからマクロに移るときの縮退という現象についはどこかで、違和感を覚えていた。そして統計物理学においても可逆的な運動方程式から非可逆的なエントロピー概念が生まれてくるプロセスには、なかなか納得できなかった。ミクロの世界とマクロの世界の関係は、現代でも量子論と相対論の対立と統合問題として残されている。
ベンローズは、60年間この問題に取り組んでおり、その研究の一端に電子脳理論があることが分かった。彼の発想は面白いが、意識が量子力学的プロセスと関係しているとの彼の仮設には、なかなか納得しずらいものがある。
それにしてもこんな面倒な議論の本を買って読む人がいるもんだと驚かざるを得ない。日本の99%の人にはおそらく全く無縁で理解できない本に違いない。