2025年4月9日水曜日

脳科学の脇道―ベンローズの<量子脳>理論―


 1.はじめに

 脳科学関係の書物の内容を確認し、整理している中で、どうしても気にかかり内容を読んでみたくなったのがこの本である。その理由は、この本の脳科学についての視点が全く他の書籍とは、異なっていること、しかも著者のベンローズは、ノーベル賞を受賞した物理学者であり、この本を取り上げたのがサイエンスライターの竹内薫と脳科学者の茂木健一郎であったことである。私が読んだのは「ベンローズの<量子脳>理論―心と意識の科学的基礎を求めてー:ロジャー・ベンローズ:竹内薫、茂木健一郎:筑摩学芸文庫:株式会社筑摩書房2006920日第一刷発行:20201030日第7刷発行」である。ここで分かるように、この本は、2006年から14年間に第七刷まで発行されており、しかももともとこの本は「ベンローズの電子脳理論」として1997531日に徳間書店より刊行されたと書いてあった。つまりこの本は、約28年前の書籍である。そんな本が、未だに発行されている。そこに何があるのか、しかもこの本の関係者は、茂木、竹内共に物理学科出身である。そんな分けで、物理出の私としては、どうしても目を通しておく必要を感じた。

2.本の概要について

この本は、ベンローズが、心と意識について書いた下記二冊の本すなわち「皇帝の新しい心」と「心の影」で展開した量子脳理論の解説本である。

The Emperor's New Mind: Concerning Computers, Minds, and The Laws of Physics (1989)

『皇帝の新しい心 コンピュータ・心・物理法則』林一 訳、みすず書房, 1994

Shadows of the Mind: A Search for the Missing Science of Consciousness (1994)

『心の影 意識をめぐる未知の科学を探る 12』 林一 訳、みすず書房, 2001-02、新版2016

しかし、この二冊をそのまま取り上げた本ではない。ベンローズ自身の文章は、序文(5p)と意識はマイクロチューブにおける波動関数の収縮として起こる(33p)、影への疑いを超えて(115p)の合計189pで本全体のページ数461p41%に過ぎない。

そこで「序文」に続いて、まず「ベンローズの最初の文ツイスターとベンローズのプラトン的世界」というベンローズの世界を理解するための解説の章(104p)が設けられ、そこで彼の量子重力理論の基礎となり、新高性能相対性理論のようなものに繋がるツイスター理論についての竹内薫の解説やジエーン・クラークのよるベンローズの二冊の本に関連するインタビュー、茂木健一郎のベンローズとの会遇記、用語解説(竹内薫)が取り上げられている。そして「意識はマイクロチューブにおける波動関数の収縮として起こる」に続いて「ツイスター、心、脳―ベンローズ理論への招待」(88p)と題する茂木健一郎の解説とベンローズに対する批判とそれへの応酬が「ヘンローズ卿と10人の小人たち」(18p)の中で竹内薫によりまとめられている。ベンローズは、最初の本「皇帝の新しい心」の中で、自身の量子脳理論を展開したが、それには、数多くの批判が寄せられたため、これ等批判に応えるために書かれたのが「心の影」であった。「影への疑いを超えて」は、この「心の影」への様々な方面からの批判に対する補足、反論をまとめた文章であり、量子力学の生物学への適用から意識の問題まで、広範囲に亘っており、ベンローズの考えの当時としての到達点を示す文章と思われる。本の最後に竹内薫と茂木健一郎が文庫本へのあとがきを書いているが、この本が出版された2006年は、ベンローズは75歳であり、茂木健一郎44歳、竹内薫46歳である。あとがきの中で茂木健一郎が「このような本は、10年たっても20年たっても内容が古くなることはないであろう」と書いているのが印象的であった。

3.ベンローズの量子脳理論について

本の概要を紹介するためにロジャー・ベンローズについて(wikipedia)で調べてみた。この内容特にその中のその他の活動の電子脳についての記述が、本書の内容に当たる。Wikipediaで、ベンローズを調べたがよくまとまっているので、この内容を紹介し、最後に感想を書く事でこの作業をおえることにする。

3.1ロジャー・ペンローズとは

ロジャー・ペンローズ OM FRSSir Roger Penrose193188 - )は、イギリスの数理物理学者・数学者・科学哲学者。2020年ノーベル物理学賞受賞。

一般相対性理論と宇宙論の数理物理学に貢献した。特異点定理によりスティーブン・ホーキングとともに1988年のウルフ賞物理学部門を受賞し、「ブラックホールの形成が一般相対性理論の強力な裏付けであることの発見」により、ラインハルト・ゲンツェル、アンドレア・ゲズともに2020年のノーベル物理学賞を受賞した。

3.2経歴

193188日、イギリス、エセックス州コルチェスター生まれ。

ユニバーシティ・カレッジ・スクール卒業後、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)入学。父のライオネル・ペンローズがUCLの遺伝学教授で、学費が免除された。

1952年、UCL卒業、B.Sc.。ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ大学院で学び、1957年にPh.D.取得。

ロンドン大学、ケンブリッジ大学、プリンストン大学、シラキュース大学に勤務した。また、テキサス大学、コーネル大学、ライス大学などで客員として教鞭をとった。

1964年、スティーヴン・ホーキングと共にブラックホールの特異点定理を証明。1972年、王立学会フェロー。1973年、オクスフォード大学ラウズ・ボール教授職に就任。1994年、ナイト叙勲。

1988年、ウルフ賞物理学部門受賞。2020年、ノーベル物理学賞受賞。

3.3家族・親族

父ライオネル・ペンローズは精神科医、遺伝学者。母マーガレット・ペンローズ(旧姓リーズス)は医者。

物理学者オリバー・ペンローズは兄、チェスのグランドマスターのジョナサン・ペンローズ、遺伝学者シャーリー・ホジソンは弟。

父方の祖父はアイルランド生まれの芸術家J・ドイル・ペンローズ。

母方の祖父は生理学者のジョン・ベレスフォード・リーズス。母方の祖母のソニア・マリー・ナタンソンは、1880年代後半にサンクトペテルブルクを離れたユダヤ系ロシア人である。

ローランド・ペンローズは叔父。ローランドの妻は写真家のリー・ミラー、息子は写真家のアントニー・ペンローズである。

3.4業績

・スティーヴン・ホーキングと共にブラックホールの特異点定理(重力崩壊を起こしている物体は最後には全て特異点を形成する)を証明し、「事象の地平線」の存在を唱えた。

回転するブラックホールから理論的にはエネルギーを取り出せる方法としてペンローズ過程を考案。

・時空の因果構造を表すペンローズ図を考案。

・量子的なスピンを組み合わせ論的につなぎ合わせると、時空が構成できるというスピンネットワークを提唱。このアイデアは後に量子重力理論の1候補であるループ量子重力理論に取り込まれた。

・時空全体を複素数で記述し、量子論と相対論を統一的に扱う枠組みであるツイスター理論を創始した。長らく物理理論というよりは数学的な研究対象とされていたが、近年、超弦理論やループ量子重力理論との関連性が見いだされつつある。

2種類の図形で非周期的な平面充填の「ペンローズ・タイル」を提示した。当初、純粋に数学上の存在と考えられていたが、1984年にペンローズ・タイルと同じ対称性を有する結晶構造(準結晶と呼ばれるもの)が実際に発見された。

・角柱が3本、それぞれ直角に接続しているという不可能立体「ペンローズの三角形」や「ペンローズの階段」を考案し、エッシャーの作品『滝』などに影響を与えた(ペンローズ自身もエッシャーのファンであり、平面充填や不可能図形の研究もその作品に触発された物と言われている)。ペンローズはエッシャーのアドバイザーであった。



     

ペンローズの階段           ペンローズの三角形

3.5量子脳理論

著書『皇帝の新しい心』にて、脳内の情報処理には量子力学が深く関わっているというアイデア・仮説を提示している。その仮説は「ペンローズの量子脳理論」と呼ばれている。放射性原子が崩壊時期を選ぶように、物質は重ね合わせから条件を選ぶことができるといい、意識は原子の振る舞いや時空の中に既に存在していると解釈する。

素粒子にはそれぞれ意識の元となる基本的で単純な未知の属性が付随しており、脳内の神経細胞にある微小管で、波動関数が収縮すると、意識の元となる基本的で単純な未知の属性も同時に組み合わさり、生物の高レベルな意識が生起するというのである。

一方、麻酔科医のスチュワート・ハメロフは、生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説明可能な点から少しずつ立証されていて、20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないと主張している。

臨死体験の関連性について以下のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとらわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合には意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」と述べている。

3.6量子論上の観測問題

『皇帝の新しい心』以降の著書で、現在の量子力学の定式化では現実の世界を記述しきれていないという主張を展開している。(学術論文としても提出している)

量子論には波動関数のユニタリ発展(U)と、波束の収縮(R)の2つの過程が(暗に)含まれているが、現在の量子力学の方程式ではUのみを記述しており、それだけでは非線形なR過程は説明がつかない。すなわち、現在の量子力学の定式化はRが含まれていないため不完全であるとする。そして、Rに相当する未発見の物理現象が存在していると考え、量子重力理論の正しい定式化には、それが自ずと含まれているだろうと唱えた。

『皇帝の新しい心』の続編として出版された『心の影』では、上記の仮説をより進め、URを含む仮説理論として「OR理論(Objective-Reduction、客観的収縮)」を提唱した。量子レベルの世界から古典的なマクロ世界を作り出しているのは、重力であり、重力がRに相当する現象を引き起こすとする。量子的線形重ね合わせとは、時空の重ね合わせであり、重ね合わせ同士の重力的なエネルギー差が大きくなると宇宙は重ね合わせを保持できなくなって、ひとつの古典的状態に自発的に崩壊するというモデルである。

その後、著書『The Road to Reality』の中で、OR理論を検証するための実験(FELIX:Free-orbit Experiment with Laser-Interferometry X-rays)を提案している。

これらの主張は、量子論におけるいわゆる「観測問題」あるいは「解釈問題」と呼ばれる議論に関連している。

3.7受賞歴

1966 アダムズ賞

1971 ハイネマン賞数理物理学部門

1975 エディントン・メダル(スティーヴン・ホーキングと共同受賞)

1985 ロイヤル・メダル

1988 ウルフ賞物理学部門(スティーヴン・ホーキングと共同受賞)、 ヘルムホルツ・メダル

1989 ポール・ディラック賞

2000 メリット勲章、 マルセル・グロスマン賞

2004 ド・モルガン・メダル

2006 ディラック・メダル(ニューサウスウェールズ大学より)

2008 コプリ・メダル、トムソン・ロイター引用栄誉賞

2019 ポメランチュク賞

2020 ノーベル物理学賞

3.8著作一覧

物理学関係

The Nature of Space and Time (1996)

スティーヴン・ホーキング共著『ホーキングとペンローズが語る時空の本質 ブラックホールから量子宇宙論へ』林一 訳、早川書房, 1997

The Road to Reality : A Complete Guide to the Laws of the Universe (2004)

Cycles of Time: An Extraordinary New View of the Universe (2010)

Fashion, Faith, and Fantasy in the New Physics of the Universe (2016)

数学関係

ツイスターと一般相対論 (Twistors and General Relativity) - エルク・フラウエンディーナーと共著、『数学の最先端 21世紀への挑戦 第2巻』収録。丸善出版

20世紀および21世紀の数理物理学 (Mathematical Physics of the 20th and 21st Centuries) - 『数学の最先端 21世紀への挑戦 第4巻』収録。丸善出版

その他

The Emperor's New Mind: Concerning Computers, Minds, and The Laws of Physics (1989)

『皇帝の新しい心 コンピュータ・心・物理法則』林一 訳、みすず書房, 1994

Shadows of the Mind: A Search for the Missing Science of Consciousness (1994)

『心の影 意識をめぐる未知の科学を探る 12』 林一 訳、みすず書房, 2001-02、新版2016

The Large, the Small, and the Human Mind (1997)

『心は量子で語れるか』中村和幸 訳、講談社, 1998講談社ブルーバックス, 1999 - アブナー・シモニー、ナンシー・カートライト、スティーヴン・ホーキング寄稿。

Beyond the Doubting of a Shadow1997

『ペンローズの量子脳理論 21世紀を動かす心とコンピュータのサイエンス』竹内薫・茂木健一郎 訳・解説、徳間書店, 1997/ちくま学芸文庫, 2006 - 日本独自編集。

Cycles of Time2010

『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』竹内薫 訳、新潮社, 2014

『時間とは何か、空間とは何か 数学者・物理学者・哲学者が語る』 伊藤雄二 監訳、岩波書店, 2013

A.コンヌ, S.マジッド, R.ペンローズ, J.ポーキングホーン, A.テイラー

『あなたの心を描きだすはじめてのアルテアデザイン 幾何学模様のカラーリングブック』渡辺滋人 訳、創元社, 2017.2

エンソー・ホリデー, ロジャー・バローズ, ペンローズ, ジョン・マルティノー, ハイファ・ハワージャ

関連書籍

  • 谷岡一郎・荒木義明『ペンローズの幾何学』講談社ブルーバックス 2024
  • 高橋昌一郎『天才の光と影 ノーベル賞受賞者23人の狂気』PHP研究所、20245月。ISBN 978-4-569-85681-0

4.読後の感想

ロジャー・ベンローズは、名門出のエリート物理学者である。しかし、私が学んだ1960年代は、まだ30代であり、ほとんど無名の物理学徒であった。しかし、彼は才能と環境に恵まれ、その才能を開花させた。今回その才能の一端に触れることが出来た。

  1960年代、物理学徒であった私は、量子力学と統計物理学と原子物理学を主として学んでいた。この中で統計物理学に関心があったのは、ミクロの世界の法則性とマクロの世界の法則性の関係を知りたかったからである。その頃量子力学での結果が確率論的であることが因果律に反するとの議論もあったが、シュレデンガー方程式の状態ψは、連続的に変化し因果律に従うとの意見に賛同しながらもミクロからマクロに移るときの縮退という現象についはどこかで、違和感を覚えていた。そして統計物理学においても可逆的な運動方程式から非可逆的なエントロピー概念が生まれてくるプロセスには、なかなか納得できなかった。ミクロの世界とマクロの世界の関係は、現代でも量子論と相対論の対立と統合問題として残されている。

ベンローズは、60年間この問題に取り組んでおり、その研究の一端に電子脳理論があることが分かった。彼の発想は面白いが、意識が量子力学的プロセスと関係しているとの彼の仮設には、なかなか納得しずらいものがある。

それにしてもこんな面倒な議論の本を買って読む人がいるもんだと驚かざるを得ない。日本の99%の人にはおそらく全く無縁で理解できない本に違いない。


2025年2月19日水曜日

脳の本質―いかにしてヒトは知性を獲得するかー

 

はじめに

脳と意識をめぐる問題は、この30年ばかりの間ずっと氣になっていた問題である。1月に栄のジュンク堂書店によった時、新刊書コーナーで、脳関係の新刊が出ていたので、思わず購入したのが、この本である。

「脳の本質―いかにしてヒトは知性を獲得するか―:乾敏郎、門脇加江子:中央新書:中央公論新社:20241125日」この本をすぐ買う気になったのは、それが新刊だったためである。科学の本を取り上げるのは、難しい。その理由は、今世紀に入ってからの科学・技術の発展と展開が急速で、一冊の本の内容がすぐに陳腐化しかねない時代であるからである。特に脳科学とAI関係は、研究の進展が急であるため、常に目を光らせていたのでつい手が出たのである。しかし、このときは、別の本に取り組んでいたこともあり、すぐに読む気にはならなかった。

本を読むきっかけ

しかし、2月に入り、勉強会の資料として新聞記事を整理していたとき、「超知能AI 10年で実現」との見出しを見つけた。記事は、訪日したオープンAICEOサム・アルトマンへの取材記事で、それによれば、彼は、人間の知能に迫る汎用AI(ATG)が、4年以内に、専門家をしのぐばかりか一つの企業や組織全体の仕事もこなせる超知能AI10年以内に実現すると語ったと云う。

 長年、「人間とは何か」をテーマとし、意識と無意識下の不思議な働きに興味を持ってきて、潜在する無意識下の衝動に導かれたり、一瞬の閃きにより、偉大な発見をしたり、名画や音楽に感動したり、無限の広がりを見せる人間を宇宙のような広がりを持つ存在としてきた私にとって、これと同等の知能を持つAIと云うものが4年以内に実現するとは、俄には信じられない話で、それが実現するとするならば、そこに、人間とは何で、その中心をなす脳の働きについての科学的知見が無ければならない。現代の脳科学は、本当にそれを可能にするまで、進んでいるのだろうか。そんな疑問に導かれてこの本を読んでみることにした。

本のうたい文句

本の概要は、表紙カバーの裏側に要約されておりそれを紹介すると「なぜ細胞の集合体である脳から自我が生まれ、感情が生まれるのか。どうして相手の心が分かるのか。脳は如何に言語をあやつるのか。そもそも何故生命を維持できるのか。鍵は脳がする「予測」と予測誤差の修正だ。本書では、知覚、感情、運動から言語、記憶、モチベーションと意思決定まで、脳が発達する原理をひもとく。子供の学習や障害、意識の構造も一望。人類に残された謎である、高度な知性を獲得する仕組みを解き明かす。」

著者達について(wikipedia)

乾敏郎(いぬい としお、1950124 - )は、心理学者・脳科学者。文学博士(京都大学・論文博士・1985年)。京都大学名誉教授、追手門学院大学教授。言語・非言語コミュニケーション機能の認知神経科学的研究に従事。発達原理の解明に向けた研究やコミュニケーション障害の脳内メカニズムに関する研究などを行っている。

略歴

大阪府生まれ。1974年大阪大学基礎工学部生物工学科卒業、1976年同大学院基礎工学研究科生物工学専攻修士課程修了。

大阪大学人間科学部行動系行動工学助手、1983年京都大学文学部哲学科心理学教室助手、1985年「視覚情報処理の基礎的メカニズムに関する心理学的研究」で文学博士(京都大学)の学位を取得。1987年視聴覚機構研究所認知機構研究室主幹研究員、1991年京都大学文学部哲学科心理学教室助教授、1995年教授、1998年京都大学大学院情報学研究科教授。2015年定年退任、名誉教授、追手門学院大学教授。

門脇加江子

概要:立命館大学文学部で実験心理学を学び、追手門学院大学大学院心理学研究科で臨床心理学を修める。 臨床心理士、公認心理師、保健師、看護師。 脳と身体の関係を焦点に、児童や成人のカウンセリングに従事。 専門は臨床発達心理学、メンタルヘルス。

脳の本質」の構成

まえがき

第一章 脳の本質に向けて

第二章 五感で世界を捉え、世界に働きかける

第三章 感情と認知

第四章 発達する脳

第五章 記憶と認知

第六章 高次脳機能

第七章 意識とはなにか

終章

あとがき


読後感

脳の働きについては、現代の脳科学の知見を取り入れ、よくまとまっている。しかし、これがすべてかと云うと取り扱い方が浅く、取り扱い範囲も限られているきらいがある。もっと知りたかったこととして、気が付いたことをとり上げるとまず、現在の脳科学の到達点の評価がないため、今後の科学の発展方向が見えないことである。さらに現代の脳科学発展の基礎となった技術的手法についての記述がすくないように感じた。また、人間の脳の発達と認知機能の記述はあるが、生物としての進化と脳機能の発達についての記述がない。さらに、これと関係するかも知れないが、生命体としての人間の無意識領域の問題の位置づけがあまり書かれていない。従来の哲学的テーマを現代の脳科学の視点から批判的に整理する必要があるようにおもった。

読後感をまとめてみて、自分の問題意識かがはっきりしてくるとこれに応えてくれるような本に、既に自分は出会っているように思われ、新たな本に期待するより、自分の持っている資料と知識を整理・確認し、自分なりに脳科学の現状をまとめるべきとの思いがしてきた。その意味で、この本は脳科学の現状をまとめるきっかけを与えてくれた本である。

 


2025年2月4日火曜日

三体―中国SFの感想

 

はじめに

中国の若手SF作家劉慈欣の名前を知ったのは、ポストコロナの世界を探っていた時、たまたま手にした中国の最新SFを集めた小冊子「折り畳み北京」を通してだった。それは、中国の7人の若手作家の作品とエッセイ集をまとめた本で、厳格なロックダウンと言論統制下にある中国の若手作家の意識を知る上で貴重な読み物であった。そんな時、ユーチューブ上で若者の間で中国の若手SF作家劉慈欣の作品「三体」が話題になっていることを知り、読んでみることにした。

劉慈欣の名前や彼の作品「三体」については、「折りたたみ北京」の中に名を連ねていたので知っているが、大部の作品で読むことを躊躇していたが、これだけ話題となっているなら見逃すわけにはゆかないと意を決して書店へ出かけた。そこで入手したのが「三体」(著者劉慈欣、訳者大森望、光吉さくら、ワン・チャイ早川書房:2024225日発行)  この本には、これは20197月に早川書房より単行本として刊行したものを文庫化したものとの注がついていた。原作は2006年から中国のSF雑誌「科幻世界」に連載され、2008年に単行本として刊行され、2014ケン・リュウによりその英語訳が刊行され世界的に広がったものらしい。

この本は地球外知的生命体との接触をテーマとしているので、私のこのところの関心の延長線上にある作品であった。しかし、文庫本としては、大部であるため、一部、二部、三部と別れて刊行されたため、とりあえず第一部のみ購入し、その後に第二部の上下巻も発刊され、これを入手したが、すぐに続いて第三部の上下巻が発刊された。第一部は、一巻のみの構成であったため、一気によめたが、第二部からは、手付かずで、結局第二部に着手したのは、第三部の発刊の後で、目の前には、四冊の本が積みあがっていたことになる。この作品をブログで取り上げようとは、当初から思っていたが、なかなかその気にならず、読み終わって2か月近くたってようやくまとめる氣になってきた。

三体の全体構成と流れ

この物語は、地球外生命体の探査計画とその結果誘発された地球外生命体の地球侵攻とそれへの対抗計画の4百数十年にわたる攻防を描いた空想SF歴史小説である。

第一部は、地球外生命体探査計画とその結果誘発された地球外生命体による地球侵略計画の開始までを扱っており、第二部は、圧倒的な科学力を持つ地球外生命体の侵攻計画に対抗する人類の防衛戦略に関する物語であり、第三部は、人類の防衛戦略と並行して進められる攻撃戦略とその結果に関する物語である。


三体問題とタイトルについて

相互に重力的な作用を及ぼし合う3体からなる系の力学は複雑である。一般に、三体系の振る舞いは初期条件に鋭敏に依存するカオス的なものになる。したがって、3つの天体の動きを決め重力的な作用を及ぼし合う3体からなる系の力学は複雑である。一般に、三体系の振る舞いは初期条件に鋭敏に依存するカオス的なものになる。したがって、3つの天体の動きを決める問題である三体問題は、特別な場合を除いては解析的に解くことができない。小説のタイトル「三体」は物理学のこの三体問題からとられている。


物語「三体」を構成する主なキーワード

侵略者

地球への侵略者は。三つの太陽のある不安定な世界に住む高度な科学技術力を持つ三体人

侵略者を誘発するもの

侵略者を誘発するのは、人類に絶望し、人類の矯正には、地球外の知的生命体の助けが必要と考える人達。

地球侵略のツール

プロパガンダ手段としてのVR技術、遠方監視ツールとしての量子もつれの応用と6次元素子智子

時空を乗り越える技術

冷凍睡眠技術の実用化と普及

宇宙航行技術としての核融合エンジンと光速化


探査・攻撃兵器

安楽死と永遠の生命

世界観

暗黒森林と云う暗黒宇宙文明論

宇宙の次元と崩壊又は展開思想

生態系とは独立した人間観

文化とは独立した科学・技術観


三体を読んでの感想

三体の英語約・日本語訳が発刊されてからSNS上で多くの紹介や議論がなされ、その映画もつくられ、ネットフリックス上で公開されるなど、その反響と影響の大きさに驚く。しかし、長年のSFファンとしては、どこか受け入れ難い点もある。ここでは、この作品の評価をめぐって、率直な感想と思いをまとめてみたい。

まず、この作品の評価すべき点は、そのスケールの大きさと広がりである。時間の長さは、500年近くに及びその空間的広がりも大きい。しかもその宇宙観には、最新宇宙論が反映されており、十次元宇宙論や量子もつれなど最新情報が反映されている。時間スケールから言えば以前読んだ「タイムシップ」に次ぐ長さだし、時空の捉え方に多次元宇宙論が見え隠れするのも興味深い。この物語の時空の中に銀河景間、惑星間通信の可能性等最新の知見が気見込まれている。VR技術や核融合エンジンなど現代の科学技術の応用からその発展としての惑星間宇宙船の在り方等近未来の直面する課題とその解決方向も暗示されていて興味深い。タイムマシンのようなものは、登場しないが、それに代わるものとしての冷凍睡眠技術は、ふんだんに登場してくるし、人間の意識の機械への取り込みによる不死の可能性や安楽死についての議論など現代科学のテーマを議論しているのも興味深い。

しかし、その一方違和感を覚えたのは、物語の前提に対する疑問で、その第一は、三体人とその科学・技術についてである。三体人の住む世界は、太陽が三つある三体問題に象徴される不安定な世界であるが、このような不安定な社会で高度な科学・技術が生まれることの不自然さである。また、宇宙についての暗黒森林論は、文明を科学力だけの物差しで定義するに等しい暴論のように思える。もっとも決定的なのは、生物として知的生命体についての基本的な捉え方についてであり、生命を環境から切り離した独立系としている点である。つまり、生命を生態系の一部としての視点が欠如しているため、環境が人間の活躍する背景としか取り上げられていない点である。さらに欲を言えば登場人物の行動や思想についての深みが、第一部の主人公葉文潔以外あまりないことである。これ等の背景には、著者の劉慈欣が工学系の技術者であるための限界があるのかも知れない。


最近痛感することであるが、急成長した中国や韓国やアジアやアフリカ等の開発途上国の若者の多くが、科学や技術をある種の手順や手続きのように考えており、その手順を行えば必然的に結果が出てくる便利なアプリと考えており、その根本にある哲学や思想に目が届かない。彼等にとっては、科学や技術は、人間や文化とは、別の独立したもので、独自に発展するものと考えているようなのである。その結果、蛮人が近代兵器を手にしたような宇宙人が想定される。これは、輸入機械とマニュアルにより、大量生産するのが近代化、現代化と云う現代の科学・技術の矮小化された解釈に連なっている。三体には、こうした考えが各所に隠されているように思える。また、文明人は、未開人を虫けらや動物のごとく扱うと云う発想が散見されるが、これは、西欧の未開地域の植民地化プロセスからの類推とでもいえる想像力の貧困からきているように思える。三体を読み終わった後、アーサークラークの作品のような読後のさわやかさを感じなかったのは、物語としては面白いが、その背景にある世界観や人間観、科学・技術思想のようなものに共感できなかったためかも知れない。





2025年1月30日木曜日

幻影の明治―名もなき人々の肖像―日本の立ち位置を考える

 

本との出会い

  一冊の本との出会いには、それなりの背景ときっかけがある。今回この本を手に取ることになった背景は、複雑である。それは。文庫本の中国SF「三体」を読んだことと関係している。この「三体」は、全体で5冊からなっており、その第一巻は、一気に読むことが出来たが、第二巻以降は、ところどころに面白いエピサードはあるものの、全体としては、かなり冗長な作品に思えた。そんな時、お口直しの意味で、手にしたのが、古書展で見つけた山田風太郎の妖怪太閤記(上下巻)であった。当初この作品は、忍法帖シリーズのように、奇妙で、グロテスクな作品であろうと思っていたが、読み始めると面白く読みだしたら止まらない程で、「三体」を読み終える前に読み終えてしまった。その面白さは、確かな史実もさることならば、その人間観の確かさから生まれる自由な創造性であった。この二冊の「長編小説」を読みながら、物語の面白さについて考えざるを得なかった。


考えがまとまらないままに、古書展で入手した別の本を読み進めていた、それが「肉食文化と米食文化:鯖田豊之:中公文庫:中央公論社:1988710日初版、1995830日再版」であった。この本は、昨年食問題をまとめたとき、日本の食問題を考える基本的視点が明確でないことにもどかしさを覚えた感覚からこの本がそうした問題点に対するなにかの情報を得られるのではないかと思って手にした本であった。この本は、西欧の肉食中心の食生活と米を主食とする日本の食生活の成り立ちと背景を近代の栄養学をベースとして比較する中で日本の食生活の世界の中での立ち位置を明らかにした本であった。さらに、阿部公房の作品や韓国のノーベル賞作家の作品「すべての白いもの達の」を読む中で、日本文化の在り方の特殊性について、考えざるを得ないような気がしていた。

 この途中に出会った本が「幻影の明治:渡辺京二:平凡社ライブラリー:(株)平凡社:2018810日、初版第一刷、2023121日初版第三刷」である。

 渡辺京二について、ある程度の知見があった。それは14年程前、次の本を手にしていたためであった。「逝きし世の面影:渡辺京二: :平凡社ライブラリー:(株)平凡社: 200599日、初版第一刷、2011121日初版第23刷」

書店でこの本を手にしたのは、本の帯に追悼の文字を見つけたためでもある。この10年ばかりの間に日本の文化的著名人が次々とこの世を去ってゆく中で、気にかけていた1人である渡辺京二の死は、私にとって文化的衝撃に思われて、思わず読んでみたくなった。

渡辺 京二の概要と略歴(WeKipedia)

概要

渡辺 京二(わたなべ きょうじ、193081 - 20221225)は、熊本市在住の日本の思想史家・歴史家・評論家。幕末・明治期の異邦人の訪日記を網羅した『逝きし世の面影』が著名。

経歴

   日活映画の活動弁士であった父・次郎と母・かね子の子として京都府紀伊郡深草町(現:京都市伏見区深草)に生まれる。誕生日は81日となっているが、これは出生届の提出時に父が間違えたもので、実際の誕生は91日という。

1938年(昭和13年)、当時大陸で映画館の支配人をしていた父を追って中華民国・北京に移住、その二年後に大連に移り、南山麓小学校から大連第一中学校へ進む。1947年(昭和22年)、大連から日本に引揚げ、戦災で母の実家が身を寄せていた菩提寺の六畳間に寄寓する。

  旧制熊本中学校に通い、1948年(昭和23年)に日本共産党に入党する。同年第五高等学校に入学するが、翌1949年(昭和24年)結核を発症、国立結核療養所に入所し、1953年(昭和28年)までの約四年半をそこで過ごした。1956年(昭和31年)、ハンガリー事件により共産主義運動に絶望、離党する。

 法政大学社会学部卒業。書評紙日本読書新聞編集者、河合塾福岡校講師を経て、河合文化教育研究所主任研究員。2010年には熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授に就いた。20221225日死去92歳没

  渡辺京二氏の死については、コロナ下であったこともあり、その死について報じられることもなかったので、この本で初めて知った。以前手にしていた逝きし世の面影600頁にも上る本であったため、その一部しか読んでいなかったので、彼の思想の全貌に迫ることは出来なかった。「幻影の明治」は200頁強の小冊子であったため、読み終えそうなので早速手にとった。

「幻影の明治」の概要

「幻影の明治」は次のような構成となっている。

第一章      山田風太郎の明治

第二章      三つの挫折

第三章      旅順の城は落ちずとも

第四章      「士族反乱」の夢

第五章      豪傑民権と博徒民権

第六章      鑑三にしもんされて

付録(対談)独学者の歴史叙述―黒船前夜をめぐって×新保祐司

あとがき

解説―卓越した歴史感覚―井波律子

 この本はほぼ2日間で読み終えた。その理由は、第一章の山田風太郎の明治の内容が、私が山田風太郎の妖怪太閤記(上下巻)で感じた感想と全く同じであったためである。

そして、この本は、山田風太郎の人間観と物語手法のベースとなる社会観歴史観を明治維新を素材として纏めたものであるとも云える。

日本文明の立ち位置への指針

戦後日本社会は、西欧の社会モデルとの比較の上に議論されてきた。それは、政治、経済、文化から食にいたるすべての分野に及んだ。しかしそうした日本文化の捉え方は、随分偏っているように思う。それは、ある意味で、西洋コンプレックスをベースとした自虐史観でもあった。その意味で、外国人の見た日本文化の事実に基ずく感想記録を紹介した「逝きし世の面影」に象徴される視点は、我々の自画像を形成する上で極めて貴重なものである。

世界における日本の立ち位置を明らかにする課題は、日本の中にいて激動する世界をしっかりと把握する上で不可欠の作業であろう。渡辺京二の視点は、そのための重要な指針となるように感じた。