はじめに
長年生活していると不思議なことに出会う。しかし、それは、その時だけの一過性の出来事として、特に気に留めることはない。けれども、それが、あまりにはっきりした形を見せて現れるとその背後に何か意味のあることが隠されているのではないかと思わざるを得ない。それは、今思えばユングの云う同時性とか共時性とかの概念と関係しているのかも知れない。そのことは、私の古書探訪に係わる行動を通じて体験したことである。多分それは随分以前からあったかも知れないが、それまではほとんど見過ごしていたことで、その時初めて明確な形をとって私の前に現れた。
碧巌録事件
そのきっかけは、十年近く続けている座禅会の会場である寺の本堂の正面の二本の柱に掲げてある文字の意味が話題になったことであった。その時、その言葉を調べてくれる人がいた。その言葉は、「堪対暮雲帰未合」「遠山無限碧層層」で、禅語の公案集「碧巌録」の二十則の偈に出てくる語で、「対するに堪えず暮雲の帰って未だ合せず、遠山限り無く碧層層たり」と読むとのことであった。碧巌録には、この言葉をめぐって20頁もの解説が書かれているとのことであった。
その時、その本を以前に購入したことを思い出し、家に帰って確認すると果たして、岩波文庫の「碧巌録」(上)一冊が書棚にあった。本来上、中、下の三巻で構成されていた本であったが、恐ろしく難しいその本を手にとった時、その三冊を自分が読みおおせるとは思われず、とりあえず上巻のみを購入し、興味がでたら中、下巻を購入すればよいと思って上巻のみを購入したことを思い出した。碧巌録20則は、上巻に載っていたので、その内容を繰り返し読み、「遠山限り無く碧層層」は翌年の年賀状の挨拶文に採用することになった。
この「碧巌録」を読んだとき、どうしても中巻、下巻を手に入れたくなって翌日栄の書店に出かけたが、そこには、中巻のみで、下巻が欠品していた。残念では、あったが、その日は中巻のみ購入して家に帰った。その日は木曜日で、翌日は、丸太町の交差点近くの古書会館でも月一回の古書展が開催される日であった。そして、その会場で不思議なことが起こった。なんと「碧巌録」の下巻が、しかも下巻のみが無数の本の中にあったのである。その時の喜びと感動は、初めて異性と知り合った時の喜びに似ていた。その出逢いは、たしかに自分の意識的行動の結果であるが、その一方で、本が私を引き寄せた結果でもあるように思われた。そして、それ以来、古本屋と古書展巡りは、私の生活の一部となった。
これは、5年前の話であるが、それ以来、同じような体験が何度もあったが、その意味を深く考えることはなかった。しかし、最近になって、そのことを深く考えるきっかけとなる体験があった。
古本屋巡りと出会い
四月半ばのことである。早々に夏野菜の苗を植え、種まきを終えたとき、描きかけの油絵に。花を描き加えたくなって、書棚に古本屋で入手した一冊の絵画雑誌のあることを思い出した。その雑誌は、「一枚の繪」の2014年5月号である。この一冊が手元にある理由は、この本が、今までにスケッチで訪れたことのある七箇所の場所、すなわち、上高地河童橋、忍野、河口湖、長野県小川村、開田高原、白馬、安曇野の風景画が載っていることと、いずれは描きたいと思っていた薔薇の花の描き方を掲載していたためであった。
この本を改めてしっかり目を通してみて、その中の一枚に何か心惹かれるものを感じた。巨木を背景に赤い服の少女を描いた8号の油絵には、「恋する季節」と画題が付けられていた。作者は鹿児出身の女流画家。大学の卒業年から見て、多分60歳前後、この絵は、50歳前後の時の作品。その詩情あふれる絵を見ていたら、何か新しいものとの出会いを求めたくなり、久しぶりに古本屋巡りがしたくなった。
行くなら、あの「一枚の繪」を買った熱田神宮駅近くの古本屋だ。そのついでに県の美術館で開催中の知人のグループ展を見こよう。古本屋の中では、主に絵画関係を中心に見て回ったが、絵画関係については、見るべきものはなかったが、帰り際に、二冊の本を見つけた。「中国の性愛テクノロジー:大沢昇:青弓社1992年1月25日第一版第一刷」と「ウィトゲンシュタインと禅:黒沢宏:哲学書房:1987年9月発行」それぞれ発売当時2000円と1500円の本であるが、各々500円の値がついていていた。しかも新品同様のものでも読まれた形跡はなかった。文庫本でも1200円から2000円もする時代。これは安いと思わず買い求めた。
小雨の中を20分ばかり歩いて金山駅に至り、地下鉄で栄に出て、県の美術館で知人のグルーブ展を覗く、女性12人のグループ展と云うことで、薔薇の花等華やかな絵を期待したが、抽象的な絵が多く、期待外れであった。帰りは、地下街の居酒屋で、ビール一本と鮪刺と串カツで昼食に代え、その日は帰宅した。
翌日、今日は、鶴舞から上前津まで、歩き、途中にある古本屋を見て歩こうと昼前に家を出た。数分の遅れで、バスに乗り遅れたが、良い機会とバスの本数が多いバス停まで歩くことにする。10分ばかり歩いて次のバス停が近づいたとき、今年になってオープンしたと云ううなぎ屋の看板が目に入った。時計を見ると11時半。いつか様子をみるために入ってみようと思っていた店なので、思い切って入り、そこで、「うなぎ丼」を注文し、昼食を済ます。そしてバス停でたまたまやって来たバスに乗り八事へ出て、地下鉄鶴舞線で鶴舞駅に出て、徒歩で上前津方面をめざして歩く。一軒目の書店を30分ばかり眺めるが、気になる本に出合えず。
二軒目の書店で、二冊の本に出合う。其の内の一冊が、「ロシア 闇と魂の国家:亀山郁夫+佐藤優:文春新書2008年4月発行」でもう一冊が「鑑賞中国の古典⑨抱朴子・列仙伝:監修小川環樹 本田済:著者尾崎正治、平本康平、大形徹:角川書店:1988年(昭和63年)7月初版発行」である。「ロシア 闇と魂の国」は、文字どおり、ロシア国民のエトス(心性)を取りあつかったロシアを専門とする二人の対談集である。また、「鑑賞中国の古典⑨抱朴子・列仙伝」は、以前「抱朴子」を調べたとき、東洋文庫で、3000円もするもので、アマゾンの古本でも値段が同じため断念したものであった。ところが、今回見つけた本は、この抱朴子のみか列仙伝までついて一冊となっているもりので、しかも著者等による解説までついていた。発売当時2800円のものが1500円出ていた。まるで、本が私を探しだしてくれたようにもうあきらめかけていた本に出合えたのである。
この書店には、科学・技術関係の本も数多くあり、ディラックの「量子力学」の朝永等による訳本があったので思わず手にして値段をみると1800円だった。57年前、私はゼミのためその原書を4000円で購入した。四畳半の下宿代が4500円の時代である。その原書は、大学院への進学を断念したとき、3000円で古本屋に売却してしまったことが思い出された。翻訳本があるからいいと思ったためである。しかし手元に残った翻訳本は、初版で、ゼミで使ったのは、その改訂4版であった。その改訂4版の誤りを同ゼミの小林誠君(彼はその後ノーベル物理学賞を受賞した)が指摘し、当時の理学部物理教室の大貫教授や安野助教授等の教授連中の中で話題となり、議論され、結局ディラックの間違いと云うことで決着したことを思い出した。
今となっては、あの思い出の本を生活のためとは言え手放したことが、苦い思いとして蘇ってきた。あの原書は、その後どうなってしまったのだろうか。今度どこかで出会うことがあれば、買い戻そうと密かに心に決めた。二冊の本を得て、満足した私は上前津から地下鉄で新瑞橋に戻り、ジャスコで衣類コーナーを眺めた後、コーヒー豆を買って帰宅した。
その翌日は、金曜日で、丸太町の古書会館で、古書の展示即売会の初日となる日であった。コミ出しや手作りパンの購入等を手早く済ませて、新瑞橋経由で上前津で降り、地下鉄で鶴舞駅に出て徒歩で古書会館に向かう。ここで、1時間30ばかり見て回る。
出会って購入した7冊は、次のような本であった。(合計1700円)
「イコン:クルト・ブラッシュ:三彩社:昭和41年(1966年)3月発行860円⇒400円」
「大姫考 薄命のエロス:馬場あき子:大和書房:1972年6月発行790円⇒400円」
「南坊録(覚書・滅後):筒井紘一:淡交社:平成24年(2012)年2月発行1200円⇒200円」
「未来の衝撃:A・トフラー、徳山二郎訳:中央公論社:昭和57年(1982年)4月、昭和45年(1970年)9月実業の日本社刊行680円⇒200円」
「エロテックス:杉本彩責任編集:新潮文庫平成21年(2009年)9月発行552円⇒200円」
「古代日本人と朝鮮半島:関裕二:PHP文庫:2018年5月発行780円⇒200円」
「阿Q正伝:魯迅、丸山昇訳:新日本文庫:1975年11月発行 270円⇒100円」
清算を済ますと丸田町のバス停から栄に出て、妙香園画廊で池田さんの個展をみる。和装の女性を描いた20点ばかりが展示されていた。緻密な着物の描き方に驚き、作者と数語会話し、昼食のため、現役時代よく通った蕎麦屋へ立ち寄り、カレーうどんを注文。その後地下鉄の駅まで歩き、新瑞橋経由で帰宅する。
本との出会いの秘密
事実は、こんなことであるが、何故これ等の本に出会いそれを購入したのか、その時は全く無意識であったが、その偶然の中に奇妙なことが起こっていることに気が付いた。
ウィトゲンシュタインと現代哲学
まず、第1日目に出会った「ウィトゲンシュタインと禅」この本を手にした理由は、以前ウィトゲンシュタインの論理哲学論考とその関連本を読んだとき、かれが何を問題としていたか全く理解できなかったことであり、それがずっと気にかかっていたことと関係がある。ドイツ哲学を主流とする現代の流れは、カントからフィフィテ、ヘーゲル、マルクスに至る哲学の途中からショーペンハウエルからニーチェ、フロイド、ハイディガーに至る実存主義の流れを生み出す。
しかし、ニーチェを読んでいて、かれが、戦っていたのは、キリスト教とアリストテレスの哲学、つまり神を前提とする哲学であり、その前線にいるのがハイディガーであることが分かった。神を前提としない東洋的思考に慣れている我々が当然こととして受け取っている事実に到達するのに彼等は、苦闘していたのである。日本の西田哲学の伝統を引き継ぐ
京都学派がドイツのハイディガーと関係しているのは、ハイディガーが、神を前提としない哲学構築の最前線にいて、それは、東洋の哲学と極めて近接しているためである。
ウィトゲンシュタインはこの脈絡の中でとらえるべきで、「ウィトゲンシュタインと禅」は、そのことを示す本と直感した。つまり、ウィトゲンシュタインは何と戦っていたかの端的な答えがそこにあると感じた。ウィトゲンシュタインは、論理哲学論考を通して、アリストテレスとキリスト教を土台とする西洋哲学の考え方、形而上学の問いそのものの無意味さを論証し、キリスト教とアリストテレス的世界つまり神を前提とする世界を葬り去った
のである。つまりニーチェが思想的に葬り去り、ウィトゲンシュタインが論理的に葬り去ったあとにハイディガーが新たな哲学の土台を構築して去っていった。我々は、その世界にいるのである。
これは、一冊の本に関することであるが、その他の本との出会いの理由を振り返った時、すべてについてこれと同じような必然的な理由があることに気づいた。
シンクロニシティ(共時性)と私
ユングがシンクロニシティ(共時性)と云う現象を追求していたことは、有名である。シンクロニシティとは、一般には、お互いになんの因果関係のない二つのことが同時にそれらが意味ありげに起こることを云う。要するに偶然の一致である。ユングは、これを4点に亘って定義しているが、その中の一つが「こころの世界と物質の世界をつなぐものとして」のシンクロニシティ(共時性)である。
ユングの考えを要約すると「人間の心の奥深くらはすべての人に通ずる無意識の領域があり、さらにその奥には、自然界につながる領域がある。人間の心と云う内部世界は、客観的外部である自然界と云う外部の世界と繋がっている。そのように内部世界と外部世界の交差するところでシンクロニシティと云う現象が起こる。私が、頭の中で考えた課題が、古本屋や古書展や書店での本との偶然的出会いに導く、これこそがシンクロニシティではなかろうか。また、逆に今回出会った本が、私の中に潜在的に眠っていた問題意識を目覚めさせ、新たな知的発見に導くことになる。これも又シンクロニシティと云えるのではなかろうか。内部世界と外部世界が結びつくと云う不思議な体験は、考えてみれば、今までも何度も起こっていたが、最近、次第にその出現の頻度を増しつつあるような気がする。
無意識の世界の進化
この共時性について以前、古書展で入手した一冊の本があることを思いだした。それが「なぜそれは 起こるむのかー過去に共鳴する現在@シェルドレイク仮説をめぐって:喰代栄一:サンマーク出版:1996年7月初版」それは、過去と同じようなことが何故おこるのかを研究したイギリスの科学者ルバート・シェルドレイクの形の場理論を紹介した本であるが、その中で、著者の喰代氏が、無意識の世界をうまくまとめていて、それによるとフロイドの発見した無意識の世界に次いでユングはさらにその奥に人類共通の集合無意識があると主張した。さらにその後リハンガリー生まれの心理学者ポット・ソンティー(1893~1986年)がその中間に家族的無意識や種族的無意識の層があると考えて、我々の意識下には、フロイド発見した個人的無意識層、さらにその下に家族的無意識層、さらにその下に種族的無意識層があり、そして最下層に人類的な無意識層があると考えようになったと解説してあった。
構造主義と無意識の世界
ヒトが自分の出生である親族や親の気質や思想、行動様式の影響を受けることは、よく知られているが、その原因は従来生後の環境のせいと考えられてきたが、ルバート・シェルドレイクは、それを形の場の概念で説明しようとした。ポット・ソンティーは、その働く場として家族的無意識の領域を考えたらしい。構造主義を提唱したC・レヴィ=ストロースは、
未開社会の中の婚姻や慣習を支配するものとしての無意識の領域のルールのあることを明らかにしたが、それは種族又は家族的無意識の作用とみることが出来るかもしれない。
最新遺伝学と無意識の世界
一方で、従来人間の気質は、DNAと云う遺伝子により受け継がれると考えられてきたが、最近の遺伝学によれば、後天的に獲得した気質や習慣もエビゲノムトム云われるDNAに可逆的な化学装飾(DNAの塩基にメチル基やリン酸基などの化学基が付加されたり外れたりすることで、DNAの構造や機能を変化させること)により遺伝することつまり「親の因果が子に報い」と云った親や親族の気質や習慣が遺伝する可能性を示唆している。つまり、我々人類は、種族や家族の嗜好や習慣、気質の影響を無意識の領域を通して受けていると云うことである。
無意識の世界とカルト、新興宗教
ポット・ソンティーのことは、それまであまり知らなかったのでネットで検索してみるとその応用として運命心理学なる分野があり、その心理学を通して自分を支配している無意識の衝動と思考をしることにより、運命を変えようとする活動団体の存在していることが分かった。こうした活動は、限りなく新興宗教の領域に近接してくる。それだけに人間の意識世界と無意識の世界を繋ぐ関係には、未知の部分が多いと云うことであり、この世の中には、常識一辺倒の合理主義だけでは、片づけられないことが多く存在すると云うことであろう。
しかし、この世界は、カルトや極端な非合理主義の深淵への入り口でもある。その暗闇に
飲み込まれないためには、より広大な人間の叡智への道を踏み外さないことが大切であろう。こうした現象のへ体験と考察の続きは、またブログの中で報告してゆくつもりである。