西部邁の著作を読むことになったのは、彼の自殺(自裁死)のニュースを聞いてからでした。
今年2018年1月21日の思想家西部邁の死は、一行の死亡記事で報じられただけでした。半年ばかり前のTBSの番組で石原新太郎と対談で、その名前を知り、一度彼の作品を読んでもたいと感じていました。
その彼が何故自殺したのか、そんな時、書店で「保守の真髄」(講談社現代新書;2017年12月20日発行)という彼の最期の出版物をみつけ、同時に第二刷として刊行された「大衆への反逆」(文春学術ライブラリー2017年12月第一刷発行)を購入して読んでみました。そこには、彼の死の動機が明確に書かれていました。あの安保闘争の時代、全学連委員長の唐牛健太郎の盟友であった彼のその後の人生と自殺に、深い感慨を覚えざるを得ませんでした。
「保守の真髄」を読み終わって間もなく、書店で、それよりも後に出版された平凡社から出版された「保守の遺言」(平凡社新書:2018年2月27日第一刷発行)という文字通り彼の最後の著作を手にし、次いで雑誌表現者の特集号西部邁永訣の歌(2018年5月1日)を買い求めた。
この内「保守の遺言」を一気に読み終えた。そして彼の思想と彼の孤独を理解したと思った。政治・経済・社会をめぐる彼の思考と思索は、ことごとく日頃感じていた自分の考えを整理し、体系的に裏づけてくれたものに思えた。
今の世界をリアルの見つめる視点は、彼が、我々の論理のもとになっている言葉の意味を根本から考えるというハイディガーとも共通する思考と思想を身につけていることによるとつくづく感じた。本当に西洋の知を原点から学び、日本の政治・経済・社会について、的確に理解している彼に匹敵する人物は他にいないような気がする。
このリアリストに海外で対応するのが、フランスの歴史人口学者エマニエル・トッドであろう。彼もまた、フランスを中心とするヨーロッパの政治・経済・社会をめぐる思考と思索は、長年「世界大戦と現代史の構造」について考えてきた自分の考えを整理し、体系化する上での大きな刺激となった。そのきっかけは、書店で「シャルルとは何か?」(文春新書:2016年1月20日第一刷発行)に出会ったためであった。
そして2018年6月9日発売の「文藝春秋7月号の「日本は核を持つべきだ」とのドッドの論文を読み、彼の世界理解が、西部邁の考えと殆どかわらないのに驚いた。彼の観点は、英国のEUからの離脱、EU内部でのナショナリズムの勃興と内部亀裂の拡大、米国におけるトランプ政権の誕生、朝鮮半島の動向、ロシアと中国の覇権主義的な動き等を的確に分析し、捉えている。
世界と日本の政治・経済・社会は、エマニエル・トッドと西部邁を読めば、その大枠と方向性がわかると言わざるを得ない。これからは、国内については、まず西部邁を読んでから議論しょう。世界についてはエマニエル・トッドを読んでから話をしようということにした。政治・経済・社会問題を議論しようとするとき、殆どの場合議論にならないことが多い。それは、民主主義や国家や民族等といった基本用語を含める議論の前提があまりに自覚されていないためであるが、西部の思考は、その理由を極めて明快に浮かび上がらせてくれている。
ただ、彼は、基本的に経済学者であり、その点で自分の問題意識に対して、答えてはくれていないのも感じた。
その一つは、宇宙論的な視点であり、138億年ビックバンで誕生したこの世界とその中での知的生命体としての人間をどうとらえるかの問題である。
そしてもう一つは、人間の心の中あるいは、救済論的な問題である。彼はこれを宗教問題としか捉えていないが、人間の脳の細胞が宇宙の星の数に匹敵し、人間の心が宇宙的な広がりをもつことに対する基本的な視点についてである。
彼は、ソシール等の言語学の本も読んでいるので思考における言葉の限界を理解しているが、その先を求める禅の世界については、殆ど無理解であったように感じられる。
従って、彼は空海が秘蔵宝鑰の序詩の中で述べている「生まれ生まれ生まれ生まれて
生の始めに暗く、死に死に死に死に死の終わりに冥し」の世界で一生を終えたのかも知れない。歴史概念という実時間の西洋的世界の中で思考した彼には、その時間と直交する虚時間を問題とする東洋的且つ救済論的な世界とは無縁であったのかも知れない。その意味では、彼は西欧的思想のしがらみからは抜け出せないままであったような気がする。