古書展の楽しみは、普通であれば、出会うことのない人に出会えることである。今回であった「闇の左手」がそんな本である。SFは、古書店での私がターゲットとする1ジャンルであるが、この本を偶然手にして裏表紙の次のような紹介記事を読んで100円で購入したものである。
本の内容
「男と女-人々の生活や悲劇や喜劇でいろとりどり、様々な芸術の主題となっている二つの性の存在。しかし、遥かな過去に放棄された人類の植民地、雪と氷に閉ざされた惑星ゲゼンでは、事情が違った。遺伝学的な実権の落とし子達は、営々として彼等の社会を作り上げ、ついに全銀河に類を見ない特異な社会を形成したのだった。そして今、人類同盟の使節、ゲンリー・アイがゼノンとの外交関係をひらくべくこの惑星を訪れた。しかし、両性社会の人間には、理解を絶する住民の心理、風俗、習慣が行手をむしばむ。彼等との友情も信頼も、恋さえも、全く違った形をとり、彼の任務を奇異な陰謀の渦中へと押し流してゆく・・・・」
この「闇の左手」は、著者アーシュラ・K・グイン/小尾芙佐 昭和52年7月早川書房発行であり、当時定価380円の本であるが、第二刷も発行されている。表紙のタイトルの上に「ヒューゴー賞/ネビュラ省受賞」とあり、それなりに当時日本でも話題となった本であろうと推察される。
両性具有と人間・宗教
私が魅かれたのは、両性具有と云うテーマを取り上げていることである。かねてより19世紀のフランスのシュールリアリズムと神秘主義に関心があった私は、そうした思想潮流の中で、単性の人間は、不完全であり、男と女の二つの性の合一により、人間は、その完全なものとなると云うアンドロギュヌス神話からの思想が古代ギリシャの時代からあり、この思想では、「男女が魅かれ合うのは人間が単性の不完全さから脱して全体性を確立しようとする」からだとされている。 この卑俗な形態は、「彼の法」集団等にみられる男女の性的結合による悟り等の地下の秘密宗教の流れにもなりかねない危うさを内包しているが、人間思想の隠れた深き一潮流を形成していることはたしかである。この両性具有の問題を正面から取り上げていることに驚かされた。
本のタイトル
この「闇の左手」というタイトルは、とても意味深長な言葉だ。この世は陰と陽の二項対立がベースであるという価値観から眺めれば、闇の左手が握っているのは光の右手ということになる。お互いに対立する属性を持つ者同士が、どこまでわかり合うことが出来るのかという、壮大なテーマがここにある。このような課題を正面から取り上げている著者と本の最後に素晴らしい解題と解説記事を書いている訳者に興味を覚えて調べてみるとまず二人が女性であることに気づき、もっと詳しく調べてみることにした。
著者について
Wikipediaによれば、著者のアーシュラ・クローバー・ル=グイン(Ursula Kroeber Le Guin、1929年10月21日 - 2018年1月22日)は、アメリカの小説家でSF作家、ファンタジー作家。SF作家としては、両性具有の異星人と地球人との接触を描いたこの『闇の左手』で広く認知されるようになり、他に代表作にユートピアを描いた『所有せざる人々』 などがあり、SF界の女王と称される。ファンタジーの代表作は『ゲド戦記』のシリーズで、「西の善き魔女」のあだ名もある。他に『空飛び猫』といった絵本作品もある。1929年10月21日にカリフォルニア州バークレーで生まれた。
父親は1901年にコロンビア大学でアメリカ合衆国初の人類学の博士号を取得し、アメリカで2番目の人類学科を創設したドイツ系の文化人類学者。母親は、夫が研究で係わったアメリカ最後の生粋のインディアン「イシ」の伝記を執筆した作家で文化人類学者。と云う恵まれた家庭で育ち幼い時から神話、伝説、おとぎ話や、ポードリック・コラム、ノルウエーの童話作家アスビョルンセンの本をよく読み、父からはインディアンの伝説を聞かされた。10代には、アイルランドの小説家ロード・ダンセイニを愛読し、また兄たちとSF雑誌を読み、好きな作家はアメノカのSFロード・ダンセイニ、を愛読し、好きな作家はアメリカのSF作家ルイス・パジェットだった。大学はラドクリフ・カレッジに進学、フランスとイタリアのルネサンス期文学を専攻し、コロンビア大学で修士号を取得している。
1953年にフルブライト奨学生としてパリに留学し、その後フランスに渡り、そこで知り合った歴史学者チャールズ・A・ル=グイン(Charles
Le Guin)と知り合い、その年に結婚。帰国後に夫は州立ポートランド大学の教授となり、自身はマーサー大学、アイダホ大学などでフランス語を教える。
ル=グインの世界
ル=グイン作品の際立った特徴として、人種の意図的な扱いがある。ル=グイン作品の主要登場人物の多くは有色人種であり、人類の人口構成を反映したものだとしている。しかし、そのために欧米では挿絵や表紙に人物が描かれないことが多い。ル=グインはしばしば地球外生命の文化を利用し、人類の文化についてのメッセージを伝えている。例えば、『闇の左手』では両性具有種族を通して性的同一性の問題を考察している。彼女のこうした物語の背景には、超光速移動と超光速亜空間通信ともいえる移動と通信の未来技術を基盤とする地球文明の銀河系全体に亘る未来史とも云える世界が広がっている。この意味でこの物語は、こうした未来史の一つの断面として書かれたものらしい。
1958年頃(29歳)から執筆活動を始めているが、「闇の左手」は、1970年、41歳の頃の作品で、彼女をSF作家たらしめた作品と云われる。日本では1968年から2001年にかけて出版されたファンタジー小説「ケド戦記」の方が有名だろう。多彩な活躍は、SF界の女王の名にふさわしい。こんなにも有名な著者の名を私はほとんど知らなかった。うかつと云うよりほかにない。
翻訳家小尾
芙佐について
翻訳者の小尾 芙佐(おび
ふさ、1932年3月24日 -
)は、旧姓は神谷。現在の西新宿の生まれで、戦後すぐに津田塾大学英文学科で、土居光知教授の「翻訳論」の講義を受講し、そこで初めて翻訳を学んだ日本の女流翻訳家。卒業後一時「ひまわり社」で働くが、その後この時代に知り合った早川書房の福島正実を訪れ、SFやミステリの分野で翻訳を手がけることになった。当初は、旧制金谷芙佐の名前で出版されていた。日本SF作家クラブ会員で、2013年名誉会員となっている。SF分野の女流翻訳家の草分け的存在ともいえる。
まとめと感想
作家と翻訳家の二人の先駆的女性が出会って出来上がったのが、この本である。両性具有の問題を文化人類学視点から取り扱ったところに、文化人類学の両親の血とパリ留学でのフランス文学の底流を流れるシュールリアリズムの問題意識との出会いが、この作品のべースにある気がするのは、私の澁澤龍彦ゆずりの嗅覚のせいであろうか。性の問題を男女差別や権利意識の視点からしか取り上げることしか出来ない昨今の浅薄な風潮に違和感を覚える身としては、性の問題をより人間的・文明的視点から深く考えるため是非話題となって欲しい一冊である。