2021年8月12日木曜日

花詩集とあざみの花―日常の隙間よりー

 

古本市で、偶然手にした本であった。詩集が古本市に出てくることは少ない。思わず手に取ってパラパラとページをめくっていて、気になる出だしの詩句に出会った。


  とつぜんの出逢いであった

  通りすがりにお前をみたのは

  こんな都会の塀のきわに

どくだみがひっそりと

咲いているなんて

余りにも思いがけない出逢いに

私は立ち止まり

感動してじっと見つめる

・・・・・・

十薬(どくだみ)云うタイトルの一節である。

(十薬とは、十の薬効があることからつけられたドクダミ

の別名である。)

この一連のフレーズに何か心魅かれて、購入して帰る。

作者は、名古屋市在住の太田もと子(大正12(1923))とある。御存命ならば御年98歳。 詩集は著者69歳の時、1992年近代付箋芸社より第1刷発行となっている。

十薬(どくだみ)の詩は続く

 お前も私に何かを語りかけているようだが

 お前の心を受け止めかねて

 私の心はうろたえる

 本来ならお前は

  郊外の林の下陰とか

  湿地などに群生するはずなのに

  こんな都会の塀のきわに生えて

可憐な花を咲かすいじらしさ

 

都会にいても

めぐる季節を忘れずに咲く

律義などくだみよ

清純なまでに白い小さな花びら

杳く 平安時代のへいし帽のように

天を向いて 毅然として咲く見事さ

六月の雨に濡れて咲くお前は

詩にもなりそうだ

この詩に出会ってから、少し草花に対する見方が変わり、家の片隅に咲くドクダミの花に気づいて、スケッチしてみた。我が家へは知らぬ内に侵入し、夏蜜柑の樹の下、冥加の群落の傍に遠慮勝ちに小さな群落をつくっていた。


6月のことである。コロナ下で伐採した四季桜の残った株の横に、その木を弔うかの如く雑草が根づいているのに気付いた。抜こうと思ってよく見るとそれは、あざみであった。

この時、花詩集の詩一フレーズが思い出され、手折るのを止め、そっと見守ることにした。

花詩集の詩句に歌われたどくだみでぱないが、どこからか飛んできて庭の小さな片隅にしっかりと根を張ろうとしているあざみが、ふといとおしくなったためである。

そのあざみは、伐採された桜に残されたすべての命を吸い取るように力強く数本の大きな幹に枝分かれし、次々と蕾を膨らまし、やがて数十もの花を次々に開花させ、数知れぬ種を実らせた。7月の半ば、さすがに鬱陶しくなり、一本を残して、取り除いた。


その頃までには、既に花達は、多くの実を結んで、その一部は、遠くに旅立っていったようであった。

 最後の一本が倒れこんだのは、8月オリンピックが閉会式を迎えた日であった。一度は

立ち直った。しかし、翌日の強風で、再び倒れたのであろう。数日後、その茎は、真ん中から切り取られていた。洗濯に出た妻が、取り除いた後のように見えた。

 私は、そこに手折り投げ捨てられたあざみの花を知り除き、残った茎を根から掘り起こして、きれいに取り除いた。多くの実をつけて生を全うした花に未練はなかった。

 ただ、以前思い立ち描いたどくだみの花のスケッチの次のページにあざみの花のスケッチを付け加えた。

 花詩集の作者は、あざみについて次のように語っている

 五分咲きのあざみよ

 このままお前は

大人になることを拒否して

そんなに 全身に刺をつけたのですか

僕の庭に咲いたあざみは、多くの花を咲かせ、その花ごとに無数の実を結んで、そしてお盆の訪れとともに刈り取られた。


四季桜の命は、あざみの花の実となり、8月の雲の下世界一杯に広がっていった。

 

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